北区 (名古屋市)
名古屋市の区 ウィキペディアから
名古屋市の区 ウィキペディアから
北区(きたく)は、名古屋市を構成する16区のうちの一つである。1944年(昭和19年)に当時の東区と西区のそれぞれ一部を併せる形で成立した[1]。区名は、当地が区制施行時における名古屋市の北部に位置する地域であったことに由来する[1]。
名古屋市の北部に位置し、JR中央線、地下鉄名城線、名鉄瀬戸線や名鉄小牧線などの鉄道、名古屋高速道路1号楠線、国道19号、41号などの幹線道路が南北に走っている[1]。
以前は区内に工場が多く見られたが、現在は撤退し[1]、その跡地に大規模な公営住宅やマンションが多く見られる[2]。
「北区」の区名を持つ現存の行政区のうちでは最も古い[注 1]。
区内各町については記事末尾の「名古屋市北区の町・字」および名古屋市の地名#北区を参照
北区の人口の推移
| ||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より[3] |
西志賀町の西志賀遺跡からは弥生時代前期、平手町の志賀公園遺跡は弥生時代から中世期の遺物が出土しており[1]、少なくとも弥生時代には当地に生活する人々がいたようである。また、式内社として区内には綿神社・多奈波太神社・羊神社・別小江神社・大井神社・味鋺神社と6社があり、神社を中心に居住者があったようである[1]。
江戸時代当地は尾張藩に属し、成願寺村・中切村・福徳村・光音寺村・喜惣治新田・大蒲新田・如意村・味鋺村・味鋺原新田・志水蓮池新田・杉村・大曽根村・矢田村・山田村・辻村・上飯田村・安井村・東志賀村・西志賀村・田幡村の20村が所在し、主に農業により生計を立てていた[4]。
明治時代に入り、市制町村制が施行されると、金城村・杉村・六郷村・萩野村・川中村・如意村・味鋺村の7村に集約された[4]。 その後も合併が進み、1906年(明治39年)には如意・味鋺両村が楠村、1933年(昭和8年)には萩野・川中両村が萩野村となった[4]。
令和時代
代 | 氏名 | 就任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 山谷 健一[6] | 1944年2月11日 - 1945年10月1日[6] | |
2 | 柴田 喜太郎[6] | 1945年10月2日 - 1946年10月30日[6] | |
3 | 西山 健[6] | 1946年10月31日 - 1950年8月18日[6] | |
4 | 角南 登三太[6] | 1950年8月19日 - 1955年9月30日[6] | |
5 | 塩田 実男[6] | 1955年10月1日 - 1958年9月24日[6] | |
6 | 服部 一夫[6] | 1958年9月25日 - 1961年6月4日[6] | |
7 | 井上 瀧雄[6] | 1961年6月5日 - 1965年6月15日[6] | |
8 | 近藤 清長[6] | 1965年6月16日 - 1967年6月30日[6] | |
9 | 中西 長一[6] | 1967年7月1日 - 1969年8月15日[6] | |
10 | 秋月 智顕[6] | 1969年8月16日 - 1972年7月31日[6] | |
11 | 篠田 利弘[6] | 1972年8月1日 - 1974年8月22日[6] | |
12 | 片田 繁夫[6] | 1974年8月23日 - 1976年5月14日[6] | |
13 | 荒川 茂[6] | 1976年5月15日 - 1977年8月9日[6] | |
14 | 岩田 謙一郎[6] | 1977年8月10日 - 1979年4月11日[6] | |
15 | 片田 耕司[6] | 1979年4月12日 - 1980年10月7日[6] | |
16 | 三宅 磯二[6] | 1980年10月8日 - 1982年5月6日[6] | |
17 | 杉山 明[6] | 1982年5月7日 - 1985年3月31日[6] | |
18 | 吉田 謙藏[6] | 1985年4月1日 - 1988年3月31日[6] | |
19 | 白鳥 仁[6] | 1988年4月1日 - 1991年3月31日[6] | |
20 | 中村 勇[6] | 1991年4月1日 - 1992年3月31日[6] | |
21 | 井口 俊明[6] | 1992年4月1日 - 1994年3月31日[6] | |
22 | 服部 一良 | 1994年4月1日 - 1997年3月31日 | |
23 | 長井 隆弘 | 1997年4月1日 - 2000年3月31日 | |
24 | 日下部 英昭 | 2000年4月1日 - 2003年3月31日 | |
25 | 春名 秀機 | 2003年4月1日 - 2005年3月31日 | |
26 | 百瀬 昭 | 2005年4月1日 - 2008年3月31日 | |
27 | 近藤 淑徳 | 2008年4月1日 - 2010年3月31日 | |
28 | 平岡 研二 | 2010年4月1日 - 2012年3月31日 | |
29 | 住田 博 | 2012年4月1日 - 2014年3月31日 | |
30 | 松本 一彦 | 2014年4月1日 - 2017年3月31日 | |
31 | 津坂 昌樹 | 2017年4月1日 - 2020年3月31日 | |
32 | 小林 靖弘 | 2020年4月1日 - 2022年3月31日 | |
33 | 五味澤 陽平 | 2022年4月1日 - 2024年3月31日 | |
34 | 飯田 真由美 | 2024年4月1日 - |
この節の加筆が望まれています。 |
区内に所在する救急指定病院に限って記載する。
主な公園
その他に、名古屋産業大学のサテライトキャンパスがある。
1871年(明治4年)9月の名古屋県による「義校設立勧誘の達」に応じて、1872年(明治5年)・1873年(明治6年)の両年にかけて義校が開校した[7]。このとき開校したのは、城北小学校の源流となった安井義校(明治6年10月開校、安井村字地蔵堂、現安井四丁目の清学禅寺付近)・清水小学校の源流となった杉村仮義校(明治5年9月開校、杉村久国寺境内、翌年1月に第七義校と改称)・六郷小学校の源流となった大壮義校(明治6年2月「大壮学校」と称する寺子屋より改組、大曽根村円満寺境内)・楠小学校の源流となった味鋺義校(明治6年3月開校、味鋺村天神の西方寺境内)・同じく楠小学校の源流となった如意義校(明治6年5月、如意村北浦の鶏足坊)の5校であった[7]。
学制発布により、臨時的に設置されていた義校が新たな制度下の小学校として改組することとなった[8]。大曽根村の大壮義校が1873年(明治6年)9月、第2中学区第47番小学大壮学校、さらに1876年(明治9年)1月に第1中学区第47番小学大曽根学校と改称[8]。久国寺の第七義校は1874年(明治7年)、校地を寺の西に移し、第1中学区第71番小学含章学校と称し、1876年(明治9年)第1中学区第17番小学清水学校と改称した[8]。通学区域は名古屋区清水町と杉村だったという[8]。如意義校は1873年(明治6年)10月、瑞応寺観音堂に移り、第2中学区第55番小学琢玉学校と称したが、1876年(明治9年)1月第3中学区第74番小学如意学校と改称し、如意村字山屋敷に移った[8]。通学区域は如意村及び大蒲新田・喜惣治新田だった[8]。味鋺義校は1874年(明治7年)3月、味鋺原村の興進学校と合併し、味鋺原村日輪寺において第2中学区第53番小学興進学校として開校した[8]。さらに1876年(明治9年)11月、味鋺村字伊勢山に校舎を新築し、第2中学区第53番小学興進学校味鋺分校と称し、翌年1月第3中学区第76番小学味鋺学校とした[8]。通学区域は味鋺村・味鋺原新田だった[9]。
さらに教育令下において、1883年(明治16年)12月、安井学校が安井・辻・光音寺・福徳・下中切・成願寺の6村から成る組合立学校となった[10]。また、1880年(明治13年)2月に如意学校が第29番小学如意学校、味鋺学校が第28番小学味鋺学校とそれぞれ改番した[10]。
小学校令により、各学校の名称が「西春日井郡尋常小学」を冠するようになった[11]。第47番小学大曽根学校は1886年(明治19年)4月、西春日井郡尋常小学大曽根学校となった[11]。1887年(明治20年)4月、如意学校が味鋺学校を併合し、西春日井郡尋常小学如意学校となった[11]。しかし、通学が不便になったため通学児童の減少し、翌年7月に如意学校味鋺分校として復活した[11]。1887年(明治20年)第17番小学清水学校が西春日井郡尋常小学清水学校となった[11]。
1892年(明治25年)、組合立安井学校が萩野村立安井尋常小学校、尋常小学如意学校が如意村立如意尋常小学校、如意学校味鋺分校が味鋺村立味鋺尋常小学校にそれぞれ改称し、川中村立川中尋常小学校が新設された[12]。翌年には尋常小学清水学校が清水尋常小学校に改称し、尋常小学大曽根学校が現校地である六郷村大字大曽根字野中に新築移転した上で六郷村立六郷尋常小学校と改称した[13]。また、1892年(明治25年)10月、金城村字田幡の林泉寺境内に清水町・杉村・六郷村・萩野村・庄内村・川中村・味鋺村・金城村の組合立による東部高等小学校が成立し、戦前教育制度における小学校の原型がほぼ整うこととなった[13]。
その後、1901年(明治34年)金城村田幡に金城尋常小学校が、1906年(明治39年)7月楠村成立に伴い、如意尋常小学校・味鋺尋常小学校を併せ楠村立楠尋常小学校が、1908年(明治41年)4月萩野村・川中村の組合立による城北尋常小学校が新設された[14]。
区成立直後の1945年(昭和20年)当時、国民学校として飯田・下飯田・杉村・大杉・城北・清水・金城の7校が所在していた[15]。加えて、1946年(昭和21年)に区境界変更に伴い、六郷学区が東区より編入された[15]。新学制開始時には、この8校が北区の名古屋市立小学校として発足したが、下飯田小学校は1948年(昭和23年)9月、飯田小学校に統合され、同年12月に名北小学校として再度分離した[15]。
昭和30年代に入ると第1次ベビーブーム世代が大量に入学し、1958年(昭和33年)9月、城北小学校より光城小学校が、1961年(昭和36年)4月、金城小学校より東志賀小学校、同年9月、楠小学校より味鋺小学校がそれぞれ独立した[16]。
昭和40年代には1972年(昭和47年)4月、味鋺小学校から西味鋺小学校が、翌年4月には楠小学校から楠西小学校が、昭和50年代には1978年(昭和53年)4月、楠小学校から如意小学校が、1979年(昭和54年)4月、飯田小学校より宮前小学校が、1980年(昭和55年)4月、光城小学校より川中小学校が、1981年(昭和56年)4月、六郷小学校より六郷北小学校が、1983年(昭和58年)4月、名北・城北・東志賀小学校より辻小学校がそれぞれ毎年のごとく独立した[17]。
以上の経緯により、現在は区内に以下の19校の小学校が所在する。
※1.地下鉄名城線の大曽根駅の東半分および瀬戸線大曽根駅、JR大曽根駅の所在地は東区だが、区界付近に所在している。
※ 城北線が国道302号・名古屋第二環状自動車道に沿って東西方向に横断しているが、駅はない。(最寄りは比良駅)
凡例 : IC - インターチェンジ、JCT - ジャンクション、TB - 本線料金所。なお、番号は各施設の管理者により振られているもの。
全国選抜名古屋大花火(矢田川花火大会)
五十音順
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.