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シンエイ動画
日本の東京都西東京市にあるアニメ制作会社 ウィキペディアから
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シンエイ動画株式会社(シンエイどうが、英: SHIN-EI ANIMATION Co., Ltd.)は、日本のアニメ制作会社。株式会社テレビ朝日の完全子会社、日本動画協会正会員。
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概要
代表作にテレビアニメの『ドラえもん』、『クレヨンしんちゃん』(テレビ朝日系)[注釈 1]、劇場用長編アニメ『ドラえもん』・『クレヨンしんちゃん』シリーズがある。そのほか、作画工程のみを他社から請け負う事業も行っており、2010年よりテレビ朝日の完全子会社となっている。シンエイ動画のルーツは1965年(昭和40年)12月に創立された「有限会社エイプロダクション」(通称:Aプロダクション〈Aプロ〉)が前身で、Aプロダクションは東京ムービーと業務提携し、その制作担当として活動していた。
社名の由来
社名である「シンエイ」の由来は、楠部大吉郎のインタビューによると「新生Aプロ」、「新しいAプロダクション」という意味であり、新鋭という意味だとは説明していない[2][3]。発足時にシンエイ動画役員を務めた大塚康生も、自身の著書で新生Aプロという意味だと記している[4]。公式サイトでは「新しいAプロ=『新A』」、そして「アニメ界の『新鋭』でありたい」と伝えている[5]。新しく作られたロゴタイプは、シンエイの「A」に漫画風の頭と手を付けた、マスコットキャラクターの様なデザインとなっている。楠部デザインのこのキャラクターの名前は「エーちゃん」である[6]。
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歴史
要約
視点
Aプロダクション時代
Aプロダクション(以下Aプロ)の名前は、「最初の文字であるA、エースという意味などで何となくつけた」という(創立者・楠部大吉郎の弁)[2]。
テレビアニメの黎明期、人形劇団出身者によって創立された東京ムービーがテレビアニメ『ビッグX』で経営危機に陥り、その失敗を踏まえて制作体勢を整えようとした。そこで当時の東京ムービーの社長であった藤岡豊が東映動画(現:東映アニメーション)から独立したアニメーター、楠部大吉郎に声をかけたことが創立のきっかけだった。楠部は、手始めに東映動画の新人アニメーターだった小林治をスカウトし、仕上げスタッフ数名とアニメーター研修生の中村英一を加えて、1965年12月に渋谷区代々木のマンションの一室を借りて事業を開始する。少し遅れて芝山努、椛島義夫、森下圭介が加わり、『オバケのQ太郎』の作画・仕上げ作業を受注する。
東京ムービーは営業を担当し、Aプロは制作担当として業務提携(資本関係なし)という形を取った。そして楠部の弟でもある楠部三吉郎が東京ムービーに入社し、制作管理スタッフとして兄の大吉郎を支えた。やがて東映動画も劇場長編アニメから新人を中心としたテレビアニメ制作へと方向転換を始めると、東映動画の長編スタッフ、中堅のスタッフが続々とAプロへ移籍して来る。これら移籍組の小山礼司、吉田茂承、大塚康生、宮崎駿、高畑勲、小田部羊一らアニメーターや演出家が東京ムービーの代表作である『巨人の星』『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』『ど根性ガエル』『荒野の少年イサム』『天才バカボン』など、数多くの作品を手掛けた。
作画・演出スタッフの他に美術部門・仕上げ部門も擁して、最盛時にはテレビアニメ5作品の同時制作を誇っていた。しかし1974年(昭和49年)、創立者の楠部大吉郎が病気で1年間療養したことや、更に東京ムービーの藤岡が日本市場への関心を失い、アメリカ市場開拓のために奔走しているうちに東京ムービー製作作品の本数が減少した。こうした背景と経営の危機を迎えたことで、実制作のみの体制に限界を感じた楠部は自社で企画・制作をする会社にするため1976年(昭和51年)の『元祖天才バカボン』を最後に東京ムービーとの提携を円満解消して独立した。こうしてAプロは1976年(昭和51年)9月9日に社名を「シンエイ動画株式会社」に変更し、改組した[7]。
シンエイ動画時代
こうして再出発したシンエイ動画は社屋を田無市[注釈 2]北原町へと移転し、その際には仕上部門を切り離し作画スタッフも大幅に削減して経営をスリム化している。この時に独立した作画スタッフが設立したものが、亜細亜堂等のスタジオである。なお、小山が率いた美術部門は小山自身が独立した形で、早くに廃している。そして東京ムービーに在籍していた楠部三吉郎は専務取締役としてシンエイ動画へと移籍し、兄の大吉郎と共に経営を支えた。Aプロからシンエイ動画として独立した記念として東京ムービーが持っていた『ドラえもん』の映像化権を、藤岡から譲渡されたという逸話がある[4]。
東京ムービーから独立後のデビュー作は、PR用の短編映画『草原の子テングリ』(1977年)であった。しばらくは他社のグロス請けなどをこなしたのち、1979年にはテレビアニメ『ドラえもん』を苦心の末、再びアニメ化にこぎ着ける。このシンエイ版『ドラえもん』の成功が、シンエイ動画の経営上の礎となった。

そして業務拡大のため、1982年には社屋を田無市南町に移転。一部のスタッフは旧スタジオに残り、あにまる屋(現:エクラアニマル)を設立した。そして1980年代を中心に数多くの藤子不二雄作品や『月刊コロコロコミック』連載作品などを中心に次々とアニメ化し、これらはテレビ朝日系を中心に放映された。1992年には、田無市本町[注釈 3]に社屋を新築し移転。この青い塗装のビルは同社の経営を支えた『ドラえもん』に感謝を込め『ドラえもんビル』という愛称[8]がある。同年にはテレビアニメ『クレヨンしんちゃん』がスタート。
2003年1月にはテレビ朝日がシンエイ動画の10%の株式を取得し、資本提携する。2009年4月よりテレビ朝日がシンエイ動画の株式の大半を取得し、テレビ朝日の連結子会社になった[9]。岩永惠が新社長に、楠部が代表取締役会長へ就任した。2010年10月15日、楠部が保有する株式をテレビ朝日が追加取得したことによりテレビ朝日の100%子会社となった[10][注釈 4]。2002年からテレビ朝日がケーブルテレビ・スカパー!、スカパー!プレミアムサービス、他で展開する通信衛星テレビ放送局・「テレ朝チャンネル」で、シンエイ動画製作作品(初回放送時にテレ朝系列でない作品を含む。)を集中的に取り上げる「シンエイアニメシアター」という番組が毎日放映されている。
2009年11月には旧社屋の北西方向、東京都道5号新宿青梅線旧道(青梅街道)沿い(西東京市田無町3丁目)に青い塗装の新社屋を落成、入居を開始した。旧社屋はしばらく空きテナントとなっていたが、2011年(平成23年)に社会福祉法人檸檬会がビルを借り上げ、「レイモンドたなしほいくえん」に転用された。
2012年7月、代表取締役社長に梅澤道彦常務が昇格し就任した。また別紙博行専務が代表取締役専務に昇格した。梅澤社長は前任の岩永同様、テレビ朝日からの出向であった。
2015年、別紙が代表取締役を退任し梅澤が単独で代表取締役を務めた。
2016年にはアスミック・エース、トムス・エンタテインメント、ジェイアール東日本企画、住友商事と共にアニメ製作プロジェクトチーム「あにめのめ」を立ち上げる。シンエイ動画はトムスと共同でアニメ企画・制作を担当し、2018年の枠消滅まで『笑ゥせぇるすまんNEW』『からかい上手の高木さん』など5作品を手掛けた。
2017年4月、SynergySPを子会社化。同社の代表に元取締役・チーフプロデューサーの増子相二郎が就任した(2022年退任)[11]。
2018年からは企画開発部門を強化する。これまでテレビ朝日プロデューサーとして数多くのシンエイ動画作品に携わってきた杉山登を執行役員として招聘し、外部クリエイターや制作会社と提携してコンテンツを共同製作する体制を作る。2019年には81プロデュースとのコラボレーションによるYouTubeプロジェクト『What 声 You?』を立ち上げ、同プロジェクトを通して『アイドールズ!』に出演する新人声優を発掘した。また、2021年1月に放映されたストップモーション・アニメーション『PUI PUI モルカー』はスタッフの想定を超える反響を呼び、新たなIPビジネスの活性化に貢献した[12][13]。同年より、シンエイ動画が9月9日に創立45周年を迎えることを踏まえ、4月9日から1年間を45周年イヤーと位置づけると共に、旧東映動画→東映アニメーションのインスピレーションにより[要出典]社名とは別に「シンエイアニメーション」のロゴが採用された。
2021年11月、デジタル作画によるアニメーション制作需要に応えることを目的にギャザリングホールディングスと共同でデジタル作画スタジオを東京都中野区に設立することを発表した。スタジオの運営はギャザリングホールディングスの子会社であるレスプリが担当し、新規アニメーターの採用、育成は同社とシンエイ動画が共同で行う[14]。
2022年9月、関西圏での人材獲得並びに新人アニメーターの育成などを目的として兵庫県神戸市にスタジオを開設することが同年5月に神戸市から発表された。東京以外に拠点を置くのは、この事例が初めてとなる[15]。デジタル制作に特化したスタジオとして同年9月1日に開所式が行われ[16]、所長は『クレヨンしんちゃん』のチーフプロデューサーを務めた和田泰が就任した[17]。
2024年4月、ギャザリングホールディングス株式の過半数を取得し同社をグループ会社とする。
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劇場作品
シンエイ動画に改組してからの事実上の劇場デビュー作は、1980年(昭和55年)3月公開のドラえもん大長編シリーズ第1作『ドラえもん のび太の恐竜』である[注釈 5]。東宝の配給で同時上映は、『モスラ対ゴジラ』だった。東宝の番組ラインとしては、1978年まで学校の休み期間中に上映していたゴジラ映画と短編のテレビアニメ数本を上映する東宝チャンピオンまつりの流れを汲むもので[18]、当初は長編ではない予定だったが、原作者の藤子・F・不二雄から「僕の中では90分ないと映画とは呼べない」という要望を受けてオリジナルの新作長編映画として制作された[19][20]。以後、短編-中編の藤子作品の併映作と共に、毎年3月の春休み映画として『ドラえもん』の劇場版が上映されるようになった。1980年代に多く行われていた藤子アニメ三本立て興行は、1990年代以降、影を潜めた。しかし、『ザ・ドラえもんズ』といった30分の短編と大長編『ドラえもん』のセットは2004年まで続いた。映画『ドラえもん』大長編シリーズは、2005年(平成17年)からのテレビシリーズ全面リニューアルの影響でその年は作られず、2006年(平成18年)から再び上映されるようになった。これを機に、短編作品は作られなくなった。
一方、『クレヨンしんちゃん』に至っては『クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王』が作られ、1993年夏に映画初登場を果たした。1994年から2022年まで[注釈 6]は、毎年春にシリーズで上映されている。2023年以降は、毎年夏にシリーズで上映されている。一貫して長編だが、第7作のみ12分のショートムービーオムニバスを併映している。
なお、1981年夏の『21エモン 宇宙へいらっしゃい!』と『ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ』の同時上映、2003年冬の『あたしンち』は、シリーズ上映の予定があったとされる。前者はシリーズ化されればドラえもんをサブに置き、他の作品をメインに上映する形になる予定であった[要出典]。
これまでシンエイ動画制作の劇場アニメはテレビシリーズの映画化が中心だったが、2007年の『河童のクゥと夏休み』(監督: 原恵一)は改組後初めての劇場オリジナル作品となった。
CG・デジタル制作
CGの導入はかなり早く、1983年に特番『ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅』で最初に使用し、翌1984年公開の映画『ドラえもん のび太の魔界大冒険』の予告編でもコンピューターを駆使して制作したと謳われた。この頃のCGは他社に外注の上で制作された。
1990年代に入ると、アニメーターの堤規至が『クレヨンしんちゃん』の特番用アバンタイトルにCGを取り入れ、やがて彼を中心にCGI班が立ち上がり、シンエイ動画社内でも制作されるようになった。
だが、1990年代後半から始まったアニメ業界のデジタル制作(デジタルペイント・デジタル撮影)化の波が押し寄せる中においても、仕上や撮影などの多くの作業を外注化していることから基本的にはセルアニメでの制作を堅持し続け、デジタル制作はあくまでも部分的使用に留まっていた。
2001年、外注スタジオのデジタル制作対応に伴い『ジャングルはいつもハレのちグゥ』でフルデジタル制作を本格的に開始。その流れに伴って2002年になってから他の作品もデジタルでの制作へと完全に移行した。
2005年4月以降は地上デジタル放送対応に伴い、全てのテレビ作品がハイビジョン制作されるようになったが、ローカルセールスだった『あたしンち』のみハイビジョン化が2006年4月8日まで持ち越しとなった。
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作品履歴
テレビアニメ
テレビスペシャル
劇場アニメ
→「Tv asahi movie」も参照
OVA
Webアニメ
制作協力
パイロットフィルム・未放映作品
その他
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関連人物
要約
視点
役員
2024年7月現在[26]
アニメーター・演出家
- 青木悠三
- 秋山めぐみ
- 安藤敏彦
- 稲村武志
- 今井一暁
- 今村洋輝
- 入江康智
- 岩永大蔵
- 牛草健
- 海老原尚樹
- 遠藤法子
- 大杉宜弘
- おおすみ正秋
- 大武正枝
- 大塚正実
- 大塚康生
- 大西景介
- 大森孝敏
- 岡崎あずさ
- 小笠原卓也
- 岡野慎吾
- 小川博司
- 小野慎哉
- 尾鷲英俊
- 門脇孝一
- 金子志津枝
- 金田伊功
- 椛島義夫
- 加来哲郎
- 加来由加里
- 河内日出夫
- 木上益治
- 木野雄
- 木村陽子
- 釘宮洋
- 楠葉宏三
- 小田部羊一
- 小西賢一
- 小林治
- 近藤喜文
- 佐伯俊道
- 桜沢裕美
- ささきひろゆき
- 貞光紳也
- 澤田裕美
- 鴫野彰
- 志村隆行
- 誌村宏明
- 篠塚滉平
- 芝山努
- 末吉裕一郎
- 須田正己
- 須田裕美子
- 関修一
- 善聡一郎
- 高倉佳彦
- 高橋敦史
- 高橋渉
- 高畑勲
- 高林久弥
- 高柳哲司
- 滝沢敏文
- 竹内留吉
- 田中敦子
- 田中薫
- 塚田庄英
- 富沢和雄
- 永居慎平
- 長島崇
- 長浜忠夫
- 中村英一
- 中本和樹
- 奈良岡光
- 野口敦史
- のなかかずみ
- パクキョンスン
- 橋本とよ子
- 原勝徳
- 原恵一
- 林静香
- 針金屋英郎
- 樋口善法
- 平井あかね
- 平井峰太郎
- 福富博
- 藤田優奈
- 藤野京子
- 藤原巧和
- 本郷みつる
- 本多敏行
- 前園文夫
- 松下佳弘
- 間々田益男
- 丸山宏一
- 水島努
- 宮崎駿
- 三輪修
- ムトウユージ
- 本木久年
- 森下圭介
- 森脇真琴
- 八木郁乃
- 八鍬新之介
- やすみ哲夫
- 柳野龍男
- 山下晃
- 山田みちしろ
- 山本美郷
- 湯浅政明
- 横山広行
- 吉川惣司
- 吉田誠
- 渡辺歩
- 有原誠治
プロデューサー
- 大金修一
- 馬渕吉喜
- 齋藤敦
- 廣川浩二
- 吉田有希(企画制作部)
- 荒木元道
- 山崎智史
- 永田雄一
- 中島進
- 長南佳志(第一制作部)
- 高橋麗奈
- 中村和喜
- 國安真一
- 天野賢
- 河西麻利子
- 佐藤大真
- 近藤慶一
- 加賀山悠
- 岡野孝規
- 櫻井洋介
- 山崎香利
- 谷澤吉紀
- 落合竜太郎
- 増谷大輔
- 原口航詩
その他
- 和田泰(制作本部副本部長・神戸スタジオ所長)
- 西川由香里(営業)
- 伊谷聡太(制作デスク)
- 紙谷泰吏(制作デスク)
- 丸山裕司(制作デスク)
- 大森翔(制作デスク)
- 北野巧(制作デスク)
- 関口勇聖(制作デスク)
- 吉田拓斗(制作デスク)
- 有田崇成(設定制作)
- 井本美季(設定制作)
アニメーター以外の出身者
- 小山礼司(美術)
- 保田道世(色彩設計、故人)
- 近藤浩子(色彩設計、旧姓:山浦、近藤喜文夫人)
- 吉田茂承(元演出家、水彩画家に転向)
- 南正時(Aプロダクション時代に在籍、鉄道写真家に転向)
- 真田芳房(プロデューサー、あにまる屋(現:エクラアニマル)創業者、故人)
- 真保裕一(元演出家、作家に転向)
- もとひら了(元脚本家、僧侶に転向)
- 吉岡たかお(脚本家)
- 小松崎康弘(脚本家)
- 水出弘一(脚本家)
- 滝原弥生(脚本家、制作事務・文芸)
- 鈴木洋介(脚本家、FILM Writer's Room業務提携)
- 岩崎ヨーコ(アニメーション作家、イラストレーター)
- 楠部工(元文芸、ライターに転向)
- 茂木仁史(プロデューサー、アセンション創業者)
- 田中敦(プロデューサー、日本アニメーションプロデューサー)
- 外崎真(制作デスク、A-1 Picturesプロデューサー)
- 星野達也(制作進行、タツノコプロプロデューサー)
- 渋谷いずみ(制作進行、サイエンスSARU制作デスク)
- 吉家康介(制作進行、SynergySPプロデューサー)
- 田原麻美(制作進行、RICE FIELD代表取締役)
- 横田一平(制作進行、演出家として活動後サブリメイションプロデューサー)
- 桶谷顕(脚本家、故人)
- 松沢まり(元動画マン、漫画家に転向)
- 野中幸子(色彩設計)
- 小倉久美(プロデューサー)
- 大澤正享(プロデューサー)
- 魁生聡(プロデューサー)
- 山川順一(プロデューサー)
- 岡田麻衣子(プロデューサー、現:ウィットスタジオプロデューサー)
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脚注
参考文献
同社スタッフ・OBが独立・起業した会社
関連項目
外部リンク
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