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本朝続文粋
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『本朝続文粋』(ほんちょうぞくもんずい)とは、『本朝文粋』の続編として編纂された平安時代末期の詩文集。『本朝文粋』より後、すなわち後一条朝(1016年 - 1036年)から崇徳朝(1123年 - 1141年)の作品を収める。編者は不明[1]。
概要
要約
視点
本作は13巻からなり、27種233作品を収録している[2]。『本朝文粋』の38種432作品と比べると、ジャンルも作品数も大幅に少ないものの、4種の『本朝文粋』に収録されていないジャンルを含んでいる(勘文、施入状、都状、定文)[3]。また、和歌序に関しては『本朝文粋』11作品から『本朝続文粋』18作品と増加している[4]。
ジャンルの配列は『本朝文粋』を踏襲しており、序が1巻分少なくなっているため、『本朝文粋』より1巻少ない計13巻となっている[5]。しかしながら、『本朝書籍目録』の記載から14巻説もある。松下見林の説では醍醐寺蔵の抄本に通行本巻第12所収の表白・願文について「続文粋巻十三抄出」とあるため、願文上は巻第12ではなく巻第13であり、願文下が巻第14であるとする。また、本作の目録では「巻第6:奏状上」となっていることから、失われた「巻第7:奏状下」があるともいう。後藤昭雄は前者については、巻第12の収載作品数が少なすぎることになると否定、後者についても、『本朝文粋』にあって『本朝続文粋』にない奏状は仏事以外「特殊な一回的性格のもの」であるとして否定している(建学館、左降人請帰京、省試詩論)[6]。
また「巻第6:奏状上」の他にも、本作の目録については藤原敦基「申弁官状」・「申東宮学士状」(巻第6)が挙げられているが本文を欠くという問題がある。このようは不備としては大江匡房をはじめ作者表記が不統一であること(江大府卿、江匡房、江都督など)、匡房の「白頭詞」が序のみで詞本文を欠くこと、ジャンル名・作品名・作者表記の欠落が本文にも目録にも多数あることなど枚挙にいとまがなく、本作は未定稿であると言われている[7][8]。
作者別の収録数では藤原式家の3人藤原明衡34作品、藤原敦光52作品、藤原敦基13作品と大江匡房40作品が群を抜いている。このため編者は式家や大江氏の者ではないかと言われているが、不明とせざるを得ない[9]。江戸時代には『本朝書籍目録』の記載から、藤原南家の藤原季綱とする説が有力であったが、そうであるならば季綱本人の作や没後の作品について後人の大規模な増補や新ジャンルの立項が必要となるため、山岸徳平が考えられないと否定している[10]。同様に成立年代についても、藤原忠実を「知足院禅定大相国」と呼んでいるため、保元元年(1156年、保元の乱)以後であるとしか言えない[11]。
本作の古写本は文永9年(1272年)に相州御本を北条実時が書写させたという金沢文庫旧蔵の巻子本のみが知られており、「新訂増補国史大系」本(1941年)も国書刊行会本(1918年)[12]もこれを底本とする[13]。この写本は、慶長7年(1602年)に徳川家康が入手し、紅葉山文庫、内閣文庫、国立公文書館へ伝わった[14]。1955年6月22日重要文化財[15]。
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作者
内容
要約
視点
巻第1:賦・雑詩
巻第2:詔・勅答・位記・勘申
巻第3:策
→「対策」も参照
巻第4:表上
巻第5:表下・状
表下
状
巻第6:奏状上
巻第7:書状・施入状
書状
施入状
巻第8:序上
巻第9:序中
巻第10:序下
巻第11:詞・讃・論・銘・記・牒・都状・定文
巻第12:祭文・呪願・表白・願文上
巻第13:願文下・諷誦文
国書刊行会本を基に作成
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脚注
参考文献
関連項目
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