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北陸道に属する令制国の一つ ウィキペディアから
前身は4世紀代に設置された久比岐国造や高志深江国造、その他豪族の領域で、律令制の施行に伴ってそれら各領域が統合された。
7世紀末、文武天皇元年(697年)以前のいずれかの年になされた越国(こしのくに)の磐船(いわふね)・渟足(ぬたり)の二郡の分割によって成立した。当初の領域は、現在の新潟県本州部分の北部(阿賀野川以北か)から山形県庄内、秋田県方面で、日本海側で蝦夷の領域に接する辺境国であった。
蝦夷政策の拠点国として大宝2年(702年)3月に、越中国から親不知以東、すなわち頸城郡、古志郡、魚沼郡、蒲原郡の四郡を譲り受けた。和銅元年(708年)に、北に領域を伸ばして出羽郡を新しく設置し七郡体制となった。出羽郡を建てるのと前後して出羽柵の築造と柵戸の移住が行われた。さらに、和銅5年(712年)9月23日 に、出羽郡が出羽国として分離したことで、後々まで続く越後の形ができあがった。天平16年(743年)2月11日に佐渡国を合わせたが、天平勝宝4年(752年)11月3日に元に復した。その後、沼垂郡が蒲原郡に統合されたり、古志郡から三嶋郡(みしまぐん、のちの刈羽郡)、ついで三島郡(さんとうぐん)が分立するなど郡に変動があった。
大和政権は蝦夷地における版図拡大に城柵を設けて、南の地域の人民を移民し、開発と村づくりに当たらせ公民とし、郡を設置した。越後に設置された城柵は、647年(大化3年)渟足柵(新潟市か)、648年(大化4年)磐舟柵(新潟県村上市か)である。
国府は頸城郡にあった。10世紀頃までの国衙は上越市今池と見る説が有力視される[1]。11世紀以降の中世国衙には諸説あるが、近年では上越市の直江津地区にあったと考えられている[1]。
尼寺跡は不詳。
なお、一宮を天津神社(糸魚川市)とする説もある。
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