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中華民国
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中華民国(ちゅうかみんこく、繁: 中華民國、注音: ㄓㄨㄥ ㄏㄨㄚˊ ㄇㄧㄣˊ ㄍㄨㄛˊ、ウェード式: Chung-hua Min-kuo、英: Republic of China[8])は東アジアにある共和制国家である。中華民国の略称には中国[9]や民国[10]があるが、中華人民共和国が「一つの中国(中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府である、との原則)」を主張していること、実効支配している領土の大半が台湾島であることから、現代の国際社会では一般的に台湾(たいわん、繁: 臺灣/台灣、注音: ㄊㄞˊㄨㄢ、英: Taiwan)と呼ばれることが多い。1949年以降の首都は台北市である。
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概要

アジアで2番目の共和国[注 3]として、1912年に中国大陸地区で成立したが、国共内戦により台北へ遷都を余儀なくされ、1950年[注 4] 以降は台湾省の全域[注 5]と福建省の極一部の島嶼(台湾地区)、大陸時代には海南特別行政区に属していた東沙諸島と南沙諸島の太平島・中洲島[注 6] を実効支配する海洋国家となった。台湾地区は日本やフィリピン・中華人民共和国(大陸地区)と領海を接する。
五権憲法に基づく議会制民主主義・資本主義体制国家であり、かつては国際連合安全保障理事会常任理事国として国際社会に大きな影響を与えていた。しかし、中華民国の代わりに中華人民共和国を「中国」の国連における唯一の代表とすると認めるアルバニア決議が1971年に採択され、抗議した中華民国政府は国連から脱退し、中華人民共和国が「中国」を代表する国家の地位を継いだ。2025年時点では中華民国を正式に国家として承認している国は12か国に留まるが、以前に国交を結んでいた国々との間では、国交断絶以降も経済・文化面の交流が行われている。
日本は1972年の日中共同声明により中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認して国交を樹立したことに伴い、中華民国政府との国交を断絶した。これによって双方の大使館などが閉鎖された。国交断絶後も民間の実務関係を維持するため、日華相互に非政府組織の連絡機関(日本は日本台湾交流協会、中華民国は台湾日本関係協会)をそれぞれ設置して現在に至る。
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国号
要約
視点
→「台湾の名称の一覧」も参照
中国語(中華民国国語、繁体字表記)での正式名称は、中華民國(拼音: 、ウェード式:Chung-hua Min-kuo、注音符号:ㄓㄨㄥ ㄏㄨㄚˊ ㄇㄧㄣˊㄍㄨㄛˊ)であり、国内では中華と表記することもある。公式の英語表記は、英語: Republic of China(リパブリック・オブ・チャイナ)で、略称はR.O.C.である。
「中華」は、世界の中心にある最も華やかな文明、の意で元来は黄河文明発祥の地とされる河南省辺りを指した。「華」は世界の中心の夏(古代の王朝)を意味する「夏」であった[11]。
国際連合総会決議2758が採択される前、中華民国は国際的に「China」と通称されていた[12]。
1905年7月30日、孫文は日本の東京で中国同盟会の準備会議を開き、『中国同盟会盟書』において「韃虜を駆逐し、中華を回復し、民国を創立し、地権を平均にす」という綱領を掲げ[13]、将来民権主義に基づく共和制の中国を実現するために「中華民国」という国号を定めた。[14]彼は後に1916年、その国号をなぜ「中華共和国」ではなく「中華民国」としたのかを説明した:[15]
諸君は「中華民国」という名称の意味を知っているか?なぜ「中華共和国」と言わず、あえて「中華民国」とするのか?この「民」という一字の意味こそ、私が十数年研究して得た成果である。欧米の共和国は、我が国よりはるか以前に建国されている。だが、二十世紀の国家は創造精神を持たねばならず、十八、十九世紀の成法をただ模倣し、それで満足するようではならない。共和政体とは、代表政体である。世界各国、この旗のもとに属する国々は様々で、例えばギリシャでは貴族と奴隷という階級が存在し、「専制共和」とさえ言える。また、アメリカには十四州において直接民権の制度が確立され、スイスにおいては完全に直接民権制度が施行されている。
我々もすでに専制を廃し、代議政体を採ってはいるが、そこで歩みを止め、後れを取ってよいわけがない。これからの国民は精神を奮い立たせ、世界に向かって万丈の光芒を放つ偉大な創造をなし遂げ、さらに進んで直接民権の領域に至らねばならぬ。
代議政体のもとで、人民が享受するのはただ「代表を選ぶ権利」だけである。しかし、直接民権に至れば、創制権、廃止権、罷免権をもつことができる。ただし、このような民権は広大な省単位では行使しにくいため、郡県単位で施行すべきである。地方財政は完全に地方に委ね、中央の政費のみを分担する。他の諸産業については、アメリカのトラストの弊害を戒め、中央政府が管轄すべきである。
このような制度を数年続ければ、必ずや荘厳にして燦然たる中華民国が東洋大陸に現れ、世界のあらゆる共和国の上に立つことになろう。
国名表記をめぐる諸問題
国名表記の「中華民国」は、中華民国政府による「一つの中国(China)を代表する主権国家」の認識に基づく。1971年に国際連合のアルバニア決議で中華人民共和国が「全中国を代表する主権国家」として承認されて以降、国際連合機関での「中華民国」(Republic of China)の表記の使用事例がなくなり、1984年サラエボオリンピック以後のオリンピックなどのスポーツ大会や国際機関は、Chinese Taipei(チャイニーズタイペイ、中華台北)を用いている。国際連合ならびに同加盟国の多くが、中華民国政府を「全中国を代表する主権国家」として承認せずに台湾地域を実効支配する中華民国政府と非公式関係を維持する、現状を認める名称である。世界貿易機関 (WTO) に「台湾・澎湖・金門・馬祖独立関税地域」(Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu)の名義で加盟し、Chinese Taipei とともに中華民国を表す名称として使用されている。
中華民国の国名や Chinese Taipei の名称について、20世紀末以降おもに台湾地域で反発が生じ、李登輝元総統をはじめとする泛緑派は、国号を中華民国から「台灣」(臺灣)へ改称することを推進する台湾正名運動を興している。「中国の政党」を自任する中国国民党を始めとした泛藍派は国号変更に反対し、国論を二分している。中華民国国民の国に対する意識も1990年代から変化し始めていると喧伝される。
中華民国政府は2003年9月以後、中華民国旅券に正式名称中華民国とともに TAIWAN を付記して発行している。2004年9月7日に中華民国外交部のスポークスマンは、「国交のない国に対しては「台湾」を強調することを最優先課題にし、将来的には国交を持つ国との間でも条約文書などで Taiwan を使用し、中華人民共和国との混同を避けるようにしたい」と話し、「9月7日の時点で行政院は、自国の通称として第一に R.O.C. 、第二に Taiwan 、第三に Taiwan, R.O.C. 、第四に R.O.C.(Taiwan)、第五に TPKM(台湾 Taiwan, 澎湖 Penghu, 金門 Kinmen, 馬祖 Matsu)を使用しているが、陳水扁総統の指示があれば使用順位を入れ替えて Taiwan を第一とする」とも話した。2020年の総統選挙で再選された蔡英文は、立候補時から中華民国台湾を使用して双方の立場に配慮している[16][17]。
近年では、中華民国政府が「中国」を中華人民共和国の略称として用いる例がしばしば見られる。2025年の外交部のプレスリリースでは、中華人民共和国外交部が「中国外交部」と略されている[18]。
日本における国名表記
日本語表記は中華民国。新聞社や通信社など多くのマスメディアでは「中華民国」ではなく「台湾」という表記・呼称を使用し、他の国家と併せて数える際は台湾地区を「地域」として国家に数えないこととしている[19]。
中華民国を「華」、台湾を「台」と通称する例もある。スポーツ関連では上記の通り「チャイニーズタイペイ」(中華台北)を使用することもある。これは主催する団体がチーム名としてこの表記を採用しているためである。旅行業界など経済・文化一般の呼称は大抵「台湾」表記を使用する。
日本国政府は、1972年以降中華民国を国家として承認していないが、サンフランシスコ講和条約において、台湾島一帯の領有権放棄後の帰属については言明していない。日中共同声明では、日本国政府は中華人民共和国の立場を「十分理解・尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」と表明し、「台湾は中国へ返還されるべき」と間接的に認めるのみに留めた。
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国の象徴
国旗
→詳細は「中華民国の国旗」を参照
中華民国の国旗は「青天白日満地紅旗」と呼ばれ、平等を表す白、自由を表す青、革命に献身した人々の血と友愛を象徴する深紅が配されている。
中華民国を国家承認する国は限られ、中華民国外の公的な場で掲揚される機会は少ない。オリンピックなどの国際的なスポーツ大会へ「チャイニーズタイペイ」として出場する際は、梅花旗を代用する。中華民国を解体して台湾本省人国家の建国を目指す台湾独立派には、青天白日満地紅旗を外来政権の旗と捉えて国旗と認めない者もいる。
歴史
要約
視点
中華民国史の位置付け
1912年、中国大陸において中華民国が成立し、北洋政府、国民政府などの時期を経た[20][21]。同時期、台湾および澎湖諸島は日本の統治(1895年から1945年)を受けており[22]、それ以前には、オランダ・スペインの統治(1624年から1662年)、鄭氏政権(1661年から1683年)、および清の統治(1683年から1895年)を経ている[23]。1945年、国民政府は台湾を接収し、台湾の日本式の政治・経済体制は中国大陸の体制と接合された[24]。1949年、中国共産党は中国大陸において中華人民共和国を成立させ、中華民国政府は台湾へ移転した[20]。これにより台湾は政治的周縁から中央の所在地へと転化した[25][26]。1970年代以降、中華民国は国際社会において「中国を代表する地位」を失い、民主的で多元的な社会が形成されるなかで、台湾地方意識や本土文化が重視され、原住民族および客家系集団も民族的地位を求め、新たな国民観念と文化的アイデンティティが出現した[27]。
1980年代以前には、中華民国政府および台湾の学界は中華民国史を「中国現代史」と同一視しており、中国国民党を主体とする国民革命史観のもとで大中国的な領土枠組みを維持し、台湾史は中国の地方史として位置づけられていた[28]。しかし1990年代には、台湾の学界はもはや中華民国史を中国現代史と同一視することが困難となり、台湾史が新たな研究の主流となった一方で、「台湾移転後の中華民国史」と「戦後台湾史」の位置づけや範囲をめぐっては疑義が存在した[29]。建国100周年に至ると、中華民国政府が関与した民国史編纂と台湾学界はY字型の軸線をもつ中華民国史観を発展させ、叙述の主体は台湾における中華民国へと転じ、現在の中華民国の歴史を、台湾移転以前の中華民国史と日本統治下の台湾の歴史との合流として捉えるようになった[30][31][32]。一方、「正統な中国」問題をめぐり、中国大陸の学界では中華民国史を1911年から1949年までの期間に限定して定義するのが一般的である[30][33]。
大陸統治時代
→詳細は「中華民国 (1912年-1949年)」を参照
建国
1840年のアヘン戦争後、清は外交および戦争で敗北を重ね、中国は半植民地化した[20][34]。清朝の改革運動および立憲運動が失敗すると、孫文らは中国同盟会を結成した[35]。1911年10月10日、革命軍は武昌起義を起こし[36]、各省が清朝からの離脱と独立を宣言し、辛亥革命が勃発した[20][37]。同年12月、各省の都督府代表連合会は南京において中華民国臨時政府を組織し、選挙によって孫文を臨時大総統に選出した[20][36][38]。その後、臨時政府は革命軍による武昌起義の成功を記念し、毎年10月10日を中華民国国慶日と定め、「双十節」と称した。1912年1月1日、孫文は臨時大総統に就任し、中華民国は正式に成立した[20][36][39]。建国後、孫文は臨時参議院を組織し、中華民国臨時約法を制定した[20][36][40]。清朝の内閣総理大臣であった袁世凱は中華民国臨時政府と南北和議を成立させ、宣統帝溥儀を退位に追い込んだ。孫文は自ら辞職し、袁世凱が臨時大総統に就任した[36]。これに伴い、臨時政府は南京から北京へ遷都した[20][41]。
軍閥時代
その後、北京政府の内閣は北洋軍閥によって掌握され、これを「北洋政府」と称する[20][42]。国民党の指導者であった宋教仁が暗殺されると、孫文らは第二革命を起こしたが失敗に終わった[43]。正式大総統に就任した袁世凱は中華民国約法を公布し、日本の対華二十一か条要求を受諾した。さらに中華帝国建国を企図したことで護国戦争が勃発した[44]。袁世凱の死後、北洋政府では対独宣戦を契機として府院の争いが生じ、張勲復辟や曹錕賄選などの事件を経た[20][36][45]。一方、北洋政府に不満を抱いた孫文は1919年に中華革命党を中国国民党へ改組し、広州市において広東軍政府を樹立、さらに1923年には後の国民政府の基となる広東大元帥府を広州に樹立したものの、1925年に死去した。そして護法運動による南北分裂の情勢が生じた[20][36][46]。中国の知識人が新文化運動を展開し、さらに五・四運動が勃発すると、文化改革と思想の発展が促進された[47]。また中国共産党は1921年に成立した[43]。
北洋軍閥と地方軍閥が権力争いを続け、各勢力が混戦に陥るなか[20]、中国国民党と中国共産党は連ソ容共の方針のもとで、1924年に第一次国共合作を行い、陸軍軍官学校を設立した[48]。1925年、中国国民党の指導の下で国民政府が広州市に成立した[20][49]。1926年からは蔣介石が国民革命軍総司令に就任し、北伐を開始した[20][50][51]。1927年には南京を首都とし[20]、同時に清党を実施した[52]。1927年に南京事件が起こったことで同年4月に国共合作を解消すると、蔣介石の指揮下で上海や武漢などの各地方で中国共産党員を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。国民政府はその後、汪兆銘らの武漢国民政府とこれに反対する蔣介石らの南京国民政府とに分裂(寧漢分裂)するが、間もなく両者は合流した。北方軍閥の張作霖が日本軍によって暗殺された後、跡を継いだ息子の張学良は蔣介石の傘下に入り、満洲(東北部)は国民政府の支配下に入った(易幟)。この1928年の易幟を経て北洋政府は終焉し、中国の分裂状態は統一が宣言された[20][53]。その後、国民政府は孫文の遺教に基づき、党国体制による訓政を実施し、国家建設は南京十年として発展を遂げた[20][54]。同時期、内部では地方軍閥や中国共産党勢力が割拠し、外部では大日本帝国の脅威にさらされていた[20][55]。1927年以降、中国共産党は各地に革命根拠地を建設した[56]。
日中戦争
1931年、日本は満州事変を引き起こし、愛新覚羅溥儀を執政とした傀儡政権である満州国を樹立した[20][57]。さらに1937年、日本が盧溝橋において盧溝橋事件を引き起こすと、日中戦争は全面戦争化し、戦争初期には日本軍が南京市を占領した(ただし宣戦布告はどちらからもされておらず、支那事変と呼んだ)。国民政府は重慶へ遷都し、重慶市を陪都としたため、双方は膠着状態に陥った。これに対抗して日本軍は、国民党の反蔣介石派であった汪兆銘を首班とした新たな国民政府(汪兆銘政権)を南京に樹立させる。その後、西安事件で第二次国共合作が成立した。さらに、1941年12月に日本とイギリス・アメリカ合衆国などとの間で太平洋戦争が始まったことで、中華民国はアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦とともに連合国の主要国として枢軸国と対峙。日中戦争は第二次世界大戦の一部となり、最終的に1945年に勝利を収めた[20][50][58]。
戦後


日本の降伏後、国民政府は南京市に還都し[20]、一方で中国共産党は日本の占領地域に進出し、双方は政治協商会議を開催した[56]。中華民国は第二次世界大戦での勝利により主要戦勝国の一国として国際連合の設立メンバーとなる。1946年、制憲国民大会は《中華民国憲法》を可決した[20][59][60]。1947年には《中華民国憲法》が施行され[59][61]、第一回国民大会が開催された[20][62]。1948年、国民大会は選挙により蔣介石を憲法施行後の初代総統に選出し[50]、同年には《動員戡乱時期臨時条款》が公布された[20][59][61][63]。この期間、中華民国国軍と中国共産党との間で全面的な内戦が勃発した[20][50][64]。
日清戦争後の下関条約に基づき、1895年に台湾及び澎湖諸島は清から日本へ割譲されていた[65]。1943年に中華民国・アメリカ合衆国・イギリスの三カ国が発表したカイロ宣言は正式な国際条約ではなかったものの、この宣言では、中華民国は戦後に台湾および澎湖諸島を接収・管轄するという方針が示された[66]。1945年9月2日の日本の降伏文書調印により、中華民国政府は一般命令第一号に基づいて台湾へ進駐し、行政機関として台湾省行政長官公署を設置した。1945年10月25日に台北で日本側の安藤利吉台湾総督兼第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華民国は台湾光復の式典を行って台湾省を設置し、台湾の実効支配を開始した。中華民国は10月25日を「台湾光復節」と定めた[67][68]。
一方、1945年10月にアメリカの調停で結ばれた双十協定は破綻し、1946年6月から本格化した第二次国共内戦ではアメリカからの支援が打ち切られたことなどが災いして、ソ連が支援する中国共産党に対して中華民国政府は劣勢に陥る。1947年、台湾省行政長官公署の施政上の失策などを背景として台湾で大規模な抗議運動が発生し、国民政府が軍隊を派遣してこれを鎮圧した。この一連の出来事は「二・二八事件」と称され、省籍間の対立が拡大する結果となった[69]。しかし、第二次国共内戦における劣勢により、1949年初めには中華民国の実効支配地域が縮小する[20][70]。同年1月に蔣介石総統は内戦不利の責任をとり辞任して、副総統の李宗仁が代理総統となると、蔣介石は段階的に軍隊を台湾へ移動させ、台湾地域においても戒厳が宣言された[71]。中華民国政府は中国共産党との北平和談で最終案の国内和平協定に署名せず、同年10月に中国共産党は中華人民共和国を成立させた[20][72]。
台湾移転後
台湾への移転と冷戦

→「中華民国政府の台湾への移転」および「中国国民党による一党独裁時代の台湾」も参照
1949年12月7日、中国国民党率いる中華民国政府は台北市へ遷都し[20][50]、あわせて約200万人が台湾へ移住した[73]。その後の国共内戦の進行に伴って中国大陸における統治権を完全に喪失した。
朝鮮戦争後、中華民国はアメリカ合衆国から軍事的支援および援助を受ける。日本は連合国および中華民国とそれぞれ日本国との平和条約、日華平和条約を締結し、正式に台湾に対する主権を放棄したが[74]、同条約ではそれらの帰属先が明言されていないため、台湾の国際法上の領有権は「未確定である」とする説(台湾地位未定論)が台湾独立派を中心に主張されている。
中国代表権問題と国連脱退
その後、中華民国政府は引き続き「中国」を代表する立場を主張し、大陸反攻を計画するとともに、台湾において権威主義的な党国体制を構築し、言論・出版の統制、政党結成の禁止を行い、白色テロを引き起こした。一方で、その党国資本主義的な経済政策は台湾経済の急速な発展を促し、「台湾の奇跡」を生み出した[75][76]。1971年、国際連合総会はアルバニア決議により中華人民共和国を「中国」の唯一の合法政府と認め、中華民国は国際社会からの承認を喪失し、国連及び関連機関から脱退することとなった[50][77]。1972年にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが北京を訪問し、中華人民共和国を承認する意向を見せると、アメリカの影響下にある多数の西側国家がこれに同調し、日本は中華人民共和国を承認して中華民国と断交(日中国交正常化)。アメリカはその後、1979年、最終的に中華人民共和国を「中国の代表権を有する正統政府」として承認した。
台湾の民主化
1975年、蔣介石が死去し、副総統の厳家淦が総統に就任した[75][78]。1978年には蒋経国が総統に就任し、在任中に台湾出身のエリート層を登用した[79]一方、党外運動の活動家に対する美麗島事件も発生した[80]。1980年代には、1相次ぐ民主化要求運動をきっかけに、民主進歩党の結成後、蔣経国が1987年に戒厳を解除し、続いて政党結成の規制や出版・言論統制の解除、中国大陸への訪問解禁など政治的規制の撤廃を行ったことで、台湾の民主化が急速に進展した[79] [81]。
1988年に蒋経国が死去した後、李登輝が総統に就任し、1991年には動員戡乱体制を終結させた[59][82]。これにより、中華民国政府が実効支配地が台湾地区に限られるという実態が承認された[83]。1991年から2000年にかけて、度重なる憲法増修を経て[59][61]、中華民国は権威主義体制から民主主義体制へと移行し[82]、台湾主体意識などが顕在化した[84]。このころ、「万年国会」については全面改選が行われ、続いて1996年には初めて総統の直接選挙が実施され、国民党一党独裁(党国体制)による寡頭共和制は終わり、複数政党制と半大統領制を主体とした民主共和制に変わった(総統民選期の中華民国)[82][85]。中台関係は徐々に発展したが、台湾の経済成長はすでに鈍化していた[86]。2000年および2004年では、民主進歩党所属の陳水扁が総統に当選し[87]、中国国民党による50年に及ぶ一党支配体制が終焉を迎えた[88]。しかし、2001年年の立法委員選挙では泛藍連盟の議席数を下回り、中華民国憲政史上初の少数与党となった。陳水扁は在任中、「台湾は主権独立国家である」と強調し、国民投票の推進を行ったが[87]、政権末期には複数の汚職事件が発覚した[89]。
近年の動向


2008年および2012年において、中国国民党所属の馬英九が総統に当選した[90]。任期中、中台関係改善が進められ、経済協定が締結された[91]。しかし2014年、経済停滞や海峡両岸サービス貿易協定が主権を脅かす恐れがあるとして、台湾ではひまわり学生運動が発生した[92]。2015年には、馬英九と習近平がシンガポールにおいて中台首脳会談を行った[90][93]。2016年には、民主進歩党所属の蔡英文が初の女性総統として当選し、さらに2020年に再選した[94]。民主進歩党は2016年において初めて立法院の過半数議席を獲得し[95]、2020年においても引き続き多数を維持したことにより、蔡英文は「完全執政」と呼ばれる体制のもと、民主進歩党初の多数与党を成立させた[96]。2024年では、民主進歩党所属の頼清徳が総統に当選し、民主進歩党として初めて3期連続の政権担当を実現した[97]。しかし、立法院では過半数議席を獲得できず、少数与党となった[98]。2024年5月には、台湾民衆党が中国国民党と連携して推進した国会改革法案が大きな論争を引き起こし、社会運動および大規模な抗議行動へと発展した[99][100]。2025年には、論争となった法案の成立と政治的対立によって、大罷免が台湾全土で発生した[101]。
アメリカとの関係強化
アメリカ合衆国は、第二次世界大戦勃発以来、中華民国と事実上の同盟関係にあり、中華民国が軍事的脅威にさらされた(台湾有事)場合は台湾関係法に基づき、あらゆる行動を取ることになっている。実際に、1996年に行われた総統選挙に伴い、中華人民共和国の人民解放軍(中国共産党軍)が選挙への恫喝として軍事演習を強行し、基隆沖海域にミサイルを撃ち込むなどの威嚇行為を行った際(第三次台湾海峡危機)には、アメリカ軍はこれに対して台湾海峡に空母打撃群を派遣し、ウォーレン・クリストファー国務長官は「アメリカは必要な場合には、台湾を助けるために台湾に近づく」と中華人民共和国に対して警告した。
2008年3月に行われた総統選挙の際も、台湾近海に空母2隻が派遣された。その総統選挙で当選した馬英九は、2010年に中華人民共和国と自由貿易協定として両岸経済協力枠組協議を締結、事実上の経済同盟を発足させるなど、2010年代から両岸関係は回復する方向に進んだ。
年表
- 中国大陸統治時代
- 1912年1月1日:中華民国臨時政府が南京で成立。孫文が臨時大総統に就任。その後袁世凱が臨時大総統に就任して北京に首都を移転。
- 1913年10月6日:日本政府をはじめ、13カ国が中華民国を承認[102]。日本政府は「支那共和国」と呼ぶことに決めた[103]。
- 1916年:袁世凱が中華帝国皇帝即位を宣言するが、内外の反対により断念。間もなく、袁世凱の死去により、各地の軍閥による全面的な内乱状態になる。いわゆる北京政府、北洋軍閥政府が対外的に中国を代表する中華民国政府として1928年まで存続。
- 1919年:徐樹錚が外蒙古を占領、モンゴルの自治権を奪う(翌年ボグド・ハーンを冊封)。
- 1920年:シベリア出兵中の日本軍を、ニコラエフスクでソビエト連邦(ソ連)赤軍を支援して撃破(尼港事件)。
- 1921年:中国軍、外蒙古より撤退。ソ蒙修好条約でソ連がモンゴルの独立を承認。
- 1927年3月:南京事件で国民革命軍が列国の大使館・租界を襲撃し、アメリカ軍・イギリス軍による反撃を受ける。蔣介石は上海クーデターを起こし共産主義者を検挙する。
- 1928年6月9日:蔣介石率いる南京国民政府が中国全土を統一。(首都:南京)。北京を北平に改称する。
- 1929年7月:満洲に侵攻したソ連軍によって奉天軍閥が撃破される(中ソ紛争)。
- 1931年9月18日:満洲事変勃発。
- 1932年3月1日:満洲国建国宣言(1945年崩壊)。
- 1933年5月31日:国民革命軍と日本軍との間で塘沽停戦協定締結。
- 1936年12月12日:西安事件により剿共作戦を止め対日戦へ転換。
- 1937年7月7日:日本と南京国民政府との間で日中戦争が勃発。首都南京陥落後、蔣介石率いる南京国民政府は漢口、重慶へ撤退。
- 1938年:日本政府の支援によって、汪兆銘を首班とする南京国民政府が成立。
- 1943年:アメリカ合衆国およびイギリスとの新条約を締結。これにより、約100年に及ぶ治外法権と租界が事実上解消。
- 両岸統治時代(第二次国共内戦)
- 台湾における中国国民党の一党独裁時代
- 1949年12月7日:中華民国政府が台北に移転。
- 1950年1月:イギリス、中華民国と断交し中華人民共和国を承認。蔣介石、総統に復帰する。政府の活動が本格化。マッカーサー米陸軍元帥訪台。
- 1951年:サンフランシスコ講和会議においてイギリスが中華民国代表の招請を拒否。
- 1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印)の発効と日華平和条約の調印(8月5日発効)。これらの条約により、日本は台湾・新南群島の権利、権原および請求権を保持しないことを宣言(ただし、両条約とも台湾の帰属先を明言したものではない)。中華民国政府と日本の国交が回復。
- 1953年:ソ連の条項違反(中国共産党を支援したこと)を理由として中ソ友好同盟条約を破棄し、モンゴル独立の承認を取り消す。
- 1958年:福建省金門県で、人民解放軍との間に八二三砲戦が勃発。
- 1960年:アイゼンハワー米大統領訪台。
- 1961年:ビルマの雲南人民反共志願軍第1、2、4軍が台湾へ撤収。残り第3軍(軍長:李文煥)、第5軍(軍長:段希文)がタイへ転進。
- 1971年10月25日:国際連合総会にて国際連合総会決議2758(アルバニア決議)が可決され、国連における「中国」の代表権を喪失。可決の直前にに国連から脱退。
- 1972年:日本政府がモンゴル人民共和国と国交正常化。日本国と中華人民共和国の国交樹立により、日華平和条約の失効が日本側から一方的に宣言される。日本との国交を断絶。
- 1975年4月5日:蔣介石総統死去。厳家淦が総統に就任。
- 1978年:蔣経国が総統に就任。
- 1979年12月:美麗島事件が勃発。
- 1987年7月15日:台湾省・台北市・高雄市における戒厳令を解除。
- 1988年1月:蔣経国総統死去。李登輝が総統に就任。
- 1992年11月7日:福建省における戒厳令を解除。
- 1996年3月23日:初の直接選挙による総統選が実施され、李登輝が当選。
- 2000年:総統選で民主進歩党の陳水扁が選出され、国民党が初めて野党となる。
- 2002年:台湾・澎湖・金門・馬祖独立関税地域」の名義で世界貿易機関に加盟。
- 2004年:陳水扁が民選総統として初めて再選される。
- 2005年:連戦国民党主席が中国大陸を訪問。胡錦濤中国共産党総書記と1945年以来60年ぶりの国共首脳会談を行う。
- 2008年:総統選で国民党主席の馬英九が民進党の謝長廷を破って当選し、国民党が8年ぶりに政権を掌握。
- 2012年:馬英九が総統に再選される。
- 2016年:総統選で民進党の蔡英文が女性総統として初めて選出される。
- 2020年:蔡英文が総統に再選される。
- 2024年:総統選で民進党の頼清徳副総統が当選[106]。
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政治
要約
視点
| 頼清徳 第8代総統 |
蕭美琴 第13代副総統 |
政治制度
中華民国は半大統領制の国家であり、主権は国民全体に属する[20][59][107]。『中華民国憲法』は、行政・立法・司法の三権のみでは不十分であるとして、考試および監察の二権を加えている[61][108]。総統は国家元首であり、その下に行政院、立法院、司法院、考試院、監察院が置かれている[109][110][111]。総統は対外的に国家を代表し、法に基づき法律を公布し、命令を発し、官吏を任命するなどの権限を有する。また、総統府を設置し、資政、国策顧問、戦略顧問を選任する[109][110][112]。総統および副総統は、中華民国の自由地区における国民の直接選挙によって選出され、任期は4年である[109][110][113][114]。行政院は国家の最高行政機関であり[110]、その下に30の中央行政機関が置かれている[109][115]。行政院長は総統によって任命され、行政院長が総統に対して副院長、部会の長、政務委員の任命を請求し、これらにより行政院会議が構成される[109][110][116]。
立法院は国家の最高立法機関であり、国民を代表して立法権を行使し、複数の委員会を設置している[109][110][117]。立法院は行政院長および各部会の長に対する質疑、政策法案の議決や再議決などを行い、113名の立法委員によって構成される[113]。また、立法委員の互選により立法院長および副院長が選出される[109][110][118]。立法委員は単一選区両票制により選出され、任期は4年である[109][110][113]。内訳は、地域選出立法委員73名で、単一選挙区(人口比例に基づき区分)から選出され、各県市は最低1名を有する。平地原住民および山地原住民選挙区の立法委員はそれぞれ3名で、別途選挙区を設けない。さらに、全国不分区及び僑居国外国民選挙区の立法委員34名は、政党名簿に対する投票により、政党得票率に応じて選出される[109][110][113][119]。また、国民は国民投票を通じて、法律または政策を決定することができる[113][120]。
司法院は国家の最高司法機関であり、憲法解釈、民事、刑事および行政訴訟の裁判、ならびに公務員の懲戒を掌る。司法院は司法院大法官によって構成され、司法院院長および副院長を各1名置く[109][110][121]。考試院は国家の最高考試機関であり、考選部、銓叙部、公務人員保障暨培訓委員会および公務人員退休撫卹基金監理局を設置する。考試院は考試委員によって構成され、考試院院長および副院長を各1名置く[109][110][122]。監察院は国家の最高監察機関であり、審計部および国家人権委員会を設置する。監察院は監察委員によって構成され、監察院院長および副院長を各1名置く[109][110][123]。司法院の正副院長および司法院大法官、考試院の正副院長および考試委員、監察院の正副院長および監察委員は、総統が指名し、立法院の同意を経て任命される[109][110][124]。
司法制度
司法院には憲法法廷、普通法院(地方法院、高等法院、最高法院)、行政法院(地方法院行政訴訟庭、高等行政法院、最高行政法院)、懲戒法院、専門裁判所(知的財産商業法院、少年及び家事法院)などが設置されている[109][110][125]。憲法法廷は15名の司法院大法官によって構成され、憲法訴訟法に定められた事件を審理する[109][110][126]。各級法院は民事・刑事・行政および知的財産訴訟の裁判を担当し、懲戒法院は公務員、法官(裁判官)および検察官の懲戒を掌る[109][127]。法官(裁判官)は終身職であり、選考または試験によって選抜され、法務部司法官学院での訓練を経て任命される。法官は法に基づき独立して裁判を行わなければならず、適格性を欠く場合には免職されることがある[110][128]。
政治史
中華人民共和国やベトナムやシンガポール、かつては大韓民国やマレーシアなど、周辺には実質的な一党独裁制を敷いている・敷いていた国家が多いが、中華民国も例外ではなかった。中華民国では1928年より党国体制が敷かれ、蔣介石とその息子蔣経国による世襲の独裁の下で戒厳が施行され、共産主義政党や本省人による台湾独立や完全選挙(国民大会や立法院での大半の議席は大陸選出枠としてほぼ固定化していた)を求める政党は「国家安全法」と「人民団体法」により存在を許されなかった。このような状況が改められたのは戒厳が解かれた1987年からである。
→「台湾の政党」も参照
「二つの中国」

中華民国の政治において特筆すべきことは、中華民国政府も中華人民共和国の中国共産党政府と同様、自らを「中国の正統政府」であるとしている点である。これは、中華民国政府が、蔣介石率いる中国国民党が中国大陸を統治していた1947年に施行した中華民国憲法に基づいて樹立された政府であることに由来しており、1949年の毛沢東率いる中国共産党による中華人民共和国樹立は「反乱団体(共匪)による非合法行為」としてきた。
このような中華民国政府の主張は国際的に受け入れられており、中華人民共和国成立後も国連をはじめとする国際社会における中国の代表権も中華民国政府にあった。香港問題を抱え、中華人民共和国に対して政治的配慮を必要としていたイギリスを除き、ほとんどの西側諸国が当初は中華民国政府を「中国の正統政府」として認めていた。
しかし、冷戦下におけるアメリカ合衆国とソビエト連邦を中心とした東西両陣営の政治的駆け引きの中、アルバニア決議によって中華民国政府が国連の中国代表権を失って脱退してからは、西側諸国においても中華民国政府を中国の正統政府として承認する国は減少した。そのため、2024年時点ではバチカンやパラグアイなど、12カ国のみが国家承認しているという状況である。ただし、中華民国政府は日本やアメリカ、フランスなどをはじめとする多くの非承認国にも「台北経済文化代表処」などと称される利益代表部を置いており(中華民国の在外機構の一覧参照)、相手国も台湾にそのカウンターパートを設置しているため、国際的な交流は一定程度保たれている。
中華民国とバチカンの外交関係の歴史は古く、第二次世界大戦中の1942年に確立されている。一方で、中華人民共和国は1951年からバチカンと断交状態にある。しかし、近年になって両国は国交樹立に前向きな姿勢を示しており[129] 急速に接近している[130]。
タイムライン
歴代総統
→「中華民国総統」を参照
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治安・消防組織

→「中華民国の警察」も参照
情報機関
1925年に成立した国民政府は、中国大陸統治時代に各地の軍閥と対峙したほか、日本(日中戦争)や中国共産党(国共内戦)と長期にわたる軍事衝突を続けていた。中華民国政府への改組以降も「一つの中国」(正統な「中国政府」の立場)を巡って中華人民共和国と激しく対峙していたため、国府は敵対組織に対する強力な諜報・防諜能力を必要としていた。このような経緯があり、1990年代の民主化以降も、中華民国には下記の通りに情報機関が存在している。
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国家安全保障
要約
視点
→詳細は「中華民国国軍」を参照





中華民国国軍
国民革命軍を前身とする中華民国国軍は中華民国憲法第36条に規定されており、中華民国総統が陸海空軍の統帥権を持つ。国防部組織法、国防部参謀本部組織法、国防部政治作戦局組織法、国防部軍備局組織法、国防部軍医局組織法、国防部主計局組織法の、いわゆる国防六法で定義されている。
中華民国憲法第20条により徴兵制度が敷かれていたが、徴兵規則の変更で2012年1月1日から徴兵を「停止」し、2018年12月26日に徴兵制が「廃止」され、志願制度に移行した[注 7]。当初は2014年に完全な志願制へ移行(4箇月の軍事訓練も廃止)を予定していたが[131]、軍事訓練は残ることとなった[132][133]。
2012年以前の徴兵制度では、満19歳以上の男子国民は、常備兵役として12か月間の兵役義務(2003年までは22カ月)を有していたが、良心的兵役拒否権が認められていた。制度の移行期間中は、1994年1月1日以降に出生した男性については2013年1月1日より4箇月の常備兵役の軍事訓練を受けることにし、1993年12月31日以前に出生した男性については、徴兵を受けていない者あるいはまだ徴兵に就いていない者は兵役法第25条3項の規定に基づいて1年間の期限で代替役(兵役の代わりに公的機関で勤務)につく。兵役では、基礎訓練と専門訓練をそれぞれ8週間ずつ行う。基礎訓練は1日8時間の計320時間、専門訓練は1日7時間の計280時間。訓練終了後は予備役に編入される。訓練終了時の合格基準は、基礎は腹筋運動と腕立てを2分間25回ずつと19分以内の3000メートル完走、専門段階では腹筋と腕立てを2分間32回ずつと17分以内の3000メートル完走となっている。
中華民国国軍は正規軍で約21.5万人、予備役で約180万人の兵力を擁しており、正規軍の内訳は陸軍13万人、海軍4万0000人(陸戦隊10000人)、空軍3万5000人、憲兵5500人である。主力戦車926両以上、駆逐艦・フリゲート艦24隻、潜水艦4隻、作戦機約400機となっている。中華民国国軍の最も重要な軍事基地は中国大陸沿岸の金門島である。アメリカ合衆国は、米華間の協定である「台湾関係法」を根拠に兵器の輸出を行っている。
1949年以降の中華人民共和国との軍事的対立を背景として、中華民国の軍事施設には自国製のみならずフランス製やアメリカ製の最新鋭の兵器、軍用機、軍用船が装備されている。だが、中華民国の国防関係予算が2015年度を基準として過去20年間ほぼ横ばいの増減となっている一方、中華民国と敵対する中華人民共和国が継続的に高い水準で国防費を増加させており[133]、政府は特別予算を組むなどして対応している。将来的には総兵力を27万5000人から21万5000人まで削減し、兵士の専門性を高める予定でいる[133]。女性兵士の割合は7.7%で、女性軍人は約1万5000人となっている。上限は8%だが、将来的には女性定員枠を拡大する方針を明らかにしている。
2006年10月9日、陳水扁総統は中華民国国慶日(双十節)式典に出席するため訪台した日華議員懇談会のメンバーと会見し、その席で北朝鮮が同日に地下核実験を実施したことを強く非難するとともに、日本とアメリカ合衆国との軍事交流を強化して、両国と準軍事同盟を構築する必要性を強調した[134]。
2015年(民国104年)度の国防関係予算は、3,128億元で、国家予算全体に占める割合は16.17%となっている[135]。過去10年の国家予算に占める国防関係費の比率は2008年以降減少しており[135]、GDPに対する比率も約2%で推移している[136]。
2021年3月、中華民国国防部が公表した今後4年間の国防方針を記した報告書では、章を独立させて中華人民共和国からの防衛に関する対外協力の重要性を確認[137]。アメリカ合衆国との連携に加え、名指しを避けながらも日本を念頭に「民主的な友好国と人的交流や軍事演習の見学、国防関係者の駐在拡大などを図り、協力の拡大をめざす」とし、台湾有事の回避に加え、中華人民共和国の攻撃を受けた場合の防衛にはアメリカ合衆国と友好国の協力が欠かせないとの認識を示している[137]。アメリカ合衆国・日本と正式な軍事演習を実施できていない現状を踏まえ、「せめて台湾有事を想定し、早急に両国と無線やコンピュータを使った通信の訓練をしておくべきだ。軍にとって通信は最も大切な基礎だ」とする意見もある[137]。
民間防衛も強化しており、2022年1月には「全民防衛動員署」を開設。中国軍の増強や2022年ロシアのウクライナ侵攻を受けて、地方政府による災害対応の動員訓練を同年春から夏は戦時対応に改め、同年4月12日に『全民国防ハンドブック』の雛型を公表した[138]。
台湾関係法
→「台湾関係法」も参照
アメリカ合衆国と中華民国の間には正式な国交が無いが、中華民国が軍事的脅威にさらされた場合は、台湾関係法に基づき中華民国を助けることとなっており、事実上の同盟関係にある。実際に、1996年3月23日に行われた総統選挙の前後に、「独立派」と目される李登輝総統の再選を阻止しようとした、中華人民共和国の中国人民解放軍が、台湾島近海に「実験」と称して弾道ミサイルを発射し、第三次台湾海峡危機になったことに対し、アメリカ軍は「インディペンデンス」「ニミッツ」を基幹とした空母打撃群を派遣し、中国を牽制した。
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国際関係
要約
視点

正式な国交はないが、非公式な外交関係を持つ国
→詳細は「中華民国の国際関係」を参照
国家承認している国
→「中華民国の在外機構の一覧」を参照
2024年1月時点で、中華民国を国家承認し、公式の外交関係を持つ国連加盟国は、11か国(非加盟国のバチカンを含めると12か国)である。「中華民国政府を認めるか、中華人民共和国政府を認めるか」という「一つの中国」論により、これらの国は中華人民共和国との国交を結んでいないが[139]、このうちセントルシアなどは、かつて中華人民共和国と国交を結んだが、後に中華民国と国交を回復した[140][141]。かつて中華人民共和国との国交を断交した後、再び中華民国と断交したナウルのように、方針が二転三転する国家も存在する[142]。
かつては中華民国が中国大陸を統治しており、国連創設時の初期メンバーでもあったため、多くの国と国交を結んでいた。しかし、中華人民共和国が大陸を統治し始め、アルバニア決議により中華民国が国連を追われると、外交関係国は1969年の68か国から1978年には21か国に激減した[143]。さらに、中華人民共和国の国際的な影響力が増大した2000年代以降、中華民国を承認する国は減りつつある[144]。
国家承認をしていないが実質的に外交関係を継続している国
第二次世界大戦以前に多くの国々と国交を樹立していた経緯から、現在国交を結んでいない国々との間でも実質的に外交関係を継続している。その中でも台湾島や澎湖諸島の旧統治国である日本や旧同盟国のアメリカ合衆国、西欧諸国との関係を重視している。こうした国々の多くでは、事実上の大使館として台北経済文化代表処が設置されている。
- 第二次世界大戦後の1952年に日華平和条約が調印され、日本は中華民国との国交を回復した。しかし、1972年の日中共同声明調印による日中国交正常化を受け、日華間の国交は断絶された。日本ではアメリカの台湾関係法に相当する国内法が制定されなかったが、経済交流を従来通り維持させるため、事実上の大使館・領事館の役割を果たす民間の利益代表部(日本台湾交流協会)を設置し、非公式の外交関係を維持している。協会の台北事務所へ経済産業省、外務省、防衛省の職員などが出向している[145]。両国政府が利益代表部を通じて二国間協定を締結したり、親書の交換がされたりしている[146][147]。超党派の日華議員懇談会を中心にして、議員外交も盛んに行われている。馬英九総統は日台関係を「特別なパートナーシップ」と位置づけ、経済貿易・文化・青少年・観光・対話の5つのテーマを主軸に交流強化を推進している。与野党政治家の往来も活発に行われている。
- 第二次世界大戦において同盟国として戦い、戦後も米華相互防衛条約を結んで同盟関係を保ってきたが、1979年に国交を断絶して同条約は失効し、中華人民共和国を「中国を代表する政府」として承認している。
- しかし、歴史的経緯から断交後も中華民国を諸外国の国家および政府と同等に扱っており、「台湾関係法」「台湾旅行法」によって事実上の外交関係が維持されている。台湾関係法では、原子力協定や武器売却などの、1979年以前に両国との間で締結された条約を有効なものと認めている。米台間の大使に相当する者には外交特権が付与されており、与野党政治家の往来も活発に行われている。
- トランプ政権発足後は米台関係がより強固になり、2018年には、アメリカ合衆国下院において中華民国との国交回復を求める決議案が提出された[148]。
- バイデン政権の発足以降、米台関係はさらに強固なものとなり、2022年8月13日、中華民国外交部は台湾海峡の安全を維持している米国に感謝の意を表明した[149]。
冷戦後の動向
李登輝政権時代に入り、中華民国政府は中華人民共和国の存在を「反乱団体による非合法行為」とは規定しなくなったが、現在も中華民国を「『中国』の正統政府」とする主張は変えていない。そのため、中華民国国内では、「『中国』の正統政府」であることをやめ実効支配地域のみを統治する政府として国家を再編することで、中華民国の新たな国際社会復帰を模索する動きも活発化している。2005年8月1日には、陳水扁総統が「中華民国は台湾」と語っており、中華民国の国家としての定義は国内において二分している状況である。
さらに21世紀初頭では、両岸を統治することを前提とした中華民国の国家体制から脱却し、台湾のみの統治を前提とした国家を創出する台湾独立運動も活発化しており、そのことが問題をより複雑化している。もっとも、台湾においては、この問題に関するさまざまな意見が存在しているものの、少なくとも台湾が中華人民共和国に属するものではないという点では世論の大勢が一致している。そのため、中華民国の国会たる立法院の議員は、主に「台湾の主権は中華民国に属する」とする泛藍派と、「台湾の主権は中国の国家には属さない」とする泛緑派(台湾独立派)のいずれかに大別される。
世論調査では、「実質的に中国共産党による一党独裁国家であり、言論や思想、宗教選択の自由すら許されていない中華人民共和国」と完全に分離して、議会制民主主義体制が堅持されている現在の状況を維持したいとの意見が大勢であり、中華人民共和国との統一や中華民国体制からの独立を望む声は少数意見である。そのため、中華民国の世論は基本的には現状での安定志向にあると言え、各党も世論を配慮しながら政治活動を行っている。
アメリカ、イギリスなどの中華人民共和国と国交のある諸国の政府も、公式には中華人民共和国の唱える「一つの中国」政策を支持しているものの、大統領制議会民主国家を維持することを望む中華民国の国民の意向を尊重することと、中国共産党の一党独裁国家であり、言論の自由が抑圧されている中華人民共和国[150][151] によるアジアにおける軍事的覇権を牽制する意味からも、この状態の維持を事実上支持している。日本は中華人民共和国の唱える「一つの中国」政策を「理解し、尊重する」という表現にとどめ、承認しているわけではないが、中華民国との正式な国交はなく、事実上アメリカ、イギリスなどと同様の立場を取っている。第二次安倍政権下では台湾と中国が明確に別の国であるとして取り扱う事が多くなるなど、情勢の変化が起こっている[152]。
2000年代後半に入り、中華民国と国交を有していた中央アメリカのコスタリカが2007年に中華人民共和国と国交を開き、その他パナマ、ニカラグア、ホンジュラスなどの中央アメリカ諸国も世界第二位の経済大国となった中華人民共和国との経済関係を重視する方針を打ち出しているが、中国国民党の馬英九政権の立場を尊重する中国共産党の意向により、中華人民共和国はこれら経済的な関係の深まる中央アメリカ諸国との国交を樹立していなかった[153]。しかし、中華民国が2016年に民主進歩党の蔡英文政権に交代してからは、中華人民共和国はガンビア、サントメ・プリンシペ、パナマ、ブルキナファソと相次いで国交を樹立するなど、中華民国との断交を迫る外交路線に回帰した[139]。
2019年9月20日、キリバスと断交[156][157][158]。
2023年8月21日には中央アメリカ議会が中華民国は中華人民共和国の一部であるとしてオブザーバーの地位を剥奪し、代わりに中華人民共和国をオブザーバーに選定。これを受け中華民国は即時脱退を決定した[161]。
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地理
要約
視点

→詳細は「台湾の地理」を参照

中華民国の実効支配地域(台湾地区)
中華民国と中華人民共和国は、互いの管轄下にある領土の領有権を主張している(分断国家)が、民主進歩党政権下の中華民国では、台湾が中華民国と同等であると主張する傾向が強まっている[163][164][165]。
領土問題

領有権を主張する地域

→詳細は「台湾問題」を参照
中華民国の国土は、中華民国憲法増修条文によって下記の通りに区分されている[166]。
- 自由地区(台湾地区):中華民国政府の実効支配が及ぶ範囲。台湾島(台湾)、澎湖諸島、金馬地区(金門県、連江県)、東沙諸島、及び南沙諸島の一部から成り立っており、日本や中華人民共和国、フィリピンなどと領海を接している。
- 大陸地区(中国大陸):自由地区を除いた中華民国の領土。中華人民共和国政府が実効支配している区域(中国大陸、及びに香港・マカオ)に加え、以下の地域の領有権主張も含まれている。
2005年時点で中華民国が主張する総面積は 11,418,174km2 だったが、中華民国政府はこれらの情報について公開を取りやめている。これは、中華民国が清朝の全てを継承した国家という認識によるものであり、中華民国は中ソ友好同盟条約に基づいてモンゴル人民共和国(現在のモンゴル国の前身)の独立を一旦承認したものの、同条約を正式に破棄した1953年にモンゴル独立の承認を取り消したものとされてきた(詳細は台蒙関係を参照)[167]。しかし、2003年に中華民国とモンゴルとの間に事実上の大使館が設置された他、2010年に中華民国政府は「我が国の領土に外蒙古は含まない」との見解を示しており、2012年に大陸委員会は、1946年の中華民国憲法制定時点で外蒙古独立をすでに認めており、憲法第4条で中華民国の領土とされる「固有の領域」に外蒙古は含まれないとの資料を発表した[168]。上記のように、中華民国は中国大陸(中華人民共和国の実効支配地域)、南チベット(アルナーチャル・プラデーシュ州)、江東六十四屯、パミールなどを自国の領土であると主張している。
2004年に中華人民共和国がロシアと確定させたアムール川の現国境線も認めていない。1969年、日本の主権下にある尖閣諸島に中華民国の国旗を掲揚し、付近海域の石油採掘権をアメリカ企業に与えた上に、1971年6月以降は中華人民共和国による同様の主張に対抗すべく、領有権を主張している。南シナ海の東沙諸島および南沙諸島の全域となる十一段線、中華人民共和国の「九段線」について領有権も主張している。
建国当初の中華民国は中国大陸のみを領有する国家であり、1895年に日清間で締結された下関条約によって日本に割譲された台湾島一帯はその版図に含まれていなかった。しかし前述の通り、第二次世界大戦中の1943年に出されたカイロ宣言において、同地域は中華民国に返還すべきであるとされている。
中華民国は、1945年の日本の敗戦により、台湾島一帯を「中国の一部」として実効支配下においた。その後、国共内戦の結果、中華民国は1955年までに台湾省・福建省の一部以外の領地を全て喪失し、1912年の建国から一貫して統治している地は福建省の金門県と連江県の島嶼部のみとなっている。しかし「『中国』における唯一の正統政府」を自任する中華民国は、大陸地区の統治権の主張を放棄せず、中華民国政府が発行する官製地図『中華民国全図』には前記地域を中華民国国土として掲載してきた。しかし2004年1月、内政部は、実効支配地域外を含めた『中華民国全図』の新規発行を停止する決定を発表し、今後公式な国土範囲にも変化がある可能性が示唆されている。
沖縄県への認識
→「中国における日本の沖縄領有懐疑論」も参照

中華民国では、沖縄県地域を「琉球」と称することがある。琉球王国がかつて明朝や清朝の冊封国であり、沖縄返還が中華民国政府との協議を経ずに進められたことを中華民国側は不満としていたともいわれるが、中華民国政府は、正式には琉球諸島の領有権を主張していない[169]。しかし、例えば桃園国際空港の那覇空港行き便の行き先表示は「琉球」(英字表記は「Okinawa」)である。ただし、高雄国際空港での表記は「沖縄」となっていることから、一概に断言はできない。なお、香港国際空港での表記は「沖縄島」となっている。
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行政区分
要約
視点

→詳細は「台湾の行政区分」を参照
概要

中華民国の行政区画は中華民国憲法第11章の条文によって規定されており、第一級行政区画として省や直轄市、蒙古盟旗[170]・西蔵地方および海南特別行政区[注 8]が1949年時点で定められていた。
だが、この行政区分は中華民国政府が大陸地区を実効支配していた時代に規定されたため、国共内戦で中華民国の実効支配区域が台湾地区のみに狭められると、実際の行政実務(地方自治)との整合性が欠如した内容となってしまった[注 9]。そのため、中華民国政府は非効率な行政組織の改善を目的として、1997年の憲法増修条文第四次改正で省が持つ地方自治の権限を実質的に廃止し、省政府の機構を行政院の出先機関として中央政府に組み込んだ。1997年の省政府に対する措置を「省虛級化」(虚省化)と称し、これ以降の中華民国で台湾省およ福建省は地方行政区分として機能しておらず、単なる地理的区分となっている。
憲法増修条文によって省の機能に変更が加えられたのち、2018年に省政府の組織は全て行政院国家発展委員会に移管され、現在は省は名目上の行政区画となっている。1949年に中華民国政府が制定した中華民国全土の行政区分についても、直轄市が6市増えた点を除いては変更措置が取られていないため、公式には大陸地区を含めて有効とされている。
中華民国海軍の艦艇の中には、大陸を統治していた当時の地名で、中国大陸の都市に由来する名称を採用した艦艇が存在している(康定級フリゲートなど)。台北市にはウルムチの旧名である「迪化」に由来する迪化街がある。
→「台北市の道路」も参照
主要都市
→「台湾の都市の一覧」を参照
中華民国台湾地区の主要都市としては台湾島北部盆地に位置し、1949年から「中華民国中央政府所在地」[171]となっている台北市がまず挙げられる。台北市は1945年に設置された台湾省の省都も兼ねていたが、省都については1957年に台北市から台湾島中部にある南投県南投市中興新村へと移されている。その他の主要都市には、直轄市の新北市・桃園市・台中市・台南市・高雄市があり、いずれも台湾島北部から西部にかけて位置している。
首都
→「中華民国の首都」を参照
中華民国の首都は、1931年6月1日から1947年12月24日までは法律で南京と明示されていたが、1947年12月25日の中華民国憲法施行以降は首都所在地について法律で明文化されていない。1949年12月7日以降、中華民国の中央政府機構は台北に置かれているが、中華民国政府は歴史的な経緯から台北市をあくまで臨時首都[4]、あるいは「(国共内戦に伴う)戦時首都」[5] と見なしていた。しかし、2022年に外交部が発行した「Taiwan at a Glance(ひと目でわかる台湾)」では、台北市を首都として表記している[172]。
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経済
要約
視点
→詳細は「台湾の経済」を参照



2022年のGDPは7907億ドルで[173]、今後も成長すると予想されている。同年の一人当たりのGDP(購買力平価PPP)は73,344ドルであり[173]、世界12位である。
1912年の中華民国の成立当初、清朝の対外賠償金を継承し、鉄道や税関などの収入源を賠償金の担保として列強の支配下に置かれていたため危機的な経済状況にあった。
建国当初の政争に加え、中国共産党軍との対立、さらに日中戦争と国内での混乱が続いたことで経済状況が悪化し、物資が軍需用として優先使用され、その物資の輸送も限定された交通手段に頼っており国民経済は困窮を極めた。
1945年の第二次世界大戦終結により、特に東北および台湾では大日本帝国が遺した資産を活用した工業化などによる経済建設を計画したが、まもなく開始された国共内戦により経済政策の実施は頓挫、国民党が行った紙幣の濫発による急激なインフレなどで台湾の国民経済は崩壊の淵に立たされることとなった。
1949年に国共内戦に敗れ、領土を台湾地区のみに縮小した中華民国政府は「大陸反攻」を実現すべく国力の充実を図り、経済方面でも濫発した貨幣(国民党軍が発行した旧台湾ドル)を廃してニュー台湾ドルを発行しインフレを抑制、傾斜生産方式を採用した工業化を図るとともに、冷戦下のアメリカからの経済援助を活用しての経済政策を実施、それまで農業と農業関連の加工業が主であった台湾の経済を軽工業、やがては重工業へと転換させることに成功し、現在ではアジア有数の先進工業国としての地位を確立、特にパーソナルコンピュータやマザーボード、液晶、レーザーモジュールやなどの高度な技術開発力を必要とする情報技術関連機器や、自動車やオートバイとその部品、付加価値の高い自転車、家電製品とそのための電子部品をはじめとする製造業、海運や航空業でその強みを発揮し、世界トップクラスの外貨準備高を擁する経済大国へと変貌している。
2000年代以降は、中華人民共和国やインドなどの、低賃金の単純労働力を提供する発展途上国の台頭によって、高度な開発、生産力を必要としない製造業においては、工場の海外進出に伴う産業の空洞化が進行したが、これに対し政府は情報技術へのさらなる投資とあわせて、バイオ産業などより高い技術を有する産業に重点を置く政策に転換しつつある。
世界中に広がる華僑ネットワークに駆使した世界戦略も強みである。アメリカや日本で注文を取り、中華人民共和国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。近年は高雄港や基隆港、台中港が中国大陸や東南アジア、および太平洋地域における海運の重要なハブとしての地位を獲得しており、海上コンテナ取扱高世界一を誇る一大海運企業である長栄海運などがそれを後押しする形となっている。
中華民国の経済は日本経済との共通点が多い。資源小国であることから技術力、工業生産力に依拠し、世界市場で優位に立てる高付加価値製品を開発製造することによって、外貨を獲得する加工貿易が基本である。独立志向の強さが国民性であり[要出典]、それが経済に活力を与えると同時に、大企業の成長に必要な人材の確保が困難な一面もある。
1000万人以上の観光客を目標にした観光戦略を打ち出し、2010年に中華人民共和国と締結した海峡両岸経済協力枠組協議や日台投資協定・日台オープンスカイ協定締結などにより2011年に600万人以上の観光客が訪れた。外貨収入は1兆円を超える。
2013年シンガポールとの自由貿易協定を締結、環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) 参加を検討しており、経済自由化や金融緩和にも力を入れるとされている。2016年11月の失業率は3.87% (45万5000人) になっており、経済協力開発機構 (OECD) 平均と比較しても大きく下回っていて、雇用も比較的安定している。
日本経済との関係
中華民国と日本とは、実効統治する台湾がかつて日本領であったなど歴史的に関係が深く、地理的に近いことから、貿易をはじめとした経済的交流が非常に緊密である。その象徴として、台北の台北国際金融センタービルは日本の熊谷組を中心としたJV(共同企業体)が施工しているほか、日本の新幹線の信号・車両技術を導入した台湾高速鉄道も南港(台北市)-左営(高雄市)間で運行中である。多くの日本企業が進出しているだけでなく、中華民国の企業も日本に進出するなど、経済的交流は年々強まっている。工業団地に日本企業を積極的に誘致を続けている他にも、中華人民共和国に日本企業が進出する際に、台湾企業と組むケースが多くなっている。
2018年現在、日本は中華民国にとって2番目の輸入元であり、輸出先では4番目の貿易相手国である[174]。
中華民国の代表的な大企業
→詳細は「台湾の企業一覧」を参照
- 漢翔航空工業 中華民国の元国営企業である軍用機メーカー。中華民国空軍傘下の組織をルーツとするが、現在では国内外の民間機の製造分担請負なども担当。
- 鴻海精密工業 世界最大の EMS 企業
- TSMC 世界最大の半導体製造ファウンダリー
- ASUS
- Acer 世界有数のパソコン・PC関連機器メーカー
- BenQ(ベンキュー)2001年にエイサーグループから独立
- AU Optronics (AUO) BenQ グループの液晶パネルメーカー
- GIGABYTE
- MediaTek ファブレスIC設計企業である
- クアンタ・コンピュータ
- Micro-Star International (MSI)
- HTC
- 裕隆汽車 (Luxgen)
- SYM (三陽機車)台湾を代表するスクーターメーカー
- KYMCO (光陽機車)SYMと同じく台湾を代表するスクーターメーカー
- 東元電機
- 大同公司
- ジャイアント・マニュファクチャリング 世界最大級の自転車メーカーの1つ
- メリダ・インダストリー 世界最大級の自転車メーカー1つ
- 台湾銀行
- 中国信託商業銀行
- エバーグリーン・グループ
- チャイナエアライン(中華航空)
- 国泰人寿(生保)グループ
- 新光人寿(生保)グループ
- 新光三越 日本の三越(現三越伊勢丹ホールディングス)グループと共同設立された、台湾最大のデパート
- 統一企業グループ(小売業界最大手)
- 台湾プラスチックグループ(台湾最大の企業グループ)
- ナンカンタイヤ
交通
→「台湾の交通」を参照
科学技術
上記のように世界的な競争力を持つ企業もあり、高度な科学技術力を有している。台湾出身の李遠哲は1986年にノーベル化学賞を受賞した。後に李が院長に就任した中央研究院が、自然科学と社会科学を含めた国家アカデミーの役割を担っている。
宇宙開発
1991年に宇宙開発に着手した。台湾国家宇宙センターが中心となり、アメリカに委託しての人工衛星の打ち上げと運用、ロケットの開発に取り組んでいる。地球観測衛星「FORMOSAT(フォルモサット)」シリーズのうち、初めて自主開発した「FORMOSAT-5」(フォルモサット5号)を2017年8月25日、スペースX社のロケットにより打ち上げられた[175]。
国民
要約
視点
国民の定義と人口
→詳細は「中華民国の人口統計」を参照

中華民国の国民は、中華民国憲法第3条の規定によって「中華民国の国籍を有する者」とされており、2021年の時点で 2339万4787人となっている。人口密度は平均 650.42人/km2(2017年1月)である。人口が1千万人以上の国では世界2位になった。
中華民国の国民は、更に中華民国自由地区(台湾地区)人民と無戸籍国民に分けられる。
- 中華民国自由地区人民
中華民国政府が実際に統治している台湾、澎湖、金門、馬祖列島等地の国民、「無戸籍国民」や「大陸地区人民」などと区別する意味合いで用いられる。
- 無戸籍国民
海外華人など、中華民国の国籍を保持しているが「中華民国自由地区」に戸籍がない国民、中華民国内政部によると、「無戸籍国民」は数万人が存在している。一部の国で中華民国国民を対象に短期滞在ビザを免除しているが、日本やアメリカなどでは中華民国国民身分証の番号記載がない無戸籍国民の旅券所持者は対象外となっている。
中華人民共和国支配下の大陸地区人民、香港居民、マカオ居民の国籍帰属については、憲法および法律では明確な規定していないため、外国人には属さず、国民にも属さないというあいまいな立場にある。
- 大陸地区人民
「台湾地区と大陸地区の人民関係条例」によると、台湾地区以外の中華民国領土の人民を指す、大陸委員会という専門の行政機関があり、大陸地区人民関連する事務を処理する。2023年に中華民国国民ではないという通達を行政院が出している[176]。
- 香港居民、マカオ居民
1997年の「香港マカオ関係条例」制定まで、香港地区とマカオ地区の華人については自由地区人民と同じ、中華民国の国民の権利と義務が保持されていたが、香港およびマカオの返還により、香港居民およびマカオ居民は通常の中華民国の国民の資格を撤廃した。現在は大陸地区人民と同じく、大陸委員会が管理する。
民族と省籍矛盾
台湾地区の住民は大きく漢民族と台湾原住民に分けられる。中華民国政府が認定した原住民は、2016年現在で16民族55万人弱であり全人口の約2.3%である[177][178]。中華民国では、国民である国内各民族が融合して中華民族を形成するとされており、中華民国憲法第5条によって各民族間の平等が定められている。中華民国国民は省籍が存在し、在籍する省によって本省人と外省人に分けることがある。原住民は広義には台湾本省人に含まれるが、通常は分けて考えられる。この区分に従うと、中華民国編入後の台湾島一帯では、人口が多い台湾本省人が政治的には少数派の外省人に支配される構図が浮かび上がるが、これは省籍矛盾と呼ばれ、長年にわたり社会問題とされてきた。
客家と移民
広義の客家人は約500万人であり、全人口の約22%である。中華民国に帰化している人口は7万1398人であり、全人口の約0.3%である。
新移民(外国籍)
外国籍配偶者の数は約40万人で中国大陸とベトナム国籍(在台ベトナム人)が最も多く、約8万6000人であり他にはタイ・インドネシア・フィリピンの順である。外国籍の人口は約65万人である。
難民
中華民国には難民を受け入れる制度は存在しない。過去にインドシナ難民などを受け入れたことはあるが個別に滞在許可を出しているに過ぎない。大陸との関係で国際人権条約に加盟出来ない[179]。
政治難民として想定される中国大陸出身者は安全保障上の懸念もあり移民としても職歴による制限を受ける[180]。
言語
→「台湾の言語」を参照
中華民国では標準中国語(国語)が事実上の国家言語とされていたが、2018年に可決された言語発展法により土着の台湾語、客家語、台湾原住民の諸言語、手話が国家言語と平等であるとされている[181][182]。
国語は中華人民共和国で使われている普通話とほぼ同一言語とされるが、21世紀初頭では政治・文化・社会の違いにより語彙や発音などの細かい部分に多少の相違点が生じているため台湾国語(台湾華語)と称されることも多い。
正体字(繁体字)と呼ばれる簡略化されていない漢字の字体を標準としている。これは日本の旧字体に近いが、中華人民共和国で大幅に簡略化された簡体字とは大きく異なる。ただし実際の生活においてはある程度の略字や俗字が使用されている。漢字の発音表記には北京政府時代に制定された注音符号を教育で使用しており、コンピュータやスマートフォンへの入力に広く用いられている。
宗教
→「台湾の宗教」を参照
教育
→「台湾の教育」を参照
中華民国は教育制度として国民小学(小学校)6年間と国民中学(中学校)3年間が義務教育とされている。21世紀初頭では小中学をあわせた「九年一貫課程綱要」に基づいてカリキュラムが編成されている。儒教圏の例に漏れず学歴社会であり、高等教育を受ける者が多い。
民主化後、国語以外の言語、すなわち台湾語、客家語、台湾原住民語の教育が義務付けられたが、中国国民党による戒厳令時代はすべて国語のみで教育することとされていた。このため、1920年代生まれ前後の世代は台湾語(または客家語)のみで国語が話せない者がおり、その下の世代では両方を解するが、1950年生まれ世代前後以下では国語のみで台湾語を解しない者が少なくない(特に北部の都市部)。たとえ話せたとしても発音に国語の訛りがある場合も多い。
従って同じ「台湾人」でも高齢者と若者との間でコミュニケーションが成り立たないということも珍しくない。日本統治時代には日本語での教育が義務付けられていたため日本語を話すことのできる日本語世代と呼ばれる人達がいる[183]。
保健・医療
→「台湾の保健」および「台湾の医療」を参照
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LGBT
→「中華民国におけるLGBTの権利」を参照
2019年5月17日、同性結婚を認める特別法「司法院釈字第748号解釈施行法」が立法院で可決された[184]。蔡英文総統の公布ののち同年5月24日ににより施行され、アジアで初めて同性婚が認められた国となった。2023年8月現在、アジアで同性結婚が合法的に認められる2か国のうちの一つでもある。
文化
要約
視点
代表的な文化施設


→「台湾の建築」を参照
- 中正紀念堂
- 台北市中正区にある中正紀念堂は、1975年に死去した初代総統・蔣介石の業績を称えるために建てられた高さ70メートルの建築物であり、紀念館の外観には中華民国の思想が視覚的に反映されている。
- 国父紀念館
- 台北市信義区にある記念館。博物館としても分類される。「国父」とは孫文のことである。11ヘクタールの敷地をもつ中山公園の中に建っている。1866年生まれの孫文の生誕100年を記念して建設されたもの。1968年に着工し、1972年5月に竣工した。設計は大洪建築師事務所の王大閎、施工は毅成建設であった。
- 故宮博物院
- 台北市士林区にある国立故宮博物院は、国共内戦に敗れた中華民国政府が台湾へと撤退する際に、北平の故宮(紫禁城)と南京の国立中央博物院から持ち運んだ中国歴代の貴重な美術品を収納・展示している博物館である。
- 国立故宮博物院のコレクションは、宋、元、明、清の歴代宮廷の収蔵文物を継承しており、その内容も数も極めて豊富である。これらの文物の発展は、近代中国社会の変遷と密接な関係がある。中華民国が建国されて13年後、清朝を退位した溥儀皇帝を紫禁城から追放し、宮廷にあった文物を点検すると同時に、故宮博物院を設立した。
- 1925年10月10日、故宮博物院が正式に設立された。この時から、歴代皇室と宮廷が所蔵していた貴重な文物は、中華文化遺産として永く後世に伝えられることとなり、全ての人々が自由に宮廷に出入りし、国の至宝を鑑賞できるようになった。初代院長は易培基(1880-1973)氏で、1925-1931年は北平故宮博物院の啓蒙の時代であるといえる。
象徴的な施設
- 台湾桃園国際空港
- 桃園市にある台湾桃園国際空港 は、台湾地区最大の国際空港である。開業当初は、初代総統である蔣介石の本名から取った中正国際空港(英語名は蔣介石の英語 Chiang Kai-Shekの頭文字からC. K. S. airport、チャイナエアラインの機内放送(日本語)では「蔣介石国際空港」と紹介していた)であった。しかし台湾複数政党制の導入を経て、さらに中国国民党が下野してからは、この名称を用いることに批判的な論調が増え、最終的に2006年に現在の名称に改められた。
- 台北101
- 台北市信義区にある超高層ビル。高さ508mで地上101階+地下5階から成る。旧称は「台北国際金融センター(臺北國際金融大樓)」。7年間の工期を経て2004年、それまで世界一だったマレーシア(クアラルンプール)のペトロナスツインタワーを超える建築物として竣工した。コンサートやイベントで使用される「台北南港101」は、これとは別の施設。
食文化
→「中華街」も参照
スポーツ
→詳細は「台湾のスポーツ」を参照
→「オリンピックのチャイニーズタイペイ選手団」も参照
世界遺産の登録
→「台湾の世界遺産候補地」を参照
中華民国は国際連合から脱退しているため、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)への加盟を認められておらず、世界遺産が一つも登録されていない。しかし、陳水扁政権発足後から、行政院を中心に世界遺産登録を目指す動きが活発化しており、2003年には世界遺産登録候補地として12か所が選定されている。
暦と祝祭日
中華民国では、建国年である1912年を元年とする民国紀元を西暦と併用している。民国紀元は中華民国における行政の公式暦法とされ、一般に誕生年も「民国N年」「民前N年(1911年以前)」と表現される。民国紀元も太陽暦によるが、祝日(國定假日)、民間の年中行事は旧暦で行うものもあり、日常生活では併用されている。2016年完全週休二日制度を実施した、労働者にも公務員(2001年に開始され)と同様の完全週休二日制が実施された。合計9日の祝日がある。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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