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1987年の阪神タイガース
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1987年の阪神タイガースでは、1987年の阪神タイガースにおける動向をまとめる。
1987年の阪神タイガースは、2回目の吉田義男監督体制の3年目(通算6年目)のシーズンである。
チームは2年前の日本一、前年のAクラスから一転して低迷した。日本テレビ系列平日朝の情報番組『ズームイン!!朝!』にて、辛坊治郎・森たけし(関西地区のキャスターで、両者とも当時よみうりテレビアナウンサー)がこの低迷を嘆く言葉として発した「なんぎやなぁ」が、この年の新語・流行語大賞銀賞を受賞した。
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概要
要約
視点
シーズン開幕まで
2年ぶりの優勝を目指すチームはトレードで吉竹春樹を放出して西武から田尾安志を獲得した。
オープン戦が行われていた3月22日未明に掛布が飲酒運転により現行犯逮捕となる。すぐに釈放されるも、オーナーの久万俊二郎の怒りは凄まじく、掛布を「欠陥商品」であると発言する事態となるが、これは交通機関である阪神電鉄の球団選手による交通違反が許しがたい出来事であったからとされている[1]。この一連の騒動について当事者の掛布は監督の吉田に対して以下のように話したという。
(久万の「欠陥商品」発言について)十分に反省して、頑張ろうと思っていたのに、これでは嫌がらせとしか思えません。マスコミを介してではなく、なぜ直接言ってくれなかったのでしょう。こんなことが続くなら、自分はダメになります[2]。
また、監督の吉田も久万の対応に苦言を呈しており、自著『監督がみた天国と地獄』では「総帥としての発言が及ぼす影響力を考慮してほしかった」と記している。さらにはオーナー発言を確認する阪神電鉄本社の広報体制についても疑問を呈している。掛布の飲酒運転から5日後の3月27日にはバースがスピード違反により検挙され、相次ぐ中心選手の騒動に球団の管理体制が非難されることとなった[3]。
レギュラーシーズン
4月の開幕戦では敗戦したものの17日時点では貯金1となっていたが、最終的にこの年のタイガースの貯金生活はこれが最後であった。4月下旬と5月下旬にそれぞれ八連敗を喫し、5月終了時点で11勝27敗となっていた。なお、掛布は打率.190、3本塁打と成績不振であり、腰痛を理由に5月末に帰阪する[4]。6月に入るといきなり5連敗を喫し、その最中である6日に行われた対大洋ホエールズ戦終了後[5]、当時の打撃コーチ補佐・竹之内雅史と監督の吉田が采配の面で対立する[6]。竹之内は八回表、ノーアウト満塁のチャンス時にベテランの田尾安志や柏原純一 を起用すべきだと主張したが、吉田はルーキーである八木裕と嶋田宗彦を起用し、結果的に2者凡退となったのである[5]。この翌日、竹之内は試合開始直前に辞任する意向を伝え[5]、結果的にシーズン途中での退団となった[6]。竹之内は球団社長の岡崎義人と仲が良く、岡崎は冷却期間を設けた後に現場復帰させるように吉田に打診するも、吉田はこれを拒否する。これによって岡崎と吉田の関係も悪化することとなる[7]。16日から七連敗、6月月末から六連敗などもあり19勝52敗で前半戦を終えることとなる[8]。
7月と8月の成績は合算で11勝25敗3分であった。死のロードの直前、裏では吉田が取締役の三好一彦から土台作りの目途が立つまでの監督続投を要請されていたにもかかわらず、8月下旬には球団本部長の古谷真吾から来期続投は白紙であるとの旨を伝えられ、さらにその古谷から来期の構想を尋ねられたことで吉田の中でフロントに対する不信感が高まった。9月末から10月初旬にかけて吉田は三好や岡崎、古谷とそれぞれ個別に密会を重ねる。内容は本社とフロントの一体化とコーチ陣の再編成であり、吉田は一本化に関しては快諾したものの一蓮托生にこだわっていたことからコーチ陣の再編成は拒んだ。話は進まない中で岡崎は吉田に対して最終的には久万が判断すると通告する。10月10日の対ホエールズ戦を終えて今季のシーズンは終了した[9]。この年のタイガースは41勝83敗6分で球団史上最低記録となる勝率.331、首位とは37.5ゲーム差で断トツの最下位となる[10]。日本一となった1985年には731だったチーム得点数がこの年は437(リーグ最下位)となり[11]、チーム打率は1985年の.285からこの年は.242(リーグ最下位)まで落ち込んだ[12]。さらに投手陣では日本シリーズで西武ライオンズ打線を完封に抑えた池田親興が5勝13敗で防御率6.10、同じく1985年に最優秀救援投手賞を受賞した中西清起が防御率3.91とそれぞれ成績を落とした[13]。
今オフ、球団フロントは来季監督について吉田を続投させるか否かの話し合いが行われ、久万と前オーナーの田中隆造は続投を支持したものの岡崎は解任を支持し、最終的に現場を受け持つ岡崎側の主張が通った。これにより吉田の解任が決定し、コーチ陣も全員辞めることとなった。次期監督は岡崎からの要請を受けた村山実が務めることとなった[9]。
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チーム成績
レギュラーシーズン
1 | 右 | 真弓明信 |
---|---|---|
2 | 中 | 田尾安志 |
3 | 一 | バース |
4 | 三 | 掛布雅之 |
5 | 二 | 岡田彰布 |
6 | 左 | 柏原純一 |
7 | 遊 | 平田勝男 |
8 | 捕 | 木戸克彦 |
9 | 投 | キーオ |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 読売ジャイアンツ | 76 | 43 | 11 | .639 | 優勝 |
2位 | 中日ドラゴンズ | 68 | 51 | 11 | .571 | 8.0 |
3位 | 広島東洋カープ | 65 | 55 | 10 | .542 | 11.5 |
4位 | ヤクルトスワローズ | 58 | 64 | 8 | .475 | 19.5 |
5位 | 横浜大洋ホエールズ | 56 | 68 | 6 | .452 | 22.5 |
6位 | 阪神タイガース | 41 | 83 | 6 | .331 | 37.5 |
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オールスターゲーム1987
→詳細は「1987年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- この年の阪神は監督推薦による選出のみであった。
入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
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選手・スタッフ
試合結果
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個人成績
投手成績
- 色付きは規定投球回数(130イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高。
打撃成績
- 色付きは規定打席(403打席)以上の選手
- 太字はリーグ最高。
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表彰
達成記録・出来事
- 3月22日 - 掛布雅之が酒気帯び運転のため現行犯逮捕される[14]
- 3月27日 - ランディ・バースがスピード違反のため検挙される[14]
- 4月10日 - マット・キーオが開幕戦のヤクルト1回戦(甲子園)で先発登板、新外国人の開幕投手は球団史上初
- 5月4日 - 真弓明信が大洋6回戦(甲子園)で7回に堀井幹夫から通算200本塁打、史上52人目
- 5月12日 - 山本和行が巨人3回戦(後楽園)の7回に1イニング4被本塁打、史上9人目
- 6月16日 - 竹之内雅史1軍打撃コーチ補佐がチーム打撃不振の責任を取り辞任
- 6月16日 - 北村照文が中日10回戦(ナゴヤ)で3回に鈴木孝政のセンター前ヒットの打球を処理して一塁送球バッターアウトにし、「センターゴロ」を完成させる
- 6月27日 - 岡田彰布が広島12回戦(甲子園)で6回に長冨浩志から通算150本塁打、史上83人目
- 7月6日 - 月山栄珠が退団
- 7月18日 - 掛布雅之が中日16回戦(甲子園)で先発出場し通算1500試合、史上85人目
- 9月3日 - 大洋20回戦(甲子園)で引き分けに終わり2リーグ制以降で通算200試合目の引き分け、史上12球団目(2494勝2253敗200分)
- 9月17日 - 巨人23回戦(甲子園)で勝利し2リーグ制以降で通算2500勝、史上5球団目(2500勝2257敗200分)
- 9月22日 - 大洋24回戦(横浜)で敗戦を喫し、シーズンの大洋戦負け越しが決定したことにより1978年以来史上2度目の全球団負け越しが決定
- 9月27日 - 巨人26回戦(後楽園)が開催され、この試合が球団として後楽園球場での最後の日本プロ野球一軍公式戦となる(通算1025試合480勝505敗40分で、対巨人は通算549試合202勝320敗27分)
- 10月3日 - ランディ・バースがヤクルト25回戦(神宮)で7回に荒木大輔から通算200本塁打、プロ54人目で587試合での達成は田淵幸一(阪神・西武)の714試合を大幅に塗り替える最短記録
- 10月4日 - ヤクルト26回戦(神宮)で敗戦を喫し、1978年の80敗を超える球団ワースト記録
- 10月6日 - 中日24回戦(甲子園)で敗戦を喫し、3試合残し1978年の勝率.339を下回ることが確定(最終勝率.331)
- 10月12日 - 吉田義男監督が解任[15]、翌13日、吉田の現役時代の背番号23が永久欠番と決定[16]
- 10月16日 - 新監督に村山実が就任[16]
ドラフト指名選手
→詳細は「1987年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
出典
参考文献
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