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スーパーファミコンのゲームタイトル一覧

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スーパーファミコンのゲームタイトル一覧
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スーパーファミコンのゲームタイトル一覧(スーパーファミコンのゲームタイトルいちらん)では、スーパーファミコンおよびSuper Nintendo Entertainment System対応として全世界で発売されたライセンスタイトルを発売順に、および発売されなかったタイトル、非ライセンスタイトルを列記する。追加要素のない廉価版は一覧に含まない。

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日本で発売されたスーパーファミコン本体
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PAL地域向けに発売されたSuper Nintendo Entertainment System本体
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北米で発売されたSuper Nintendo Entertainment System本体


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特徴

要約
視点

スーパーファミコンは1988年11月にファミリーコンピュータの後継機として発表され、1989年7月に発売を予定していたものの、半導体不足を理由に延期された[1]。結局、発表から2年後の1990年11月21日に発売され、16ビットのCPUを搭載したゲーム機の中では後発となった[2]。1991年8月23日には「Super Nintendo Entertainment System」(以下:SNES)という名前で北米で発売された[3]。それからしばらく後の1992年6月6日にはイギリスとアイルランドで発売されたのち、夏にはヨーロッパのほかの地域でも発売された[3]

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モード7の仕組み。2つ目の画像では、1つ目の画像を回転させている。また、最後の画像では縦横の幅を変更している。

本体が持つ最大の特徴はゲーム画面の拡大・縮小・回転機能[2]である。これはモード7英語版[注 1]と呼ばれ、この機能により幅広い表現を実現させた一方で、同機能の導入により横スクロールアクションゲームが増えたとの指摘もある[3]

日本において本体と同時に発売されたソフトは『スーパーマリオワールド』と『F-ZERO』の2本のみだった[2]。うち前者は『スーパーマリオブラザーズ』の系譜を継ぐ作品としてハード人気をけん引したほか、同作にて初めて登場したヨッシーも人気を集めた[4]。レースゲームである後者は前述のモード7のアピールとしての役割を十全に果たした[5]。それから1か月半の間にサードパーティ製のソフトが7本登場し、やがて人気シリーズの関連作品といった様々なゲームが登場した[1]

1991年に発売された作品のうち、ファミリーコンピュータで人気を博していたファイナルファンタジーシリーズのナンバリングタイトルとなる『ファイナルファンタジーIV』(1991年7月)は前評判が高く、最終的にはサードパーティ初のミリオンセラーを達成した[6]。この作品は、コマンド入力とリアルタイム制を併用した「アクティブタイムバトルシステム」を採用したことで、戦闘に緊張感を持たせることに成功した[7]。また、11月に任天堂から発売された『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』は、ディスクシステムの時代から続く『ゼルダの伝説』シリーズの第3弾であり、ハード人気をけん引する作品となった[8]

1992年はヒット作に恵まれ、ライバルであるメガドライブを圧倒した[9]。このうち、アーケードゲームからの移植である『ストリートファイターII』(1992年6月発売)が原作と遜色ない完成度から人気を博し、対戦格闘ゲームブームを加速させた[10][11]。また、マリオシリーズのキャラクターたちがカートレースで競う『スーパーマリオカート』(1992年8月発売)は、アイテムによる逆転により人気を博し、のちにシリーズ化された[12]。このほかにも、チュンソフトからサウンドノベル第1弾として1992年3月に発売された『弟切草』は、テキストと背景画像の表示を中心としつつも、音声や映像による演出から人気を博した[13][14][注 2]

1993年も同様にヒット作に恵まれた。スパイク・チュンソフトから発売された『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』は当時日本ではなじみが薄かったローグライクというジャンルを普及させるきっかけを作った[15]。また、この年はJリーグが開幕したことでサッカー人気が沸き起こり、スーパーファミコンにおいても日本サッカー協会公認作品が発売されるようになった[16]。このほかにも、『スーパーマリオコレクション』や『ファイナルファンタジーI・II』といったファミリーコンピュータ用ソフトのリメイクも成功を収めた[17]ほか、本体普及率の高さを生かして、味の素から『もと子ちゃんのワンダーキッチン』というソフトが自社製品の購入者向けに提供され、他社からも同様の非売品が配布された[18]。一方、この年のPCゲームやアーケードゲームではポリゴンによる3DCGを採用した作品が現れる中、家庭用ゲームでは疑似3Dが中心だった[19]。1993年2月に発売された『スターフォックス』は「特殊チップ」と呼ばれるコプロセッサの一種・スーパーFXチップによって3DCG描写を実現し、当時のゲームファンたちに衝撃を与えた[19][注 3]

1994年は『ファイナルファンタジーVI』や『スーパードンキーコング』が人気を集めた[21]。うち前者はFFシリーズにおいては珍しい群像劇として、パーティーへ組み込み可能な14人のキャラクターの個性が光る作品となった[22][23]。初代ドンキーコングの孫を主役に据えた後者はドンキーコングシリーズにおける新たなファン層獲得に成功し、世界的なヒット作となった[24]。また、この作品は3Dモデルを取り込む手法を採用しており、当時次世代機として発売されたばかりのPlayStationセガサターンへのアピールにもなった[25][26]。これ以外にも、シミュレーションゲームでは『アンジェリーク』(1994年9月発売)が女性向け恋愛ゲームの先駆けとなった[27][28]。アドベンチャーゲームにおいては『かまいたちの夜』(1994年11月発売)がシルエットによるキャラクター表示で表現の幅を広げたほか、クリア後の追加シナリオなどが評判を呼んだ[29]

やがてROMの容量増大に伴いソフトの価格は上がり[17][30][注 4][32][33]、これを契機にタイトルの販売形態に変化が生じた。サードパーティの一つであるバンダイは、ソフトの価格の問題を解決すべく、周辺機器スーファミターボを生み出した[34]。この機器は基本となるプログラムやデータをスーファミターボに内蔵させる形で開発期間やデータの節約を実現し、専用カセットは周辺機器として扱われることからバンダイ自ら製造することができた[34]。これにより過去の作品を安価で再販する狙いがあったものの、あまり振るわず、発売から3ヶ月で新作の供給を終了した[35]

また、ライバル機種がROMカートリッジよりも安価なCD-ROMを採用していた[注 5]ことから、任天堂もソニーと共同でCD-ROMを採用した周辺機器を開発していたが、これは頓挫した[注 6]。スーパーファミコン後期には、任天堂が周辺機器・サテラビューを通じてBSアナログ放送波によるデータ通信を実現したものの、当時の日本においては衛星放送を見られる家庭が少ないなど、様々な理由から普及には至らなかった[36][37]。また、1995年[注 7]にはサードパーティのカタパルト・エンタテインメントから電話回線による通信対戦ができるXBANDが発売された[39][40]。プレイ単位での課金だったことに加え、電話代が従量制だったため、長く遊ぶほど電話代がかさむ[39]ほか、専用モデムの通信速度の遅さも問題視され、サービス開始から1年半足らずで終了となった[41]

1995年に発売された作品のうち、競走馬育成シミュレーション『ダービースタリオンIII』はミリオンセラーとなり、ダービースタリオンシリーズの基本形を作り上げた[42]。また、この年は『クロノ・トリガー』や『ドラゴンクエストVI 幻の大地』、『聖剣伝説3』といった大作RPGが成功を収めた[43]

1996年には次世代機NINTENDO 64を発売したもののソフト開発の難しさが災いしてラインナップ不足に陥った[44]。一方、スーパーファミコンにおいては、スクウェアとの共同制作である『スーパーマリオRPG』や、『スーパードンキーコング3』など話題作が登場したものの、世に送り出されたタイトルは前年の半分以下にとどまった[44]。また、1997年12月には、スクウェアが出資したデジキューブによる「ゲームキオスク」構想に対抗するため、コンビニエンスストア向けのソフト書き換えサービス・ニンテンドウパワーを展開したものの、スーパーファミコンの市場そのものが衰退していたため、次第に縮小していった[44]。書き換えではないパッケージタイトルは1998年の『星のカービィ3』と『ロックマン&フォルテ』を以て終売となった[44]。以降はニンテンドウパワー書き換え対応作品の販売が中心となり、2000年の『メタルスレイダーグローリー ディレクターズカット』が最後の書き換え対応作品となった[44]

一方、様々な理由で埋もれた作品もあった[注 8]。 また、ターゲット層である子どもが遊びにくい[注 9]ものもあった。キャラクターゲームの場合は、原作の内容にそぐわない場面があるもの[注 10]もあった。また、複数機種で展開されている作品の場合、スーパーファミコン版のみ内容の変更がなされた例もあった[注 11]

コンピュータゲーム誌はスーパーファミコンの情報源の一つとして機能していた一方、雑誌の予定表に仮題と正式名称が混在して読者に誤解を招いた例もあった。たとえば『少年忍者サスケ』の場合、一部の雑誌の予定表ではこの題名と「みちのくバスター」という仮題の双方が掲載された結果、この作品が発売中止になったと誤解する者が出てきた[49]。また、日本での発売が見送られた作品であっても、『Shaq Fu』のように輸入品を通じて日本に情報が伝わった例もあった[50]

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周辺機器の一つであるスーパースコープは、1993年に行われた公聴会英語版にて武器を模していることが問題視された[注 12]

北米においては、前述の『スーパーマリオワールド』と『F-ZERO』以外にも複数の作品が本体と同時に発売された[53]。うち、任天堂の『パイロットウイングス』はスーパーファミコンの持ち味を生かし、ファミリーコンピュータが苦手としていたフライトシミュレーションゲームを体現した[53][54]。この時すでにメガドライブの『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』(1991年6月)がかつてのファミコンファンたちを引き付けていた[3]。そこで任天堂はサードパーティに課していた制限を緩め、品質評価システムやロイヤリティ制度を導入して、サードパーティを誘致した[55]。1992年には、光線銃形式の周辺機器スーパースコープが北米で発売された[56]。この機器の性能は(発売当時の基準で)申し分なかったものの、ラインナップが不十分だったため、期待されたほどの成功には至らなかった[56]

一方、シェア拡大のためにセガとハードの値下げ合戦を繰り広げた結果、減収減益に陥る[57]。1994年3月のゲーム売り上げトップ10では、SNES用ソフトが『モータルコンバット 神拳降臨伝説』や『アラジン』の2作品のみであるのに対し、メガドライブ用ソフトは首位の『NBA JAM』をはじめ8作品がランクインする事態となった[58]。一方、その年の年末商戦において、任天堂には次世代機の話題がなかったものの、『スーパードンキーコング』のヒットにより成功した[57]。欧州においてもメガドライブと互角の戦いを続けていたが、円高と景気後退で減収減益となった[57]

マリオシリーズなど世界的な人気を博した作品があった[59]一方、国によって人気に差が出た作品もあった。たとえば『ファイナルファンタジーIV』の北米版である「Final Fantasy II」は、現地での事情を加味して日本版より難易度を下げて発売されたことに加え、従来のターン制RPGよりも北米のユーザーが遊びやすくなると開発者は期待していたが、思った通りにはならなかった[60]。ソフトの中には、特定の国や地域でしか発売されなかったものもあり、前述の『Killer Instinct』は欧米で成功を収めた一方、日本では発売されなかった[59]。また、日本で1992年に発売された『ファイナルファンタジーV』の場合、日本国外でのコアゲーマーはPCゲームをよく遊んでいたため、「メニュー画面の滞在時間が長いと、北米のSNESユーザーに向けて売れない」という考えから、北米進出は見送られた[60]

欧州においては日本やアメリカの作品に加え、『タンタンの冒険』や『アステリックス』といった現地のユーザーに人気のある作品のゲーム化も多数あった[61]。一方、欧州では日本製のRPGの大半が発売されておらず、翻訳が必要だったことが原因ではないかとみる向きもある[62]

他方、欧米市場においては、特定のプレイヤー層への啓発を目的とした作品(例:"Captain Novolin")が発売されたが、消費者からの反応はいま一つだった[63]

その後、スーパーファミコンの市場縮小に伴い、北米では"w:Frogger"(1998年発売)[64]、欧州では"Timon & Pumbaa's Jungle Games"(1998年発売)[65]を以て、ソフトの供給を終了した。

2000年まで発売されたタイトルは、PnP機ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコンへの収録や、プロジェクトEGG[注 13]スーパーファミコン Nintendo Switch Onlineといったダウンロード販売サービスを通じて様々な機種へと展開された[注 14]。また、日本未発売タイトルもオムニバス作品への収録(例:『ブリザード・アーケードコレクション』[69])などを通じて、日本のユーザーの手に届くようになった。これらのソフトが移植される際は、オリジナル版から仕様または内容が一部追加・変更される場合もあった[注 15]。他方、『カービィのきらきらきっず』のように日本国内のみで発売された作品の中には、非公式の英訳パッチが作られた例もあった[65]

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発売されたタイトル

要約
視点
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本節の「発売されたタイトル一覧表」には合計で「1756」のゲームタイトルを発売日・発売元とともに列記している。また「地域ごとの発売年一覧表」には1990年から2000年に発売されたゲームタイトル数を地域および年に分けて列記している。なお任天堂の「発売ソフトタイトル数推移表」によると、合計タイトル数は日本が1,398[注 16]、北米が719、その他が544であり[71]、差がある[注 17]ことに注意されたい。

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その他

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発売されなかったタイトル

要約
視点

特記がない限り、カートリッジである。

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非ライセンス品

要約
視点

任天堂は1991年ごろにフランチャイズ形式の「任天堂エンターテイメント」を設立し、加盟店には新作や人気作を優先的に供給することで、当時問題視されていたソフトの抱き合わせ販売や極端な値引きの防止につなげた[1425]。また、同時期にソフト評価団体「スーパーマリオクラブ」も設立されており、こちらは仕入れ業者やメディアにとっての情報源であると同時に、粗悪品の排除という役割もあった[1425]。なお、前世代機ファミリーコンピュータの時と同様、ハードの製造元が倫理審査を担う仕組みがとられていた。[注 105]

とはいえ、任天堂から許諾を得ずにソフトを作る者もおり、例えば『SM調教師瞳』は売れ残りの別作品の基盤を入れ替えて制作された[1427][1428]。このシリーズはゲーム雑誌での通販や秋葉原のショップで販売されるなど、それなりの知名度を有していた[1428]。この当時アダルトゲームを遊ぶのに必要なパソコンはまだ高価だったため、このような非公認のスーパーファミコン用ソフトの需要があったと見る向きもある[1428]。その後、ゲームの開発に求められる技量が高くなるにつれ、このような非公認のソフトは減っていった[1428]

日本国外でも似たようなことを考える者はおり、たとえば『実況ワールドサッカー2 FIGHTING ELEVEN』の場合、南米では「Futbol Argentino '96」といった題名の海賊版が少なくとも10種類は出回っていたとされている[1043]。これに対し、ソフトメーカーの中には、何らかの海賊版対策を取っていたところもあった[注 106]

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脚注

参考文献

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