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日本のお笑いタレント (1963-) ウィキペディアから
松本 人志(まつもと ひとし、1963年〈昭和38年〉9月8日 - )は、日本のお笑いタレント、漫才師、俳優、司会者、映画監督。お笑いコンビ・ダウンタウンのボケ担当。相方は浜田雅功。兵庫県尼崎市出身[3]。吉本興業所属。愛称は「松ちゃん」[1]。妻は元タレントの伊原凛。2024年1月より芸能活動を無期限で休止している[6](詳細は後述)。
テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。 |
御堂筋ランウェイにて(2022年) | |
ニックネーム |
松ちゃん[1] まっつん[2] |
生年月日 | 1963年9月8日(61歳) |
出身地 | 兵庫県尼崎市 |
血液型 | B型 |
身長 | 172 cm[3] |
言語 | 日本語 |
方言 |
関西弁 大阪弁 標準語 |
最終学歴 | 兵庫県立尼崎工業高等学校 |
出身 | NSC大阪校1期 |
コンビ名 | ダウンタウン |
相方 | 浜田雅功 |
芸風 |
漫才・コント(ボケ) 話芸 |
立ち位置 | 左 |
事務所 | 吉本興業 |
活動時期 | 1982年 - 2024年(活動休止中)[4][5] |
同期 |
トミーズ ハイヒール 内場勝則など |
現在の代表番組 |
レギュラー番組 クレイジージャーニー 探偵!ナイトスクープ スペシャル番組 IPPONグランプリ M-1グランプリ |
過去の代表番組 |
テレビ 一人ごっつ 松紳 人志松本のすべらない話 ドラマ 伝説の教師 ラジオ 放送室 |
作品 |
著書『遺書』『松本』 ビデオ『VISUALBUM』 映画『大日本人』『さや侍』 |
配偶者 | 伊原凛 |
親族 | 松本隆博(兄) |
公式サイト | 公式プロフィール |
尼崎市立潮小学校、尼崎市立大成中学校、兵庫県立尼崎工業高等学校機械科卒業。小・中学校の同級生には後の相方となる浜田の他、放送作家の高須光聖がいた。小・中学校時代のあだ名は「まっつん」[2]。
小学生時代、実父がうめだ花月の招待券を職場で貰ってくるようになり、家族で通い始めた。これがお笑いとの出会いであり、やがて芸人に憧れを抱くようになった。「その頃ぐらいから、だんだん性格変わってきた。ずっと暗い子供やった」と語っている[7]。なお、浜田との初対面は小学生低学年だが、当時の浜田があまりにもおかしな風貌だった[注釈 1]ため距離が縮まることはなかった。
小学校4年頃、友人の伊東・森岡とトリオ「コマ第三支部」を結成。鉄ゴマ・木ゴマ・プラスチックゴマとそれぞれ名乗り、当時から漫才を演じていた[8][9]。その後、伊東と共に漫才やコントをやっていた。初めてコントを披露した際は「びっくりするぐらい滑った」という[10]。
中学時代は伊東・浜田と3人で遊ぶことが多かったものの、ある日に伊東と浜田が喧嘩し、終わった後で浜田が歩いてきて「まっつん、もう行こうや」と言われて浜田の方について行った。当時を振り返って松本は「あの時は伊東より浜田を選んだっていうか…(中略)まあ、伊東とね、もしずーっと一緒にいたとして、伊東ともし一緒に吉本入ってたら俺はどうなってたんやろうとか考えてみるとね──その以前に、まず伊東と2人でやってると吉本には入ってなかったと思うんですよね。浜田は行動力ありますよね。(中略)『吉本に入ろうや、行こうや』って、結局僕のケツ叩いてたのはあいつなんですよ。だから伊東とやったら、そうはなってなかったと思うんですよね…」と語っている[11]。後にこの喧嘩の発端は2003年12月27日にて開催された『放送室 高須ちゃん生誕40周年祭り』日本武道館公開録音にて、伊東本人が「浜田が俺の弟をようおちょくって、最初は俺も笑っとったけど段々兄貴としてムカついた」ことが喧嘩に発展したと述懐している。
1982年、浜田とコンビを結成しNSCへ大阪校1期生として入学。在学当時はこれといったコンビ名を定めず活動していたが、1983年にコンビ名を「ダウンタウン」に正式に決定。しばし関西で活動後、1988年に『夢で逢えたら』で東京進出。
1993年から1995年にかけて、『週刊朝日』に自身のエッセイ(「オフオフ・ダウンタウン」)を連載し、『遺書』および『松本』として単行本化された。それぞれ250万部・200万部を売り上げ、1995年の単行本年間売上で1位・2位を独占した(トーハン調べ)[12]。
1994年にライブ『寸止め海峡(仮題)』、1995年に『松風'95』を開催。『寸止め海峡(仮題)』は入場料1万円で行われたコントライブで、松本の他に今田耕司・東野幸治・板尾創路(130R)が出演した。『松風'95』は日本武道館にて客に値段を決めてもらう所謂料金後払い制で行われ、提示された写真にコメントしていく「写真で一言」のみのライブだった。
1996年、『一人ごっつ』が放送開始。『新・一人ごっつ』、『松ごっつ』とタイトルを変えながら約2年間放送された。1998年12月に『松本人志24時間大喜利』を放送した。
1998年夏、長らくオールバックだった髪型を坊主頭へ変えた[注釈 2]。坊主にした理由については「浜田のツッコミによって乱れた髪型をいちいちセットし直すのがサブいから[13]」とのこと。
1998年から1999年にかけて、VHSビデオ『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』を発売。2003年にはDVD化された。
2000年に、ドラマ『伝説の教師』に出演。原案は松本が手掛けており、「ドラマには(友情出演以外)出ない」という姿勢を貫いていた松本にとって初めてにして事実上最後の主演ドラマだった[注釈 3]。
2001年10月4日より、高須と共にラジオ番組『放送室』を開始。2009年3月28日を以ての終了まで約7年半に亘り放送された。2007年、企画・脚本・監督・出演の四役を務めた映画『大日本人』を発表し、映画監督としてデビュー。日本での公開に先立ってカンヌ国際映画祭の「監督週間」へ招待された。これに伴い、2008年の東京スポーツ新聞社主催・「第8回ビートたけしのエンターテインメント賞」で話題賞を受賞[14]。
2001年から『M-1グランプリ』決勝の審査員を務める。その後も2004年・2015年大会以外全ての回に出演し、審査員を務めた回数は最多となっている。
2002年10月、『働くおっさん人形』が放送開始。日曜日の早朝に放送され、終了後も同じ枠の後継番組として『モーニングビッグ対談』が放送された。
2004年から『人志松本のすべらない話(通称:すべらない話)』のホストおよび企画、2009年からは大喜利の祭典『IPPONグランプリ』のチェアマンとして出演。若手の才能発掘・育成にあたる役割も担っている[15]。
2008年からダウンタウンとして『キングオブコント』のMCを担当。2015年からはMCは浜田のみが担当し、松本は審査員を務めている。2016年大会からM-1審査員に復帰したため、松本はM-1・キングオブコントの両方で審査員となっている。
2009年3月28日、『放送室』が終了。その理由として自身のプライベートを語る場面を減らしたかったという[16]。『ガキの使いやあらへんで!』でのフリートークも2009年12月6日放送分を最後に一旦終了している[注釈 4]。
2009年4月、『人志松本の○○な話』が放送開始。2010年4月にはゴールデンタイムに移動。松本が単独でゴールデンの冠番組を持つのは初めてだった[17]。
2010年6月、左股関節に股関節唇損傷を患い、股関節の手術を受けるため1-2カ月程度の休養を発表。その後、8月18日収録の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』にて復帰。同年10月15日にテレビでは9年ぶりとなるコント番組『松本人志のコントMHK』(NHK総合)が放送、翌10月16日に同局のドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』で「松本人志スペシャル」が放送された。
2014年12月から白髪を隠すため金髪にしており[18]、髪も伸ばしている。
2016年、Amazon Prime Videoにて『ドキュメンタル』が配信開始。
2019年11月29日放送分より『探偵!ナイトスクープ』の3代目局長へ就任[19]。前任MC(西田敏行)がいた番組のMCを引き継ぐのは初めて[20]。
2021年6月12日、コント番組『キングオブコントの会』(TBS)が放送。民放では2001年放送の『ダウンタウンのものごっつええ感じスペシャル』(フジテレビ)以来、20年ぶりとなる新作コントを披露した[21]。14日、『キングオブコントの会』の世帯視聴率が6.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と報じられたことについて、Twitter(現:X)で「キングオブコントの会は内容的にも視聴率的にも大成功でした。ネットニュースっていつまで“世帯”視聴率を記事にするんやろう? その指標あんま関係ないねんけど」「コア視聴率が良かったんです。コア視聴率はスポンサー的にも局的にも世帯視聴率より今や重要な指標なんです」と言及し、ネットニュースによる世帯視聴率を取り上げた報道について疑問を呈した[22][23][24]。
同年代で仲の良い芸人は内村光良(ウッチャンナンチャン)、ヒロミなど。プライベートで食事や旅行に行くエピソードで名の挙がる芸人は今田耕司、板尾創路(130R)、木村祐一、東野幸治、三又又三、月亭方正、千原ジュニア(千原兄弟)、宮川大輔、星田英利、アキ(水玉れっぷう隊)、陣内智則、有田哲平(くりぃむしちゅー)、後藤輝基(フットボールアワー)、河本準一(次長課長)など。芸人以外で交友があるのは中居正広、古舘伊知郎、甲本ヒロト、辰吉丈一郎、東国原英夫、高橋ジョージ、さだまさし、インタビューマン山下、おにぎりなど。
2023年12月27日発売の週刊文春において、松本が複数の女性に対して性的行為を強要したとする記事が掲載された[46][47]。同日、吉本興業は「当該事実は一切ない」と否定し、松本の名誉を毀損するものとして「社として法的措置を検討する」と発表した[46][48][49]。翌28日、松本は自身のXに「いつ辞めても良いと思ってたんやけど…やる気が出てきたなぁ~」と投稿し[50][51]、2024年1月5日には、女性からの「お礼LINE」の画像を引用して「とうとう出たね」とコメントした[52][53][54]。報道後、松本が出演する番組の複数のスポンサー企業が社名表示(提供クレジット)を取りやめた[55][56][57]。
2024年1月8日、松本は性加害疑惑に関する報道を事実無根とし、裁判に注力することを理由に芸能活動を当面休止することを発表した[4][58]。活動休止を受け、コンビで務める大阪・関西万博のアンバサダーの活動も休止となった[59][60]。レギュラー番組7本は、各局とも松本不在のまま番組を継続した[57][注 1]。同日、松本は自身のXアカウントで「事実無根なので闘いまーす。それも含めワイドナショー出まーす。」とコメントし、翌1月9日には「ワイドナショー出演は休業前のファンの皆さん(いないかもしれんが)へのご挨拶のため。顔見せ程度ですよ。」とコメントした[63][64][65]。この投稿を受けて、急遽フジテレビ側は出演を検討したが、1月10日にフジテレビは「総合的に判断」して出演しないことを決めた[66][注 2]。
同月22日、松本が文藝春秋と週刊文春の編集長に対し、2023年12月27日発売号に掲載された記事に関し、名誉毀損による5億5千万円の損害賠償と訂正記事による名誉回復を求める訴訟を提起した[69][70][71]。松本側は、「記事に記載されているような性的行為や強要はなかった」と主張している[70][72][73]。担当弁護士は田代政弘[74][75][76]。裁判について、2023年12月時点では吉本興業は「社として法的措置を検討する」と発表していたが、松本個人での裁判となった[66][77][78]。
同月24日、吉本興業は声明を出し、「当社所属タレントらがかかわったとされる会合に参加された複数の女性が精神的苦痛を被っていたとされる旨の記事に接し、当社としては、真摯に対応すべき問題であると認識しております」と発表した[79][80][81]。2023年12月27日に「当該事実は一切ない[82][83]」とコメントを出したことについては、外部の有識者によるガバナンス委員会から「『当該事実』が何を指しているのか不明確で世間の誤解を招いた」と指摘されたことを明らかにし、「外部弁護士を交えて当事者(松本)を含む関係者に聞き取り調査を行い、事実確認を進めている」と報告した[84][85]。
松本の歯に衣着せぬスタイルの発言は物議を醸すことがあり、ネット上でもしばしば炎上している[86][40][87]。
3人兄弟の末っ子。祖父(松本昇次郎)(1896年 - 1971年6月8日、74歳没)は著書にも頻繁に名が出てくる。家族構成は父(松本譲一)(1933年[172] - 2014年8月18日、81歳没)、母(松本秋子)(1933年[172] - 、三重県津市出身)、兄(松本隆博)、姉(奈緒美)。『ワイドナショー』2014年8月31日放送にて、8月18日に実父が逝去したことを明らかにした[173]。番組では家族の話をすることが多く、特に実母とはテレビで共演の機会も多い。2009年に元タレントの伊原凛と結婚[174][175]、娘がいる[176]。
ダウンタウンとしての出演番組・作品はダウンタウンの出演項目を参照。
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