トップQs
タイムライン
チャット
視点

星甲良夫

ウィキペディアから

星甲良夫
Remove ads

星甲 良夫(ほしかぶと よしお、1926年2月5日 - 2000年12月5日)は、千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市当代島[2])出身で、井筒部屋(一時期、双葉山道場預かり)に所属した元大相撲力士。本名は、小川 良夫(おがわ よしお)[1]。現役時代の体格は171cm、107kg。最高位は西前頭4枚目(1957年5月場所)。得意手は右四つ、突っ張り、寄り、叩き、蹴手繰り。

概要 星甲 良夫, 基礎情報 ...
Remove ads

来歴・人物

体が小さく、身長も体重も足らずなかなか新弟子検査に合格できなかったが、1942年(昭和17年)5月場所で初土俵を踏んだ[3]。そのため出世もゆっくりで、1955年(昭和30年)5月場所に於いて新入幕を果たした時には、既に29歳となっていた[4]

幕内では地味ではあったが、当時の幕内力士では随一の稽古で鍛えたためか、「努力の人」と讃えられた[1]

自己最高位の西前頭4枚目で迎えた1957年(昭和32年)5月場所では、大関松登蹴手繰りで破っている(これが、自身唯一の銀星となった。なお、金星は、1個も挙げられずに終わっている)。

以後も長く土俵を務め、1963年(昭和38年)1月場所では36歳11ヵ月での再入幕を果たした。これは、当時では戦後2位の年長再入幕記録であった[4]1964年(昭和39年)5月場所限りで引退を決意した時には、38歳となっていた。

引退後は、年寄君ヶ濱から陸奥を襲名して井筒部屋付きの親方として後進の指導に当たっていた。井筒部屋付き時代は江戸川区平井の自宅から墨田区亀沢の井筒部屋に通っていた。しかし、1972年(昭和47年)3月に11代井筒(元前頭2・鶴ヶ嶺(道芳))が亡くなると、翌月に12代井筒を襲名して井筒部屋を継承した。これを機に、12代井筒の弟弟子で同じ部屋付き親方であった君ヶ濱親方(元関脇・鶴ヶ嶺(昭男))は独立して、同月末に君ヶ濱部屋を興した。自身は自宅のある平井に新たな井筒部屋の施設を構えた[1][5]

その後11代井筒の遺族と仲違いしたため、1974年(昭和49年)4月、井筒の名跡を返上して陸奥に戻り、部屋の名称も陸奥部屋とした。11代井筒から引き継いだ弟子の星岩涛を幕内まで昇進させ、自らの停年退職の際には、彼に部屋を継承させた[5][4]

2000年(平成12年)12月5日13時20分、呼吸不全のため死去。74歳没

幕下時代に結婚したが家計が苦しく、手拭で隠しながらアサリシジミを売り歩いて生活費を稼いでいた話が知られている[1]

Remove ads

主な戦績

  • 通算成績:553勝584敗15休 勝率.483
  • 幕内成績:173勝217敗 勝率.444
  • 現役在位:84場所
  • 幕内在位:26場所
  • 各段優勝
    • 十両優勝:2回(1955年1月場所、1959年7月場所)

場所別成績

さらに見る 一月場所 初場所(東京), 三月場所 春場所(大阪) ...

幕内対戦成績

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝の数。
Remove ads

改名歴

  • 小川 良夫(おがわ よしお)1943年1月場所
  • 東都山 良夫(とうとやま -)1943年5月場所 - 1946年11月場所
  • 梅ヶ枝 良治(うめがえ よしはる) 1947年6月場所 - 1949年5月場所
  • 小川 伸治(おがわ のぶはる) 1949年10月場所 - 1954年5月場所
  • 星甲 昌男(ほしかぶと まさお) 1954年9月場所 - 1959年1月場所
  • 星兜 昌男(ほしかぶと -)1959年3月場所 - 1959年5月場所
  • 星甲 良夫(ほしかぶと よしお)1959年7月場所 - 1964年5月場所(引退)

年寄変遷

  • 君ヶ濱(きみがはま)1964年5月 - 1965年11月
  • 陸奥(みちのく)1965年11月 - 1972年4月
  • 井筒(いづつ)1972年4月 - 1974年4月
  • 陸奥(みちのく)1974年4月 - 1991年2月(停年退職)

なお、大正生まれとしては最後の協会員となった。

参考文献

脚注

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads