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清水川明於
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清水川 明於(しみずがわ あきお、1925年8月13日 - 1979年2月5日)は、兵庫県明石市出身で追手風部屋に所属した大相撲力士。本名は鉾浦 光男(ほこうら みつお)。最高位は東小結(1951年1月場所、1953年5月場所、1958年1月場所)。引退後は、年寄・間垣として日本相撲協会に残った[1]。身長176cm、体重115kg。得意手は左四つ、上手投げ。
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来歴
14歳の時に角界入りし、1940年5月場所に於いて、元大関・清水川元吉が率いた追手風部屋から初土俵を踏んだ。幕下時代に兵役に服したが帰還後1947年6月場所で十両昇進、僅か1場所で十両を通過して1947年11月場所で新入幕を果たした。1950年9月場所では優勝した横綱・照國から金星を奪い、翌1951年1月場所では小結に昇進した。1953年3月場所では、横綱・東富士、千代ノ山、大関(当時)・吉葉山を破るなど11勝を挙げ、殊勲賞を受賞[1]。
四股の美しさは天下一品といわれ、両足を手の支えなしで一直線にのばした姿は模範として長く言及された。また師匠ゆずりの上手投げも鋭く、幕内の人気力士として活躍した[1]。しかし同系統の部屋がない追手風部屋は当時の系統別総当たり制の時代には対戦相手の面で不利であったことが関脇昇進を阻んだという意見が、現役時代から挙がっていた。しかしその条件のもとで1958年9月場所での現役引退まで10年以上にわたって幕内を維持し、十両に落ちなかったことはその実力を示している。最後に小結を務めた同年1月場所では7勝8敗と惜しくも負け越したが鏡里・吉葉山の両横綱を倒し、2人の引退の遠因ともなった。
引退後は年寄・間垣を襲名、一時期は間垣部屋を経営した[1]が関取を出すことも叶わず部屋を閉じて伊勢ヶ濱部屋所属の年寄となった。頭脳明晰で取り口の分析・解説が巧く、相撲解説や評論は好評だった。1977年には51歳で審判委員に抜擢されるも体調不良で2場所しか務められなかった。その後平年寄で1979年初場所中に木戸番の際倒れ入院、1979年2月5日、肝硬変のため東京都狛江市内の病院で逝去。53歳没。
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主な成績・記録
- 通算成績:336勝328敗20休 勝率.506
- 幕内成績:284勝297敗20休 勝率.489
- 現役在位:54場所
- 幕内在位:41場所
- 三役在位:3場所(小結3場所)
- 三賞:3回
- 殊勲賞:1回(1953年3月場所)
- 敢闘賞:2回(1952年5月場所、1956年1月場所)
- 金星:5個(照國1個、東富士1個、千代の山1個、鏡里1個、吉葉山1個)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴
- 鉾浦 光男(ほこうら みつお)1940年5月場所 - 1941年1月場所
- 鉾錦 光男(ほこにしき みつお)1941年5月場所 - 1946年11月場所
- 清水川 光男(しみずがわ みつお)1947年6月場所 - 1952年5月場所
- 清水川 明於(しみずがわ あきお)1952年9月場所 - 1955年1月場所
- 清水川 明男(しみずがわ あきお)1955年3月場所
- 清水川 明於(しみずがわ あきお)1955年5月場所 - 1958年9月場所
年寄変遷
- 間垣 光男(まがき みつお)1958年9月 - 1979年2月5日
関連項目
参考文献
- 『戦後新入幕力士物語 第1巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社)
脚注
外部リンク
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