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鳴門海一行
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鳴門海 一行(なるとうみ かずゆき、1926年1月1日 - 2010年6月19日)は、兵庫県三原郡北阿万村(現・同県南あわじ市)出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は武岡 一行(たけおか かずゆき)。最高位は西前頭筆頭。
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来歴
1926年の元日、兵庫県三原郡で農業を営む家庭に生まれた。幼少期から身長が高く、地元で行われた相撲大会によく駆り出されて相撲を取らされていたが、運動神経が抜群に良かったために常勝だった。高等小学校を卒業後は、実兄が兵役を務めている間に人手不足を補うために農業を手伝っていた。その合間に出場していた相撲大会でも強みを増したため、見出した土地相撲の大関からの紹介で春日野部屋へ入門し、1942年5月場所に於いて初土俵を踏んだ。
入門後は四股踏みと鉄砲を徹底的に行いながら1947年11月場所で新十両へ昇進、1949年10月場所にて新入幕を果たした。引退まで一度も三役に昇進することはなかったが、軽量ながら長く活躍し鏡里喜代治が苦手にしていたことでも知られる(金星を3個獲得しており、「鏡里キラー」とも言われた)。1956年9月場所では鏡里が14勝1敗で幕内最高優勝を果たしたが、この場所で鏡里が喫した唯一の黒星が鳴門海からのものであった。
1961年1月場所限りで引退後は年寄「竹縄」を襲名、春日野部屋の部屋付き年寄として9代春日野(元横綱・栃錦)を補佐して後進の指導に当たった。1970年から1990年まで相撲教習所の教官として、新弟子の指導に力を尽くしたほか、九州場所担当部長などを務めた。
1990年12月31日をもって日本相撲協会を停年退職。その後、慶應義塾大学の相撲部師範を務めるとともに1993年1月には文部省からスポーツ振興に功績があった人に贈られる「スポーツ功労者」文部大臣表彰を受賞した。
2010年6月19日、心不全により死去した[1]。84歳没。半年以上が過ぎた2011年1月13日、鳴門海の死が公表された[2]。
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人物
無類の稽古熱心で、栃錦清隆や大江戸勇二に可愛がられて良く稽古をつけられた。特に集中力を高めるように四股踏みと鉄砲を徹底的に行い、掌中に胼胝が出来るほどだった。
十枚目の頃までは普通の体勢で仕切っていたが、しばらくしてから腰をしっかり割って両手ですねを擦りながら手を下ろし、同時に両足の親指を折り曲げてじりじりと寄る独特の仕切りに変わり、「狛犬型」と呼ばれて人気を博した[2]。また右四つから左手で前まわしを取る相撲を得意として、師匠の8代春日野(栃木山守也)からは「前さばきだけだったら、栃錦より上手い」と称された。
エピソード
- 1957年のある場所の日、鳴門海を含めた春日野部屋の幕内力士全員が黒星で戻ってきた時、春日野親方から「おまえ達、みんな弱いな」と言われた。すると鳴門海は、「親方は、弱いってことを知らないからなぁ」と言った。春日野の現役時代は当時では驚異的な速さで横綱に昇進し、無敵に近く引退後も衰えることがなかったために言えたことだが、それを聞いた弟子達全員が大爆笑し、春日野も笑わざるを得なかったそうである。
- 春日野は弟子達に言葉遣いを徹底しており、鳴門海が1943年に徴兵されて出征する際に、「行ってきます」と言って出かけようとした時に春日野から呼び止められ、「行ってまいります、だろ?」と叱咤された。
主な成績・記録
要約
視点
- 通算成績:414勝447敗2分4休 勝率.481
- 幕内成績:296勝359敗1分4休 勝率.452
- 現役在位:65場所
- 幕内在位:44場所
- 三賞:2回
- 殊勲賞:1回(1956年5月場所)
- 技能賞:1回(1953年3月場所)
- 金星:3個(鏡里3個)
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1949年1月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
※他に、若葉山と痛分が1つある。
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改名歴
- 武岡 一行(たけおか かずゆき)1943年1月場所 - 1946年11月場所
- 鳴門海 一行(なるとうみ - )1947年6月場所 - 1961年1月場所
脚注
参考文献
関連項目
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