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日本の第74代内閣総理大臣(1924-2000) ウィキペディアから
竹下 登(たけした のぼる、1924年〈大正13年〉2月26日 - 2000年〈平成12年〉6月19日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
竹下 登 たけした のぼる | |
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内閣広報室より公表された肖像 | |
生年月日 | 1924年2月26日 |
出生地 |
日本 島根県飯石郡掛合村 (現・島根県雲南市) |
没年月日 | 2000年6月19日(76歳没) |
死没地 | 日本 東京都港区(北里研究所病院)[1] |
出身校 | 早稲田大学商学部卒業 |
前職 | 掛合中学校教員 |
所属政党 | 自由民主党 (田中派) →(竹下派) |
称号 |
正二位 大勲位菊花大綬章 商学士(早稲田大学・1947年) 名誉博士(中国人民大学・1994年) |
配偶者 | 竹下直子(後妻) |
親族 |
竹下儀造(祖父) 竹下勇造(父) 武永貞一(伯父) 竹下亘(異母弟) DAIGO、影木栄貴(孫) 北川景子(孫の妻) |
サイン | |
第74代 内閣総理大臣 | |
内閣 |
竹下内閣 竹下改造内閣 |
在任期間 | 1987年11月6日 - 1989年6月3日 |
天皇 |
昭和天皇 上皇(明仁) |
第84・86-87・90代 大蔵大臣 | |
内閣 |
第2次大平内閣 第1次中曽根内閣 第2次中曽根内閣 第2次中曾根第1次改造内閣 第2次中曾根第2次改造内閣 竹下内閣 |
在任期間 |
1979年11月9日 - 1980年7月17日 1982年11月27日 - 1986年7月22日 1988年12月9日 - 1988年12月24日(総理兼任) |
第38代 建設大臣 | |
内閣 | 三木内閣 |
在任期間 | 1976年1月19日 - 1976年9月15日 |
第35・38代 内閣官房長官 | |
内閣 |
第3次佐藤改造内閣 第2次田中角栄第2次改造内閣 |
在任期間 |
1971年7月5日 - 1972年7月7日 1974年11月11日 - 1974年12月9日 |
内閣官房副長官(政務担当) | |
内閣 |
第1次佐藤内閣 第1次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1964年11月9日 - 1966年8月7日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (島根県全県区→) 島根2区 当選回数 14回 (1958年5月22日 - 2000年6月2日) | |
島根県議会議員 当選回数 2回 (1951年 - 1958年) | |
第12代 自由民主党総裁 (1987年10月31日 - 1989年6月2日) | |
第27代 自由民主党幹事長 (総裁: 中曽根康弘) (1986年7月 - 1987年10月) |
内閣総理大臣(第74代)、大蔵大臣(第84・86・87・90代)、建設大臣(第38代)、内閣官房長官(第35・38代)、内閣官房副長官(第1次佐藤内閣・第1次佐藤第1次改造内閣)、通商産業政務次官(第3次池田内閣)、衆議院予算委員長、衆議院議員(14期)、島根県議会議員(2期)、自由民主党総裁(第12代)、同幹事長、同幹事長代理、同青年局長を歴任した[2]。
異母弟は、自身の秘書を経て復興大臣、自由民主党総務会長、平成研究会会長、衆議院議員などを務めた竹下亘[3][4][5]。
自由民主党の最大派閥であった経世会の創設者。大蔵大臣を4期務め、金融引締め、円高推進、対米輸出削減、対米輸入増加、対米投資を進める歴史的な合意であるプラザ合意を結び、総理大臣就任後は消費税を導入。日本の内需縮小へ舵を切った。他にふるさと創生1億円なども行った。リクルート事件により総辞職。その後も政界に大きな影響力を誇り、「経世会支配」の時代を築いた。
島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれた。竹下家は300年続く旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末の1866年から[6]代々造り酒屋を営んできた[7]。登は竹下家12代当主である[8]。父・勇造、祖父・儀造も地域の名望家として活動しており、登も中学生のころから政治家になることを決意していた[9]。
1941年(昭和16年)に旧制島根県立松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業後、旧制松江高等学校を二度受験するも不合格となり、第一早稲田高等学院[注釈 1]に入学。その直前の1944年3月、素封家の娘・竹内政江と学生結婚をする。2人は北区滝野川で新婚生活を過ごすが、8月に登は陸軍に入営し、政江は掛合の実家に帰郷した[10]。
竹下は特別操縦見習士官の第四期生に志願し、飛行第244戦隊に入隊した。同期からは南方の激戦地に配備される者もいたが、竹下は軽井沢、野辺山、伊奈を経て1945年4月に立川の少年飛行兵学校へ配属。少年飛行兵の地上訓練教官となるための基礎教練を受けて、7月1日付で大津へ派遣され、同地で終戦を迎えた[11]。
一方、1945年3月24日には実母・唯子が41歳で京都の病院で死去[12]。妻を失った勇造は、東京から戻ってきていた政江に何かと干渉するようになり、政江はノイローゼになる。店の番頭の勧めで立川の登の下へ向かったが、登は「お前の方に問題がある」と一方的に叱責、政江の苦悩に取り合うことはなかった。5月24日、政江は竹下家の自室で首吊り自殺を遂げる。死亡診断書では「病死」として処理された[13]。
終戦後、登は大津で事務処理を終えて、8月末に帰郷。帰郷後、勇造との間で言い争いが絶えることはなかった。しかしその感情のままに家を飛び出すことはなく、表立っては普通の親子関係を保ち続けた[14]。1946年(昭和21年)1月、遠縁の遠藤家から直子を後妻に迎える。ほどなくして直子は第一子を生むが、結婚からわずか4か月での出産で、登の実子としては計算が合わないことから「実は勇造の子ではないのか」と噂された。ほどなくして竹下は単身東京に戻り、早大に復学する[15]。
早大在学中、竹下は雑司ヶ谷のアパート「長内荘」に住んでおり、仲間を集めては政治談議に興じていた。同じアパートを日本進歩党の新人代議士小川半次が東京の宿舎にしており、竹下は小川に国政の話を聞き、その他郷里の代議士を訪ねたり、国会傍聴にも足を運ぶなどしていた。1947年9月に繰り上げで早大を卒業(商学士)。卒業後は東京で新聞記者となるつもりだったが、小川に「政治家を目指すなら、郷里の青年をまとめることだ」とアドバイスされ、掛合へ戻った[16]。
帰郷後は農地委員としての活動の伝手で青年団を組織、活動を始めるが、当時青年団の活動は夕方から始まるものであり、昼間ブラブラしているのは世間体が悪い、ということで1947年(昭和22年)12月より地元掛合中学校の代用教員(英語科)となる。しかし教育活動は熱心でなく、英語の授業としてはローマ字を教えたくらいで、軍隊時代の話などを面白おかしく話すことがメインであった。生徒も年の近い竹下を「心やすい、気さくなお兄さん」として接していた。メインの活動は青年団活動で、活動の企画を全て立案した。青年団として、小学校の講堂を借りての模擬国会、秋の収穫祭の際ののど自慢大会などを熱心に行った。1949年には飯石郡青年団長に選ばれる[17]。
のちに竹下の側近として活躍した野中広務とは既にこの時代に知り合っている(野中と時間を打ち合わせして同じ山陰本線の夜行列車で上京したこともある。また野中の妻は竹下の掛合中学校の代用教員時代の教え子の一人である)。ほかにも鳥取県の野坂浩賢や千葉県の浜田幸一とも青年団活動を通じて親しくなり、国会活動の際には党派をこえた友情関係があったとされる。
1951年、第2回統一地方選挙において、竹下は県議選出馬を表明する。当時出雲の政治・経済を仕切っていたのは山林大地主の田部長右衛門で、竹下家は代々田部家の中番頭をつとめていた。勇造の根回しにより田部は登の政界進出に協力する考えであったが、この時飯石郡区には田部直系の勝部幸一(勝部領樹の父)が現職で立っており、田部は「あと1期待て」と説得。しかし竹下は頑として聞き入れずに頼み倒し、半ば強引に立候補に踏み切る。落選すればその時点で政治生命が断たれる状態であったため、選挙資金を酒造の金庫から大量に持ち出してつぎ込み、身代をつぶしてでも大規模な遊説を展開する。必死の選挙戦の結果は、トップ当選であった。勝部はもう一人の新人候補に競り負けて落選、政界を引退する[18]。
竹下は県議を2期務めたが、通常の政治家のように、県議としての実績を背景に国政へと進む、という路線はとらず、政治状況を判断しての最短ルートを選択した。まず、出馬にあたって逆らった田部との関係を修復すべく、自民党の県支部の活動においては、県連会長の田部に親身になって世話をし、再び取り入った。また、県職員の名簿を手に入れて係長以上の名前を憶え、庁舎内を歩き回っては係長と話をした。ほとんどの議員は議員控室に課長を呼び付ける中で、自ら出向いてくる竹下は職員の間でも評判が良かった。この評判は、選挙民からの陳情を処理するのに役に立った。また、自身に回ってきた役職も、同僚議員に回すことで貸しをつくった。結局、本会議の質問を行ったのは1期目の3回のみで、2期目になると定例会議の大半を欠席していた[19]。
当時の島根の国政では、1955年の第23回衆議院議員総選挙で落選した高橋円三郎が捲土重来を期していたが、竹下は高橋の秘書を務めていた義兄から、高橋の体調が思わしくないとの情報を得る。竹下はこの情報を得ると高橋の地盤を継承するべく動き、1956年に高橋が没した時には、他の有力候補を押しのけて、竹下が後継の地位を手に入れる。竹下は県議を辞任し、1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に島根県全県区から立候補。田部がバックアップする現職の大橋武夫と票を奪いあうが、大橋を大きく上回る票を獲得し、トップで初当選を果たす(大橋は2位当選)。しかし選挙後に公職選挙法違反で24名の逮捕者が出て、支援や裁判対策、家族の世話などに追われた[20]。その後も衆議院議員総選挙で、連続14回当選した(最後の選挙区は小選挙区制になっての初の選挙で島根2区から出馬)。
また、初当選時に選挙違反で非常に苦労した教訓から、金銭関係の危機管理を徹底して、事務所の運営は秘書の青木伊平に一任した。青木は竹下が言質をとられないように立ち回りつつ政治資金を調達、分配し、この分配をもって後に竹下が政界全体を支配するに至る[21]。
自民党内では、田部が戦前に佐藤栄作と親しかった縁で、佐藤派に所属[22]。師とあおいだ佐藤と、佐藤派五奉行の1人で早大雄弁会の先輩でもある橋本登美三郎の寵愛をうける。1964年(昭和39年)11月に佐藤内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代をになうニューリーダーとして次第に頭角をあらわす。
また、長女・一子が金丸信の長男・康信に嫁ぎ、金丸信との盟友関係はより一層強固なものとなった。この結婚は佐藤栄作の妻・寛子のすすめによるという。
1971年(昭和46年)7月、47歳で第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣し、佐藤退陣まで務める。党内では佐藤派からの田中派の独立に参加し、後輩議員の世話に尽力して派内の地歩を築いてゆく。田中内閣の末期でも一月ほど内閣官房長官を務める。その後も三木内閣で建設大臣、第2次大平内閣で大蔵大臣を歴任した。中曽根内閣では4期連続して大蔵大臣に就任。在任中は1985年(昭和60年)にバブル景気のきっかけとなる先進5カ国の「プラザ合意」に参加するなどした。
1985年(昭和60年)2月、派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗をひるがえすかたちで、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。当初はなかなか煮え切らない竹下の態度を周囲は心配したが、田中との会談中「俺がもう一回やってからお前がやれ」との発言に決意を固めたといわれている。反田中派の動きに激昂した田中の猛烈な切り崩しに遭うも、田中はそのさなかに脳梗塞で倒れる。
やがて田中派内部は派閥会長の二階堂進派と創政会派、そして派内融和の中間派の三つにわかれる。その後、二階堂と竹下はしのぎを削るが二階堂は高齢で資金力が乏しく、また田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年(昭和62年)7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派141人のうちの118人が参加し党内最大派閥の領袖となった。田中の意に反した竹下派への参加を潔しとしない田中派メンバーは徹底的に追い詰められ、田中派会長の二階堂を中心とする少人数のグループ(二階堂グループ)へと転落した。
このときのメンバーだった橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから当初参加せず後から参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。後の幹部に野中広務、綿貫民輔、村岡兼造らがいた。また、のちに民主党代表となる鳩山由紀夫、岡田克也も若手として所属していた。
このころ新人代議士となった武村正義・石破茂は田中派新人候補として衆院選出馬を希望したが滋賀県全県区山下元利・鳥取県全県区平林鴻三がそれぞれの選挙区で田中派現職だったため、武村には安倍派会長安倍晋太郎を、石破には中曽根派幹部渡辺美智雄を紹介し国政進出のチャンスをあたえた。
1985年(昭和60年)、大蔵大臣を務めていた竹下はアメリカからの、日本の対米貿易黒字を縮小させる要請を受け入れ、円高の推進と輸出の削減、輸入の増加と対米投資を進める歴史的な合意を結ぶ(プラザ合意)。この合意にはアメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、日本からそれぞれ財務大臣が出席した。この合意を契機に、日本はバブル景気、バブル崩壊、そして失われた30年と続く、長期的な経済低迷の泥沼の中へ進むこととなった。
経世会を結成した1987年(昭和62年)の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人をおさえ第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任。首相としては初の県議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣・平成最初の総理大臣でもあった。
激しい党内抗争を間近で見てきた経験から、政権発足にあたって「総主流派体制」を標榜、総裁選を争った安倍を幹事長、宮澤を副総理・蔵相に起用するなど各派閥から比較的均等に人材を起用。加えて自派の強固な支えもあって盤石な政権基盤を持つと考えられた竹下内閣は、長期政権になるとの見方が一般的だった[23]。政権のスローガンは気配り調整であった。
おもな施策では、全国の市町村に対し1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて地方交付税として一律1億円を支給するふるさと創生事業を実施。また、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案を強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入。日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉・オレンジについて、日米間の協議で輸入自由化することで合意の3点があげられる。
消費税導入前夜、竹下は、親交のあった西部邁に会い、「竹下さんは地獄を見た方だから、消費税導入はできる。むしろ彼でなければできないでしょう」「腹をくくれ」と迫られ、「くくった」と呼応していた[24]。
消費税導入と前後して、1988年(昭和63年)に発覚したリクルート事件で竹下自身の疑惑も浮上し、内閣支持率は軒並み10%を割り込んだ。財界も石原俊(経済同友会代表幹事、日産自動車会長)らが公然と竹下の退陣を迫るなか、1989年4月22日、竹下が公表していなかったリクルート社からの借入金の存在がスクープされると進退が窮まり、4月25日に内閣総辞職を表明。翌26日、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が自殺している。内閣総辞職直前には、竹下登邸周辺でデモ活動も起きた。
首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する。」と言いつつも、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与し、ポスト海部では自身の再登板も取り沙汰されるなど[25]、政権に強い影響力を持っていた。しかし、1992年(平成4年)に東京佐川急便事件が発覚。1987年(昭和62年)の総裁指名に関連したほめ殺しで知られる皇民党事件が報道されるなど、ますます政界不信が高まり自民党支持が減る原因となった。
1992年(平成4年)10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂した。竹下は国会で皇民党事件に関して証人喚問を受けた。折から政治不信が高まり、政治改革関連法案の成立が急務となったが、1993年(平成5年)の通常国会での成立が困難となり、小沢・羽田派は会期末の6月に宮沢改造内閣に対する不信任案に賛成し自民党から離脱、新生党を結成した(党首は羽田孜)。そして同年7月18日の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。竹下はこの選挙で自民党公認が得られず無所属で立候補したが、堺屋太一による激励の手紙をばらまくなど激しい選挙戦を展開し、1位で13回目の当選を果たした[26]。
自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。村山内閣誕生に竹下も深く関与したことから再び隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣、小渕内閣を実現させた。
1999年(平成11年)4月5日、変形性脊椎症のため北里研究所病院に入院[27]。以後、表舞台に出ることは少なくなった。代わって、竹下と同じ島根県出身で「竹下の黒子」といわれていた参議院議員・青木幹雄が政界の実力者として取り上げられることが多くなった。容態は次第に悪化し、4月に小渕が倒れたとの一報を聞いたことも手伝い、引退を決意する[28]。2000年(平成12年)5月1日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の小渕派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した[29]。引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったという[30]。
第42回総選挙期間中の2000年(平成12年)6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌、発表では変形性脊椎症による呼吸不全のため死去。76歳没[1]。6月21日に築地本願寺にて密葬が行われた。法名は顕政院釋登涯。選挙区地盤を譲られた異母弟の竹下亘は錦織淳(民主党)らを退け当選している。なお、葬儀は島根県掛合町(当時)・自民党島根県連・竹下家合同葬で執り行われた[31]。
竹下を偲び、生前交流があった関係者の好意、浄財によって、7回忌に当たる2006年(平成18年)5月、竹下登記念館が建てられた[32]。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
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田中角栄 「(竹下を幹事長に推した若手議員に対し)ワシは、オメェらみたいに竹下を安っぽく使う気はない。大蔵大臣を何回もやってもらっているのは、将来、自民党を背負って立つ人物だからだ。国を束ねるのに、財布の中身を知ってねェでできやせん。幹事長は、それからだ。オメェらは、何も分かっていない。顔を洗って出直してこい。帰れッ」
鈴木宗男 「竹下登先生はよくとっちゃん坊やとか、人柄がいいとか言われますが、ただニコニコしてたわけではありません。なかなかしたたかな人で、だからこそ総理大臣にまでなれたのでしょう。『汗は自分でかきましょう。手柄は人に渡しましょう』とよく話し、それを実践した政治家でした。竹下先生は政治の妬み、僻み、やっかみが渦巻く世界で生き抜くためには、手柄を人に渡すことで、少しでもこのリスクを下げようとしたのでしょう。そのためには日頃から一生懸命汗を流し、人のために頑張っている姿を見せることで、いずれは必ず自分に返ってくるはずだと考えていたのでしょう。自分の手柄を人のために回すだけの腹が据わっていれば、政治家の中で存在感が増し、子分も増え、政治基盤の強化にもつながっていきます。私は竹下先生のこの生き様から、権力を取るためには並々ならぬ奥深さや忍耐を持って臨まなければならないという厳しさを学びました。竹下先生は周到に気を配り、貸しをつくり、敵をつくらない戦略と、根回しによって着実に政治家として上に登っていった、いわば人間関係の達人と言っていいでしょう」
中山正暉 「(郵政)大臣として首相官邸の総理執務室によく顔を出していたが、いろいろ話をし終わって退室しようとすると、竹下さんからこんな声がかかるんだ。『中山さん、だいぶ忙しいようだけど、体には気をつけてくださいよ』と。ちょっとした一言だけど、周りの閣僚経験者に聞いても、こんなことを言う総理の名は、一人も出てこなかった。巧まず、相手をホロッとさせる名人だった。仕事で成果を出しても、自己宣伝は一切なし。『汗は自分で、手柄は人に』の言葉を聞いたことがあるが、凄い人だった」
江戸時代、竹下家は山林大地主田部家傘下で庄屋(現在の村長)を務めた関係から、慶応2年(1866年)酒造りの権利である「酒座」を同家から譲り受けた[54]。日本三大山林王としての田部家の財力は、島根を支配するとまで称されていた[54]。
戦前の竹下家は「田部家の“中番頭”」ではあったものの、掛合地区では圧倒的な権勢を誇っていた[55]。戦後の農地解放で、竹下家が手放した農地と山林は、『掛合町誌』によれば合計約569反(170700坪)に上っており、これは、掛合地区で3番目に多く農地と山林を手放した地主であった[55]。竹下家の菩提寺は島根県雲南市掛合町の浄土真宗本願寺派日倉山専正寺[56]。酒造業として雲南市掛合町掛合で竹下本店を営んだ。1976年、登の弟の竹下三郎が社長になり事業を継承したが、2022年に後継者不足などを理由に他社に事業を譲渡した。
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