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君主に代わって政を摂る者 ウィキペディアから
摂政(せっしょう、英語: regent)は、君主制国家において、君主が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能、あるいは君主が空位であるなどの場合に君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。
多くの場合、君主の親族(血縁関係にある者)や配偶者が就任する。
1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法及び現皇室典範でも摂政の制度が規定された。日本国憲法及び皇室典範の規定するところでは、摂政は、天皇の名でその国事行為を行う職であり、国事行為に関する権限は天皇と全く同等である。 天皇が成年に達しない時[1]、重患あるいは重大な事故[注釈 2]といった故障によって国事行為を執り行うことができないと皇室会議で判断された時[2]に設置される。
摂政に類似した概念として、国事行為臨時代行(国事行為の臨時代行に関する法律に基づく)が挙げられる。これは、天皇が疾患又は事故(一時的な入院、外遊など)の際に、内閣の助言と承認に基づいた天皇の委任(国事行為臨時代行への勅書の伝達)によって、故障の無い成年皇族による国事行為の臨時代行が行われるものである。
国事行為臨時代行が天皇の委任によって設置される委任代理機関であるのに対し、摂政は法律上の原因(天皇が成年に達しない時、重患あるいは重大な事故といった故障によって国事行為を行うことができないと皇室会議で判断された時)の発生により当然に設置される法定代理機関である。
日本国憲法及び現・皇室典範の下で、2020年(令和2年)4月1日現在まで摂政が設置された事例は無い。摂政が設置される条件は皇室典範第16条に規定されており、天皇が成年に達した場合や故障が解消され皇室会議の議を経た場合に摂政は廃止される[3]。
親王及び王あるいは内親王及び女王の就任順序はそれぞれ皇位継承順位に準拠するが[5]、摂政には親王妃及び王妃を除く女性皇族でも就任可能である[注釈 4]。なお、摂政又は摂政となる順序にあたる者が、重患あるいは重大な事故といった故障があるときは、皇室会議の議決により、上の順序に沿って摂政又は摂政となる順序を変更することが可能である[6]。
順位 | 名・身位 | 生年月日 | 性別 | 備考 | 皇位継承 順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 秋篠宮文仁親王 (皇嗣) |
1965年(昭和40年)11月30日(58歳) | 男性 | 皇室典範第17条1項1号 「皇太子」(皇嗣)[摂政就任順位 2] |
1 | |
2 | 悠仁親王 |
2006年(平成18年)9月6日(18歳) | 男性 | 皇室典範第17条1項2号 「親王及び王」 |
2 | |
3 | 常陸宮正仁親王 | 1935年(昭和10年)11月28日(88歳) | 男性 | 3 | ||
4 | 皇后雅子 | 1963年(昭和38年)12月9日(60歳) | 女性 | 皇室典範第17条1項3号 「皇后」 |
- | |
5 | 上皇后美智子 | 1934年(昭和9年)10月20日(89歳) | 女性 | 皇室典範第17条1項4号 「皇太后」(上皇后 ) [摂政就任順位 3] |
- | |
6 | 愛子内親王 | 2001年(平成13年)12月1日(22歳) | 女性 | 皇室典範第17条1項6号 「内親王及び女王」 |
- | |
7 | 佳子内親王 | 1994年(平成6年)12月29日(29歳) | 女性 | - | ||
8 | 彬子女王 | 1981年(昭和56年)12月20日(42歳) | 女性 | - | ||
9 | 瑶子女王 | 1983年(昭和58年)10月25日(40歳) | 女性 | - | ||
10 | 承子女王 | 1986年(昭和61年)3月8日(38歳) | 女性 | - | ||
脚注 |
摂政が設置されているとき、順位の高い皇族の故障がなくなったとしても、それが皇太子や皇太孫に対する場合を除いては、摂政の任を譲ることはない。
一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義される。『日本書紀』によると推古天皇の時の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となったとされており、これが日本史上における摂政の最初である。『日本書紀』の中で神功皇后が執政した時期は「神功皇后摂政紀」と呼ばれているが、これは同皇后紀を呼ぶ場合の便宜的な呼称であり、摂政という用語は神功皇后紀の本文中には登場しない。
以降何人かの皇族が摂政を行う。この間、律令制度が導入されたが、"摂政"という官職は設けられなかった。"摂政"という語は、「政務を摂る」という意の普通名詞であり、例えば藤原氏など、朝政を主導した有力な臣下を指して「摂政」という表現をしている事例があった[7]。
人臣で初めて摂政となったのは、藤原良房であるが、この時も、官職ではなく、一種の称号として授与されたものであった。天安元年(857年)、時の文徳天皇は病に伏し近い将来、幼い皇太子惟仁親王が即位してからの朝政を憂慮し、伯父である右大臣良房に後事を託す。この時、天皇は良房を律令体制での最高の官職である太政大臣に任命するが、太政大臣は「則闕の官」(相応しいものがいる場合に初めて任命され、原則空位)であり、その職掌も明確でないことから、良房は就任を固辞。これに対して天皇は、漢の高祖・劉邦の功臣である蕭何を引き合いに出し、「政治の総攬者」としての役割を与えることを保証し、良房も太政大臣就任を引き受ける[8]。
文徳天皇は翌天安2年(858年)に崩御、新たに清和天皇が9歳で即位し、太政大臣良房がその政務を代行した。やがて貞観6年(864年)に天皇が元服すると、皇権に対する不安は払しょくされたことから、良房の職責も自然解消、良房は太政大臣には引き続き在職しながらも、出仕を控えるようになる[9]。
しかし、貞観8年(866年)、応天門の変が勃発。同事件では左大臣源信が当初事件の容疑者と疑われたため出仕を控え、筆頭大納言の伴善男は真犯人として処罰、その肩を持った右大臣藤原良相も失脚と、朝廷首脳陣が軒並み不在となる。清和天皇はこれを受けて、太政大臣良房の復帰を求める。この時、「太政大臣」の職掌の確認が改めて行われ、勅命により、太政大臣良房に、天下の政を摂行させることが命じられた[10]。
この時が、人臣摂政の初例である。すなわち、元来不明瞭であった太政大臣の職掌を明言した際の者であり、かつその内容は、すでに成人した天皇の政を補佐するものというの関白に近いものであった。
その後、良房の嫡男・基経が、貞観18年(876年)、陽成天皇の即位に伴って摂政となる。この時天皇は8歳であったが、譲位する清和天皇は、自らの即位時に良房が朝政を代行したのを先例とし当時右大臣であった基経に、「幼帝を保輔して天下の政を摂り行うこと」を譲位の詔の中で命じた。幼帝の即位時、先帝による譲位の詔の中で摂政に任じられることは後の常例となる。しかしこの時は、陽成天皇が元服しても摂政の任は続けられ"摂政は幼帝に限る"という慣例は成立していなかった[11]。
元慶8年(884年)、陽成天皇にかわり光孝天皇が即位。基経の陽成天皇に対する摂政の任は自然終了する。この時、太政大臣となっていた基経の職掌が議論され、結果、"摂政"、"関白"とも明言されないながらも、「万事は基経の掌るところで、天皇を補佐し、百官を統括する」という、後代の関白と同じ趣旨の勅命が降る[12]。
次の宇多天皇の即位時、再度基経に勅命が降り、今度は"関白"と明言され、これが関白宣下の初例となる。幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは61代の天皇(朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。
ここにおいて、摂政は天皇に代わって政務を執る者の職である令外の官として定義されることとなった。摂政は幼い天皇に代わって政務を摂する(代理する)職であり、詔書の御画日およびその覆奏における御画可を天皇に代わって代筆するとともに、当時において天皇の主要な大権であった官奏を覧ずることと除目・叙位を行うことを執り行った。また、天皇が出御する儀式(出御儀)においては扶持・代行を行った[13]。また、伊勢神宮に奉幣使を発遣する際に天皇に代わって宸筆宣命を書き仰詞を奉幣使に伝えて代拝を行うこと、即位式に先立って天皇の代理として天皇の礼服を覧ずる(礼服御覧)ことが挙げられる[14]。また、天皇の元服の際に加冠役を太政大臣が務めることになっていたが、通常は摂政が元服に先立って太政大臣に任命されることになっていたので慣例としての摂政の職務のうちに加えられる[15]。ただし、天皇の代理ではあっても臣下である摂政が天皇の同伴無くして内裏の中心部にある紫宸殿や清涼殿を用いることは出来ず、伊勢神宮への奉幣使発遣では紫宸殿での行事は省略され、官奏・叙位・除目は清涼殿ではなく摂政の直廬にて行って奏者・執筆担当者も大臣ではなく参議や大弁が務めるなど、一定の格差は設けられていた[15]。なお、関白は成人に達した天皇の補佐をする役割であり、天皇代行としての摂政とは性格が異なっており(『西宮記』巻8 摂政・関白)、摂政の職務として掲げた項目のうち、関白に認められた職権は官奏に関するものだけである。
藤原氏の下で摂政は職事官である大臣に付随して兼務する官職と考えられてきたが、寛和2年(986年)藤原兼家の時に職事官である右大臣を辞任して摂政のみを占める散官になった。この時、摂政の待遇に関して明法勘文と明経勘文が出された。
前者においては、
とし、後者においては、摂政は三公とは別格で一般公卿と同列にすべきではない(従って、宮中に置いては三公より上位とすべきである)と論じた。
11世紀の藤原道長の頃からは建武の新政期を除き、摂政もしくは関白は常置の官となった。以降は外戚関係に関わりなく、常時摂政・関白のいずれかを藤原道長の子孫(御堂流)が占めるようになった。また、摂政不在時に摂政を置く必要が生じた際や、摂政から関白への移行にあたっては准摂政宣下が行われることもあった。
鎌倉時代以降、藤原北家御堂流は近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家の五摂家に分かれ、代々そのうち最も官位の高い者が摂政・関白に任ぜられる例となって、明治維新まで続いた。この例外は、藤原氏以外で関白となった豊臣秀次の1名である。(秀吉は近衛家猶子、藤氏長者、藤原秀吉として関白になる。)ただし、藤原氏以外で摂政となった人物は、平安時代から江戸時代までには存在しない。
明治維新以前の摂政は、詔書の代筆、叙位・任官の施行など、天皇の行う政務のほとんど全てを代行し、その権限はほとんど天皇とかわりなかった。
1868年、王政復古により摂政二条斉敬を罷免。摂政職は関白職、征夷大将軍職ともども廃止され、満15歳の明治天皇が親裁する建前となった。
1889年(明治22年)、大日本帝国憲法および旧・皇室典範公布により、天皇が成年に達しないときや、久きにわたる故障により執政を行うことができないとき、摂政が置かれる皇族摂政の制度が定められた。
摂政は天皇とほぼ同等の権限を有したが、大日本帝国憲法第75条の規定により憲法改正と皇室典範の増補(改正)に関する権限は無かった(日本国憲法にはこのような規定はない)。旧・典範下では皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)が1921年(大正10年)11月25日より、1926年(大正15年)12月25日の大正天皇崩御とそれに伴う自らの皇位践祚まで摂政を務めた。設置事由は、大正天皇の身体の重患であった。この間、摂政宮(読み:せっしょうのみや)と称された。
1947年(昭和22年)5月3日施行の日本国憲法および現・皇室典範の下、摂政が置かれた事例はない。
2016年(平成28年)8月8日、当時の第125代天皇明仁が「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」をビデオメッセージで表明した際、その後の有識者会議にて例として「従来の皇室典範に従い、天皇明仁は在位のまま、皇嗣である皇太子徳仁親王を摂政に就任させる」という案や意見があったが、最終的には「明仁一代限りの退位として特例法を制定する」ことが決議された。天皇の政治関与を禁じている憲法に抵触しないよう、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)」が2017年(平成29年)6月16日に成立。同法の施行により、2019年(平成31年)4月30日を以って明仁が譲位(退位)し「上皇」となり、翌(令和元年)5月1日に徳仁が皇位を継承して第126代天皇となった(明仁から徳仁への皇位継承)。即ち天皇の譲位が憲政史上初めて実現された[注釈 5]。
藤原忠實 摂政宣命 (朝野群載 十二 宣命)
太上天皇乃詔久、關白右大臣藤原朝臣波、輔導年久之弖、爲朝重臣利、見其誠心仁、幼主遠寄託之都倍志、然則皇太子、天日嗣遠承傳賜比天、未親萬機之間、保輔幼主天、攝行政事世牟古止、一如忠仁公故事世與止詔御命遠衆聞食止宣
嘉承二年七月十九日
(訓読文) 太上法皇(白河法皇 55歳)の詔(のりたまひつら)く、関白右大臣藤原朝臣(忠実 30歳)は、輔(あなな)ひ導くこと年久しくして、朝(みかど。朝廷のこと)の重臣たり、其の誠の心を見るに、幼主(鳥羽天皇 5歳)を寄託しつべし、然らば則(すなは)ち皇太子(ひつぎのみこ。宗仁親王。のちの鳥羽天皇)、天つ日嗣(ひつぎ)を承(う)け伝へ賜ひて、未だ万機を親(み)ざるの間、幼主を保(やすんじ)輔(あなな)ひて、政事(まつりごと)を摂(と)り行なひせむこと、一(もは)ら忠仁公(藤原良房)の故事の如くせよと詔御命(のりたまふおほみこと)を衆聞食(もろもろきこしめせ)と宣(の)る、嘉承二年(1107年)七月十九日
氏名 | 天皇 | 天皇と の続柄 | 補任理由 | 補任日 | 期間 | 解任理由 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 厩戸皇子 | 推古 | 皇太子 | 女性天皇 | 593年5月15日 | 28年12か月 | 本人薨去 |
2 | 中大兄皇子 | 斉明 | 皇太子 | 女性天皇 | 655年2月14日 | 6年7か月 | 天皇崩御 |
3 | 草壁皇子 | 天武 | 皇太子 | 天皇疫病? | 681年3月19日 | 4年8か月 | 天皇崩御 |
4 | 藤原良房 | 清和 | 外祖父 | 天皇幼少 | 866年8月19日 | 6年2か月 | 本人薨去 |
5 | 藤原基経 | 陽成 | 外伯父 | 天皇幼少 | 876年11月29日 | 7年4か月 | 天皇譲位 |
6 | 藤原忠平 | 朱雀 | 外伯父 | 天皇幼少 | 930年9月22日 | 11年3か月 | 関白就任 |
7 | 藤原実頼 | 円融 | 大伯父 | 天皇幼少 | 969年8月13日 | 10か月 | 本人薨去 |
8 | 藤原伊尹 | 外伯父 | 天皇幼少 | 970年5月20日 | 2年6か月 | 疾病 | |
9 | 藤原兼家 | 一条 | 外祖父 | 天皇幼少 | 986年6月23日 | 4年 | 関白就任 |
10 | 藤原道隆 | 外伯父・岳父 | 天皇幼少(1) | 990年5月5日 | 3年 | 関白就任 | |
11 | 藤原道長 | 後一条 | 外祖父 | 天皇幼少 | 1016年1月29日 | 1年3か月 | |
12 | 藤原頼通 | 外叔父 | 天皇幼少 | 1017年3月16日 | 2年10か月 | 関白就任 | |
13 | 藤原師実 | 堀河 | 義外祖父 | 天皇幼少 | 1086年11月26日 | 4年2か月 | 関白就任 |
14 | 藤原忠実 | 鳥羽 | 天皇幼少 | 1107年7月19日 | 6年6か月 | 関白就任 | |
15 | 藤原忠通 | 崇徳 | 天皇幼少 | 1123年1月28日 | 6年7か月 | 関白就任 | |
16 | 藤原忠通 | 近衛 | 義岳父 | 天皇幼少 | 1141年12月7日 | 9年1か月 | 関白就任 |
17 | 近衛基実 | 六条 | 義外伯父 | 天皇幼少 | 1165年6月25日 | 1年2か月 | 本人薨去 |
18 | 松殿基房 | 義外叔父 | 天皇幼少 | 1166年8月24日 | 1年9か月 | 天皇譲位 | |
高倉 | 天皇幼少 | 4年11か月 | 関白就任 | ||||
19 | 近衛基通 | 安徳 | 天皇幼少 | 1180年2月21日 | 3年7か月 | 天皇遷幸 | |
後鳥羽 | 天皇幼少 | 5か月 | |||||
20 | 松殿師家 | 天皇幼少 | 1183年11月21日 | 3か月 | |||
21 | 近衛基通 | 天皇幼少 | 1184年1月22日 | 2年3か月 | |||
22 | 九条兼実 | 岳父 | 天皇幼少 | 1186年3月12日 | 5年10か月 | 関白就任 | |
23 | 近衛基通 | 土御門 | 天皇幼少 | 1198年1月11日 | 5年 | ||
24 | 九条良経 | 天皇幼少 | 1202年12月25日 | 3年4か月 | 本人薨去 | ||
25 | 近衛家実 | 天皇幼少 | 1206年3月10日 | 10か月 | 関白就任 | ||
26 | 九条道家 | 仲恭 | 義叔父 | 天皇幼少 | 1221年4月20日 | 4か月 | 天皇退位 |
27 | 近衛家実 | 後堀河 | 岳父 | 天皇幼少 | 1221年7月8日 | 2年6か月 | 関白就任 |
28 | 九条教実 | 四条 | 外叔父 | 天皇幼少 | 1232年10月4日 | 2年6か月 | 本人薨去 |
29 | 九条道家 | 外祖父 | 天皇幼少 | 1235年3月28日 | 2年1か月 | ||
30 | 近衛兼経 | 外叔父 | 天皇幼少 | 1237年3月10日 | 4年11か月 | 天皇崩御 | |
31 | 一条実経 | 後深草 | 天皇幼少 | 1246年1月28日 | 1年1か月 | ||
32 | 近衛兼経 | 天皇幼少 | 1247年1月19日 | 5年10か月 | |||
33 | 鷹司兼平 | 天皇幼少 | 1252年10月3日 | 2年3か月 | 関白就任 | ||
34 | 九条忠家 | 後宇多 | 天皇幼少 | 1274年1月26日 | 6か月 | ||
35 | 一条家経 | 天皇幼少 | 1274年6月20日 | 1年5か月 | |||
36 | 鷹司兼平 | 天皇幼少 | 1275年10月21日 | 3年4か月 | 関白就任 | ||
37 | 鷹司兼忠 | 後伏見 | 天皇幼少 | 1298年7月22日 | 6か月 | ||
38 | 二条兼基 | 天皇幼少 | 1298年12月20日 | 2年1か月 | 関白就任 | ||
39 | 九条師教 | 花園 | 天皇幼少 | 1308年8月26日 | 5か月 | ||
40 | 鷹司冬平 | 天皇幼少 | 1308年11月10日 | 2年5か月 | 関白就任 | ||
41 | 二条良基 | 後小松 | 天皇幼少 | 1382年4月11日 | 4年11か月 | 辞退 | |
42 | 近衛兼嗣 | 天皇幼少 | 1387年2月7日 | 1年2か月 | 本人薨去 | ||
43 | 二条良基 | 天皇幼少 | 1388年4月8日 | 3か月 | 関白就任 | ||
44 | 二条持基 | 後花園 | 天皇幼少 | 1428年7月28日 | 4年2か月 | ||
45 | 一条兼良 | 天皇幼少 | 1432年8月13日 | 3か月 | |||
46 | 二条持基 | 天皇幼少 | 1432年10月26日 | 6か月 | 関白就任 | ||
47 | 豊臣秀吉 | 正親町 | 天下人・関白相論 | 1585年7月11日 | 13年1か月 | 本人薨去 | |
後陽成 | |||||||
48 | 一条兼遐 | 明正 | 叔父 | 天皇幼少・女性 | 1629年11月8日 | 5年11か月 | 辞退 |
49 | 二条康道 | 義叔父 | 1635年10月10日 | 8年1か月 | 天皇譲位 | ||
後光明 | 義叔父 | 天皇幼少(1) | 3年4か月 | ||||
50 | 九条道房 | 天皇幼少(1) | 1647年1月5日 | 1か月 | 疾病 | ||
51 | 一条昭良 | 天皇幼少(1) | 1647年3月28日 | 5か月 | 関白就任 | ||
52 | 二条光平 | 霊元 | 従兄・義兄 | 天皇幼少(1) | 1663年1月26日 | 1年10か月 | 辞退 |
53 | 鷹司房輔 | 天皇幼少(1) | 1664年9月27日 | 3年7か月 | 関白就任 | ||
54 | 一条冬経 | 東山 | 天皇幼少(1) | 1687年3月21日 | 2年1か月 | 関白就任 | |
55 | 近衛家煕 | 中御門 | 義叔父 | 天皇幼少(1) | 1709年6月21日 | 3年3か月 | 辞退 |
56 | 九条輔実 | 天皇幼少 | 1712年8月28日 | 4年4か月 | 関白就任 | ||
57 | 一条道香 | 桃園 | 義兄 | 天皇幼少(1) | 1747年5月2日 | 7年10か月 | 関白就任 |
58 | 近衛内前 | 後桜町 | 女性天皇 | 1762年7月27日 | 8年5か月 | 天皇譲位 | |
後桃園 | 岳父 | 天皇幼少(1) | 1年10か月 | 関白就任 | |||
59 | 九条尚実 | 光格 | 天皇幼少 | 1779年11月25日 | 5年4か月 | 関白就任 | |
60 | 二条斉敬 | 明治 | 天皇幼少 | 1867年1月9日 | 1年 | 摂関廃止 | |
61 | 裕仁親王 | 大正 | 皇太子 | 天皇疾病 | 1921年11月25日 | 5年1か月 | 天皇崩御 |
(1) 天皇の元服後に補任
- 摂政諸法(1937年摂政法、1943年摂政法及び 1953年摂政法)[17]
- 1937年摂政法第1条(1)
- 国王が王位継承時に18歳未満である場合には、18歳に達するまでの間、摂政が国王の公務を国王の名で代行するものとする。
- 1937年摂政法第2条(1)
- 国王の妃又は夫君、大法官、下院議長、イングランド首席裁判官及び記録長官のうち3名以上の者が国王の精神的又は身体的な故障のために当分の間国王は公務を行うことができないと医師の証明書等の根拠をもって判断し、又は明らかな理由から国王は公務を遂行できないと根拠をもって判断し、その旨を文書で宣言するときは、国王の健康状態が回復してその公務復帰を担保できること又は国王の公務遂行が可能になったことが文書で宣言されるまでの間、摂政が国王の公務を国王の名で代行するものとする。
○憲法(1978年制定)第59条[18]
スペイン・ブルボン朝では1885年にアルフォンソ12世が急逝し、翌年(1886年)に誕生したアルフォンソ13世が王位に就くが、成人して1902年に親政を開始するまで母親のマリア・クリスティーナが摂政を務めた[19]。
○国王の未成年、病気及び不在時の行政に関する法律(1871年制定)[18]
○憲法(1831年制定)[18]
○カタール恒久基本法(憲法に相当)(2004年制定)[18]
○憲法(1952年制定)第28条[18]
反英傾向の強いタラール1世の即位が懸念されて弟のナイーフが摂政となるが、結局タラールは廃位となった。
○憲法(2008年制定)[18]
過去には王太后が摂政を務めていた例がある。
この節の加筆が望まれています。 |
中国では『史記』によれば帝堯の末期に舜が摂政となったのが初例であり、殷の太甲の時代に伊尹、周の成王の時代に周公旦が摂政となった。その後、皇帝が執務不能である場合に皇族が監国として政務を主宰した例がある。監国には主として皇太子が就くが、清では皇帝の叔父(ドルゴン)や実父(醇親王載灃)が摂政や監国として政務を執った例がある。モンゴル帝国ではクリルタイによって皇帝(大ハーン)が選出されるため、皇帝が崩御すると、監国が新帝選出のためのクリルタイ召集・開催中までの政務を執った(第5代皇帝クビライによって建てられた大元ウルスにおいて皇太子制が定着していくと、監国が置かれるケースは少なくなっていった)。 また歴代王朝を通じて皇太后が垂簾聴政を行う場合もある。
チベットにおいては、チベット仏教の最高指導者と政治上の最高指導者を兼ねるダライ・ラマ(法王)は、死去した後も転生によってこの世に生まれ変わり続けると信じられていた。ダライ・ラマが逝去した際にはチベット仏教の高僧の中から摂政が任命され、転生者の捜索の責任を負うとともに、新ダライ・ラマが成人するまでの間の政治の全権を掌握した。2021年現在のダライ・ラマであるテンジン・ギャツォ(ダライ・ラマ14世)の場合にも、即位の1940年から中国人民解放軍のチベット侵攻後の1950年までの間は摂政(初期はレティン・リンポチェ(en)、後半にはタクバ・リンポチェ)が置かれていた。
朝鮮では中国と同様に、歴代の大王大妃や王大妃による垂簾聴政が行われていた。王に即位前の文宗や孝明世子が摂政を務めていた例がある。
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古代ギリシアではマケドニア王国において時折摂政が置かれ、しばしば摂政による君主の殺害や簒奪が起こった(アエロポス2世によるオレステスの殺害、ピリッポス2世によるアミュンタス4世の廃位)。アケメネス朝ペルシアを征服して大帝国を築いたマケドニア王アレクサンドロス3世(大王)の死後(紀元前323年)、王位は生まれたばかりの遺児アレクサンドロス4世と、大王の異母兄弟で知的障害者のピリッポス3世が共同で継承することになった。当然のことながら彼らに統治能力はなく、摂政が置かれることになった。
当初は有力貴族ペルディッカスが摂政に就任したが、彼に不満を持つ諸将は彼を滅ぼして重臣アンティパトロスが摂政に就任した(紀元前321年)。しかし、アンティパトロスの死後(紀元前319年)、息子のカッサンドロスとアンティパトロスから地位を譲られた老将ポリュペルコンとが摂政の地位を争い、ポリュペルコンを懐柔したカッサンドロスによってアレクサンドロス4世は殺害され、大王の血統は断絶した(紀元前309年)。
東ローマ帝国では、聖職者の長であるコンスタンティノポリス総主教が摂政役を務めたこともある。
また、戦間期のハンガリー王国におけるホルティ・ミクローシュや20世紀中葉のスペインにおけるフランシスコ・フランコのように、君主が不在のまま摂政のみが置かれることもある。
イラク王国では1939年にファイサル2世が3歳で即位したために、母方叔父のアブドゥル=イラーフが摂政を務め、1953年にファイサル2世が親政を始めると皇太叔父となる。
ハワイ王国では摂政にあたる要職としてクヒナ・ヌイ(kuhina nui)がある[20]。カメハメハ1世がカメハメハ2世へ王位継承する際、その執政能力に不安を感じたことから新設された地位で、初代クヒナ・ヌイとしてカメハメハ1世の妻カアフマヌが担当した[20]。1832年にカアフマヌが他界すると、カメハメハ1世の娘であったキナウがクヒナ・ヌイに就任し、以降、クヒナ・ヌイはカメハメハ王朝の指導的役割を果たす役割として定着した[20][21]。
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