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宇多川勝太郎
日本の大相撲力士 (1939-1989) ウィキペディアから
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宇多川 勝太郎(うだがわ かつたろう、1939年12月3日 - 1989年7月24日)は、東京都足立区出身で宮城野部屋(入門時は高嶋部屋)に所属した大相撲力士。本名は宇田川 秀男(うだがわ ひでお)。最高位は東前頭3枚目(1962年1月場所)。得意手は左四つ、寄り。現役時代の体格は179cm、110kg。
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来歴・人物
近所に住む肉屋の主人(横綱・吉葉山の知人であった)の紹介で、中学3年生の時に高嶋部屋へ入門。入門当時から吉葉山に可愛がられ、彼が独立した時には、行動を共にしている[1]。1954年9月場所で初土俵を踏んだが、同期には後の横綱・柏戸がいた。
初土俵の場所では番付外と新序で続けて好成績を残したため、翌場所の番付では序ノ口を飛び越して、序二段に四股名が載った。
柏戸には出世で先行されたものの、1959年5月場所にて、19歳の若さで十両へ昇進。足立区からは初の関取。その時の新十両には自身の他、後に柏戸とともに「柏鵬時代」を築く後の横綱・大鵬がいた。十両は、優勝1回を含む負け越しなしで4場所で突破。1960年1月場所、大鵬と同時に新入幕を果たした。この時の四股名は、本名の「宇田川」。「宇多川」に改名した時期は、1961年5月場所である。
しかし、柏鵬との出世争いもここまでであった。左四つで正攻法の相撲は玄人筋からは評価されたが、攻めが遅かったことが幕内上位への定着や三役への進出を阻んだ。1962年1月場所では自己最高位となる東前頭3枚目に進出し5勝10敗と負け越したが、初日に大関・北葉山に土を付けた。また同年7月場所では4日目に大関・佐田の山を、7日目には大関・琴ヶ濱を破っており、いわゆる「銀星」は計3個挙げている。
アンコ型を生かした押し相撲の廣川と左四つからの寄りの正攻法相撲の自身という、タイプの異なる稽古相手が揃っていたことが明武谷を強くした要因であるという[2]。
新入幕から26場所連続で幕内の座を維持したが、1964年5月場所にて、4年半ぶりに十両へ陥落。それ以降は十両と幕内とを往復するようになり、1967年3月場所では、西十両16枚目で1勝14敗と大負けして関取の地位も失った。その後は休場を続け、幕下60枚目まで下がった同年7月場所限り、27歳の若さで引退。
引退後は中村や楯山などいくつかの年寄名跡を借りて相撲協会に残っていたが、病気により親方としての職務が困難になったため、1977年12月に廃業した。
その後ちゃんこ料理店を開いたが、病気のため6年ほどで店を閉めている。
1989年7月24日、逝去。享年49。
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主な成績・記録
- 通算成績:445勝442敗15休 勝率.502
- 幕内成績:207勝258敗 勝率.445
- 現役在位:71場所
- 幕内在位:31場所
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1959年9月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝の数。
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改名歴
- 宇田川 勝太郎(うだがわ かつたろう)1955年1月場所 - 1961年3月場所
- 宇多川 勝太郎(うだがわ - )1961年5月場所 - 1963年1月場所
- 宇多川 秀吾( - しゅうご)1963年3月場所 - 1964年1月場所
- 宇多川 寿雄( - としお)1964年3月場所 - 1964年7月場所
- 宇多川 勝太郎( - かつたろう)1964年9月場所 - 1965年5月場所
- 宇多川 雷藏( - らいぞう)1965年7月場所 - 1966年9月場所
- 宇田川 勝太郎(うだがわ かつたろう)1966年11月場所 - 1967年7月場所
年寄変遷
- 中村 秀男(なかむら ひでお)1967年7月 - 1969年11月
- 楯山 秀男(たてやま - )1969年11月 - 1974年1月
- 大鳴戸 秀男(おおなると - )1974年1月 - 1975年1月
- 雷 秀男(いかづち - )1975年1月 - 1977年10月(廃業)
参考文献
- 『戦後新入幕力士物語 第2巻』(著者:佐竹義惇、ベースボール・マガジン社刊、1990年)
脚注
関連項目
外部リンク
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