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橘樹郡
日本の神奈川県(武蔵国)にあった郡 ウィキペディアから
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郡域
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね下記の区域にあたる。
隣接していた郡
行政区画として発足した当時に隣接していた郡は以下の通り。
原始
古代
- 橘樹郡の多摩川周辺各所に古墳が築造される(現在の川崎市多摩区、高津区、中原区の主に台地に点在する[2])。前期は南部周辺に方墳や円墳が、中後期は北部周辺に横穴墓の築造が増える傾向にある。蟹ヶ谷古墳群(神庭遺跡)では前方後円墳が一基見つかっている。
- 534年、武蔵国造の乱後に献上された4つの屯倉のうちの1つ橘花屯倉は、当郡の御宅郷付近(現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬から同県の横浜市港北区日吉付近)と推測される。


- 大和政権の統治下、律令制の下で国・郡(評)・郷の行政区画が整備される。この地域は武蔵国橘樹郡となった。
- 橘樹官衙遺跡群の発掘により、郡衙は影向寺(宮前区野川)から高津区千年(影向寺の東方400m)へ延びる台地上に配置され、橘樹郡の政治中心地だっと推定される[3]。正倉と見られる千年伊勢山台北遺跡も見つかっている。
- 影向寺が創建された。遺跡が発掘されており[4]、それ以前の豪族の私寺が橘樹郡設置時に郡寺となり整備された可能性も高い[3]。馬絹古墳が築造された。
- 当初は4つの郷(橘樹(たちばな)郷:影向寺一帯、高田郷:横浜市港北区の高田町一帯、御宅(みやけ)郷:加瀬白山古墳のある北加瀬・南加瀬一帯、県守(あがたもり)郷:津田山周辺)が置かれ、後に駅家郷(高津区末長周辺)が加わった[5](現在の地名への比定は高橋a2000, p.94-95)。
- 多摩川を挟んで北に隣接する荏原郡との交通路は、古来の渡河地点の丸子の渡し(郡衙の東4km)で多摩川を渡った。
- 橘樹郡から武蔵国府(現在の府中市)へ繋がる府中街道が多摩川南岸の低地に整備された。橘樹郡の多摩川南岸の低地は穀倉地帯として開発され[6]、条里制区画の痕跡が残る。
- 奈良時代には都に通じる官道の東海道が郡衙の近くを通り(ほぼ現在の大山街道もしくは中原街道に沿う)、郡衙の近くには小高駅が置かれた。小高駅と大井駅(荏原郡)との間は古来通りに丸子の渡しで多摩川を渡った[7]。
- 足柄道(後の矢倉沢往還・大山街道)が官道として利用されはじめる。
- 中原街道が形成されはじめる。
中世
江戸時代
- 東海道が整備され、川崎宿、神奈川宿、保土ヶ谷宿が置かれる。
- 中原街道が東海道の脇往還として再整備される。
- 足柄道に沿って矢倉沢往還(大山街道)が整備され、二子・溝口宿が置かれる。
- 1597年(慶長2年) - 徳川家康の命により、小泉次大夫が二ヶ領用水の建設に着手。
- 1601年(慶長6年) - 東海道に神奈川宿、保土ヶ谷宿が置かれる。
- 1611年(慶長16年) - 二ヶ領用水完成。以降、橘樹郡北部(現在の鶴見区以北。稲毛領37村、川崎領23村、計二千町歩)は二ヶ領用水により潤されて新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米を産した。また、ほぼ同時期に上流地域(現在の多摩区の一部)を潤す大丸用水が造られたと推定されており、二ヶ領用水と同様に新田開発に貢献する。
- 1623年(元和9年) - 東海道に川崎宿が置かれ、五十三次が揃う。
- 1675年(延宝3年) - 子母口蓮乗院の庚申塔が建てられる。
- 1690年(元禄3年) - 菅村が幕府の天領となり、多摩郡より橘樹郡に編入。当時の橘樹郡北部地域は幕府の天領となっていた。
- 1694年(元禄7年) - 影向寺の本堂が建てられる(現存)。
- 1794年(享保9年) - 田中休愚(たなかきゅうぐ)が二ヶ領用水を全面改修。
- 1821年(文政4年) - 二ヶ領用水の水を巡り、溝口水騒動が起こる。
- 1853年(嘉永6年) - 長尾村の鈴木藤助(すずきとうすけ)が黒船来航事件を契機に『鈴木藤助日記』を書き始める。
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明治以降
要約
視点
行政の変遷については「沿革」で後述する。
- 1871年(明治4年) - 横浜郵便役所開設。川崎、保土ヶ谷の各街道宿には民間委託の郵便取扱所が設置される。
- 1872年(明治5年) - 川崎駅、神奈川駅(1928年の横浜駅移設時に廃止)が開業。
- 1873年(明治6年)
- 1914年(大正3年) - 浅野総一郎が現在の鶴見区付近の東京湾埋め立てをはじめる。以降、1926年(大正15年)には鶴見臨海鉄道(現在のJR鶴見線)一部区間を開業させるなど、京浜工業地帯の礎を築いてゆくとともに、海岸線の姿は大きく変貌してゆく。
- 1927年(昭和2年)3月9日 - 南武鉄道(現在のJR南武線)川崎 - 登戸間が開業し、旅客および多摩川の砂利輸送を開始。なお、登戸 - 稲田堤 - 大丸(南多摩郡、現在の南多摩駅付近)間も同年中に開業している。
- 1933年(昭和8年) - 東京府(当時)による小河内ダム建設計画に対して紛議が起こり、ダム建設と引き替えに橘樹郡・川崎市側の多摩川からの取水量が上積み確保される。
- 1934年(昭和9年)2月12日 - 「多摩川砂利採掘取締方法」による取締りが施行される。
- 1936年(昭和11年)2月1日 - 二子橋より下流での採掘は全面禁止となった。以降、砂利輸送を行ってきた周辺鉄道の貨物輸送や枝線などが廃止・再編されてゆく。
近代以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地[8]が存在。幕府領は、神奈川奉行所、代官・松村忠四郎(長為)支配所、代官・古賀一平支配所(南加瀬村・矢上村のみ)が管轄した。全域が寺社領となっている各村のほとんどが増上寺領。(11町122村)[9]
町村制以降の沿革

- 1889年(明治22年)
- 3月31日 - 下記の町村の統合が行われる。(3町20村)
- 神奈川町 ← 青木町、神奈川町(現・横浜市神奈川区)、芝生村(現・横浜市西区)
- 子安村 ← 子安村、白幡村、西寺尾村(現・横浜市神奈川区)
- 小机村 ← 岸根村、小机村、鳥山村(現・横浜市港北区)、下菅田村、羽沢村、三枚橋村、片倉村、六角橋村、神大寺村(現・横浜市神奈川区)
- 大綱村 ← 大豆戸村、篠原村、菊名村、樽村、大曽根村、太尾村、南綱島村、北綱島村(現・横浜市港北区)
- 旭村 ← 獅子ヶ谷村、駒岡村、上末吉村、下末吉村、北寺尾村、馬場村、東寺尾村[一部]、西寺尾村[一部](現・横浜市鶴見区)、師岡村(現・横浜市港北区)
- 生見尾村 ← 生麦村、鶴見村、東寺尾村、馬場村[一部](現・横浜市鶴見区)
- 川崎町 ← 久根崎町、新宿町、砂子町、小土呂町、堀之内村、大島村[一部]、南河原村[一部]、中島村[一部]、大師河原村[一部](現・川崎市川崎区)
- 大師河原村 ← 大師河原村、池上新田、新宿町[一部]、砂子町[一部]、中島村[一部](現・川崎市川崎区)
- 田島村 ← 渡田村、大島村、下新田村、小田村、中島村、田辺新田、新宿町[一部]、堀之内村[一部]、大師河原村[一部]、菅沢村[一部](現・川崎市川崎区)
- 町田村 ← 市場村、潮田村、小野新田、矢向村、江ヶ崎村、菅沢村、小田村[一部](現・横浜市鶴見区)
- 御幸村 ← 塚越村、古川村、戸手村、小向村、下平間村、南河原村、新宿町[一部]、砂子町[一部]、堀之内村[一部]、矢向村[一部](現・川崎市幸区)、上平間村、中丸子村、小杉村[一部](現・川崎市中原区)
- 住吉村 ← 今井村、木月村、市ノ坪村、苅宿村、井田村(現・川崎市中原区)、北加瀬村(現・川崎市幸区、中原区)
- 日吉村 ← 鹿島田村、小倉村、南加瀬村(現・川崎市幸区)、駒林村、駒ケ橋村、矢上村、箕輪村(現・横浜市港北区)
- 高津村 ← 溝口村、二子村、久地村、下作延村、久本村、諏訪河原村、北見方村、坂戸村(現・川崎市高津区)
- 中原村 ← 上丸子村、小杉村、宮内村、上小田中村、下小田中村、新城村、中丸子村[一部](現・川崎市中原区)
- 橘村 ← 千歳村、新作村、子母口村、末長村、久末村、明津村、蟹ヶ谷村(現・川崎市高津区)
- 向丘村 ← 上作延村、下作延村[一部](現・川崎市高津区)、長尾村(現・川崎市多摩区)、平村、菅生村(現・川崎市宮前区)
- 宮前村 ← 馬絹村、土橋村、有馬村、溝口村[一部](現・川崎市宮前区)、梶ヶ谷村、野川村(現・川崎市宮前区、高津区)
- 生田村 ← 金程村、高石村、細山村(現・川崎市麻生区)、生田村(現・川崎市多摩区、麻生区)
- 稲田村 ← 登戸村、菅村、中野島村、宿河原村、堰村(現・川崎市多摩区)
- 保土ケ谷町 ← 保土ケ谷町、神戸町、岩間町、帷子町(現・横浜市保土ケ谷区)、岡野新田(現・横浜市西区)
- 宮川村 ← 和田村、下星川村(現・横浜市保土ケ谷区)
- 矢崎村 ← 仏向村、坂本村(現・横浜市保土ケ谷区)
- 4月1日 - 上記3町20村が町村制を施行。
- 3月31日 - 下記の町村の統合が行われる。(3町20村)
- 1892年(明治25年)2月5日 - 小机村が改称して城郷村となる。(3町20村)
- 1899年(明治32年)7月1日 - 郡制を施行。
- 1901年(明治34年)4月1日 - 神奈川町が横浜市に編入。郡役所が川崎町に移転。(2町20村)
- 1909年(明治42年)4月1日 - 宮川村・矢崎村が保土ケ谷町に編入。(2町18村)
- 1911年(明治44年)4月1日 - 子安村の一部(子安)が横浜市、一部(白幡)が大綱村、残部(西寺尾)が旭村に分割編入。(2町17村)
- 1912年(明治45年)4月1日 - 「東京府神奈川県境界変更ニ関スル法律」の施行により東京府との境界を多摩川に画定して対岸飛地を解消。下記の区域の所属郡を変更[12]。
- 1921年(大正10年)4月1日 - 生見尾村が町制施行・改称して鶴見町となる。(3町16村)
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)7月1日 - 川崎町・大師町・御幸村が合併して川崎市が発足し、郡より離脱。(4町12村)
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)4月17日 - 高津村が町制施行して高津町となる。(2町6村)
- 1932年(昭和7年)6月1日 - 稲田村が町制施行して稲田町となる。(3町5村)
- 1933年(昭和8年)8月1日 - 中原町が川崎市に編入。(2町5村)
- 1937年(昭和12年)
- 4月1日(1町4村)
- 高津町が川崎市に編入。
- 横浜市の第5次市域拡張により、日吉村の一部(下田・駒林・箕輪・矢上の矢上川以西・南加瀬の矢上川以西)が横浜市に編入され、神奈川区の一部となる。残部(鹿島田・北加瀬・小倉・南加瀬の矢上川以東・矢上の矢上川以東)は川崎市に編入。
- 6月1日 - 橘村が川崎市に編入。(1町3村)
- 4月1日(1町4村)
- 1938年(昭和13年)10月1日 - 稲田町・向丘村・宮前村・生田村が川崎市に編入。同日橘樹郡消滅。
変遷表
自治体の変遷
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行政
郡役所は神奈川町に設置され、神奈川町の横浜市編入後も同所にあった[13]。
- 歴代郡長
特記以外は代数を含め『神奈川県史 別編1 人物』による[14]。
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脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
関連項目
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