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ファン・パブロ・モントーヤ

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ファン・パブロ・モントーヤ
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ファン・パブロ・モントーヤ・ロルダンJuan Pablo Montoya Roldán, 1975年9月20日 - )は、コロンビア出身のレーシングドライバー

概要 ファン・パブロ・モントーヤ, 基本情報 ...

CARTの1999年度シリーズチャンピオン。2001年から2006年シーズン途中までF1に参戦、コロンビア人としてはロベルト・ゲレーロに次ぐ2人目のF1ドライバーとなった。2006年シーズン中盤よりNASCARに参戦している。

日本ではJ・P・モントーヤと、またアメリカ合衆国ではCART参戦時の登録名から、ファン・モントーヤ (Juan Montoya) と略されることが多い。フジテレビF1中継でのニックネームは「コロンビアの暴れん坊」。

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プロフィール

要約
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カートからF3

コロンビアの首都ボゴタ出身。幼少よりカートレースで成功を収め、F1を目指し1995年(当時19歳)渡欧しヨーロッパでのレース活動を始める。フォーミュラ・ボクソールイギリスF3を経て、RSMマルコに加入し1997年の国際F3000選手権にステップアップ。シーズン3勝を挙げランキング2位となる[1]。F3000初年度にタイトル争いを演じた才能に注目したウィリアムズF1チームとテストドライバー契約を結ぶ。

F3000とCART

1998年の国際F3000選手権ニック・ハイドフェルドとのチャンピオン争いを制しシリーズチャンピオンを獲得し、1999年のウィリアムズF1レギュラー昇格が噂されたが、CART王者となったアレックス・ザナルディがウィリアムズでF1復帰することになり、モントーヤのF1デビューはこの時は実現しなかった。しかし、ザナルディとシートを交換する形でCARTのトップチーム、チップ・ガナッシと契約しCARTシートを獲得。ヨーロッパから北米へ渡った。

1999年、モントーヤはルーキーながら難なくCARTスタイルに順応し、速さでセンセーションを巻き起こす。ダリオ・フランキッティと熾烈なタイトル争いを繰り広げ、最終戦終了時に同得点で並び、勝利数の差(モントーヤ7勝、フランキッティ3勝)でデビューシーズンのチャンピオンを獲得(デビュー年での獲得は1993年のナイジェル・マンセル以来)。CART史上最年少でのチャンピオンとなった。

翌年はチームの体制変更によりタイトル防衛は成らなかったが、トヨタエンジンのCART初勝利を含む3勝を挙げ、伝統のインディ500でも優勝。この活躍により、2001年のウィリアムズF1チームのレギュラーシート獲得が決定した。

F1

F1においてもモントーヤは最初から大胆さを発揮し、2001年シーズンの第3戦ブラジルGPでは王者ミハエル・シューマッハを追い抜き、あわやデビュー3戦目で初優勝かと思われたが、周回遅れのヨス・フェルスタッペンに追突され、リタイアに終わる。フェラーリの総合力には及ばぬものの、モントーヤはウィリアムズ・FW23の強力なBMWエンジンを利して、ドイツGPで初ポールポジションを記録。敵地イタリアGPではポール・トゥ・ウィンでF1初勝利を達成した。

2002年は優勝こそ無かったが、フェラーリがシーズンを席巻する中で、M.シューマッハと並ぶ7回のポールポジションを獲得し速さを見せた。

2003年には同僚ラルフ・シューマッハと共に快走し、2勝を挙げてシリーズランキング2位で終盤戦を迎えたが、アメリカGPでの雨とペナルティの影響でチャンピオンを逃した。

2004年には、開幕直前にもかかわらず翌年のマクラーレン移籍を発表。この年は、ウィリアムズ・FW26の新型フロントウィングが失敗し、シーズン中盤に旧型に戻すなど苦戦を強いられ、優勝は最終戦ブラジルのみに留まった。

2005年、マクラーレン・メルセデスに移籍。MP4-20で3勝を挙げ、イタリアGPでは予選でF1史上最速記録となる372.6 km/hも記録したものの、脚光はタイトル争いを繰り広げたチームメイト、キミ・ライコネンに集中した。シーズン序盤には骨折(プライベイトでのテニス中に負ったと報道されている)で2戦を欠場。シーズン後半はセカンドドライバー的な立場を強いられた。

2006年はエンジンレギュレーション変更でV10エンジンが禁止され2400ccV8となり、マクラーレン・MP4-21に搭載されるメルセデスも長く使用してきたV10からV8へと変更され、空力的にも大きくアレンジされたマシンであったが、上位にはつけるが優勝を争うことができず、未勝利が続くなか第10戦アメリカGPではスタート直後にライコネンと同士討ちを演じる。その直後、チームとドライバーが合意の下で契約を解除することが発表され、マクラーレンを離脱。シーズン中盤であったがF1を離れ、古巣チップ・ガナッシの仲介で活動の場をNASCARに移すこととなった。

NASCAR

NASCARではブッシュシリーズにアトランタから参戦を果たす。2007年よりチップ・ガナッシ・レーシングからNASCARネクステルカップ(現スプリントカップ・シリーズ)に参戦。

インディカー

2014年、チーム・ペンスキーからインディカー・シリーズに復帰、ポコノ・レースウェイでの第11戦で復帰後初勝利を飾るなど、ランキング4位の活躍を見せる。

2015年、この年のインディ500において、序盤に一度リードラップ最後尾まで落ちたものの、そこから追い上げて中盤以降は終始トップ争いに絡み、15年ぶり自身2度目の優勝を飾る。この優勝は、A.J.フォイトの10年を抜き、最も長い間隔を空けてのインディ500複数優勝であった。

記録

四輪レース界で世界3大レースといわれる3つのうち、モントーヤはインディ500(2000年、2015年)とモナコGP(2003年)を制覇している。

また、2007年1月にデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで行われたRolexデイトナ24時間レースにおいて、スコット・プルーエットと共に出場し、初出場ながら優勝した(翌年も連覇)。

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レース戦績

要約
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Thumb
2005年アメリカGP予選にてMP4-20をドライブするモントーヤ
  • 1995年
  • 1996年
  • 1997年
    • 国際F3000にRSM Marko(ローラT96/50・ザイテック)から参戦。3勝、2PP、3FLを記録しシリーズ2位。
    • ウィリアムズのテストドライバーに抜擢される。
  • 1998年
    • 国際F3000にスーパーノヴァ(ローラT96/50・ザイテック)より参戦。4勝、7PP、5FLを記録しチャンピオンを獲得。
    • 引き続きウィリアムズのテストドライバーを務める。
  • 1999年
  • 2000年
    • CARTシリーズにチップ・ガナッシ(ローラB2K/00・トヨタ)から参戦。3勝、7PPを記録しシリーズ 7位。
    • インディ500に同チーム(Gフォースオーロラ)より参戦。LLを記録してデビュー戦で優勝。
  • 2001年
  • 2002年
    • F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW24・BMW)より参戦。入賞12回(最高位 2位)、7PP(5連続を含む)を記録しシリーズ3位。
  • 2003年
    • F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW25・BMW)より参戦。2勝(モナコGPを含む)、1PP、3FLを記録しシリーズ3位。
  • 2004年
    • F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW26・BMW)より参戦。1勝、2FLを記録しシリーズ 5位 。
  • 2005年
  • 2006年
    • F1世界選手権にマクラーレン(マクラーレンMP4-21・メルセデス)より参戦し、シリーズ8位。第10戦アメリカGPを最後にチームを離脱し、残りレースのシートをペドロ・デ・ラ・ロサに譲った。
    • アメリカに戻ってストックカーに転向することを発表。デビュー戦のARCAフードワールド250シリーズで予選2位、決勝3位を記録。
  • 2007年
  • 2008年
  • 2009年
    • NASCARスプリントカップ・シリーズにチップ・ガナッシから参戦。チェイス・フォー・ザ・スプリントカップ(プレーオフ)にアメリカ人以外で初めての進出を決める。
  • 2010年
    • NASCARスプリントカップ・シリーズにチップ・ガナッシから参戦し、シリーズランキング17位。第22戦ワトキンスグレン(ロードコース)で優勝。
  • 2014年
    • NASCARを離れインディカー・シリーズに復帰、チップ・ガナッシのライバルチームであるペンスキーから参戦、第11戦ポコノで優勝。シリーズランキングは4位だったが、オーバルコースでの獲得ポイントに限れば1位であった。
  • 2015年
    • 前年に引き続きペンスキーから参戦。開幕戦セントピーターズバーグで勝利し、インディ500において15年ぶり、自身2度目の優勝。シーズン2勝を含む表彰台4回の成績を残し、開幕から一度もランキングトップを譲ることはなかったが、最終戦で同点に追いつかれ、優勝回数の差でシリーズチャンピオンを逃す。
  • 2016年
  • 2017年

イギリス・フォーミュラ3選手権

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国際ツーリングカー選手権

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(key)

国際F3000選手権

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F1世界選手権

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アメリカン・オープンホイール

CART

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インディカー・シリーズ

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インディ500

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NASCAR

(key) (Bold – Pole position awarded by qualifying time. Italics – Pole position earned by points standings or practice time. * – Most laps led.)

スプリントカップ・シリーズ

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デイトナ500
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ネイションワイド・シリーズ

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スポーツカー

ユナイテッド・スポーツカー選手権

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FIA 世界耐久選手権

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(key)

デイトナ24時間レース

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ル・マン24時間レース

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セブリング12時間レース

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逸話

  • 1999年はCARTにデビューし、驚異的な速さを見せつけるものの荒削りな走行も目立った。ツインリンクもてぎラウンドでは、練習走行にもかかわらずCART界の顔であるマイケル・アンドレッティに無意味な幅寄せ・追い抜きを仕掛けた挙句に衝突し、両者ともウォールに激突した。2人とも怪我はなかったがマシンは大破。当然の事ながらマイケルは激怒し、チームオーナーがモントーヤのガレージに怒鳴り込んで乱闘騒ぎになった。一方のモントーヤ本人は涼しい顔でニヤニヤしながらインタビューに応じていた。
  • ジャック・ヴィルヌーヴとは1998年の初対面の時から仲が悪かった。20年後のインタビュー取材ではモントーヤも「あれ(ヴィルヌーヴとの不仲)はちょっとした若気の至り」だったと認めているが、2001年のカナダGPの決勝朝のドライバーミーティングで、金曜プラクティス走行でのモントーヤのドライビング(ブレーキテスト)を巡って両者が口論となり、モントーヤが「お前はオーストラリアでマーシャルを殺したな![注釈 1]」と暴言を吐いたため、ヴィルヌーヴが掴みかかった。ドライバー同士の口論は珍しくはないものの、この発言内容はチームオーナーのフランク・ウィリアムズも問題視し「また同じ事を言ったらクビにするぞ」と厳しく叱責した。ちなみに、原因となった金曜日のフリー走行での出来事は、モントーヤがブレーキテスト(故意に速度を落として挑発する行為)を行い、ヴィルヌーヴも敢えて避ける動作をせずに突っ込んだもので、FIAは両者に非があったとし「レース中に接触を起こしたら両者とも出場停止処分にする」と警告した。その後の関係は改善しており、2019年のドイツGPでは、パドックでヴィルヌーヴと談笑している様子をメディアに捉えられている[2]。モントーヤ曰く「2007年のNASCARで久しぶりに会って話す機会があって、それからはよく話をしている」という[2]
  • 2002年ベルギーGPの予選、ホットラップ中にバスストップ・シケインのブレーキングでキミ・ライコネンにラインを塞がれてしまう。その直後、チームラジオで「fuck Raikkonen, what a fuckin' idiot!」と罵った。
  • 2004年サンマリノGPのオープニングラップでミハエル・シューマッハフェラーリ)に押し出されたモントーヤはレース後のウィニングランでシューマッハの車に近づき、ファックサイン。レース後の記者会見でもシューマッハが「外側から誰かが来ているとは知らなかったし見えていなかった」と発言したのを聞いて、「俺は確かにお前の前でブレーキを踏んだ。あれが見えないのはバカか盲目だ!」と怒鳴りつけた。
  • チーム関係者の送別会でのこと。皆でメッセージカードに寄せ書きを書いていたところ、モントーヤがやってきてそこに「fuck off!」(出て行け)と書いた。
  • ウィリアムズでのチームメイト、ラルフ・シューマッハとの険悪な関係が知られている。その緊張した関係がピークに達した2005年のモナコGP練習走行中に、後ろを走るシューマッハに「ブレーキテスト」を仕掛け、それが発端となり4台が絡む接触事故を起こしたとされモントーヤに決勝グリッド降格処分が下された。ただし、2人とも移籍でウィリアムズを離れた後では話をして笑い転げたりする仲にもなった。
  • 2005年にレース外で負った肩甲骨の骨折を、ウィリアムズの公式リリースでは「体力トレーニングのテニス練習中、ボールに乗って足を滑らせたため」と発表したが、本当は「オートバイで遊んでいて転倒」だったという説も流れた。
  • 息子のセバスチャン・モントーヤレーシングカートの道に進み、2017年からはヨーロッパでカートを戦っている。2019年現在はトニーカートのワークスドライバーとして、フェラーリ・ドライバー・アカデミー(FDA)のサポートを受けた[2]

F1での記録に関して

  • レース結果で見ると、相性の良いサーキットはイギリスGP。6年全て完走しており、1位〜6位までの順位が1回ずつという珍しい記録を残している。一方、カナダGPは相性が悪く、2003年の3位表彰台以外は2年連続の失格を含めて全てリタイアである。母国に近いアメリカGPの完走率も40%(2005年は含めず)と低く表彰台も無いため、レース結果としての相性は良くない。

ドライビングテクニック

F1では不遇であったが、CART時代は特に1999年のルーキーイヤーはロード、ストリート、オーバル共に抜群のドライビングテクニックを持っていた。2006年から参戦しているNASCARでも、同僚のジェフ・ゴードンなどのドライバーからドライビングテクニックは高く評価されている。福山英朗はモントーヤが参戦して間もない頃の日テレG+の解説で、F1などよりNASCARやCARTの方があっていると評しており、単純なサラリーもさることながら様々な収入でF1より多くなるとも述べている。オーバルでは2000年に初参戦したインディ500で、他を寄せ付けない圧倒的な速さで優勝し、2009年の春のタラテガでポールポジションをとるなどしている。これを見てもモントーヤのあらゆるコースの順応性の高さを示す物である。

2001年にF1に移籍したその年のインディアナポリスモータースピードウェイで行われたアメリカGPにおいて、解説の鈴木亜久里は「モントーヤはバンクの使い方が上手いね」とコメントをしていた。モントーヤはそれまでCARTで同コースやミシガン等のオーバルコースで優勝していることもあり、この日のレースでも巧みなバンクのコース取りからこの年の王者であるミハエルを豪快に抜き去っている。

2007年より参戦しているNASCARでも2トン近くあり、ハイテクを一切禁止された操縦しにくいストックカーを器用に運転できるテクニックも持ち合わせており、事実NASCAR・ネクステルカップシリーズでの初勝利は『32番グリッドから優勝』し、インフィニオン・レースウェイでの最も後方からのスタートでの優勝、加えて燃料補給のタイミングからガス欠不安を抱えていた状態からの優勝であった。

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カーナンバー

CART
  • 4(1999年)
  • 1(2000年)
IRL/IndyCar
  • 9(2000年)
  • 2(2014年~2016年)
  • 22 (2017年第5〜6戦)
F1
  • 6(2001年.2002年)
  • 3(2003年.2004年)
  • 10(2005年第1, 2, 5~16戦)
  • 4(2006年第1~10戦)
NASCAR
  • 42(2007年~2013年)

脚注

外部リンク

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