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花園近鉄ライナーズ

日本のラグビーチーム ウィキペディアから

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花園近鉄ライナーズ(はなぞのきんてつライナーズ、: Hanazono Kintetsu Liners)は、東大阪市および大阪府をホストエリアとして、ジャパンラグビーリーグワンに所属しているラグビーチームである。略称「花園L」。練習場は、東大阪市花園ラグビー場第2グラウンド。

概要 クラブカラー, 愛称 ...
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概要

日本屈指の歴史と実績を有する、社会人ラグビーの名門チームである。ホームグラウンドは東大阪市花園ラグビー場(かつての近鉄花園ラグビー場)。

愛称の「ライナーズ」は近畿日本鉄道が運行する近鉄特急アーバンライナー」に由来し、ラグビーでのスピード感と力強さを表現している。

チームマスコットは近鉄特急アーバンライナーnext』をモチーフとした「トライナー君」が務めていたが、「花園近鉄ライナーズ」への改称を機にロゴ・エンブレムを一新するとともに、チームマスコットも近鉄特急『ひのとり』をモチーフにした「ライナマン(LINER MAN)」に交代した[1]

歴史

要約
視点

黎明期

1927年大阪電気軌道(通称大軌)社員の有志が集まり高安工場敷地でラグビーの練習を行った(この時、後の近鉄グループ総帥と呼ばれる佐伯勇も参加している)。この練習がきっかけで本格的にメンバーを募集しチームが出来た。その後、花園ラグビー場が開設された1929年に大阪電気軌道ラグビー部として正式に創設された。

戦前・戦中は組織だった全国大会は無かったが、1936年(昭和11年)3月の大阪実業団大会優勝を始め、同大会準優勝3回を誇る。しかし戦争が深まるにつけ次々に部員が召集され、あまり試合も練習も出来なくなっていった。またホームグラウンドである花園ラグビー場も農場や軍事教練場となってしまった。なお1941年(昭和16年)3月15日には大軌と同社の傘下会社・参宮急行電鉄が合併し関西急行鉄道(関急)となり、さらに1944年(昭和19年)6月1日関急と南海鉄道が合併し近畿日本鉄道(近鉄)が発足した。

黄金期

1947年(昭和22年)第2回国民体育大会関西予選で優勝し、金沢で行われた第2回国民体育大会に出場する。当時ステータスの高かった国体に出場できたことは大変な栄誉であった。またこの終戦間もない時代の遠征には物資難・食糧難・資金難など幾多の困難があったが、OBや社員の協力で参加することができた。

1948年度の第1回全国社会人ラグビーフットボール大会(各地域リーグの上位チームによるトーナメント、以下 全国社会人大会)に出場。しかし決勝で九州代表の配炭公団に 3-57 と大敗し準優勝に終わる。その後も八幡製鉄等の台頭により、優勝を争える力がありながら、なかなか頂点には届かなかった。加えて1952年度については、全国社会人大会の出場も逃した。巻き返しを図るため、近鉄の選手として初めて日本代表選手となった中島義信が同年度限りで現役を引退すると、翌シーズンより監督に就任することになった。

その甲斐もあり、1953年度に九州電力と両チーム優勝の形で初優勝。宿敵・八幡製鉄が九州電力に地区予選で敗れ出場を逃したという事情があったとはいえ、悲願の「日本一」を達成した。以後、中島が監督時代に、近鉄は同大会で5回の優勝を果たすことになる。

また、1956年に九州電力を決勝で破って、第1回大会以来続いていた九州勢の連続優勝を途絶えさせた。以後、第27回大会までに、優勝8回、準優勝9回に輝いている。特に、八幡製鉄とは全国社会人大会で1951年度から1968年度まで実に12回対戦。うち決勝戦では8回顔を合わせ、社会人チームの二強の一角としても長らく君臨した。戦績は近鉄の2勝10敗(決勝では1勝7敗)と大変分が悪く、加えて1958年度は決勝で、1968年度は準決勝で、それぞれ八幡に敗れて同大会3連覇を阻止された。

1956年度の第9回大会では1回戦から決勝までの全4試合すべてを無失点で優勝し「完全シャットアウト優勝」と言われた。この記録は以後一度も並ばれることは無かった。また同大会では、全55回のうち53回出場および50年連続出場という偉業を成し遂げたことも有名である。

1958年度に開幕した関西社会人リーグ創設時のメンバー[注 1] でもあり、第1回大会から11連覇、計17回優勝している(トップウェストでの優勝はカウントしていない)。

1961年度には日本選手権の前身であるNHK杯に出場し準優勝した。

1966年度、1967年度、1974年度には日本選手権でも優勝した。

なお、1969年度(1970年1月)は全国社会人大会で優勝し、第7回日本選手権の出場権を得たが出場を辞退した。この年の日本選手権はバンコクタイ)での第2回アジア選手権と日程が重複していた。多数の日本代表選手を輩出していた関西社会人Aリーグは事前に全7チームの監督名で日本協会に日本選手権の日程変更を申し入れていた。しかし大学の試験時期でもあり日本協会は日程変更せず、全国社会人大会優勝の近鉄はもちろん、準優勝のトヨタ自工、ベスト4の三菱重工京都らは関西勢の総意として棄権した。そのため日本協会は、ベスト4のもう1チームの富士鉄釜石(後の新日鉄釜石)に出場を打診し、富士鉄釜石もこれを了承し日本選手権に出場した。

低迷期

1974年度の日本選手権優勝を最後に、坂田好弘(現関西ラグビーフットボール協会会長)、小笠原博(元ワールド監督)らの日本代表経験を持つ選手らが引退し、さらに1976年度シーズン後に今里良三(元日本代表監督、元近鉄ライナーズ部長)や原進(のちのプロレスラー、阿修羅・原)も現役引退。その後若返りを図ったが強化は思うようにいかなかった。

1977年度と1988年度の関西社会人Aリーグで優勝し、その後もAリーグに残留し全国社会人大会の連続出場記録を更新し続けたものの、目立った成績は挙げられなかった。

全国社会人大会には、第1回(1948年度)から最後の大会となる第55回(2002年度)までの間に、実に53回(歴代1位)の出場を果たした。この間、優勝8回(歴代4位)、準優勝9回(歴代2位)、通算137試合(歴代2位)、通算82勝(歴代2位)、50大会連続出場(1953年度-2002年度、歴代1位)という輝かしい記録を残した。

トップリーグ発足後

2003年度に開幕したジャパンラグビートップリーグに参加し、同時に「近鉄ライナーズ」のチーム名が定められた。2003年度のリーグ戦では3勝8敗で12チーム中10位に終わり入れ替え戦に回ったが、九州電力に47-24で勝利して降格を免れた。

しかし、翌2004年度は2勝9敗で12チーム中11位に終わり、大会規定によりトップウェストAリーグへの自動降格が決定した。チームはこれまで企業の福利厚生を目的とした部活の一環として経営してきたが、2005年度からは企業のシンボルスポーツとしての独立組織に一新させる方針で、運営予算も増額された。また責任者としてOBの今里良三(元日本代表、元近鉄監督、元日本代表監督)を抜擢した。

2005年度はトップウェストAリーグを7戦全勝で優勝し、チャレンジマッチ(トップイーストトップウェストトップキュウシュウの3地域の代表による順位決定戦)に進出。翌2006年度からトップリーグが14チームに拡大されるため、3チーム中2位までに入れば自動昇格による復帰を果たすことができたが、日本IBMビッグブルーに 0-39、コカ・コーラウエストジャパンに 12-15 と連敗し、入れ替え戦でもトップリーグで全敗した福岡サニックスブルースに20-46で敗れ、復帰を果たせなかった。

2006年度はトップウェストAリーグを2連覇して、チャレンジマッチに再挑戦。自動昇格をかけた三菱重工相模原との最終戦に 31-32 の僅差で敗れ自動昇格を逃した。さらに、その後に行われたIBMとの入れ替え戦でも終盤間際に同点 (29-29) に追いつかれた。この場合、大会規定でトップリーグのチームが残留するため、近鉄は2年連続してトップリーグへの復帰を果たせなかった。

2007年度のトップウェストAでは上位3強プレーオフ制度があり、3位以内に入ればチャレンジマッチ出場をかけたプレーオフに出場できる。トップリーグから降格してきたワールドファイティングブルと、ホンダヒートに敗れたものの、辛うじて3位でプレーオフ進出を決めた。プレーオフではホンダ、ワールドを撃破して、トップウェスト3連覇を果たし、チャレンジマッチ1の出場権を得た。チャレンジマッチではマツダブルーズーマーズ横河電機に快勝して1位でトップリーグ復帰を決めた。また33年ぶりに日本選手権に出場し、1回戦で慶應義塾大学を破ったが、続くトヨタ自動車戦は大接戦の末 (43-53) 敗れた。

2008年度はピーター・スローンをヘッドコーチに招聘し、トップリーグ昇格チームながら開幕2連勝、上位チームには勝てなかったが善戦しボーナスポイントを獲得した。下位チームには確実に勝ち、2試合を残して自動降格を回避した。また最終節を待たずに10位以上が決定し入替戦も回避して残留を確定した。最終順位は14チーム中9位であったが、復帰1年目としては好成績であった。

2009年度は更なるステップアップを目指し、大西将太郎高忠伸伊藤太進田中正純など関西出身の実力者を補強。さらにレオン・マクドナルドというビッグネームの補強もあったが、負傷者とコンビネーション不足などが影響し、11位となり入替戦に回った。しかし入替戦では横河に勝ちトップリーグ残留を決めた。

2010年度はリコ・ギアが加入。また、コンビネーションも向上し、しばらく勝てなかった神戸製鋼トヨタ自動車を破るという金星を挙げた。最終順位はトップリーグ最高タイの9位であった。なお、ピーター・スローンヘッドコーチの契約満了に伴い前田隆介コーチが2011年度より監督に就任することになった。

2011年度は開幕3連勝などの快進撃で、チームとしてはトップリーグで最高位の5位に食い込んだ。翌2012年度は中位チームとの対戦で取りこぼしが多く7位で終了した。

2016年3月には前田隆介監督の退任に伴い坪井章が監督に就任した。しかし2017年度は最終順位で16位(最下位)となり、トップチャレンジリーグに自動降格となった。

2018年度は、ヘッドコーチに前15人制女子日本代表監督である有水剛志が就任。トップチャレンジリーグの1stステージは全勝で通過したが、2ndステージで失速し3位となった。入れ替え戦に出場したが、日野レッドドルフィンズに敗れ、1シーズンでの昇格はならなかった[2]

2019年度、バックスコーチにショーン・ヘッジャーを迎えアタックを一新。トップリーグカップのプール戦を4勝1敗で終えるも、神戸製鋼戦での敗戦が響き、決勝トーナメント進出を逃した。

ジャパンラグビーリーグワン時代

2021年7月16日、有水剛志HCの後任としてU-20日本代表のHCをつとめた水間良武HCを招聘、新リーグジャパンラグビーリーグワンの初年度は、DIVISION2(2部リーグ)に振り分けされることになった[3]。同日、チーム名称に花園ラグビー場を入れた「花園近鉄ライナーズ」への名称変更を発表した[4]

2022年シーズンの2部リーグ戦は、8勝2敗で6チーム中2位となり、上位3チームによる順位決定戦で2部リーグ優勝を果たした[5]。また、1部への自動昇格が決まった[5]

2022-23年シーズンは、DIVISION1(1部リーグ)で活動。開幕から14連敗の後、2023年4月14日にコベルコ神戸スティーラーズを34-33で破った[6]。最終的にリーグ戦は、1勝15敗で12チーム中12位となった[7]。DIVISION2で全勝優勝した浦安D-Rocksと入替戦を行い、2戦2勝でDIVISION1に踏みとどまった。

2023年7月3日、ヘッドコーチに元日本代表監督である向井昭吾が就任[8]

2024年5月24日、2023-24シーズン入替戦において、DIVISION2 1位の浦安D-Rocksに2戦2敗し、DIVISION2への降格が決まった。

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タイトル

全国大会

最上位リーグ

下位リーグ

成績

全国社会人大会戦績

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リーグ戦戦績

トップリーグ創設以前

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トップリーグ

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JAPAN RUGBY LEAGUE ONE

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2024-25シーズンの順位

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2025-26シーズンのスコッド

要約
視点

開幕前、2025-26シーズンでの選手登録までは、「チームに所属している選手」の一覧に過ぎないことに留意。

カテゴリA(日本代表の実績または資格あり)は、試合登録枠17名以上、同時出場可能枠11名以上。カテゴリB(日本代表の資格獲得見込み)は、試合登録枠・同時出場可能枠ともに任意。カテゴリC(他国代表歴あり等、カテゴリ A, B以外)は、試合登録枠3名以下。

花園近鉄ライナーズ2025-26シーズンのスコッドは下記のとおり[20]。2025年7月22日現在。

監督: 太田春樹

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過去の主な所属選手

【2025年5月退団↓】

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過去の著名な選手

1965年から1975年まで所属。 ポジションはウイングで日本代表cap16。 現在は日本協会理事、関西協会顧問を務める。 「セカイのサカタ」や「空飛ぶウイングサカタ」と称され、東洋人初のラグビー殿堂入りを果たした。

1969年から1976年まで選手として所属。その後は監督などを務め、現在は部長を務めている。 1979年には日本代表監督を務めた。 ポジションはスクラムハーフで日本代表23cap

2009年から2013年まで所属。 ポジションはスタンドオフセンター。 日本代表では33capで2007W杯でカナダを相手に同点ゴールを決め、日本のW杯での連敗記録を13で止めた。 W杯は2007 年フランス大会に出場した。

2017年所属。ポジションはセンターで南アフリカ代表。 現在は埼玉WKに所属している。 W杯は201520192023の三大会に連続出場している。

2005年から2018年まで所属。 ポジションはフランカーで、 現在は花園近鉄ライナーズのアシスタントコーチ兼普及担当を務めている。 日本代表キャップ数は22でW杯は2011に出場した。

2006年から2020年まで所属。 ポジションはロック。 日本代表では71cap、45得点で最年長出場記録保持者。 W杯は2007201120152019の4大会に連続出場した。

2022年所属。 ポジションはプロップでトンガ代表31cap。 トンガ海底火山噴火によるチャリティーマッチのトンガサムライXVスコッドにも選ばれた。[21]

2021年から2023年まで所属。 ポジションはセンターウイング。 日本代表のキャップを持ちラグビーW杯2023にも出場した。

2022年から2024年まで所属。 ポジションはロックスコットランド代表でCap26を持ち、ラグビーW杯2019日本大会に出場した。

2017年から2025年まで所属。 ポジションはウイングフルバック日本代表でcap7(10得点)を持つ。 ラグビーW杯2023フランス大会に出場するも、2戦目のイングランド代表戦にて負傷し、チームを途中離脱した。

2019年から2025年まで所属。 ポジションはスクラムハーフオーストラリア代表でcap110(90得点)を誇る。 W杯は201120152019の3大会に連続出場した。

2019年から2025年まで所属。 ポジションはスタンドオフオーストラリア代表でcap79(208得点)を誇る。 また、7人制ラグビー オーストラリア代表としての出場経験もある。 W杯は20112015の2大会に連続出場した。

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脚注

関連項目

外部リンク

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