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大正ロマン

大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象 ウィキペディアから

大正ロマン
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大正ロマン(たいしょうロマン)とは、大正時代の趣を伝える思潮文化事象を指す言葉である。「大正浪漫」とも表記される。

概要 大正ロマン, 別名 ...

大正期にみられる個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮、和洋折衷の様式や新旧が融合した当時の大衆文化が、大正ロマンに当てはまる[1]。これを源流にして創出された後世のポップカルチャーに対しても「大正ロマン」の語が適用されることがある[2]

大正ロマンという言葉は1960年代末から1970年代前半に広まったと考えられている[3][4]。学術領域では恋愛や熱情といったロマン主義(明治浪漫主義)の流れを汲む、大正期の芸術を紹介するために使われた[4]

一方で後世から見てファッションや建築などが独自の文化であったため、レトロかつノスタルジックでロマンチックな大正のイメージを抽出した言葉としても受容されていった[5]。似た言葉に「大正モダン」「大正レトロ」があるが、同義語としても使われる。

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時代背景

要約
視点

「大正」は1912年7月30日から1926年12月25日までの日本の時代区分である。西洋先進国の産業革命の影響を受けて、明治期から工業化を進め、日清戦争日露戦争での連勝を経て、帝国主義の国として[6]欧米列強と肩を並べ「五大国」の一国となった時代である[7]

このことで経済は着実な発展を遂げ、流通や商業が飛躍的に進歩した。鉄道網の形成[8]や汽船による水運が発達、これと並行して徐々に町や都市の基盤が形成され、さらに大正に入ってからは近郊鉄道の建設、道路網の拡大や自動車乗合バスなどの都市内交通手段の発展により都市化が促進された。

録音[9]活動写真キネマ)の出現[10]電報電話技術の発達、そして新しい印刷技法による大衆向け新聞書籍雑誌の普及など、新しいメディアが台頭した。これにより文化・情報の伝播も飛躍的に拡大し、少女雑誌や婦人雑誌には流行風俗を反映した特集や叙情画が多数掲載された。

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日本橋、左に帝国製麻、奥に三越呉服店(大正11年絵葉書)

戦勝によって債務国から債権国へ転換した[11]ことで、経済は爆発的に発展し、明治以降、経済の自由化とともに商人の立場が向上した。また、欧米から学んだ会社制度が発達していった。 そして、通貨「日本円」の国際化と旺盛な日本市場を狙って、ウェスティングハウス・エレクトリック[12]ユニバーサル・ピクチャーズフォード・モーターなど欧米企業の進出が相次いだ。日英同盟を理由に参戦した第一次世界大戦南洋諸島などが手に入り、それらの地の開拓も進められた。加えて主要な戦地であった欧州に代わり造船受注が拡大し、この時期に長崎や神戸などで現代にまで続く重工業企業の基盤が形成された。大戦景気投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ[13]、立身出世の野望が実業の方面に向かっても開かれた。

中流層には「大正デモクラシー民本主義)」が台頭し、一般民衆と女性の地位向上に目が向けられた[14]。西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布し、思想的にも自由と開放・躍動の気分が溢れ出した。特に都市を中心として、輸入物愛好、大衆文化や消費文化が花開いた。さらに一般人の洋装化を促す服装改善運動が提唱され、洋装の学生服を女学生が通学で着るなどの変化も始まった[15]百貨店も新しい文化の発信地となり、和装がほとんどであった女性層に鮮やかな着物や銘仙を販売した。

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関東大震災で消滅した浅草十二階

しかし、後半に入ると大戦後の世界恐慌関東大震災もあり、経済の激しい浮き沈みや国際交流の活発化の急激な変化に対応できないストレスが顕在化した。都市化と工業化は膨大な労働者階級を生み出し、国外の社会変革を求める政治運動に呼応した社会主義運動が大きなうねりとなって支配層を脅かした。加えて、スペイン風邪の流行や肺結核による著名人の死も時代に暗い影を落とした。知識人においては個人主義理想主義が強く意識されるようになり、新時代への飛躍に心躍らせながら、同時に社会不安に通底するアンビバレントな葛藤や心理的摩擦もあった。大正時代の後期から昭和の時代にかけては、自由恋愛の流行による心中自殺、そして作家、芸術家の間に薬物自傷による自殺が流行した。大衆紙の流布とともにそれらの情報が増幅して伝えられ、時代の不安の上にある種の退廃的かつ虚無的な気分も醸し出された。

むしろこれらの事々のほうが「大正浪漫」に叙情性や負の彩りを添えて、人々をさらに魅惑させる側面もある。この背景には19世紀後半にヨーロッパで興った耽美主義ダダイスムデカダンス等の影響もうかがえる。芸術活動には大正期新興美術運動が起こり、アール・ヌーヴォーアール・デコ表現主義など世紀末芸術から影響を受けたものも多い。あるいは政治思想である共産主義アナキズムなどの「危険思想」が取り締まられ社会主義思想にも圧迫が加えられた。一方で、多くの地方の村落はまだまだ近代化から取り残されており、大正に至っても明治初期と変わらない封建的な生活が残っていた。

大正ロマン」は、新しい時代の兆しを示す意味合いから、モダニズム近代化)から派生した「大正モダン」という言葉と同列に扱われることもある。「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表裏対立の概念である。在位の短い大正天皇の崩御により、震災復興などによる経済の閉塞感とともにこの時代は終わる。世界大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大正モダンの流れは止まることなく昭和モダンの時代へと引き継がれた。

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歴史的事件・出来事と「大正ロマン」を象徴する文化事象

要約
視点
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1900年(明治33年)に三浦環木内キヤウが始めた自転車通学は、明治後期から大正前期の女学生を象徴するアイコンとなった[16]

国家主導で近代化政策が行われた明治期から進歩して、大衆が日常の生活文化に西欧文化を採り入れるようになったのが大正期である[17]。旧来の習慣の上から「ハイカラ」「モダン」「新しい文化」関東大震災後に「新時代」と形容される事象が混在していったことで、大正ロマンの表象となる和洋折衷・新旧融合の特徴的な文化が生まれた[17][18]

1911年(明治44年)

この年の主なできごと

文化事象

1912年(明治45年/大正元年)

この年の主なできごと

文化事象

1913年(大正2年)

この年の主なできごと

文化事象

1914年(大正3年)

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東京駅(1914年)
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宝塚歌劇団歌劇ドンブラコ宝塚新温泉内パラダイス劇場(1914年4月)[c 2]

この年の主なできごと

文化事象

1915年(大正4年)

この年の主なできごと

文化事象

1916年(大正5年)

この年の主なできごと

文化事象

  • 婦人公論』創刊[c 1][c 2][c 3][101]
  • 少女号』(小学新報社/新報社)創刊。掲載作品は冒険小説、マンガ、お伽話、翻訳物語など幅広いジャンルにわたる。[102]
  • 警察が永瀬義郎の裸体画(版画)のレストラン店内からの取り外しを命令し、新聞がこれを批判。警察は店内に飾るのは認めつつ、永瀬から版画の原版を没収[103]
  • 第3回二科展が三越呉服店で開催される。安井曾太郎『女』、硲伊之助『水浴』が、警視庁の取締の対象となり、特別室に展示される[104]
  • 『青鞜』が休刊し、青鞜社が解散[105]
  • 芸術座レフ・トルストイの『闇の力』を上演[95]
  • 文芸雑誌『新思潮』の第4次刊行。久米正雄、芥川龍之介、松岡譲、菊池寛らが再刊。芥川の『』が夏目漱石の激賞を受け、全同人が文壇に登場[82]
  • 帝劇の歌劇が財政難から上演の継続が困難となり、帝劇洋劇部が解散[106]。 これに伴い、ローシーが東京・赤坂にローヤル館を開場。旗揚げ公演はオッフェンバック『天国と地獄[51]
  • ローシーと対立して袂を分かったアーティストたちが浅草に活動の場を移し、「浅草オペラ」を形成[106][51]
  • 倉田百三、雑誌『生命の川』に戯曲『出家とその弟子』を連載開始(翌年まで)[107]
  • 大分県立大分第一高等女学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)の秋季大運動会の一種目としてサッカーが行われる(日本最古とみられる競技写真が残る)。大正期には、全国の女子中等教育機関でサッカーが行われていた[108][109]
  • 女性飛行士、キャサリン・スティンソン来日(当時25歳)。「19歳」と紹介されたこともあって少女の共感を呼び、少女雑誌ではスターのような存在となる[110]

1917年(大正6年)

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浅草オペラ『天国と地獄』(1917年-1919年ころ)

この年の主なできごと

文化事象

1918年(大正7年)

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セノオ楽譜『宵待草』竹久夢二・画(大正7年/三版・大正13年)

この年の主なできごと

文化事象

1919年(大正8年)

この年の主なできごと

文化事象

1920年(大正9年)

この年の主なできごと

文化事象

1921年(大正10年)

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福岡女学校で1921年(大正10年)に導入された女子洋装制服[c 1]

この年の主なできごと

文化事象

1922年(大正11年)

この年の主なできごと

文化事象

1923年(大正12年)

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震災直後の銀座
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震災2か月後に営業を再開、資生堂の仮設バラック建築

この年の主なできごと

文化事象

1924年(大正13年)

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鳩山会館。当時立憲政友会所属の代議士・鳩山一郎の私邸。1924年(大正13年)

この年の主なできごと

文化事象

1925年(大正14年)

この年の主なできごと

文化事象

1926年(大正15年/昭和元年)

この年の主なできごと

文化事象

大正末期から昭和にかけて

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1927年(昭和2年)の地下鉄開通広告(杉浦非水・画)

Category:大正時代の事件に主要事件へのリンクあり)

検証のため参照した文献

出典とは別の関連性を検証するために、以下の文献の年表・年譜を参照して「[c 1][c 2]…」とした。

  1. 沙月樹京(編)「特集・大正耽美 : 激動の時代に花開いたもの」『トーキングヘッズ叢書』第62巻、アトリエサード、2015年、72-77頁、ISBN 978-4-883-75201-0
  2. 石川桂子「大正ロマン 略年譜」『大正ロマン手帖 ノスタルジック&モダンの世界』河出書房新社、2021年(原著2009年)、124-125頁。ISBN 978-4-309-75048-4
  3. 青木逸美 著「「はいからさんが通る」と大正ロマネスク」、別冊宝島編集部 編『はいからさんが通るの世界』宝島社、2017年、76-77頁。ISBN 978-4-800-27414-4
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文化史上の大正期

14年5ヶ月間の時代区分に人々の活動が厳密に収まることはなく、「大正」とする文脈でも前後の数年を含むことが多い。文学史においては1910年(明治43年)の『白樺』創刊から、1927年(昭和2年)の芥川龍之介の死までを大正期とする見方がある[321]。美術家たちが手掛けた書籍や印刷物が蒐集されて、1904年(明治37年)の日露戦争下から、1930年(昭和5年)の帝都復興まで大正的なイメージとして紹介されている[322]。自由を求める大正デモクラシーの終焉は1932年(昭和7年)の五・一五事件と、翌年の吉野作造の死に象徴される[323]

ロマン主義とメディアの発達

要約
視点
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明治の与謝野晶子と藤島武二による『みだれ髪

明治の文化人のロマン主義(明治浪漫主義)は、『オフィーリア』に代表されるラファエル前派絵画や、世紀末芸術象徴主義の影響を受けていた[324][325]。西洋の印刷メディアにおいて流行したアルフォンス・ミュシャアール・ヌーヴォーは、日本の印刷メディアでも言文一致時代の新表現として模倣・吸収されていった[326]。文芸誌『明星』の周辺においても「星菫派」の由来となる星や花、「みだれ髪の系譜」と論じられる女性の髪と水流といった絵画的モチーフが多用され、西洋の絵画表現を実践する白馬会に接近していった。白馬会は明治社会の規範やパトロンからの自立を説いて、パリを放浪する異国の装いをしたボヘミアンに倣った啓発を行った新進芸術家たちによる団体であった[327]。個人主義の勝利を目指すロマン主義と、反社会傾向を帯びた西欧世紀末芸術思想の結びつきが、大正の前段階の状況である[324]

西洋趣味、異国憧憬
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ミュシャの装飾性やポーズは日本の美人画デザインの典型となった
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『サロメ』1894年版
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雑誌「アール・グー・ボーテ」は「婦人グラフ」(大正13年)が参考にした
江戸趣味、過去憧憬
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浮世絵は文化人の研究・収集対象となった(歌川広重・画)
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元禄ブームを反映した着物(大正2年、北野恒富・画)
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映画『雄呂血』大正14年

西洋の表現は最先端の流行として手あたり次第に手本にされた。特に印刷物、ポスターや広告などでは、学習の成果として流用同然の作品も散見される[328][329]。西洋への憧れを含みながら取り入れられた文化は、国産化の過程で大衆受けするアレンジが加えられ、あるいは「翻訳」から脱して独自の表現を確立するものが現れる。東洋への意識の高まりも西洋に対する反応の一つであり[330]、植民地政策とツーリズムで文化人たちは中国趣味、南洋幻想を盛んにしていく。

明治末にパンの会に属した文化人たちは、パリを理想にして東京の趣のなさを嫌いつつ、浮世絵隅田川に残る江戸情緒を評価した。三越は日本の装飾として琳派を研究し、元禄模様市松など)をブームとして仕掛けた[331]。時代小説や時代劇は大衆文化の定番として位置し続けていた。物質的な憧れのみならず、西洋・近代、異国、江戸・過去への憧れ[328]、実際がどうであるかは関係ない内面的な想像への憧れが、大正時代の憧憬「ロマン主義」の特徴である[332]

雑誌『白樺』ではトルストイといった西洋文学のほか、ビアズリーブレイク、印象派などの絵画が紹介され、複製版画による西洋美術の鑑賞体験を大正の人々にもたらした[333]。ビアズリーが絵を手掛けたオスカー・ワイルドの『サロメ』は大正初期には文学と美術の交流を表現した書物として理解され、萩原朔太郎は版画家の田中恭吉恩地孝四郎とともに「芸術的共同事業」を掲げて詩集『月に吠える(1917年(大正6年))』を作っている[334]。メディアの発達によって異なる分野が総合された作品が生まれ、大衆と同調する文化人が垣根を越えた活動をした時代でもあった。

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「大正ロマン」を象徴する文化人

要約
視点

新しい文化に携わり活躍した文化人自身もスターとして、あるいは世間から逸脱した存在として注目の対象になった。また近代化と大衆化の流れで、個人の束縛になっていた国家制度や社会慣習への反発と改善運動が起こり、それら自由主義はロマン主義に似た傾向をみせた。

美術

ポスターや雑誌の挿絵など大衆のための美術表現が成熟を迎え、大正ロマンの主要な側面として後世の展覧会等で紹介されている[335]。叙情画は画家の感情を表現するとともに、婦人雑誌・少女雑誌に描き下ろされて、読者の共感を誘う憂愁の雰囲気と、流行を反映した華やかな衣服・題材が描かれた。

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黒船屋、竹久夢二(大正8年)

竹久夢二の場合、実質的に活躍した年代が大正期と重なる。その思索や行動、そして作品において時代の浮き沈みと一体化しており、この時代とともに生きた人物である。アカデミズムとは隔絶した場で叙情画、装幀、生活雑貨、詩作を幅広く手掛け、芸術でも恋でも束縛を嫌った大正ロマンを代表する名として掲げられる[336]コマ絵や印刷物において「夢二式」と呼ばれる全盛期を築き[337]、彼の絵を表紙に使ったセノオ楽譜は一世を風靡したといわれる[338]

高畠華宵は耽美で清楚な異国感ある画風で支持を集め、1928年(昭和3年)の流行歌「銀座行進曲」に名が歌われるまでの人気となった。ほとんどの雑誌で仕事をしていた講談社から1924年(大正13年)に原稿料の騒動で仕事を引き上げ、実業之日本社へ活動を移したことは「華宵事件」とも称されて影響力が伝わる[339]

明治のアール・ヌーヴォーを、伝統美の新版画と折衷した橋口五葉ウィーン分離派アール・デコに更新した杉浦非水が、装幀やポスターの装飾領域で活躍した。西欧では中産階級の生活を美しく飾るためのエステティック運動(耽美主義)があったが、同様に三越呉服店は西洋式建築が浸透していない一般住宅に調和する「折衷的室内装飾」を提唱して、橋口のような画家たちに美人画のビジュアルを募り、杉浦を嘱託デザイナーにして雑誌やパッケージを制作している[340]

アカデミーな動向では文展・帝展に対して、再興された日本美術院国画創作協会が設立された。私立の画塾・川端画学校は多くの才能を輩出した。在野のグループが多く結成されて最新の表現の研究を行い、一方で岸田劉生のように「内なる美」を探求するなどして作家独自の表現の獲得を試みていった。

文学

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「現代小説家番附」
(『今古大番附:七十余類』1923年)

作者の経験や生活の感情を過剰に追求していった自然主義文学に対して反自然主義文学が登場する。何より美を重視する耽美派や、人道・理想・個人主義を掲げた白樺派は、結果的にロマン主義的な傾向を見せた[341]。1923年(大正12年)に白樺派の人気作家・有島武郎が愛人の波多野秋子軽井沢の別荘で情死した事件は、当時世間を大いに賑わせ、大正期に流行した自由恋愛や情死・心中事件を代表する出来事となった。

芥川龍之介は挫折から見た優情の世界(『老年』)、極限状況におけるエゴイズム(『羅生門』)、美のために何者をも犠牲にする芸術至上主義(『地獄変』)、キリシタンものや中国趣味に基づく作品(『奉教人の死』『南京の基督』『支那游記』)を書いた[342][343]。時代の流行と連動しながら、大正の終わりとともに自死した象徴的な作家である。

新聞・雑誌の興隆によって時代小説である「大衆文学」と、現代を舞台にした家庭小説などの「通俗小説」が多く書かれた[344]中里介山は1913年(大正2年)より大長編小説『大菩薩峠』の新聞への連載を始め、昭和に至って未完のままに終わってしまう。大衆娯楽小説の出発点ともされており、大佛次郎の『鞍馬天狗(1923年(大正12年))』や林不忘の『丹下左膳(1927年(昭和2年))』などの作品連載発表に先んじて、大衆文化の創生に大きく影響を及ぼした。

岡本綺堂の『半七捕物帳(1917年(大正6年))』が推理小説と時代小説を融合させた捕物帳のジャンルを開拓する一方で、科学文明の発達と都市化によって探偵小説を生み出す分析的精神が高まっていった。江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』『屋根裏の散歩者』(1925年(大正14年))などは流入者と高等遊民を擁する都市の、人間関係の希薄化とプライバシーへの興味を背景に成立している[345]

少女雑誌は読者投稿を受け付け、読者欄はコミュニティになった。尾島菊子尾崎翠吉屋信子は投稿者から小説家になった作家であり、山田邦子などによる少女小説に影響を受けた吉屋の『花物語』は、女学生間にみられた友愛文化「エス」を表象した小説として少女文化の形成を促進させた[346]

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講談社『少女倶楽部』(大正12年11月号)。この翌年には高畠華宵が離脱するが、昭和に入ると模範的・地方型の特色を強めて、親からも支持される少女雑誌として売り上げを伸ばしていった[347]

音楽・演劇

1913年(大正2年)、劇団「藝術座」を旗揚げした島村抱月松井須磨子は、帝国劇場でトルストイの『復活』を上演。劇中歌の『カチューシャの唄』が社会現象となる人気になった。病死から数年後の後追い自殺(1918年(大正7年) - 1919年(大正8年))に至る関係においては、劇団や演目への好評が大きいだけに政治的圧力や短い期間での破綻が大衆の好奇を刺激した。須磨子の歌った「いのち短し 恋せよ乙女(ゴンドラの唄)」に乗せて、後の芸能人への憧れや自由恋愛の風潮を育む元となった。

三浦環は親の意向で結婚させられながらも声楽に関する活動を続けて、夫である医師の三浦政太郎に同行しベルリンへ留学。第一次世界大戦から逃れてロンドンで『蝶々夫人』のプリマドンナを演じて以降、各国で公演を重ねる国際的な高評価を得た。

活動弁士を伴う映画娯楽が旧来の演芸に代わる人気で、活動写真の取締規約が改定される1917年(大正6年)まで子供が重要な観客であった[348]。映画『ジゴマ』などは1912年(大正元年)の1年間のブームで数多くの和製便乗映画を生み、ノベライズされ、子供のごっこ遊びのみならず犯罪の誘発が指摘されたため、大正時代を通して上映禁止されたが影響を及ぼし続けた[30]。日本映画では尾上松之助が大正時代のスター俳優で、また歌舞伎と同様の形態だった女形に代わって女優が登場する。大正活映には谷崎潤一郎が脚本家としてかかわった。

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帝国劇場でオペラを指導したローシー(大正4年)

政治家・思想家

日比谷焼打事件以降のデモクラシー思想を吉野作造が主導したほか、石橋湛山のように帝国主義政策へ反発する主張も登場した。阿部次郎による『三太郎の日記(1914年(大正3年))』の流行は明治の修養に代わる教養主義を促し、古典の読書を通して人格の成長を目指す一方で自己内省の煩悶を抱える、大正教養主義のステレオタイプを広めた。宗教的自由主義を含んでいたトルストイの流行や、道徳主義に代わる新教育で育った学生が大正の思想を支えていく。

女性の社会進出とそれに伴う婦人運動が活発になり、下田歌子津田梅子といった先人を含めた女学校や女子教育関係者、法的・市民的権利の獲得を目指す『青鞜』の関係者が、モダンガールと大正ロマンの風潮として後世に取り上げられている。明治に浪漫派歌人として脚光を浴びた与謝野晶子は男女共学の文化学院の創設に参画し、また平塚らいてうとの母性保護論争を起こすなど評論家として活動を広げていく[349]

社会主義運動は幸徳事件大逆事件)の弾圧で冬の時代となったが、ロシア革命の成功、米騒動などの物価の高騰化に後押しされてアナキズムボリシェビズムの隆盛を迎える(アナ・ボル論争)。1916年(大正5年)の日蔭茶屋事件から同12年の甘粕事件に至る間の、思想家・大杉栄と女性解放活動家・伊藤野枝を取り巻く動きについては逐一新聞などで報道され、有名人のスキャンダルとして大衆の好奇の材料ともなった。

大隈重信は人気獲得にメディアを駆使しており、演説をレコードに録音し配布する選挙戦なども展開した。原敬は四大政綱を掲げ交通・教育・国防・産業の政策を実行し、デモクラシーの機運を後押しする形になった。

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鉄道網の充実は、雑誌の全国流通や郊外の整備を促進させた。外客誘致運動と大衆化で、旅行も産業化していく(吉田初三郎・画)
  • 吉野作造:政治学者、思想家(1878-1933)
  • 長谷川如是閑:ジャーナリスト、思想家、政治家(1875-1969)
  • 阿部次郎:哲学者・美学者・作家(1883-1959)
  • 宮武外骨:ジャーナリスト、著作家(1867-1955)
  • 大杉栄:無政府主義者、思想家、作家(1885-1923)
  • 伊藤野枝:思想家、作家、婦人解放運動家、無政府主義者(1895-1923)
  • 平塚らいてう:思想家、評論家、婦人解放運動家、作家(1886-1971)
  • 与謝野晶子:歌人、作家、思想家(1878-1942)

実業家・収集家

資本家や明治大正を通して財を成した実業家たちは趣味(数寄者)、社会貢献、あるいは海外流出の懸念から美術品の収集をするほか、文化活動の支援(パトロン)をしている。松方幸次郎は1916年(大正5年)からの10年間で1万点に及ぶ収集をして松方コレクションを作り上げた。大倉喜八郎は1917年(大正6年)に国内最初の私立美術館・大倉集古館を設立した。

小林一三は電鉄業維持のために住宅販売や動物園開設など都市化を進める多角的な経営を行い、1913年(大正2年)宝塚の温泉娯楽施設で宝塚唱歌隊宝塚少女歌劇団)を始めた。長崎の永見徳太郎南蛮美術を収集する傍ら芥川龍之介、竹久夢二とも交流したことで、明治末の帝室博物館展示に端を発する南蛮ブームを継ぎ、大正の文芸にもみられるキリシタン的題材の深化と南蛮趣味の拡散に関わった。

山本唯三郎は教育機関に寄付をした一方で、紙幣を燃やして暗い玄関を照らした言動が風刺画となり(成金栄華時代)、後世の歴史教科書に採用されて成金のエピソードとして伝わっている。

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「大正ロマン」を色濃く表現する後世の作品

要約
視点

桑原武夫南博などによって1960年代から大正時代と文化の再評価が始まり、文芸・美術の紹介を通して1970年代には大正のロマン主義、「大正ロマン」という言葉が現れるようになった[3][4][注 1]レトロブームともかかわりながら、ファッション・漫画・ゲーム・アニメなどのサブカルチャーの題材として扱われ、文明開化から戦間期を背景にしたそのイメージを定着・拡大してきた。

月刊漫画ガロ』の連載作家だった林静一は、歌謡曲に対する興味からさかのぼって「赤い鳥運動」で作られた童謡に着目し、童謡をモチーフにした画集『紅犯花』を1970年に発表した[350]。『ガロ』はアングラな傾向の雑誌で知られ、竹久夢二を自由への憧れと庶民への郷愁の面から再評価していた秋山清も、1970年の同誌に夢二論の連載を始めている。林が少女を描いた『ガロ』の表紙を発注イメージにして、1974年からロッテのキャンディ『小梅』のアートディレクションは始まった。甘い飴に対してすっぱい飴を提案することに重ねて、高度経済成長を経た社会に対して和装の少女画を採用するインパクトを追求した若手チームによる企画であった[351]吉永小百合山口百恵がそれぞれ主演した歴代の『伊豆の踊子』の映画から影響を受けて[352]、消えゆく日本美と少女の恋を通俗性を保ちながら表現した。

1975年に海外で広告賞を受賞したアニメCM『小梅』は、当時の読売新聞では「大正ロマンのムードをそのまま絵にしたCM」と評価された[353]。同じ年には『はいからさんが通る』の漫画連載が始まり、奔放なヒロインのメロドラマとして人気を博した。作者が親しんだ落語「お婆さん三代姿」や俗曲からストーリーを着想し、波乱の時代を明るく乗り越えていく女学生が設計され、実際の連載としては王道の本筋に破壊的なヒロインの花村紅緒とギャグを織り交ぜる挑戦的なものとなった[354]。時代遅れのCMと見ていた日本の広告業界[352]、歴史物はウケないとされていた当時の少女漫画の常識[354][355]を覆す好評であった[注 2]。型破りな意図で大正時代と少女のロマンスを描いた両作品は、文学史的・美術史的な意味のロマンティシズムとは異なる「大正ロマン」ブームの火付け役になった[2][注 3]

映画監督の鈴木清順は『紅犯花』を評価した縁で、林と『ガロ』に関わりを持っていた[360]。前衛的で不可解ともされてきた鈴木の作風が、夢想的な映像美学に昇華された監督作『ツィゴイネルワイゼン』は、1980年に国内外で高い評価を得て「(大正)浪漫三部作」に展開していく[361]

『はいからさんが通る』はさらに南野陽子が主演した実写映画のヒットで、女子大学生が卒業式に袴を履く現象を生み出すに至っている[362][363]。映画公開の1987年は「昭和30年代」を筆頭とする懐古ブームの最中にあり、大正浪漫と文豪の佇まいに憧れる現代の男を描いた『大正野郎』も発表されている[364]。同時期に映画化もされた『帝都物語』は[364]、史実を横断しながら呪術や陰陽道が入り乱れる伝奇的な世界観と、後の創作に影響を残すビジュアルの怪人・加藤保憲を描いた。

1996年の『サクラ大戦』は架空の元号「太正」でスチームパンクを展開、大正ロマンを素材にして大正風の世界を構築した代表作となった[365]。女学生がロボットに乗り戦う企画案を聞かされ、脚本家がたとえて挙げたタイトルは『帝都物語』と『はいからさんが通る』であった[366]。2002年にはアンティーク着物を扱ったファッション雑誌が登場し、少女感と乙女感を重視した着物ブームが起きる[367]

言葉の浸透とともに、史料に基づかないものにまで拡大解釈されて、現代的な和服や大正時代と関係のない創作も「大正ロマン」とされるケースがみられるようになる[368]。一方、2020年代にはファンタジーから発展して、大正文化への注目や企画の制作につながっている。『鬼滅の刃』は人気を高めるうちに、劇場版アニメで日本歴代興行収入第1位を記録する社会現象となり、リバイバルを牽引する存在となった[369]。明治大正の社会イメージを世界観に取り込んだ『わたしの幸せな結婚』は、近代日本を舞台にした和風ファンタジー小説のブームを起こしている[370]

小説 など

映画・TVドラマ など

漫画・アニメ など

コンピュータ・ゲーム など

音楽 など

  • アルバム『改造への躍動』(ゲルニカ 1982年):レトロブームに先駆け大正~昭和初期風のアートワークを採用
  • 楽曲『1925』(とみー(冨田悠斗)・ちほ初音ミク 2009年):漫画化
  • 楽曲『千本桜』(黒うさP一斗まる初音ミク 2011年):舞台化・メディアミックス化・歌舞伎化
  • 楽曲『大正浪漫』(YOASOBI 2021年)
    • 小説『大正ロマンス』(作:NATSUMI 2021年 双葉社):楽曲の原作小説。大正と令和との時を越えた恋愛を描く。リリースとあわせて『大正浪漫』に改題し刊行された[377]
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関連する展覧会

  • 「竹久夢二の世界展:生誕90年記念:ロマンの芸術と生涯」(1974年、京王百貨店):河北倫明が明治のロマン主義芸術と夢二を比較して考察[378]
  • 「大正ロマン」展(1978年、サントリー美術館):大正ロマンを冠した最初期の展覧会。夢二以外の芸術運動を多く扱うアカデミックな認識の展示[2]
  • 「Taisho Chic: Japanese Modernity, Nostalgia, and Deco」(2002年、ホノルル美術館):2004年にアメリカ各地を、2007年に「大正シック展」として東京都庭園美術館など日本国内を巡回
  • 「大正ロマン昭和モダン展 竹久夢二・高畠華宵とその時代」(2007年 - 2018年、企画:イー・エム・アイ・ネットワーク):全国20会場以上を巡回した叙情画展
  • 「躍動する魂のきらめき 日本の表現主義」(2009年、栃木県立美術館 他):1910年代から1920年代の創造的な作品群を「表現主義」と捉え直す展覧会[379]
  • 「大正イマジュリィの世界」(2010年・2018年 - 、企画:キュレーターズ):フランス語の「imagerie」が指すイメージ図像、印刷物や装丁を紹介
  • 「大正ロマン×百段階段」(2022年・2023年、ホテル雅叙園東京・百段階段):現代のイラストレーターと工芸作家を大きく扱う
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大正ロマンを体験できる施設

計画都市・まちづくり

建築

文学や美術と同じく、1970年代から建築も紹介されている[382][383]。また経済の好況を背景に民間企業や教育機関にも西洋建築が広まり、ジョサイア・コンドルに学んだ辰野金吾、辰野に師事した第二世代の建築家たち、加えてフランク・ロイド・ライトなどが、本邦初の建築論を展開しながら「大正モダン建築」を手掛けている[384]。財界人の邸宅が、本格的な洋館や贅を尽くした意匠で地方にも造られた。

文化住宅、アール・ヌーヴォー、ユーゲント・シュティール、セセッション様式、スパニッシュ様式、大正期までの和洋折衷建築歴史主義建築が特筆される建築スタイルであるが[385]、洋風に限らず近代和風建築も含まれる。煉瓦造の西洋建築や倉庫は、関東大震災で耐震性が見直されるまで国内各地に作られた。大正期や戦前に建てられ現存する近代建築が「大正ロマン」を掲げて公開されたり、現代の日常とは異なる空間を演出するレトロな施設・店舗として再利用・再現されたりするケースがみられる。

明治まで難航していた板ガラスの国内製造が、第一次世界大戦による大戦景気と輸入途絶で活性化した。円筒法や板引法を用いて製造された板ガラスは表面にうねりと規則的な波形があり[386]、昭和以降の平滑なガラスと区別して「大正ガラス(大正硝子)」とも呼ばれる[387]。装飾ではステンドグラスの需要が増えて、大正を挟む日露戦争後から世界恐慌まで成熟期を迎えている[388]。イギリスのヴィクトリアンタイルを発展させた和製マジョリカタイルも開発され、大正期に生産された[389]

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ギャラリー

大正デカダンス

大正デカダンスは、大正時代の退廃的な雰囲気を表す言葉。1980年代の『芸術新潮(1982)』『幻想文学(1988)』から使用されている[392]

谷川渥は大正ロマンを(例えば純愛のような)「正常、健康、法的規範」に位置付けることで、大正デカダンスの要素を「変態、病い、犯罪」と定義して、ロマンとデカダンスの密接な混合が大正文化の特徴であるとしている[393][394]。結核・肺病などは悲劇的な象徴として小説で素材にされ、美人や天才の最期としてロマン化していった[395]

東京国立近代美術館は画家・秦テルヲが1923年に記した日記を引用して、大正時代の雰囲気をロマン(抒情)とデカダン(頽廃)から解説した[396][397]

大正デカダンスを象徴する作家・作品として谷崎潤一郎、江戸川乱歩、横溝正史[393]夢野久作ドグラ・マグラ』、甲斐庄楠音稲垣仲静岡本神草、映画『狂つた一頁』などが挙げられる。昭和初年のエロ・グロ・ナンセンスに連鎖していくともされる[398]

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関連項目

  • 阪神間モダニズム
  • 大大阪時代
  • 大正三美人
  • モボ・モガ - それぞれ、モダンボーイ・モダンガールの略語。1920年代、西洋文化の影響を受けた流行にのる、当時は先端的な若い男女のこと。
  • ノスタルジー
  • キッチュ - 美術が取り合わない低俗な表現について論じた石子順造は、古い日本的な情緒と新しい西欧的な流行が馴染んだ大正を「まさしくキッチュな時代であった」とした(1976年)[399]
  • エラン・ヴィタール (Élan vital) [400] - 日本人の生命観の変化をもとに戦前の文化と思想を研究し、鈴木貞美が中心となって「大正生命主義」が提議された(1992年)[401]。トルストイや『内部生命論』が示す普遍的な生命観から、自然主義文学、デモクラシー、性愛、デカダンス、教養主義、宗教、心霊主義農本主義、アナキズムなどを生命観念の発現(生命の跳躍、エラン・ヴィタール)と関連付け、「民族的な生命」を唱えるナショナリズムへの変貌と国策による抑圧を説明した。
  • ベル・エポック - 1900年代前後のフランスの文化。工業的大衆的に繁栄していたパリを回顧した語。
  • 狂騒の20年代 - 1920年代戦間期のヨーロッパとアメリカの文化、ジャズ・エイジ。フランスにおけるレ・ザネ・フォル (fr:Années folles) 、ドイツ語圏におけるヴァイマル文化海野弘はこのような「20年代」の同時代性が日本の都市にも見出せるとして、1930年代以後に引き継がれず断絶した都市文化を考察した(1983年)[402]
  • ビーダーマイヤー - 川本三郎は大正特有の内密的な気分に、調度品へのこだわりを見せたビーダーマイヤーの文化を想起して、佐藤春夫の作品とともに考察した(1986年)[403]
  • 昭和モダン
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脚注

参考文献

外部リンク

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