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日本の俳優 (1950-) ウィキペディアから
奥田 瑛二(おくだ えいじ、1950年〈昭和25年〉3月18日[1][3] - )は、日本の俳優[1]、映画監督[1]、画家[1]。ゼロ・ピクチュアズ所属[4]。
おくだ えいじ 奥田 瑛二 | |||||||||||||||
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本名 | 安藤豊明 | ||||||||||||||
別名義 | 奥田英二(旧芸名) | ||||||||||||||
生年月日 | 1950年3月18日(74歳) | ||||||||||||||
出身地 | 日本・愛知県東春日井郡高蔵寺町(現:春日井市) | ||||||||||||||
身長 | 175 cm[1] | ||||||||||||||
血液型 | AB型[1][2] | ||||||||||||||
職業 |
俳優・声優・ナレーター 映画監督・画家 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 | ||||||||||||||
配偶者 | 安藤和津 | ||||||||||||||
著名な家族 |
安藤桃子(長女) 安藤サクラ(次女) 柄本佑 (娘婿) 犬養健(義父) 犬養毅(義祖父) | ||||||||||||||
事務所 | ゼロ・ピクチュアズ | ||||||||||||||
公式サイト | ゼロ・ピクチュアズ | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
テレビドラマ 『円盤戦争バンキッド』 『宮本武蔵』 『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』 『男女7人夏物語』 『金曜日には花を買って』 『花の乱』 『ひまわり』 『北条時宗』 『慶次郎縁側日記』 『どんど晴れ』 『風のガーデン』 『八重の桜』 『花燃ゆ』 『99.9-刑事専門弁護士-』 『らんまん』 映画 『もう頬づえはつかない』 『海と毒薬』 『千利休 本覺坊遺文』 『極道記者』 『棒の哀しみ』 『眠らない街 新宿鮫』 『皆月』 『少女〜an adolescent』 『洗骨』 | |||||||||||||||
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愛知県東春日井郡高蔵寺町(現:春日井市)出身[5]。本名は安藤豊明。妻は安藤和津、長女は安藤桃子(旧名・安藤モモ子)、次女は安藤サクラ。
愛知県東春日井郡高蔵寺町(現:春日井市)生まれ。小学5年生のときに大友柳太朗の『丹下左膳』を観て衝撃を受け、役者を志す[6]。中学入学式の前日までおねしょをする子だった。役者になるには体格を良くするべきと考え、中学では野球部、高校ではラグビー部に入る[7]。特に高校に入ってからは身長が大きく伸びたという。
大学進学を前に上京し役者を目指す旨を春日井市議会議員であった父・安藤豊に打ち明けるも反対されるが、「政治の勉強をするため」と説得して了解を得る[8]。 東邦高等学校卒業後[9]、明治学院大学法学部入学[2]。同時に父の伝で衆議院議員の丹羽兵助の秘書となり、住みこみの書生生活を送る[10]。。大学では演劇部にも参加しており、当時は辺真一も先輩部員として在籍していた[11]。議員秘書としての仕事もこなす学生生活を過ごすうちに自身の本分の是非に悩み出奔。大学も中退する。その後、改めて役者を志願し、いくつかの劇団を当たったがタイミング悪く、試験を受けることも出来ず頓挫[8]。高校の先輩でもある俳優の天知茂に師事し[12]、約2年ほど付き人を務めたが、将来に不安を感じ夜逃げ同然に飛び出してしまう[6]。
芸名はその天知が占い師に依頼して名付けてもらったもので、候補は「奥田英二」と「伊吹佳高」の2つあった。伊吹の方には「努力しなくても世に出る」、奥田の方には「努力しないと出世しない」との占い師からの診断結果の添え書きがあったが、天知は「君は現代劇向きだから」と奥田の方を勧め、奥田本人も既に奥田の芸名を気に入っていたことで決まった[13]。1983年2月頃に知人の勧めで英二を瑛二に改名している[13]。
生活のために夜の仕事で食いつないでいたとき、客に促されモデルの仕事を始め、CMなどにも出演するようになる[6]。だが、俳優の夢を捨てきれず、当時のマネージャーの協力を得て[6]、1976年に『円盤戦争バンキッド』の主人公・天馬昇 / バンキッドペガサス役でデビュー[3]。しかし、その後しばらくは役に恵まれず不遇時代を過ごし、家賃が払えずにアパートの鍵付きドアノブを交換され、一時期(29歳のころ)は公園(代々木公園など)でホームレスのような生活をしていたという[6]。この頃に知り合い(公園に寝泊まりしているときに友人にシャワーを借りた縁で) 、後に妻となった安藤和津は、家に招いて食事を振る舞っていたと回想している[14]。また、この間、品川岸壁の荷揚げ、スナックのウェイターなどの職を転々としながら、食い繋いでいた[2]。
1979年、日活の『もっとしなやかに、もっとしたたかに』で実力を認められ、続いて『もう頰づえはつかない』に桃井かおりの相手役として出演する[3]。『宮本武蔵』の又八役を演じて以降、TVドラマ『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(1985年)、『男女7人夏物語』(1986年)、『金曜日には花を買って』(1986年 - 1987年)などへの出演により人気が上昇。これらの役柄によって女性ファンを獲得し、「不倫してみたい俳優」ナンバー1という称号も手に入れた[3]。しかし、本人はあくまで映画志向が強く、テレビ出演を続けつつも映画にのめり込んでゆく[3]。
1986年には『海と毒薬』(ベルリン映画祭銀熊賞)で熊井啓監督と出会う[3]。36歳にして映画では初の単独主演をつかみ、毎日映画コンクール男優主演賞などを獲得した[3]。これでひと皮むけ、『千利休 本覺坊遺文』(1989年、ベネチア映画祭銀獅子賞)、『式部物語』(1990年、モントリオール映画祭芸術貢献賞)、『ひかりごけ』(1992年)と立て続けに熊井作品に出演する[3]。これらの熊井作品で海外でも知られる存在となり、1992年にはクロード・ガニオン監督によるカナダ映画『ピアニスト』で天才ピアニストにふんし、猛特訓したという演奏場面も披露した[3]。
1993年公開の映画『棒の哀しみ』ではブルーリボン賞を始め国内の映画賞を多数受賞した[3]。以降も、ヤクザからアダルトビデオ会社社長、パチンコ屋社長など、アウトローな役を難無く演じる積極性を武器に、50本以上の映画に出演している。
元来「天職」と自覚していた役者だったが、42歳のときに「監督やるぞ!」と思い立ち、周囲に宣言。しかし、経験不足からか自信を持てずに挫折。その後基礎から映画製作を学び、48歳にして助監督を経験。50歳を迎えた2001年に『少女〜AN ADOLESCENT』で念願の監督デビューとなる。
2006年1月に松坂慶子を主役とした『るにん』を公開。共に国内外の映画賞で多数の賞を獲得。3作目となる『長い散歩』は、奥田が「どうしても仕事がしたかった」という緒形拳を主役に配し、モントリオール世界映画祭で、日本映画として1982年の佐藤純弥監督作『未完の対局』以来2作目となるグランプリを受賞。さらに国際批評家連盟賞とエキュメニック賞も同時受賞し、計3冠を獲得するという快挙を成し遂げた。
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