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加用正

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加用正
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加用 正(かよう ただし、1953年5月17日 - )は、神奈川県横浜市南区出身の元騎手・元調教師

概要 加用正, 基本情報 ...
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来歴

要約
視点

動物が好きな母の影響で、小さい頃から生き物は身近な存在であり、イヌネコハトなども家にいて、加用も自然と動物が好きになった[1]。兄2人は大学に通っていたが、加用は魅力を感じず「早くから手に職を持ちたい」と探していたところ、馬事公苑騎手課程を紹介するテレビを見たことで騎手を志す[1]。父には反対されたが[1]、母の後押しもあって[1]関東学院附属中学校卒業後に馬事公苑騎手課程へ入所。馬に乗った瞬間は感動し、目線が高くなって景色が変わり「自分が大好きな馬に乗っているんだ」と思うと、嬉しくなった[1]

馬事公苑2年次より京都谷八郎厩舎の下で研修に入るが、書類上は八郎の義父である谷栄次郎厩舎であった。騎手の試験には4回も落ちたが[1]、ラストチャンスだと考えていた5回目でなんとか受かり[1]1976年にで半年間の研修を積んだ瀬戸口勉厩舎からデビュー。

1年目の1976年には3月6日阪神第2競走4歳未勝利・カクノホープで初騎乗を果たすが、2着で初勝利はならなかった[2]。同日は阪神障害ステークス(春)・マルブツビート(13頭中9着)で重賞初騎乗も果たし、翌7日の阪神第10競走須磨特別・カクノヤシマで初勝利を挙げる[2]9月12日阪神障害ステークス(秋)ではダイエースワローで3着に入り、同19日の阪神では初の1日2勝を挙げる[3]10月2日3日の阪神では初の2日連続勝利を記録し、9日の阪神第12競走4歳以上オープンではロングホークに騎乗して3着に入った[4]。1年目から2桁勝利の19勝[5]をマークし、関西の新人賞に当たる中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞[6]

2年目の1977年には4月3日の阪神第11競走5歳以上オープンを2度目の騎乗となったロングホークで勝利するが、ロングホークにとっては最後の勝利となった[7]5月1日京都では第1→2→3競走と3連勝[8]で初の1日3勝[9]を挙げるるなど30勝をマークし、1983年まで7年連続30勝以上を記録[5]

3年目の1978年には京都記念(春)でハッコウオーに騎乗し、オークスリニアクインに先着すると同時にエリモジョージホクトボーイ天皇賞馬2頭に割って入る2着と健闘[10]7月8日中京第10競走5歳以上1000万下では後にタマモクロスミヤマポピー兄妹の母となるグリーンシャトーに騎乗し[11]、管理する北橋修二厩舎に初出走初勝利をもたらす[12]

1980年にはノトダイバーでシンザン記念を制し、管理する北橋[13]と共に重賞初勝利を挙げると、きさらぎ賞ではラフオンテースの6連勝を阻止して[14]重賞2連勝を飾る[15] [16]タイテエム産駒ウエスタンジョージでは愛知杯を制し[17]

1978年には46勝をマークし全国8位で初のベスト10入りを果たすと、1980年は自己最高の53勝を挙げて全国6位に付けた[5]

1981年にはウエスタンジョージで金杯(西)中日新聞杯と年またぎ重賞3連勝を決め、マイラーズカップではダービーカツラノハイセイコの2着に終わった[17]。ノトダイバーでは第1回ジャパンカップと同日に行われた京阪杯[18]を制し、1982年には連覇[16]

1982年の鳴尾記念では瀬戸口の管理馬マルブツウイナーで代打武田悟のノトダイバーにハナ差勝利し[19] 、瀬戸口に平地重賞初勝利をもたらした[20]

1985年阪神3歳ステークスではノトパーソでカツラギハイデンの2着[21]1986年京都大賞典ではメンバー中唯一の関東馬チェスナットバレーでスズカコバンの2着[22]に入った。

中堅騎手として安定した成績を保ち、1986年にはフリーとなり、1987年の第1回中日スポーツ賞4歳ステークスをヒデリュウオーで逃げ切って初代優勝馬[23]になったと同時に父サクラシンゲキに重賞初勝利をもたらした[24]

1988年阪神大賞典ではダイナカーペンターに騎乗した際、有力馬が後ろで牽制しあえば勝機はあると考え、1ハロン13秒台が連続し、1000m通過ラップは1分6秒6、2000m2分11秒0という超スローペースを生み出す[25]。最後の直線では外のマルブツファーストと間に割って入ったタマモクロスと3頭が並んで追い比べとなったが、結局3頭並んで決勝線を通過[26] [27]。写真判定の結果、タマモクロスと全く同時に通過していることが判明し、加用の事前の読み通りのレース展開で[25]、重賞では1979年の福島記念以来9年ぶり5例目となる1着同着となった[28]

1989年の京都記念でもダイナカーペンターでミスターシクレノン・ミヤマポピー・スピードヒーローを従えて逃げ切り[29]、同年の菊花賞では関東馬レインボーアンバーバンブービギンの2着に入った[30]

1991年の京都記念ではラストランのサンドピアリス[31]を直線半ばで外から差を詰めての2着に健闘させ、20頭中20番人気で勝利したエリザベス女王杯と同じ距離条件で、京都の観衆を再び騒然とさせた[32]

1991年の高松宮杯ではダイタクヘリオスに騎乗し、梅田康雄調教師からは最終コーナーで先頭に立ち、差しのダイイチルビーを待たずに追い出す騎乗を指示される[33]。レースでは1枠1番からスタートして先行し、ハナをトーワルビーに譲って2番手を追走[34]。トーワルビーはかかってハイペースを作り、第3コーナーで失速すると、ダイタクヘリオスは代わって先頭に立つ[34]。ダイタクヘリオス先頭、ダイイチルビー2番手で最終コーナーを通過すると、直線では作戦通り、すぐに仕掛けてリードを作る[34]。対するダイイチルビーが外からの末脚でビハインドを埋めにかかり[34]、2頭の差が無くなって全く並んだところが決勝線であったが、写真判定により、ダイタクヘリオスのハナ差先着が認められた。ダイタクヘリオスは前走の安田記念と正反対のワンツーフィニッシュで重賞3勝目となり、加用にとっては1989年のウインターステークス・マルブツスピーリア以来1年半ぶりの重賞勝利であった[34]

1992年にはマルカアイリスで小倉3歳ステークスを制し最後の重賞勝利[35]を挙げ、阪神3歳牝馬ステークスでは1番人気に支持されるも16位降着に終わった[36]

最終騎乗日となった1993年2月28日の阪神では第1競走4歳未勝利・セントエイカンで最後の勝利を挙げ、第7競走4歳新馬・ロイヤルモナーク(10頭中4着)を最後に現役を引退[37]

調教師時代

1994年、栗東トレーニングセンターに加用正厩舎を開業。同年6月11日に札幌競馬場第9競走でパリスケイワンが勝利し、延べ24頭目で初勝利を挙げる。1996年、関屋記念エイシンガイモンが制し、JRA重賞を初勝利。初年度から徐々に勝利数を伸ばしており、2006年、2007年にはそれぞれ31勝を挙げ、2007年度には関西の優秀調教師賞を受賞した。2014年のJBCスプリントドリームバレンチノで勝利し、G1級競走初制覇[38]

2024年3月5日をもって定年のため、調教師を引退した[39]

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通算成績

要約
視点

騎手成績

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主な騎乗馬

※括弧内は加用騎乗時の勝利重賞競走。

  • ノトダイバー(1980年シンザン記念・きさらぎ賞、1981年, 1982年京阪杯)
  • ウエスタンジョージ(1980年愛知杯、1981年金杯 (西)・中日新聞杯)
  • マルブツウイナー(1982年鳴尾記念)
  • マルブツサーペン(1984年毎日杯、1985年京阪杯)
  • ダイゴアルファ(1987年毎日杯)
  • ヒデリュウオー(1987年中日スポーツ賞4歳ステークス)
  • ゴルデンビューチ(1987年小倉記念
  • ダイナカーペンター(1988年阪神大賞典、1989年京都記念)
  • トウショウアロー(1989年中日新聞杯)
  • マルブツスピーリア(1989年ウインターステークス)
  • ダイタクヘリオス(1991年高松宮杯)
  • ロングタイトル(1991年神戸新聞杯
  • マルカアイリス(1992年小倉3歳ステークス)
その他
  • レインボーアンバー

調教師成績

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主な管理馬

※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI級競走。

受賞

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主な厩舎所属者

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

参考文献

  • 木村幸治「JOCKEY ZOOM UP24 加用正 - 東京ナンバーのBMW」(『優駿』1987年9月号〈日本中央競馬会、1987年〉所収)
  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 4896912926

脚注

関連項目

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