トップQs
タイムライン
チャット
視点

悠仁親王

日本の親王 ウィキペディアから

悠仁親王
Remove ads

悠仁親王(ひさひとしんのう、2006年平成18年〉9月6日 - )は、日本皇族身位親王敬称殿下[2]お印高野槇(こうやまき)。勲等大勲位

概要 悠仁親王, 続柄 ...
概要 称号:親王, 敬称 ...
概要 皇室 ...
概要 画像外部リンク ...

天皇の甥。上皇の孫。天皇の弟である皇嗣秋篠宮文仁親王同妃紀子の第1男子(1男2女のうちの第3子)。皇位継承順位は父・秋篠宮に次ぐ第2位。小室眞子佳子内親王は姉。天皇第一皇女子の敬宮愛子内親王従姉

住まいは東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にある秋篠宮邸。宮邸の改修工事に伴い、2019年(平成31年/令和元年)2月から2022年(令和4年)3月まで、宮邸隣接地に設けた御仮寓所(ごかぐうしょ)に仮住まいをした[3]2025年(令和7年)4月からは、茨城県つくば市の民間集合住宅も利用し、2拠点生活を送っている。

Remove ads

人物

Thumb
お印に選ばれた高野槇

父の秋篠宮以来、40年9か月ぶりの男子皇族として誕生した。

2025年12月16日現在、皇室において60歳未満で唯一の皇位継承資格者。最年少の皇族(皇室構成員)で継承順位第2位。

2024年9月6日に成年の儀を迎えたことにより未成年の皇族は不在となった。現皇室典範の下、未成年皇族が不在となるのは初めて。

来歴

要約
視点

誕生をめぐって

2006年平成18年)2月7日朝、文仁親王妃紀子が秋篠宮邸で超音波検査を受けたところ、胎児の心拍が確認され、羽毛田信吾宮内庁長官が妊娠6週目と発表[4][5][6]

2月24日15時、宮内庁は「秋篠宮妃殿下が妊娠3か月である」と公式発表。妊娠悪阻つわり)などの症状があったが、2度目の検査では順調な経過が確認されたと、中林正雄愛育病院[注釈 1] 院長が説明[7][8]。また、秋篠宮同妃の意向により性別の事前検査は実施せず[9]

8月16日17時、7月12日の検診で「部分前置胎盤」と診断されていた紀子妃が出産準備と安静のため、秋篠宮の付き添いで東京都港区南麻布(当時)の愛育病院に入院[10][11]。また同日、主治医である中林正雄院長と金澤一郎皇室医務主管らが会見を開き、早産の恐れなどがあるため帝王切開の処置を取ることを発表(近代皇室史上初の帝王切開による出産)[12]

予定日より約20日早い9月6日午前8時27分に誕生[13]。出生時の身長は48.8cm体重は2558g[14]。秋篠宮家では佳子内親王以来12年、皇室では敬宮愛子内親王以来5年ぶりの新生児誕生。黒田清子(紀宮清子内親王)から敬宮愛子内親王まで、9方連続で女子皇族が誕生しており、男子皇族は秋篠宮以来40年9か月ぶり。誕生時の皇位継承順位は第3位。

誕生当日には、賜剣の儀が行われ、天皇(明仁)から刀匠天田昭次謹作の短剣(守り刀)が贈られた[15]

9月12日15時35分、愛育病院で命名の儀が行われ「悠仁」(ひさひと)と名付けられる。「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでいくことを願って」、また過去の皇族名との重複を避けつつ音と意味を重視し秋篠宮が選字[16]。「大きく、まっすぐに育ってほしい」との願いを込めお印高野槇

選定[16]。儀式では徳丸久衛宮務官が「悠仁」と書かれた和紙を秋篠宮から受け取り、紀子妃に示して白木の桐箱に納めた。続けて徳丸宮務官は「高野槇」と書かれた和紙を紀子妃から受け取り、秋篠宮に示して同じ桐箱に納め、悠仁親王の枕元に安置した。ともに厚手の「大高檀紙」に秋篠宮が染筆。

9月15日、愛育病院退院時には、赤坂御用地までの沿道に約1800人が集まり、警視庁機動隊など計1200人態勢で警備[17]

誕生の前年、2005年(平成17年)には皇族男子の減少により皇位継承問題が表面化していたこともあり各地で奉祝され、明治神宮をはじめとする神社神社庁で、神輿の奉納・提灯行列・奉祝行進などの祝賀行事を実施。悠仁親王の誕生で男系男子の継承による皇統断絶の危機が当面は解消されたことから、第3次小泉改造内閣による皇室典範改正案の国会への提出は見送りに[13][18]

成長

2010年(平成22年)

4月9日、お茶の水女子大学附属幼稚園に入園。母の紀子妃が同大学大学院人間文化研究科で、日本学術振興会の名誉特別研究員として健康心理学を学んでいることから、女性研究者を支援するため同大学が創設した特別入園制度で入園[19]

2011年(平成23年)

春に「着袴の儀」が予定されていたが、東日本大震災の発災を受け延期[20]

11月3日、赤坂東邸で、「着袴(ちゃっこ)の儀」と「深曽木(ふかそぎ)の儀」を挙行。「着袴の儀」では滝の流れをあしらった「落滝津(おちたきづ)」の着物に白袴を着用し、松田慶文宮内庁御用掛が袴の紐を結ぶ。続く「深曽木の儀」では皇太子(徳仁)と秋篠宮も使用した高さ29cmの碁盤の上に立ち、山科流の童形服を着用して右手に扇、左手に小松2本と山橘の小枝を持つ。松田御用掛が3回、髪の毛先に鋏を入れたあと、盤上に置かれた2個の黒い小石を踏んで飛び降りた。

2012年(平成24年)

11月7日、両親と神武天皇陵を参拝[21]。天皇陵を参拝するのは初めて。

12月14日、翌2013年(平成25年)4月にお茶の水女子大学附属小学校へ入学することが発表される[22]。現行の皇室典範下で皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは初めて。

Thumb
2013年

2013年(平成25年)

3月15日、幼稚園卒園を奉告のため、両親と昭和天皇武蔵野陵香淳皇后武蔵野東陵を参拝。

3月25~26日、伊勢神宮に参拝し幼稚園卒園を奉告。

4月7日、両親とお茶の水女子大学附属小学校の入学式に出席[23][24]

12月10日~11日、両親と私的に沖縄県を訪れ、沖縄戦跡国定公園沖縄県糸満市)で「平和の礎」やオオゴマダラを見学し、「国立沖縄戦没者墓苑」で供花。「沖縄こどもの国」では与那国馬など馬に牧草を与えた。

2016年(平成28年)

8月3日、新潟県津南町の「農と縄文の体験実習館なじょもん」[25]縄文土器を見学[26]。10歳の誕生日には、宮邸の庭で田んぼや野菜を作っていることが公表[27]

11月20日7時半ごろ、友人らと山梨県甲州市大菩薩峠山麓へハイキングに向かう途中、相模原市中央自動車道下り線で、悠仁親王、紀子妃、友人、その父兄ら6人の乗るワゴンが前方の車両に追突。けが人はなく、ワゴンはバンパーが損傷したため、一行は別の車両に乗り換えて目的地へ。事故の背景として内廷皇族宮家皇族との警備体制の違いを挙げる報道も[28][29][30]

2017年(平成29年)

7月22~29日、6泊7日の日程で母の紀子妃と小笠原諸島を私的に訪問。一般客とともに竹芝客船ターミナル父島二見港の間を小笠原海運おがさわら丸で片道24時間かけて往復。「小笠原諸島戦没者追悼之碑」への献花や、小笠原海洋センターでのアオウミガメの子ガメの標識付けや放流、衝立山経由で千尋岩(ロックハート)を目指す6時間半のトレッキング、イルカウォッチング、シュノーケルなどを体験し、母島ではパッションフルーツマンゴーを収穫。当時の思い出は2020年(令和2年)に作文『小笠原諸島を訪ねて』としてまとめる。

8月10日、滋賀県高島市の筆工房「攀桂堂(はんけいどう)」を両親と訪れ、皇族方が愛用する日本古来の筆「雲平筆」の製造工程を見学。前後の数日間、湖西地方に滞在。

9月6日、11歳の誕生日当日に、同年5月の校外学習で両国国技館大相撲を観戦し、友人とちゃんこを味わったことや、8月下旬に2泊3日で林間学校(長野県白樺湖周辺)に参加したこと、学校の栽培委員会に所属し、花壇の水やりなどを担っていることなどが伝えられた[31]

2019年(平成31年/令和元年)

4月8日、お茶の水女子大学附属中学校に入学。

4月26日、お茶の水女子大学附属中学校の悠仁親王の教室の机の上に果物ナイフが置かれる事件が発生。犯人とされる男は同月29日に神奈川県平塚市のホテルで逮捕され[32]2020年(令和2年)2月14日に執行猶予付の懲役刑が言い渡された。男は皇室のあり方に不満を持ち、親王を刺そうと思ったと自供[33]

5月1日、皇太子(徳仁)の践祚に伴い、皇位継承順位第2位に。

8月16日~25日、両親とブータンを私的に訪問。初の外国訪問で、万が一の飛行機事故に備え、父の秋篠宮とは空路別便を利用した。首都ティンプーの国家中心施設「タシチョ・ゾン」で行われた歓迎式典では紋付き羽織袴姿で臨み、ワンチュク国王の第一王子、ジグメ・ナムゲルとも交流。小中一貫の公立校でボール渡しゲームを、チャンリミタン国立弓技場で国技の「ダツェ(弓技)」を体験。高山地帯に生息するウシ科の希少動物ターキンの保護区も訪れた。パロではブータン国立博物館を見学し、JICA関係者と懇談。

Thumb
2020年(令和2年)撮影。赤坂御用地秋篠宮邸にて

2021年(令和3年)

3月12日、北九州市立文学館が「第12回子どもノンフィクション文学賞」を発表し、悠仁親王が応募した作文『小笠原諸島を訪ねて』[34]が中学生の部・佳作を受賞。

3月20日、「第12回子どもノンフィクション文学賞」の表彰式にオンライン参加[35]

2022年(令和4年)

2月16日、筑波大学附属高等学校に合格。お茶の水女子大学附属中学校との提携校進学制度において推薦の条件である「秀でた学業成績を十分に満たしている」と判断され、かつ一般受験生とともに5教科の学力検査を受験し、その結果確定した。この制度は運用実態に不明な点が多く「悠仁さまを筑附に入れるための制度では」と報じたメディアもあったが[36]、同制度は2017年から現在まで続く。

2月16日、宮内庁は前述の作文『小笠原諸島を訪ねて』に関し参考文献の記載が不十分だったと明らかにし、側近が「悠仁さまは指摘に感謝されている」と説明した[37][38]。文学賞を主催する北九州市立文学館は「記載漏れがあったとしても賞は作品全体を総合評価したもので授与の撤回などは考えていない」と声明[39]

4月8日、宮内庁は悠仁親王が『小笠原諸島を訪ねて』に参考文献や注釈などを追記して主催者に送ったことを明らかに[40]。これを受け同年4月12日、北九州市立文学館は、訂正後の作文をオンライン公開。

4月9日、筑波大学附属高等学校に入学[41]

10月1日、私的に伊勢神宮を参拝。神宮参拝は2013年以来2回目で、単身での参拝は初めて。その後、神宮美術館を訪問し、伊勢神宮と正倉院のゆかりの文化財などを集めた特別展「生きる正倉院-伊勢神宮と正倉院が紡ぐもの-」を鑑賞[42]

2023年(令和5年)

7月29日~30日、父・秋篠宮の地方公務に初めて同行し、「第47回全国高等学校総合文化祭」を視察。西原商会アリーナでの総合開会式に臨み、鹿児島大学で自然科学発表を聴講。鹿児島県立歴史・武術センター黎明館で美術・工芸部門の作品を鑑賞し、曽於高等学校の実験農場も訪問。

9月14日、新型コロナウイルスに感染し、同日から学校を欠席すると発表される。13日から高熱があり、14日は秋篠宮同妃の4年ぶりの記者会見が予定されていたが、濃厚接触があったため延期。

2024年(令和6年)

8月25日、主催者の招待を受け、両親に同伴し「第27回国際昆虫学会議(ICE2024 Kyoto)」(国立京都国際会館)に私的に参加[43]。開会式終了後、昆虫に関する研究のポスター展示を見ながら、ドイツの研究者と懇談した際に「この中に日本の種はいくついますか?」と英語で質問。懇談後にも熱心に質問し同研究者は「専門的な質問をしていただき科学的なやりとりができて嬉しい」と述懐。

8月26日、悠仁親王は同会議で、共同研究した皇居内のトンボの生態についてのポスター掲示『皇居のトンボ』を発表[44]。共同研究者は、清拓哉(国立科学博物館動物研究部)、悠仁親王、飯島健(宮内庁)、喜多英人(日本蜻蛉学会)、須田真一(東京大学総合研究博物館)。

成年皇族として

9月6日、成年(18歳)。男性皇族が成年を迎えるのは父・秋篠宮以来39年ぶり[45]。誕生日を前に文書で感想を寄せ、「もう成年なのかと思うと、時が経つのは早いと実感しています。この18年の間、多くの方々が、その時々にさまざまな形で心を寄せてくださいました。深く感謝申し上げます。そして、今まで育ててくれた両親と姉たちにも感謝しています」などと綴った[46]。同日午後、御所で天皇皇后と愛子内親王に、仙洞御所で上皇上皇后にそれぞれ挨拶をし、謝意を伝達[47]。その後、秋篠宮邸で側近から祝賀を受けた際、「この先は、自らの務めについて考え、成年皇族としての役割を果たせるよう努力していきたい」と決意表明[48]

12月11日、筑波大学生命環境学群生物学類の学校推薦型選抜試験に合格[49]

2025年(令和7年)

2月12日、「舞鶴引揚記念館」を単身視察。

2月14日、警視庁鮫洲運転免許試験場普通自動車運転免許を取得。都内の自動車教習所に通いながら一般道での路上実習にも臨む[50]

3月3日14時、成年にあたっての記者会見を赤坂東邸で実施[51][52]

象徴天皇の存在につきましては、上皇陛下がお考えになってこられ、天皇陛下が先日の記者会見でおっしゃっていましたように、常に国民を思い、国民に寄り添う姿なのではないかと思います。また、皇室の在り方につきましても、天皇陛下のお考えのもと、人々の暮らしや社会の状況に目を向け続けていくことが重要であると思います。そして、出会いを大切にして、人々の幸せを願い、気持ちに寄り添い続けることが重要であると思います。悠仁親王殿下、ご成年をお迎えになっての記者会見

3月18日、筑波大学附属高等学校卒業[53]

4月5日、筑波大学生命環境学群生物学類に入学[54]

8月17日、赤坂東邸で成年式の公式ポートレイトを撮る。装束3パターン(闕腋袍に空頂黒幘、闕腋袍に燕尾纓、縫腋袍に垂纓)、洋装1パターン(勲章佩用の燕尾服)、の計4パターンを撮影。

9月6日、19歳の誕生日に皇居で成年式。午前に宮殿春秋の間で加冠の儀が行われ、午後は天皇皇后に挨拶をする朝見の儀が行われた。同日付で大勲位菊花大綬章が授与[55][56]

9月8日、伊勢神宮と神武天皇陵を参拝、9日には昭和天皇陵など4陵を参拝し、成年式を奉告[57][58]

9月10日、成年を祝う午餐が催され、成年式に関連する一連の行事が終了[59]

9月24~25日、初の単独地方公務として2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)の会場を訪問。24日には日本館ベルギー館、25日には大屋根リングや関西パビリオンを視察し、午後からは父の秋篠宮も合流し、オランダ館、タイ館とブータンのパビリオンがあるコモンズD館を視察[60]

10月3日、「皇統譜」の第百弐拾五代天皇に属する「皇族譜」悠仁親王欄に、「令和七年九月六日成年式ヲ行フ 右令和七年九月九日ノ公告ニ依リ登録ス 令和七年拾月参日 宮内庁長官 西村泰彦 書陵部長 難波健太」を加筆。

11月15日午前、崇仁親王妃百合子墓所一周年祭の儀(豊島岡墓地、東京都文京区)に参列。同日午後、両親、姉とともに「2025年東京デフリンピック」の開会式(東京体育館)に臨席。

11月22~23日、母と伊豆大島を訪問。22日は大島老人ホームや椿油メーカーの高田製油所を視察し、平成25年台風第26号土石流災害の語り部らとも交流し犠牲者の慰霊碑に供花。23日は三原山北東「裏砂漠」でデフリンピックのオリエンテーリング競技を観戦。選手に手話で「お会いできて嬉しいです」との思いを伝達。12月9日には、宮邸を表敬訪問したデフリンピックの日本人金メダリスト12人と手話で懇親。

11月23日、新嘗祭の儀宮中三殿神嘉殿)に臨む。宮中祭祀に初めて参列。

成年式

2025年(令和7年)9月6日

  • 8時45分:「冠を賜うの儀」(秋篠宮邸)。松永賢誕侍従職事務主幹が勅使として秋篠宮邸に参殿し、モーニングコート姿の悠仁親王は、天皇が下賜した燕尾纓(えんびえい)のを拝領。
  • 9時20分:悠仁親王秋篠宮邸出発。この日に皇居と宮邸の間を往復した車輌は、「親王旗」を装着した天皇差し回しの第1号(皇1)御料車
  • 10時0分:「加冠の儀」(宮殿春秋の間)。悠仁親王は未成年装束の闕腋袍(けってきのほう)と、表袴(うえのはかま)、絲鞋(しかい=靴)、碧玉材の石帯(せきたい)、空頂黒幘(くうちょうこくさく)を装用し、イチイ材のと横目を持つ。加冠役は坂根工博侍従次長、先導は吉田尚正皇嗣職大夫、裾持ちは小山永樹皇嗣職宮務官長、「冠箱」奉持・冠紐掛け・鋏入れは加地隆治宮内庁御用掛が、いずれも衣冠束帯で奉仕。悠仁親王は空頂黒幘から燕尾纓の冠に被り替える。
  • 11時5分:成年装束の縫腋袍(ほうえきのほう)と、表袴(うえのはかま)、鞸(かのくつ=靴)、石帯、垂纓(すいえい)の冠に着替えた悠仁親王が笏、檜扇を持ち、1913年大正2年)製造の儀装馬車4号で宮殿南車寄を出発。
  • 11時30分:「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」(宮中三殿)。
  • 14時0分:「朝見の儀」(宮殿正殿松の間)。悠仁親王は午後の儀式で燕尾服を着用。
本日の成年式にあたり、冠を賜り、天皇、皇后両陛下のご臨席のもと、成年式を終えることができましたことに、深く感謝申し上げます。成年皇族としての責務の重さを自覚し、さらに勉学にいそしむとともに経験を積み、これまで賜りましたご恩にお報い申し上げたく存じます。ここにお礼を申し上げます悠仁親王殿下、成年式朝見の儀で天皇陛下に対する謝恩の辞
成年式を挙げられたことを心からお祝いします。これからは学業に励まれるとともに、皇族としての務めを立派に果たされるよう願っております。

きょうは成年式おめでとう。これからもお身体を大切にされ、どうぞお元気にさまざまな経験を積まれますよう、お祈りしております。
天皇陛下、皇后陛下、悠仁親王成年式朝見の儀でのお言葉
  • 14時30分:「勲章親授」(宮殿表御座所鳳凰の間)。天皇が大勲位菊花大綬章を授与。
  • 14時40分:「御礼言上」(宮殿表御座所鳳凰の間)。両親とともに天皇皇后へ挨拶。
  • 15時0分:「祝賀」(宮殿千鳥・千草の間)。親族や皇族、三権の長、宮内庁幹部、元側近奉仕者らが出席。
  • 15時45分:「上皇上皇后両陛下へ挨拶言上」(仙洞御所)。
  • 18時30分:「内宴」(帝国ホテル桐の間、東京都千代田区)。秋篠宮家主催の私的な祝宴。天皇皇后、上皇上皇后以下の皇族、元皇族、親族ら30人が出席。出席者には、秋篠宮家の菊栂 ( きくつが )紋、高野槙、トンボをあしらったボンボニエールが贈られる(皇族には銀製、その他出席者には磁器製)。

2025年(令和7年)9月8日

2025年(令和7年)9月9日

2025年(令和7年)9月10日

Remove ads

学術研究

高校の学業と並行して生物学に関する研究を進め、高校在学2年時に研究成果を学術雑誌に発表[61]

2024年8月25日、京都市で開幕した第27回「国際昆虫学会議」に、開会式に招待を受けたとして私的に参加[62]。翌26日は、共同研究した皇居内のトンボの生態についてポスター掲示の形で発表[44]

帝王学

定まった帝王学の師はいないが、天皇(明仁)の推挙で2018年8月18日、作家・昭和史研究者の半藤一利近代史太平洋戦争)について2時間半の進講をしている[63]

年譜

2006年(平成18年)

  • 9月6日 - 東京都港区南麻布の愛育病院にて誕生[64]
  • 9月12日(0歳)- 命名の儀。

2010年(平成22年)

  • 4月9日(3歳)- お茶の水女子大学附属幼稚園 に入園。

2011年(平成23年)

  • 11月3日(5歳)- 着袴の儀、深曽木の儀。

2013年(平成25年)

  • 3月14日(6歳)- お茶の水女子大学附属幼稚園を卒園。
  • 4月7日(6歳)- お茶の水女子大学附属小学校に入学。

2019年(平成31年)

  • 3月15日(12歳)- お茶の水女子大学附属小学校を卒業。
  • 4月8日(12歳)- お茶の水女子大学附属中学校に入学。

2021年(令和3年)

  • 10月26日 - 長姉・眞子内親王が渋谷区役所に婚姻届を提出。

2022年(令和4年)

  • 3月17日(15歳)- お茶の水女子大学附属中学校を卒業。
  • 4月9日(15歳)- 筑波大学附属高等学校に入学[65]
  • 10月1日(16歳)- 初めて伊勢神宮を単身参拝[66]

2023年(令和5年)

  • 7月29日(16歳)- 初めて秋篠宮の地方公務に同行し、鹿児島総文祭の開会式に出席[67]

2024年(令和6年)

  • 7月31日(17歳)- 2度目となる地方公務同行として、両親とともに岐阜総合文化祭の開会式に出席[68]
  • 8月25日(17歳)- 京都市で開催された「国際昆虫学会議」に招待を受け、私的に参加[69]
  • 9月6日(18歳)- 39年ぶりに男性皇族として成年を迎える[70]

2025年(令和7年)

  • 3月3日(18歳) - 成年にあたっての記者会見。
  • 3月18日(18歳) - 筑波大学附属高等学校を卒業[53]
  • 4月5日(18歳) - 筑波大学生命環境学群生物学類に入学[54]
  • 9月6日(19歳) - 成年式。
Remove ads

系譜

さらに見る 悠仁親王の系譜 ...

悠仁親王の男系(父系)直系祖先

1 神武天皇2 綏靖天皇3 安寧天皇4 懿徳天皇5 孝昭天皇6 孝安天皇7 孝靈天皇8 孝元天皇9 開化天皇10 崇神天皇
11 垂仁天皇12 景行天皇日本武尊14 仲哀天皇15 応神天皇稚野毛二派皇子意富富杼王乎非王彦主人王26 継体天皇
29 欽明天皇30 敏達天皇 押坂彦人
大兄皇子
34 舒明天皇38 天智天皇志貴皇子49 光仁天皇50 桓武天皇52 嵯峨天皇54 仁明天皇
58 光孝天皇59 宇多天皇60 醍醐天皇62 村上天皇64 円融天皇66 一条天皇69 後朱雀天皇71 後三条天皇72 白河天皇73 堀河天皇
74 鳥羽天皇77 後白河天皇80 高倉天皇82 後鳥羽天皇83 土御門天皇88 後嵯峨天皇89 後深草天皇92 伏見天皇93 後伏見天皇北1 光厳天皇
北3 崇光天皇伏見宮栄仁親王伏見宮貞成親王102 後花園天皇103 後土御門天皇104 後柏原天皇105 後奈良天皇106 正親町天皇誠仁親王107 後陽成天皇
108 後水尾天皇112 霊元天皇113 東山天皇閑院宮直仁親王閑院宮典仁親王119 光格天皇120 仁孝天皇121 孝明天皇122 明治天皇123 大正天皇
124 昭和天皇125 明仁上皇秋篠宮文仁親王皇嗣悠仁親王

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
歴代天皇
 
歴代皇后
 
親王
 
内親王女王
 
臣籍降下
 
 
 
 
大正天皇(明治天皇の子)
 
貞明皇后(大正天皇の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇(大正天皇の子)
 
香淳皇后(昭和天皇の妻)
 
秩父宮雍仁親王(大正天皇の子)
 
雍仁親王妃
勢津子
(秩父宮雍仁親王の妻)
 
高松宮宣仁親王(大正天皇の子)
 
宣仁親王妃
喜久子
(高松宮宣仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三笠宮崇仁親王(大正天皇の子)
 
崇仁親王妃
百合子
(三笠宮崇仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東久邇成子
(照宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
久宮祐子内親王(昭和天皇の子)
 
鷹司和子
(孝宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
池田厚子
(順宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
上皇
明仁
(昭和天皇の子)
 
上皇后
美智子
(上皇明仁の妻)
 
常陸宮正仁親王(昭和天皇の子)
 
正仁親王妃
華子
(常陸宮正仁親王の妻)
 
島津貴子
(清宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
近衞甯子(三笠宮崇仁親王の子、臣籍降下)
 
寬仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
寬仁親王妃
信子
(寬仁親王の妻)
 
桂宮
宜仁親王
(三笠宮崇仁親王の子)
 
千容子(三笠宮崇仁親王の子、臣籍降下)
 
高円宮憲仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
憲仁親王妃
久子
(高円宮憲仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天皇
徳仁
(明仁の子)
 
皇后
雅子
 
皇嗣秋篠宮文仁親王(明仁の子)
 
皇嗣妃文仁親王妃紀子(秋篠宮文仁親王の妻)
 
黒田清子
(紀宮)
(明仁の子、臣籍降下)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彬子女王(寬仁親王の子)
 
瑶子女王(寬仁親王の子)
 
 
 
 
 
承子女王(高円宮憲仁親王の子)
 
千家典子(高円宮憲仁親王の子、臣籍降下)
 
守谷絢子(高円宮憲仁親王の子、臣籍降下)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敬宮愛子内親王(徳仁の子)
 
 
 
小室眞子(秋篠宮文仁親王の子)
 
佳子内親王(秋篠宮文仁親王の子)
 
悠仁親王(秋篠宮文仁親王の子)

家系図形式

  • 各人の囲み上部の数字は生年と没年、下部の数字は即位年と退位年、「前」は紀元前、「?」は不詳を示す。
  • 太字は漢風諡号、生没年に併記されているのは諱、斜体字は別名。
  • 赤色の囲みは女性を示す。
  • カッコ付きの太数字は天皇の代数[要出典]
  • 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室皇室の系図一覧を参照。
前711-前585
神武天皇
前660–前585(1)
 
 
 
前632-前549
綏靖天皇
前581–前549(2)
 
 
 
前577-前510
安寧天皇
前549–前510(3)
 
 
 
前553-前476
懿徳天皇
前510–前476(4)
 
 
 
前506-前393
孝昭天皇
前475–前393(5)
 
 
 
前427-前291
孝安天皇
前392–前291(6)
 
 
 
前342-前215
孝靈天皇
前290–前215(7)
 
 
 
前273-前158
孝元天皇
前214–前158(8)
 
 
 
前208-前98
開化天皇
前157–前98(9)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前148-前29
崇神天皇
前97–前29(10)
 
 
 
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前68–紀元後70
垂仁天皇
前29–70(11)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前13–130
景行天皇
71–130(12)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
82?–113?
日本武尊
 
84–191
成務天皇
131–191(13)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 148? –200
仲哀天皇
192–200(14)
 
 
 
 
170-269
神功皇后
摂政 201–269
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
200-310
應神天皇
270–310(15)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
257–399
仁徳天皇
313–399(16)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 336? –405
履中天皇
400–405(17)
 
 336? –410
反正天皇
406–410(18)
 
 376? –453
允恭天皇
413–453(19)
 
忍坂大中姫
 
意富富杼王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
 
 
 
 
401-456
安康天皇
454–456(20)
 
418-479
雄略天皇
456–479(21)
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
440-484
飯豊青皇女
臨朝秉政 484
 
大脚 449-498
仁賢天皇
488–498(24)
 
450-487
顯宗天皇
484–487(23)
 
444-484
清寧天皇
480–484(22)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
489-507
武烈天皇
498–507(25)
 
手白香皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
450-531
繼體天皇
507–531(26)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
509-571
欽明天皇
540–571(29)
 
465-536
安閑天皇
531–536(27)
 
高田 467-539
宣化天皇
536–539(28)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
538-585
敏達天皇
572–585(30)
 
額田部 554-628
推古天皇
593–628(33)
 
 540? -587
用明天皇
585–587(31)
 
泊瀬部  553? –592
崇峻天皇
587–592(32)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
押坂彦人大兄皇子
 
 
 
 
 
574-622
厩戸皇子
聖徳太子
摂政 593-622
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
軽 596-654
孝徳天皇
645–654(36)
 
宝 594-661
皇極天皇
642–645(35)
齊明天皇
654–661(37)
 
 
 
田村 593-641
舒明天皇
629–641(34)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛城 626-672
天智天皇
661–672(38)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大友 648-672
弘文天皇
672(39)
 
 
 
 
鸕野讚良 645-701
持統天皇
690–697(41)
 
 
 
大海人 631?-686
天武天皇
672-686(40)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
668?–716
志貴皇子
(春日宮天皇)
 
 
 
阿閇 661-721
元明天皇
707-715(43)
 
662–689
草壁皇子
(岡宮天皇)
 
 
676–735
舎人親王
(崇道尽敬皇帝)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
氷高 680-748
元正天皇
715–724(44)
 
珂瑠 683-707
文武天皇
697–707(42)
 
 
大炊 733-765
淳仁天皇
758–764(47)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
首 701-756
聖武天皇
724-749(45)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
? -790
高野新笠
 
白壁 709-782
光仁天皇
770–781(49)
 
717–775
井上内親王
 
阿倍 718-770
孝謙天皇
749–758(46)
称徳天皇
764–770(48)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山部 737-806
桓武天皇
(柏原帝)
781–806(50)
 
750?–785
早良親王
(崇道天皇)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安殿 774-824
平城天皇
(奈良帝)
806–809(51)
 
神野 786-842
嵯峨天皇
809–823(52)
 
大伴 786-840
淳和天皇
(西院帝)
823–833(53)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正良 810-850
仁明天皇
(深草帝)
833–850(54)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道康 827-858
文徳天皇
(田邑帝)
850–858(55)
 
時康 830-887
光孝天皇
(小松帝)
884–887(58)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟仁 850-880
清和天皇
(水尾帝)
858–876(56)
 
定省 867-931
宇多天皇
887–897(59)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞明 869-949
陽成天皇
876–884(57)
 
敦仁 885-930
醍醐天皇
897–930(60)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛明 923-952
朱雀天皇
930–946(61)
 
成明 926-967
村上天皇
946–967(62)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲平 950-1011
冷泉天皇
967–969(63)
 
 
 
 
 
守平 959-991
圓融天皇
969–984(64)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
師貞 968-1008
花山天皇
984–986(65)
 
居貞 976-1017
三條天皇
1011–1016(67)
 
 
 
懐仁 980-1011
一條天皇
986–1011(66)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1013-1094
禎子内親王
 
敦良 1009-1045
後朱雀天皇
1036–1045(69)
 
敦成 1008-1036
後一條天皇
1016–1036(68)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊仁 1034-1073
後三條天皇
1068–1073(71)
 
親仁 1025-1068
後冷泉天皇
1045–1068(70)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞仁 1053-1129
白河天皇
1073–1087(72)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
善仁 1079-1107
堀河天皇
1087–1107(73)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗仁 1103-1156
鳥羽天皇
1107–1123(74)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕仁 1119-1164
崇徳天皇
1123–1142(75)
 
雅仁 1127-1192
後白河天皇
1155–1158(77)
 
体仁 1139-1155
近衞天皇
1142–1155(76)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲仁 1161-1181
高倉天皇
1168–1180(80)
 
 
 
 
 
 
 
守仁 1143-1165
二條天皇
1158–1165(78)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1179-1223
守貞親王
(後高倉院)
 
言仁 1178-1185
安徳天皇
1180–1185(81)
 
尊成 1180-1239
後鳥羽天皇
1185–1198(82)
 
順仁 1164-1176
六條天皇
1165–1168(79)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂仁 1212-1234
後堀河天皇
1221–1232(86)
 
 
 
為仁 1196-1231
土御門天皇
1198–1210(83)
 
守成 1197-1242
順徳天皇
1210–1221(84)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秀仁 1231-1242
四條天皇
1232–1242(87)
 
 
 
邦仁 1220-1272
後嵯峨天皇
1242–1246(88)
 
懐成 1218-1234
仲恭天皇
1221(85)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1242-1274
宗尊親王
1252-1266(鎌倉将軍6)
 
 
 
 
久仁 1243-1304
後深草天皇
1246–1260(89)
 
 
 
 
 
 
恒仁 1249-1305
龜山天皇
1260–1274(90)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1264-1326
惟康親王
1266-1289(鎌倉将軍7)
 
熈仁 1265-1317
伏見天皇
1287–1298(92)
 
 
 
1279-1308
久明親王
1289-1308(鎌倉将軍8)
 
 
 
世仁 1267-1324
後宇多天皇
1274–1287(91)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
胤仁 1288-1336
後伏見天皇
1298–1301(93)
 
富仁 1297-1348
花園天皇
1308–1318(95)
 
1301-1333
守邦親王
1308-1333(鎌倉将軍9)
 
邦治 1285-1308
後二條天皇
1301–1308(94)
 
尊治 1288-1339
後醍醐天皇
1318–1339(96)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
量仁 1313-1348
光厳天皇
1332–1334(北朝1)
 
豊仁 1322-1380
光明天皇
1336–1348(北朝2)
 
 
 
義良 1328-1368
後村上天皇
1339-1368(97)
 
1308-1335
護良親王
征夷大将軍 1333-1334
 
1326-1338/1344
成良親王
征夷大将軍 1334-1338
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興仁 1334-1398
崇光天皇
1348–1351(北朝3)
 
弥仁 1336-1374
後光嚴天皇
1352–1371(北朝4)
 
寛成 1343-1394
長慶天皇
1368–1383(98)
 
熙成 1350?-1424
後龜山天皇
1383-1392(99)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1351-1416
伏見宮栄仁親王
 
緒仁 1339-1393
後圓融天皇
1371–1382(北朝5)
 
参照:
南朝北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1372-1456
伏見宮貞成親王
(後崇光院)
 
幹仁 1377-1433
後小松天皇
1382-1392(北朝6)
1392–1412(100)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦仁 1419-1471
後花園天皇
1428–1464(102)
 
躬仁 1401-1428
称光天皇
1412–1428(101)
 
 
 
 
 
 
 
成仁 1442-1500
後土御門天皇
1464–1500(103)
 
 
 
 
 
 
 
勝仁 1464-1526
後柏原天皇
1500–1526(104)
 
 
 
 
 
 
 
知仁 1497-1557
後奈良天皇
1526–1557(105)
 
 
 
 
 
 
 
方仁 1517-1593
正親町天皇
1557–1586(106)
 
 
 
 
 
 
 
1552-1586
誠仁親王
(陽光院)
 
 
 
 
 
 
 
和仁 1572-1617
後陽成天皇
1586–1611(107)
 
 
 
 
 
 
 
政仁 1596-1680
後水尾天皇
1611–1629(108)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興子 1624-1696
明正天皇
1629-1643(109)
 
紹仁 1633-1654
後光明天皇
1643–1654(110)
 
良仁 1638-1685
後西天皇
1655–1663(111)
 
識仁 1654-1732
靈元天皇
1663–1687(112)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝仁 1675-1710
東山天皇
1687–1709(113)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1704-1753
閑院宮直仁親王
 
慶仁 1702-1737
中御門天皇
1709–1735(114)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭仁 1720-1750
櫻町天皇
1735–1747(115)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1733-1794
閑院宮典仁親王
(慶光天皇)
 
遐仁 1741-1762
桃園天皇
1747–1762(116)
 
智子 1740-1813
後櫻町天皇
1762–1771(117)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英仁 1758-1779
後桃園天皇
1771–1779(118)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1780-1843
勧修寺婧子
 
師仁 1771-1840
光格天皇
1780–1817(119)
 
1779-1846
欣子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恵仁 1800-1846
仁孝天皇
1817–1846(120)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
統仁 1831-1867
孝明天皇
1846–1867(121)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
睦仁 1852-1912
明治天皇
1867–1912(122)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嘉仁 1879-1926
大正天皇
1912–1926(123)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
裕仁 1901-1989
昭和天皇
摂政 1921-1926
1926–1989(124)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明仁 1933-
上皇明仁
1989–2019 (125)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徳仁 1960-
今上天皇
2019- (126)
 
1965-
皇嗣
秋篠宮文仁親王
 
1969-
黒田清子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2001-
愛子内親王
 
1991-
小室眞子
 
1994-
佳子内親王
 
2006-
悠仁親王

 

Remove ads

家族・親族

悠仁親王 父:
文仁親王秋篠宮
祖父:
上皇明仁
曾祖父:
昭和天皇
曾祖母:
香淳皇后
祖母:
上皇后美智子
曾祖父:
正田英三郎
曾祖母:
正田富美子
母:
紀子
祖父:
川嶋辰彦
曾祖父:
川嶋孝彦
曾祖母:
川嶋紀子
祖母:
川嶋和代
曾祖父:
杉本嘉助
曾祖母:
杉本栄子

系図

 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
123 大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇
 
常陸宮正仁親王
 
寬仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上天皇
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王

親族としては、祖父に経済学者の川嶋辰彦叔父に獣医師、獣医学者の川嶋舟、叔母に実業家の栗原菜緒、義兄にニューヨーク州弁護士法務博士小室圭がいる。

Remove ads

栄典

日本

皇位継承順位

さらに見る 順位, 画像 ...

令和元年5月1日時点では、父・文仁親王(60)に次いで第2位。悠仁親王自身または文仁親王が即位前に薨去しない限り第128代天皇となる。平成生まれでは唯一であり、最年少の皇位継承資格者である。

称号・宮号の有無や敬称の表記など

Thumb
菊栂(きくつが)

「悠仁親王」が正式名称。宮家の生まれであるため天皇の皇子女に与えられる称号は持たず、また当主ではないため、「秋篠宮」という宮号も冠さない。身位・敬称を含めた表現は、官報や宮内庁公式HPでは「悠仁親王殿下」と表記している。

ただし眞子内親王佳子内親王同様、便宜上「秋篠宮」を名字の代わりとして用いており、[注釈 2]幼稚園~高等学校の各卒業式では「秋篠宮悠仁」と呼ばれ、コンクールや研究発表では「秋篠宮悠仁」名で参加した。

家族からは幼少時に「ゆうゆう」の愛称で呼ばれ[72]、高校の親しい友人からは「ひーくん」と呼ばれていた。

逸話

誕生時には、21か国の元首から天皇(明仁)・皇后(美智子)へ、31か国の元首から天皇(明仁)へ、それぞれ皇孫誕生の祝電が寄せられた[73]。悠仁親王が誕生したことで、2006年(平成18年)の今年の漢字に「命」が選ばれた。また2位には「悠」がランクインした[74]。さらに3位には「生」、5位には「子」がランクインしている[75]

佳子内親王と同様に左利きで、バドミントンをプレーする際は左手でラケットを握り、文字を書く際などは右手を使うという[76]

祝賀

誕生後の病院に天皇(明仁)・皇后(美智子)が初めて訪れた際、皇后は白いベビーシューズを母子に贈った。この靴は、悠仁親王1歳の誕生日の記念写真でソファ脇の机に飾られているのを見ることができる[77]

トルコトプカプ宮殿博物館からは国宝「金のゆりかご」が貸し出され、2007年(平成19年)8月から9月まで東京都美術館で開催された「トプカプ宮殿至宝展」で特別展示された。これは門外不出の国宝で、トプカプ宮殿博物館館長の厚意により実現したもの。

お印高野槇と決まった後、高野槇を市の木とする岐阜県中津川市の中津川観光協会が高野槇の写真入のパンフレット用紙袋を製作した。また高野槇の名の由来である高野山への交通手段である南海電気鉄道では、誕生記念として難波駅で高野槇1000本を乗客に無料配布した。

記帳所

悠仁親王は皇室では41年ぶりの男子誕生だったが、宮内庁はあくまで一宮家の生まれであるとして誕生を祝うための記帳所を設けなかった。しかし地方自治体寺社などでは独自に記帳所を設けたところもあった。

国内外メディアの報道

悠仁親王の誕生は世界各国のメディアで報道された。王室を持つイギリスでは日本の皇位継承問題に関心があったこともあり、BBCニュースはトップニュースで報道[78]アメリカCNNでは速報で東京特派員が「It's a boy!」と伝えた。またアメリカのニューヨーク・タイムズ紙電子版やTIME[79]中国新華社通信韓国聯合ニュース朝鮮日報[80] なども速報記事や特集記事を出した。また日本国内でも各メディアが報じたが、独立局である三重テレビでは10:59のスポットCM枠で特設ニュース枠が設けられ報じられた。

Remove ads

研究業績

  • 秋篠宮悠仁、飯島健、清拓哉「赤坂御用地のトンボ相―多様な環境と人の手による維持管理―」『国立科学博物館研究報告A類(動物学)』第49巻第4号、2023年11月22日、129–153頁、doi:10.50826/bnmnszool.49.4_129

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads