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髙橋真梨子

日本の女性歌手、作詞家 (1949-) ウィキペディアから

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髙橋 真梨子(たかはし まりこ、1949年昭和24年〉3月6日[1] - )は、日本女性歌手作詞家[2]。本名は広瀬 まり子(ひろせ まりこ)。旧姓は髙橋。広島県廿日市市生まれ、福岡県福岡市育ち[2][3][4][5][6]。身長155cm[6]血液型A型[2]。夫はミュージシャンヘンリー広瀬

概要 髙橋 真梨子, 出生名 ...

スポーツ観戦を趣味とする。所属レコード会社ビクターエンタテインメント。所属芸能事務所はザ・ミュージックス[7]。公式ファンクラブはPaper Moon(ペーパームーン)。

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経歴

要約
視点

生い立ち

父・森岡月夫は広島鉄道局、母・髙橋千鶴子は広島市内の銀行に、それぞれ勤務時の1945年8月6日米軍の原子爆弾投下により被爆[3][8][9][10]。母はダンサーでもあり、広島のダンスホールで両親は出会い結婚し1949年、まり子が生まれた[11]。戦後、国鉄を辞めてプロのジャズクラリネット奏者を目指した父は、朝鮮戦争下で米軍基地が多くジャズが盛んであった福岡に移り[11][12]、まもなく当時1歳だったまり子も母に連れられて博多に転居した[13][14][15][16]。父は博多でジャズバンド「九州ナイト」のクラリネット奏者として活動したが[6]、まり子が3歳の頃から足の指先から腐っていく脱疽の症状が出て病状が悪化し[5]、働くことが出来なくなった父に代わり、母は中洲スナック「森岡」を経営し、ホステスとして働き家計を支えた[6][11]。母の収入は高額な痛み止めなど、父親の治療費に消えた[11]。夫婦ゲンカが絶えなくなり5歳の時に両親は別居、父は昔の仲間がいる広島に戻り[5]、まり子は母と博多に残る[3][10]。お父さん子だったまり子は、学校が休みになると広島の父に会いに行くのが唯一の楽しみだった[5]。小学3年生10歳の時、両脚義足の父がスクーターを飛ばして真夜中に博多にやって来た[5]。母はお店からなかなか帰宅せず、父は娘の前で酒をあおり、母から再婚を拒否されたことを話し泣いた[5]。当時はザ・ピーナッツが世に出た頃で、渡辺プロダクションの興隆期でもあり、「まり子がナベプロに入って、歌手になってお金を儲けてあげるから」と父を慰めた[5]。父母の離婚成立で、母親の「髙橋」姓となる[3]。まり子は不倫をしていた母が許せず長い間に渡って恨み続けた[5][11][17]。中高生時代には母が自分に触れることすら許せなかったという。父は広島市内のクラブでジャズプレイヤーとして働いたが[3][16]入市被爆が原因で長らく後遺症に苦しんだのち37歳で亡くなった[8][14]。この時も母はまり子に泣きながら抱きついたが、それをも振り切ったという。愛情を求めた少女時代は歌うことだけが唯一の救いであり、歌うことで運命を変えてきた[17]

ナベプロ時代

音楽を目指した父の影響を受け芸能界に憧れ、自らもジャズボーカルの勉強を始める[3][13]。中学時代から学校には内緒で中洲のナイトクラブで歌う[12]福岡市立大楠小学校[6]九州女子中学校[6]九州女子中学校九州女子高等学校を経て[6]、16歳の時、渡辺プロの九州支社・深見プロから声がかかり[5][12]、プロ歌手を目指し1965年[6]、同高1年のとき[6]駒沢学園女子高等学校へ転入のため上京[6][14][16]。父と約束した3年後、ナベプロと正式に契約し[5]、同プロのもとで本格的なレッスンを受けた[6]。硬い鉄道員からジャズ演奏家の道を目指した父の血が綿々とまり子の中に流れていた[18]。東京では渡辺晋社長宅に預けられ、木の実ナナ中尾ミエらと同居[5]。後から入って来た恵とも子と同室になり、つるんでワルいことをやり、渡辺家の家政婦に社長夫妻に告げ口され、居づらくなる[5]。但し歌の上手さでは定評があり、1966年に「スクールメイツ」の一員として芸能界デビューした[3][14][12]。さらにスクールメイツから抜擢され、「スカーレット」という4人組のコーラス・グループにも入れられた[5]。しかしコーラス・グループだと、自分の個性を殺さなくてはならず[5]、「自分の望みは歌手になること。アイドルではない」と[12]、自身の求めているアーティスト路線でなかったこともあり、高校を卒業すると渡辺プロを脱退し[5][6][11]、20歳を前に博多に戻る[12]。東京での2年間はムダではなく、特にその間、母からの細かい心遣いを通じて、母の無償の愛を知り、母への反抗が母への甘えの変形だったことに気づいた[5]。自身も恋愛経験を積み、母がずっと「おじいちゃん」と呼んでいた愛人のことも理解してあげられるようになった[5]。再び、博多のライブハウスディスコ米軍クラブで歌う[3][6][13][16]

歌手活動歴

ペドロ&カプリシャス・二代目ボーカルでデビュー

1972年、中洲のナイトクラブで歌っていたところ「ペドロ&カプリシャス」のペドロ梅村にスカウトされる[6][11][13]。このスカウトも偶然ではなく必然といえ[18]、その胚芽はまり子自ら育てたものであった[18]。同年に「別れの朝」が大ヒットしながらも突如離脱した先代・前野曜子に次ぐ、二代目ボーカルとして参加[3][6]。カプリシャス時代の芸名は「高橋まり」[11]。その後ソロに転じたが、バンドで歌うスタイルは貫くと決めていた[12]

1973年には「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」などがロングヒット。翌1974年の『第25回NHK紅白歌合戦』に「ジョニィへの伝言」で初出場を果たした。最初は1年の約束で[6]、「ジョニィへの伝言」は最初は全然売れず、福岡に戻ろうかと思っていた頃、急に売れ出し、帰るに帰れなくなった[6]。「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」は当時「無国籍ソング」と呼ばれた[18][19][20]

ソロ歌手としてデビュー

1978年にヘンリー広瀬と共に「ペドロ&カプリシャス」を脱退[6]、「髙橋真梨子」としてソロ歌手として活動を始める[6]。同年11月、「あなたの空を翔びたい」でデビュー。翌1979年から全国ツアーを2019年まで41年連続で実施[2]。2000人以上収容の大規模ホールで、年間25公演以上を41年も継続している女性ソロ歌手は高橋のみで[2]昭和平成令和の3つの時代をトップアーティストとして走り続ける[2]

1980年8月に出した3枚目のアルバム『Monologue』が10万枚のセールス[6]1982年シングル発売の「for you…」は「第11回東京音楽祭」にて金賞を獲得、のち多数のアーティストカバーされる名曲となった。1984年の「桃色吐息」がソロ独立後7年目にして初の大ヒット[6]1992年の「はがゆい唇」、1994年の「遥かな人へ」など数々のヒット曲を発表、また髙橋自ら作詞を手掛けたりするなど、「実力派女性歌手」としての地位を確立した。

1993年8月5日「ペドロ&カプリシャス」時代からのメンバーであったヘンリー広瀬と結婚。年1回のペースでアルバムを制作・発表し、それに伴うコンサートツアーを行っている[2][18]。コンサート活動は50回を越え、米カーネギー・ホールや英ロイヤル・アルバート・ホールなど海外での舞台実績もあり、現地在留邦人の支持も高い[18]。カーネギー・ホールメイン・ホールでは2008年と2016年でも公演を実施し、日本人で唯一3回を数え、複数回実施アーティストは高橋のみである[2][21]

中高年(特に同年代の女性)層で人気の高い1996年発売の「ごめんね…」は、日本テレビ系列『火曜サスペンス劇場』の主題歌として同番組のターゲットである主婦層から多数の支持を得る。カラオケ・チャートでも40-50代女性の中で1位となった。また清酒「白鶴」のCMソングに起用され、本人も同商品のCMに出演。さらに、中高年向け高級化粧品「グレイスソフィーナ」のイメージキャラクターにも選出された。

「for you…」など、シングルは爆発的には売れないがシングル曲を収録したアルバムはヒットする例が多いことから、自身のコンサートで自虐的に「シングルの売れない髙橋真梨子です」と発言することがある[22]。実際には「桃色吐息」「はがゆい唇」「遥かな人へ」「ごめんね…」などシングルヒットもある[22]。むしろシングルヒットがない時期でもアルバムはコンスタントに売れるというのが実態に近いとされる[22]

NHK「紅白歌合戦」・「SONGS」など各テレビ出演

かつて髙橋が「ペドロ&カプリシャス」からの独立当初は、コンサートレコーディングなどの音楽活動を重視しており、テレビ等のメディア出演は固辞していた。年末恒例の『NHK紅白歌合戦』(NHK総合ラジオ第1)の出演依頼に対しても「大晦日にスケジュールを拘束されたくない」という理由で辞退したこともあったが、「桃色吐息」がヒットした1984年末の『第35回NHK紅白歌合戦』にはソロ歌手として初出場を果たした(なお「ペドロ&カプリシャス」時代も含めると、髙橋自身紅白出場は10年ぶり2回目である)。

2013年末の『第64回NHK紅白歌合戦』は、ソロ歌手として29年ぶり2回目の出場を果たす。自身初めての紅組トリを務め、圧巻のステージをみせた[3]。それから2年後、2015年末の『第66回NHK紅白歌合戦』はソロ歌手で2年ぶり3回目の出場、紅組トリ前で「五番街のマリーへ」を歌唱。同年6月に発売したアルバム『ClaChic -クラシック-』が、オリコンの女性歌手年長記録の3位を記録(66歳3カ月)[2]

2016年末の『第67回NHK紅白歌合戦』へ、ソロで2年連続4回目の出場となり、自身最大のヒット曲である「ごめんね…」を披露。なお、当時髙橋の年齢は67歳9か月だったが、これはNHK紅白歌合戦において紅組の出場歌手としては最年長記録となる[2](それまでの記録は、2004年末の『第55回NHK紅白歌合戦』で島倉千代子が、当時66歳9か月の年齢で出場)。翌2017年末の『第68回NHK紅白歌合戦』もソロで3年連続5回目の出場、紅白では4年振り2度目の「for you…」を歌唱。紅白の紅組歌手として年齢は68歳9か月と、髙橋自身が持つ当時の最年長記録を更新した[2][23]

2017年8月2日、生誕の地である広島に本拠を置く広島東洋カープ×阪神タイガース戦(広島マツダスタジアム)で開催された、平和と核兵器廃絶をアピールする「ピースナイター2017」に、カープのユニフォームを着用して68歳にして始球式を務めた[4]

2024年末の『第75回NHK紅白歌合戦』に出場。天童よしみを抜いて紅組での最年長出場記録となる。イルカ・天童と共に紅組歌手で史上初の70代での出場を果たす。

NHK総合テレビ・深夜放映の音楽番組SONGS』には、2017年現在髙橋が最多出場回数を誇っている。通算11回目の同番組出演となった2015年4月25日の放送では『髙橋真梨子 オールタイムリクエスト』と銘打ち、視聴者からのリクエストを募って、リクエストの多かった上位4曲(実際は5曲。4位「桃色吐息」、3位「五番街のマリーへ」。ペドロ&カプリシャス時代の曲で「ジョニィへの伝言」とメドレー形式で披露、2位「ごめんね…」、1位「for you…」[注 1]

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ヘンリーバンド

夫のヘンリー広瀬バンドマスターを務め、ライブやテレビ出演時に髙橋真梨子をサポートする男性8人組バックバンド

ヘンリー広瀬
フルートキーボード担当
宮原慶太
ピアノ、キーボード担当
小松崎純
キーボード担当
野々田万照
サックス担当 
長男はアイドルグループ祭nine.元メンバーの野々田奏
藤井晴稔
ギター担当
小川真司
ベース担当
北沢マロ
パーカッション担当
山下政人
ドラムス担当

ディスコグラフィ

  • 全てのシングル・アルバムはInvitationからリリース。

シングル

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アルバム

オリジナル・アルバム

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ライブ・アルバム

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ベスト・アルバム

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カバー・アルバム

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タイアップ曲

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映像作品

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出演

NHK紅白歌合戦出場歴

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その他・番組出演歴

など

ラジオ

  • 髙橋真梨子の今夜はシルキー(文化放送[1]
  • ときめきピアニシモ(JFN)[1]

CM

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脚注

関連項目

外部リンク

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