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風間杜夫

日本の俳優 ウィキペディアから

風間杜夫
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風間 杜夫(かざま もりお、本名および旧芸名:住田 知仁〈すみた ともひと〉、1949年昭和24年〉4月26日[3] - )は、日本俳優東京都[1]世田谷区三軒茶屋出身[4]

概要 かざま もりお 風間 杜夫, 本名 ...
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略歴

要約
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子役時代

父は新東宝で営業を担当していた[5]。母親が引っ込み思案な性格を心配し[6][7]1957年、8歳の時に児童劇団『東童』に入団し[注釈 1]、翌年に東映児童演劇研修所の一期生となる[5][6][7]本間千代子松岡きっこらが同期[7]。すぐに子役としての頭角をあらわすと[6]東映の東西の撮影所である東映京都東映東京の両方で子役として多数出演し[6][7]、少年雑誌の表紙を飾るほどの売れっ子になる。東映東京では助監督時代の深作欣二とも仕事をしたことがある[6]。東映京都では大川橋蔵の「新吾十番勝負シリーズ」や[6]マキノ雅弘加藤泰監督作品にも出演した[6]。大川や大友柳太朗ら、チャンバラ映画大御所たちからも可愛がられ[7]、大友からは養子に欲しいと言われたこともあったという[6]。小学校5年生の時にはまったく学校にも行けず[6]、1年間京都にほぼ住んだ[6]。小学校留年の危機に遭う[6]

しかし世田谷区立旭小学校を卒業する頃、「俳優を一生の仕事にするなら、子役の仕事をやめた方がいい」[注釈 2]との米倉斉加年の言葉に従い、1962年の13歳時に劇団を退団した後、子役としての仕事は減る。風間自身は「中学生になると子役の仕事は減って、劇団に行かなくなった」と述べている[7]四代目江戸屋猫八とは中高の6年間玉川学園の同窓生(クラスが同じになったこともある)で、共に演劇部に在籍した[8][出典無効]。高校時代に父親の会社が傾き貧乏になり[6]、玉川学園は医者の息子や社長の息子が多く[6]、段々内にこもるようになった[6]

再び役者の道へ

早稲田大学第二文学部演劇専修入学(のちに中退)し、「自由舞台」に入り[7]、演劇活動を始める[7]。芝居を止めなかったのは、役者にずっと憧れていたからという[7]。当時は早大闘争の渦中にあり[7]、大学側が機動隊を学内に導入させたことから、風間も抗議デモに参加し逮捕され[7]、2泊3日留置される[7]

後にシティボーイズを結成する斉木しげるきたろう大竹まこと[7]祐天寺の風間のアパートで10日連続で麻雀を打った雀友[7]。風間が当時通っていた早野寿郎が所長を務める劇団「俳優小劇場」養成所の幹部間に内紛があり、費用を返金してもらい、1971年秋、22歳のとき、それを元手として斉木らと祐天寺に劇団「表現劇場」を結成する[6][7]。斉木や大竹とは同居生活を送っていた時期もある。斉木らと共に特撮テレビドラマ『仮面ライダーV3』のアトラクションショーで日本全国を回る(その壇上で風間はV3スーツアクター、斉木はボス役、きたろうは怪人役、大竹は影の声を担当したほか、ショーの終了後に風間は1千人規模のサイン会もこなしていた)[9]。1974年に一般女性と結婚しているが[6][7]、この女性は大竹と同じ学芸大学駅近くの喫茶店ウェイトレスアルバイトをしていて[6]、金のない風間らはこの喫茶店の厨房に潜り込み、ピラフなどを盗み食いしていた[7]。これが縁で妻は「表現劇場」に出入りするようになった[7]。麻雀と劇団に熱をいれすぎ大学は中退[6]

1972年、日活ロマンポルノ『艶説女侠伝 お万乱れ肌』の脇役として「風間杜夫」の芸名での銀幕デビューを飾る。斉木や大竹たち全員で日活に履歴書を送ったが、採用されたのは風間だけだった[7]。芸名を決めるにあたり同作の役名が「風間良吉」で、北杜夫のファンだった日活の事務スタッフから「芸名は“風間杜夫”でどう?」と提案されたことで決まった[10]。ロマンポルノに出たのは「もう子役時代のことは過去の事で、忘れたい」と思ったから[6]。ロマンポルノの男優のギャラは服着て5万円、脱いだら10万円だったという[6]。当時は「もう茶の間には出られないな」と考えたという[6]田中登監督による1973年の『昼下りの情事 変身』『真夜中の妖精』『女教師 私生活』は、一部で「風間主演ロマンポルノ三部作」といわれる[7]。ロマンポルノには約20本出演[6]。同時期に相米慎二根岸吉太郎らもロマンポルノで助監督修行をしていた[7]

1974年、『勝海舟』でテレビドラマに初出演。この年一般女性と結婚[6]。1975年、『娘たちの四季』(フジテレビ)で初のドラマレギュラーを得る[6]。風間自身は『娘たちの四季』が初のテレビ出演と話しているが[6]、役が中野良子の恋人で自閉症気味の青年の役で「これなら地でやれるわ」とオーディションに挑んだら、名前を言っただけで一発合格したという[6]

1977年2月、劇団「つかこうへい事務所」の『戦争で死ねなかったお父さんのために』に出演し、以降、つかこうへいの演劇作品の主要キャストとなる[6]

映画では『蒲田行進曲』に出演したことを契機に顔が知られ[7]、テレビドラマでは『スチュワーデス物語』の村沢浩教官役で人気を獲得する[7]。『スチュワーデス物語』は、台本を開くと少女漫画みたいな世界で[7]、ヤケクソで始めた[7]。一番見られたくなかったつかからすぐに電話が掛かり、どやしつけられると思ったら「面白い、今テレビはあれを求めてるんだからガンバレ!」と激励され、ビックリしたという[7]堀ちえみとの「教官!」「松本!」の掛け合いはパロディに使われ、撮影現場に子どもが押し寄せる程の社会現象になった[7]

声優としても幅広く活躍しており、12歳よりアニメ『安寿と厨子王丸』で声優を務め、近年ではドラマ『X-Files』(テレビ朝日放送分)のモルダー役などが知られている。日本テレビの深夜アニメ『闘牌伝説アカギ 〜闇に舞い降りた天才〜』では、関西弁を話すヤクザの代打ち・浦部の声を演じた。

その後の活躍

2002年11月、一人芝居『カラオケマン』の北京公演。

2003年には、舞台での演技が評価され、文化庁芸術祭で大賞を受賞した。

2018年4月には、大竹しのぶ主演の『リトル・ナイト・ミュージック』(東京・日生劇場)でミュージカルに初出演。それまで恩師の1人である劇作家のつかこうへいから「日本で最も踊ってはいけない役者」と言われたことが何度かあり、ミュージカル出演の依頼はすべて断っていた[11]

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人物・エピソード

要約
視点

ロマンポルノ関連

ポルノデビュー

1971年に劇団「表現劇場」を立ち上げて宣材写真を色々な所に配っていた所、翌1972年に日活ロマンポルノ『艶説女侠伝 お万乱れ肌』の脇役での出演を依頼された[注釈 3]。次に出演した映画『昼下がりの情事 古都曼荼羅』で初めて濡れ場を体験する[注釈 4]と次々とオファーされて、結局1979年までに計16本出演することとなる[10]

当時のロマンポルノの濡れ場は基本的にアフレコで、撮影時は監督の指示[注釈 5]に従って動いていた。本人は「完成して映画になると濡れ場ですけど、撮影現場では体操をやっている感覚だった」としている[注釈 6]

田中登監督の3作品について

映画監督の田中登が監督した3作品(『昼下がり情事 変身』、『真夜中の妖精』、『女教師 私生活』)について風間は後年、以下のように語っている。生前田中監督から「風間の代表作は深作欣二さんの撮った『蒲田行進曲』ではなく、僕が監督したロマンポルノの3作品だ」と告げられた[10]

3作品の風間の役柄はどれも内面に鬱屈した感情を秘めたナイーブな若者で、本人によると「全共闘が挫折した後の若者の心情を反映していた」とのこと。後年「田中さんが撮った3部作は、僕にとって青春映画なんです」と回想している[10]

『女教師 私生活』では、撮影を前に田中が役者全員に「この作品では沖縄と本土の関係を描く」と意気込みを語ったという[注釈 7]。完成後ポルノファンの反応が気になった風間がこっそり映画館に観に行くと、観念的な映像が続いた時に複数の客による舌打ちの音が聞こえた。しかし風間は、「それでも田中さんの作品は耽美的で、インテリや学生には高く評価されていました」と述べている[10]

周りの反応など

ポルノ出演に関して風間の父は、当時新東宝でピンク映画のブッキングの仕事もしていたが、「ロマンポルノなんてやめろ」と反対された。一方母からは「やるなら一生懸命やりなさい」と応援してくれた。風間の妻は、公開前にスポーツ紙でポルノ出演の告知記事を偶然目にして「あなたの名前も出ている!」と純粋に映画出演をすごく喜んでくれたという。また、舞台仲間からは「お前、芝居が上手だな。ホントにヤッてるみたいだ」と褒められたという[10]

1973年に9本もの作品に出演したこともあり、そろそろロマンポルノを卒業することを考えた。その頃のNHKには、ディレクターなどにロマンポルノ好きが多くいたことから風間の存在が知られており、これが翌年の大河ドラマ『勝海舟』への出演に繋がった[10]。また、つかこうへいとの出会いもロマンポルノが始まりである。つかの知人が、ロマンポルノに出演した風間の本業が舞台俳優であることを知り、彼から誘われたことで風間のつか作品への起用が決まった[10]

風間は後年、「ロマンポルノでは僕は良質の作品に恵まれた。大河もつかさんもロマンポルノが引き寄せてくれた。ロマンポルノは僕の人生に欠かせないものです」と語っている[10]

その他エピソード

ポルノ出演した20代当時の風間はとても内向的で人と話すのが苦手だった。撮影期間は気後れして共演女優たちに話しかけることができず、昼休みは控室に籠もることが多かったという[10]

ギャラは風間の場合(当時の金額)、1本目の『艶説女侠伝 お万乱れ肌』が5万円、2本目以降は20万円だった[注釈 8]

風間が人づてに聞いた話として、ドラマ『スチュワーデス物語』の教官役で人気になった頃、池袋の文芸坐が「風間杜夫主演3部作」と銘打って先述の田中登監督の3作品を一挙上映すると、風間のファンの女子高生たちが殺到したとのこと[10]

麻雀

  • 芸能界きっての雀士でもあり、麻雀番組『THEわれめDEポン』では8回の優勝経験(うち5回は5連覇)を誇っている。
  • 麻雀とは不思議な縁があり、高校時代に親しくなった友達がフリー雀荘での強者で彼に影響されて覚えたり(麻雀プロが全く存在しない時代、「麻雀はリズムだ」というのが口癖の友だったという)、全く麻雀を知らない母が突然雀荘を商売にしたりと、「何故かそばについてくる」ものであったと、『近代麻雀』誌上にて連載された漫画の自伝「麻雀行進曲」(単行本化されていない)でさまざまなエピソードを語っている。ただし、同作では大学受験勉強中も母の雀荘で麻雀をしている描写があるが、さすがにこれはフィクションであり、実際は勉強に集中していたという。
  • 同じく『われめDEポン』で13回優勝している萩原聖人とは彼が10代の頃から約20年に渡って現在でも交流があり、映画、ドラマ、舞台、アニメの吹き替えなどで何度か共演している。互いに大の麻雀好きでライバルでもあり、『われめDEポン』の他に『モンド21麻雀BATTLE ROYAL2007』でも対戦している。
  • 2007年の「東京六大学麻雀リーグ」では、早稲田大学チームの監督を務めた。
  • 『モンド21麻雀BATTLE ROYAL2007』で、神足裕司金子達仁片山まさゆきと東京六大学麻雀リーグチームとして初出場。風間がオーラスで二盃口和了で逃げ切ってチーム優勝している。
  • 『モンド21麻雀BATTLE ROYAL2009』では、加賀まりこ児嶋一哉金子達仁とのチームで出場。オーラスで七対子の跳満ツモで大逆転し、見事にチーム優勝へと導いた。
  • 『モンド21麻雀BATTLE ROYAL2010』では、中野浩一金子達仁馬場裕一とのチームで東2局で四暗刻をツモあがりし、チームの優勝へ大きく貢献した。
  • 『麻雀最強戦2011 著名人代表決定戦』に出場。予選では片山まさゆき白川道植田佳奈と対戦。東1局で植田が6000オールを決めたり白川の大物手連発などで大きく出遅れるが、必死の追い上げで辛くも2位で予選通過。決勝では、白川、綾辻行人福本伸行と対戦し、順調に上がりを重ねて大きくリードしていたが、綾辻の四暗刻でまさかの逆転を許し準優勝。白川、福本と共に敗者復活戦に回ることになったが、その予選で和泉由希子金子正輝のプロの攻めに屈し敗退した。

落語

舞台で落語家役を演じたのをきっかけに、落語に取り組みはじめ、1997年にはテレビで観客を前に一席演じた。立川文志の落語会に出演、2003年には春風亭小朝の企画で新宿末廣亭での寄席出演を果たす。2006年には明治座にて『風間杜夫と六人の会』を公演する。その後も大銀座落語会に出演したほか、定期的に横浜にぎわい座に自分の落語会で年2回程度の割合で高座に上がり、全国各地の公共ホールで落語会を開催している。プロの落語家がゲストとして助演することも多い。

出囃子は「蒲田行進曲」。持ちネタは「火焔太鼓」「化物使い」「元犬」「居残り佐平次」「夢の酒」など。

風間は落語の際、演劇と同様に客席の照明を落として演じることが多い。

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出演

要約
視点

※は「住田知仁」名義

テレビドラマ

映画

一般作品


ロマンポルノ
  • 艶説女侠伝 お万乱れ肌(1972年)
  • 昼下りの情事 変身(1973年)
    • 昼下りの情事 古都曼陀羅(1973年)
  • おさな妻の告白 陶酔(クライマックス)(1973年)
  • 真夜中の妖精(1973年)
  • 女教師 私生活(1973年)
  • 人妻 -残り火-(1973年)
  • ためいき(1973年)
  • 狂棲時代(1973年)
  • 赤線最後の日 -昭和33年3月31日-(1974年)
  • 秘本 袖と袖(1974年)
  • 実録・元祖マナ板ショー(1975年)
  • お柳情炎 縛り肌(1975年)
  • 壇の浦夜枕合戦記(1977年) - 源義経

舞台

  • 出発(1975年7月 劇団「暫」)
  • 楡の木陰の欲望(昭和57年2月4日 - 26日)
  • 戦争で死ねなかったお父さんのために(1977年2月10日 - 26日)
  • サロメ(1978年) - ヨナカーン
  • いつも心に太陽を(1979年2月・3月15日 - 21日)
  • 広島に原爆を落とす日(1979年8月)
  • 熱海殺人事件(1980年 劇団「劇団つかこうへい事務所」) - 木村伝兵衛
  • 日本の面影(1993年 劇団「地人会」) - 主演・小泉八雲
  • 燃えよ剣(2004年5月) - 近藤勇
  • LAST SHOW -ラストショウ-(2005年)
  • シダの群れ(2010年)
    • シダの群れ 純情巡礼編(2012年)
  • 国民の映画(2011年)
  • 朗読 宮沢賢治が伝えること(2012年)
  • しみじみ日本・乃木大将(2012年7月)
  • バカのカベ〜フランス風〜(2012年11月15日 - 12月2日)
  • 正義の味方(2014年)
  • M&O plays プロデュース「家庭内失踪」(2016年3月 - 4月、本多劇場 ほか) - 野村[26]
  • ラヴ・レターズ(2016年8月4日、パルコ劇場) - アンディ[27]
  • ピース(2017年)
  • リトル・ナイト・ミュージック(2018年)
  • セールスマンの死(2018年)
  • 風の又三郎(2019年) - 教授
  • 黒白珠(2019年)
  • あの時代(2019年)
  • 女の一生(2020年)
  • 泥人魚(2021年12月) - 伊藤静雄 役
  • 青空は後悔の証し(2022年) - ロウ 役[28]
  • バンズ・ヴィジット(2023年) - 主演・トゥフィーク
  • ハザカイキ(2024年)[29]
  • おちょこの傘持つメリー・ポピンズ(2024年)[30]
  • こんばんは、父さん(2024年 - 2025年)[31]
  • アリババ・愛の乞食」(2025年)[32]

配信ドラマ

Vシネマ

ラジオ

テレビアニメ

OVA

劇場アニメ

ゲーム

吹き替え

担当俳優

デイヴィッド・ドゥカヴニー

人形劇

ドラマCD

ラジオドラマ

バラエティほか

CM

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ディスコグラフィー

シングル

  1. 蒲田行進曲(1982年10月21日
    • 松坂慶子・風間杜夫・平田満名義による作品
  2. 夏も泣いている/ララバイ・ロックンロール(1983年7月21日
  3. イブ…飛びきりの愛の中で/100℃でHEARTBEAT(AMERICAN HEARTBEAT)(TBS「スチュワーデス物語」挿入歌)(1983年10月21日
  4. 嗚呼!ディスターブ/イーヴニング(1984年3月1日
  5. 心花よ止まれ 恋せよマドンナ/アンジェリーナ(1984年7月1日
  6. 恋びとたち/ララバイ(1984年10月1日、日本コロムビア、AH-512) - フジ・関西テレビ系テレビドラマ「暴れ九庵」A面主題歌、B面挿入歌
  7. 東京さみしがり屋/雨のヒマワリ(1985年9月21日
  8. キャバレー・フラミンゴ(1986年1月15日
    • 吉永小百合・八代亜紀・風間杜夫名義による作品
    • 映画『玄海つれづれ節』主題歌。発売元は東映。「つれづれ」の語呂合わせで2020枚限定販売。宣伝材料として発売したことや、所属レコード会社の諸事情もあり映画館での限定販売となった[43]
  9. 遙かな愛/ナイト・ウォーカー(1987年1月25日キティレコード)(日本テレビ『銭形平次』エンディングテーマ)
  10. 旅の空 -trip in 2004-(2005年10月21日
    • 風間杜夫&エキセントリックハイテンションボーイズ名義による作品
  11. ギラギラ温度(2006年1月27日

アルバム

  1. キッス・ミー(1983年8月21日
  2. DISTURB YOU(1984年2月21日
  3. オーシャン・ハート(1984年12月5日
  4. 風間杜夫 ベスト・コレクション(1985年10月21日
  5. 淋しがり屋(1985年11月21日
  6. 夢ひとつ(1987年5月1日
  7. 風間杜夫 ゴールデン☆ベスト(2011年3月23日

ビデオ

  • MORIO ファーストライブ ディスターブ・ユー(ライブビデオ)
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教材

  • 三省堂 『現代の国語』『朗読CD 1・2・3』教師用 [44]

受賞・受章歴

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脚注

外部リンク

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