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日本とロシア間の領土問題 ウィキペディアから
北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい、露: Проблема принадлежности южных Курильских островов , 英: Northern Territories dispute, South Chishima Islands dispute)は、日本国とロシア連邦との間の領土問題である。
北海道の根室半島と千島列島の得撫島との間にある択捉島、国後島、色丹島、そして歯舞群島をあわせた4つの島が、いわゆる北方領土(または北方四島)と呼ばれる。また、これらの島々が千島列島(クリル諸島)に含まれると考える立場からは、南千島(または、南クリル諸島)という語が同義語として用いられる。本記事では単に「4島」とも記す。
2024年時点、4島をロシア連邦が実効支配しており[2]、ロシア政府は「4島はロシアの領土である」と主張している[3]。一方、日本国政府は「4島は日本の領土であり、日本に返還されるべき」と主張している[4]。
4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)は、日本の北海道本島の根室半島や野付半島から東の沖合いへ位置する。
視点を変えると、4島はロシアのカムチャツカ半島の南西にある千島列島(クリル列島)の得撫(ウルップ)島から西の沖合いに位置する。
北海道本島から4島への距離は、最も近い島で約3.7 km、最も遠い島で144.4 kmである。また得撫島からは最短で約40 km、最長で約370 kmである。
面積は合計で約5,000 km2で、愛知県や福岡県の面積とほぼ等しい[5][6]。
近代以前までは主にアイヌなどの先住民が居住していた。1855年(安政2年)から1945年(昭和20年)までは日本国民が住み、1945年には約1万7300人が居住していた。それ以降は主にスラヴ系のロシア国民が住み、現在は約1万8000人が居住している[5]。
詳細は下記記事を参照のこと。
4島は現在ロシア連邦政府が実効支配しており、日本国政府がその返還を求めているが、両国は異なる見解を示している。
日本政府は「4島(北方四島)は日本固有の領土であり、ロシアが不法占拠している」と主張している[4]が、ロシア政府は「4島(南クリル諸島)はロシアの領土であり、日本が不当な領有権の主張を行っている」と主張している[7]。詳細は後述する。
中世以前、北海道やその北に伸びる樺太(サハリン)、東に連なる千島列島(クリル列島)には、日本人(和人)やロシア人よりも古くからアイヌなどの先住民が居住していた[8][9]。
近世以降、それらの地域と近接する日本とロシアは競って進出を行い、領土を拡張してきた[10](詳細は関係史節を参照)[* 1]。
1855年(安政2年)、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)は日露和親条約を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。この条約により、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が日本領と規定された[11]。また、1875年(明治8年)には日本(大日本帝国)とロシア帝国とが樺太千島交換条約を結び、日本は「千島列島」の全域を領有した[11]。
1941年(昭和16年)12月以降、大日本帝国は第二次世界大戦において連合国諸国と戦争を行っていた。
連合国にはロシア帝国の領土を継承したソビエト連邦(ソ連)も含まれていたが、日本とソ連とはすでに1941年4月に日ソ中立条約を結んでいた[11][12]ため、交戦状態にはなかった。
しかし、1945年2月、連合国のうちソ連とアメリカとイギリスの三国は首脳会談を行い、ソ連が日本へ参戦する計画と、連合国がこの戦争で勝利したあとの世界の枠組みについて議論した(ヤルタ会談)。この会談の中で、ソ連が参戦するための条件として、ソ連が「クリル諸島(千島列島)」を領有することを首脳らが合意した(ヤルタ協定)[13]。
根室振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった1945年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国であった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。
米国は1945年5-9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4-8月にはソ連兵約1万2000人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たったという。
訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は、樺太南部や千島列島の作戦に投入された。8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、四島の占領は9月5日までに完了した[14]。
同年4月5日、ソ連は日ソ中立条約を廃棄することを通告した。同条約の規定では「翌1946年4月25日まで有効であり、その1年前に廃棄を通告しなかった場合は自動的に5年間延長される」とされたことから、同条約は1946年4月25日をもって失効する予定となった[15]。
同年8月8日、ソ連は当時まだ有効であったはずの日ソ中立条約に違反して日本に宣戦布告し、翌9日からソビエト連邦軍(赤軍)が日本の勢力圏および領土へ侵攻を開始した[16][17](なお、日本は1931年以降に当時有効であった九カ国条約に違反して中華民国への侵略〈満州事変・日中戦争〉を続けていた[18])。日本はこのソ連対日参戦を受けて、5日後の同年8月14日、連合国に対して降伏した(ポツダム宣言の受諾)[19]。
しかし、ソ連軍は日本が降伏したあとも侵攻を続け、同年8月18日には千島列島の北端にある占守島を占領した[20]。さらにソ連軍は8月28日から9月5日にかけて北方四島に上陸し、占領した[* 2][11]。翌1946年1月29日、日本を占領していた連合国最高司令官の司令により、「千島列島、歯舞群島、色丹島」などの地域に対する日本の行政権が停止された[* 3][21]。その後、北方領土は現在に至るまでソビエト連邦およびそれを継承したロシア連邦が実効支配を継続している。
大日本帝国を継承した日本国政府は「北方領土は日本固有の領土である」として領有権を主張しているものの、日本による施政権は一切及んでおらず、日本はその返還を求めている。
日本は1951年(昭和26年)9月8日に連合国諸国との講和条約であるサンフランシスコ平和条約を締結した。同条約によって日本は「千島列島」を放棄した[11]。
その「千島列島を放棄する」旨の文言について、日本国政府は1951年当時、「千島列島」の範囲には国後島・択捉島が含まれると説明した [22][23][24][25]。一方で「色丹島および歯舞諸島は北海道の一部を構成する(属島である)」[25]とも説明した。もし「千島列島」に4島が含まれる場合、日本はこれらの領有権を放棄したことになる。もし含まれない場合、放棄していないことになる。
しかし、この説明は1956年2月に撤回され[26]、日本国政府は「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島のなかにも(国後島と択捉島の)両島は含まれない」と述べた[27]。以降、現在まで日本政府は「北方四島は千島列島には含まれず、日本は放棄していない」と主張している[11][28]。
一方、ロシアおよび英語圏では、千島列島を意味する「クリル列島(露: Кури́льские острова́、英: Kuril Islands)」に択捉島や国後島までが含まれるとみなすことが一般にみられる[29][30]。ただし、ソビエト連邦および現ロシア連邦はそのサンフランシスコ平和条約への署名を拒否し、調印していない[31][32]。
日本国政府は、北方四島(南クリル諸島)について「日本固有の領土であり、現在はロシアに不法占拠されている。日本に返還されるべきである」と認識している[4]。同国政府によれば、その根拠は主に次のようになる[4][11]。
日本政府の主張によれば、同国の基本方針は主に次の通りである[4]。
日本国の文部科学省が小学校、中学校、高等学校への指導内容を規定する学習指導要領(教科書検定)において、日本の社会科の教科書には「北方領土は日本固有の領土である」と必ず記載することが義務付けられている[33][34]。また、同検定において「地理総合」や「公共」の教科書では「ロシアが北方領土を実効支配している」という表現は許可されず、「ロシアが不法占拠している」と記載するように求められた[34]。
高等学校の「歴史総合」の教科書では、「1855年の日露和親条約で四島は日本領と定められた」とも必ず記載する必要がある[34]。さらに歴史総合では「千島列島」のなかに択捉島などの4島を含む記述が許可されず、4島よりも北東側にある島々のみを指して「千島列島」と記載するように修正された[35]。千島列島に4島を含むことの意義については、「千島列島#北方四島を含むか否かの意義」記事を参照。
また、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で日本とソビエト連邦(現在のロシア)が「平和条約を締結した後に、ソビエト連邦は歯舞群島と色丹島の2島を日本へ引き渡す」と合意したことについて、教科書が「いまだ実現していない」とした記述も同検定で削除された。その理由について文部科学省は「現在もわが国が2島返還交渉を行っていると誤解する」ためとした[34]。
なお、中学校や高等学校の社会科で用いられる地図帳における4島の帰属は、時代とともに認識の変遷がみられた。以下で挙げる例はすべて文部省の教科書検定に合格した地図帳である[36]。
第二次世界大戦以前の1934年(昭和9年)や1938年(昭和13年)に発行された地図帳(帝国書院)では、4島は日本の領土であったので当然そう記載されていた。ここでは択捉島・国後島・色丹島は「千島列島」に属し、歯舞群島は「根室」に属していた[36]。大戦後の1946年や1950年、1952年、また1955年の地図帳(帝国書院、日本書院)では、4島は「ソビエト連邦の領土」として記載され、択捉島は「クーリル列島(千島列島)」に属していた[36]。続いて1963年や1964年、1966年、1967年、また1969年の地図帳(帝国書院、日本書院)では、4島は日本とソビエト連邦のどちらの領土であるか明記されていなかった。択捉島は千島列島に属し、択捉島や国後島は「南千島」と表現されることもあった[36]。
そして、1973年(昭和48年)に発行された地図帳(帝国書院)では、4島は「日本の領土」として記載された。以後、現在に至るまでこの表記が義務付けられており、これ以外の記述は学校教科書として認定されない[36]。また、この1973年の地図では択捉島は千島列島に属するか否か曖昧であった[36]。
なお、現在の日本の教科書検定では北方領土がロシアの領土であると記載することは認められていないが、外国の地図を紹介し引用する形でそのような記載がみられることもある。2005年(平成17年)の中学地理の教科書(日本書籍新社)では、日本以外の国の地図が紹介され、そのうちイランのペルシャ語で書かれた世界地図では4島が「ロシアの領土」として描かれている[36]。
日本は4島において施政権を有さないが、4島を「北海道の根室振興局が管轄する地域」として区分しており、法律上は市町村(郡)を設定している[37]。
同国は4島に色丹郡、国後郡、択捉郡、紗那(シャナ)郡、蘂取(シベトロ)郡を法的には設置しており、本籍を置くこともできる。4島へ近い根室市がそれらの事務を代行している[38]。
詳細は「日本の行政区分下の北方領土」節および下記記事を参照。
ロシア連邦政府は、南クリル諸島(北方四島)について「同国が第二次世界大戦の結果として獲得したロシアの領土であり、日本が根拠のない領有権の主張を行っている」と認識している[7][39]。
同国の著述家 B. I. Tkachenko によれば、その根拠は主に次のようになる[40]。
ロシア政府の主張によれば、同国の基本方針は主に次の通りである[7][41]。
ロシアの外務省は、日本政府が教科書検定によって同国内の教科書に4島を「日本固有の領土」と記載するように強要していることに対して、2021年4月に報道官マリア・ザハロワを通じて批判した[39][42]。同報道官は「日本政府が歴史的な真実と第二次世界大戦の結果に反する偽りの固定観念を若い世代に押し付けている」と延べた上で「日本が根拠のない領有権の主張を行っていることは遺憾である」とした[39][42]。さらに4島について「ロシア連邦の主権は議論の余地がない」「(日本の行為は)両国の関係へ悪影響を与える憤りをロシア社会へもたらしている」と断じた[39][42]。
ロシアは4島において施政権を有しており、4島を極東連邦管区のサハリン州が管轄する地域と区分している。同国は択捉島に「クリル市(露: Курильский городской округ)」、国後島・色丹島・歯舞群島に「南クリル市(露: Южно-Курильский городской округ)」を設置して4島での行政機能を行っている[43][44]。
詳細は「ロシアの行政区分下の北方領土」節および下記記事を参照。
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印した。この時、南樺太・千島の日本軍は赤軍極東戦線に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となった。
1952年のサンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。この条約にソ連は調印していないため、ソ連との国交回復は、1956年の日ソ共同宣言により行われた。この時、日ソ間で領土の帰属に関して合意が得られなかった。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるが、平和条約締結や領土問題での合意に至っていない。
1941年4月、日ソ間で日ソ中立条約が締結された。その2か月後、ドイツが突如ソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。日本政府は、御前会議において、情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱を策定、独ソ戦が日本に有利に働いたときはソ連に侵攻することを決めた。さらに、日本軍は関東軍特種演習(関特演)を実施、ソ連侵攻の準備を整えた。しかし、日本政府の思惑とは異なって、独ソ戦は膠着し、日本のソ連侵攻の機会は得られなかった。
ソ連はスターリングラード攻防戦・クルスク戦車戦以降、独ソ戦を有利に展開するようになる。こうした中、1943年11月、テヘラン会談が米・英・ソ三国首脳により開かれ、当面の戦争、戦勝権益の連合国間での分割、連合国の覇権に置かれる戦後世界の戦略に関して幅広い協議が行われた。このときの合意は、1945年2月のヤルタ協定に引き継がれた。
当時アメリカは米国人の戦争犠牲をなるべく少なくすることを狙っており、そのためには、ソ連の対日参戦が必要だった。独ソ戦で大きな被害を受けていたソ連国民には、更なる戦争への参加をためらう気持ちも強かったが、戦後世界の勢力バランスを考慮したスターリンは米国の参戦要求を了承した。
当初ポツダム宣言への連名は、日本と交戦状態に無いソ連は除外されていたが、ソ連は参戦後、ポツダム宣言に参加した。その後、アメリカ主導で作成されたサンフランシスコ講和条約においても、既にソ連が占領している南樺太や千島をヤルタ会談での取り決め通り日本に放棄させる内容となっている。
1945年ドイツ敗北の3か月後、ソ連は米・英との合意にしたがって対日宣戦布告。翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。満州の日本軍は、蒋介石の国民党軍ではなく、赤軍に対し降伏すると取り決められていた。翌年3月12日、蒋介石の駐留要請を断って、赤軍は瀋陽から撤退を開始し、5月3日には旅順・大連に一部を残し、完全に撤退した。
一方、南樺太では、8月11日、中立条約を侵犯し[119][出典無効]、日本に侵攻した赤軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。樺太占領軍の一部は、26日に樺太・大泊港を出航し、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されている。
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に入った。千島・南樺太はソ連の占領地区とされた。1946年1月29日、GHQ指令第677号により、南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が一時的に停止され、同2月2日に併合措置(ソ連邦最高会議一九四六年二月二日付命令)。
サハリン島南部及びクリル諸島の領域を1945年9月20日にさかのぼり国有化宣言。これはヤルタ協定に基づくものの条約によらない一方的行政行為(一方的宣言)であり当該領域についての最終帰属に関する問題が発生する。1946年2月11日に米国とともにヤルタ密約の存在について公表。
千島列島に関する条文案は紆余曲折[* 11]を経て、1951年9月にサンフランシスコ講和条約が締結され1952年に発効されたことにより、日本は独立を回復したものの、同条約に従って、南樺太・千島列島の領有権を放棄することになった。条約締結に先立つ1946年末から、日本は米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。
この中の2冊は千島に関する事項であることが知られている。このような経緯があって、千島列島の範囲が日本に不利なように定義されなかったが、同時に、日本に有利なように定められることもなかった。
1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権限及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない」とする決議を行った。
この米上院の決議の趣旨は、サンフランシスコ講和条約第25条として明示的に盛り込まれている。米国上院のこの決議[* 12]はサンフランシスコ条約批准に際する解釈宣言であり有効である。但し外交交渉そのものの権限は大統領府にあり議会にあるわけでは無いので、当条約を批准した以降に大統領府がおこなう別の外交交渉を直接拘束する訳ではない。また他の参加・批准国を直接拘束するものではない(他の批准国はサンフランシスコ講和条約により直接的に拘束されている)。
ソ連はサンフランシスコ講和条約への調印を拒否したため、国交回復は1956年の日ソ共同宣言まで持ち越された。このとき、日ソ間では歯舞群島・色丹島の「譲渡」で合意しようとする機運が生まれたが、日本側が択捉島・国後島を含む四島一括返還を主張したため交渉は頓挫した。結果、現在もロシアとの平和条約締結に向けて交渉が行われているが、領土問題に関する具体的な成果は得られていない。
日本政府は1997年に在ハバロフスク総領事館サハリン出張駐在官事務所を開所し、2001年にはサハリン州ユジノサハリンスクに総領事館を設置した[120][121]。
総領事館の設置に際してはロシア政府と交換公文や往復書簡を交わしロシアの同意を得ており、総領事の配置にも同意(アグレマン)を得ているが、日本政府としては南樺太の最終的な帰属先は未定であるとの立場であり[122]、仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて必要な措置を取るとしている[123]。
鈴木宗男は南樺太についての政府解釈は難しいだろうと指摘したうえで北方領土の帰属は日本であると確認をしている[124]。近藤昭一は総領事館設置を既成事実として南樺太の帰属問題を解釈する危うさを指摘し、日本がロシアに対して依然南樺太の領有権を主張しうるとする説や、日本が領有権を主張し得ないと同様に対日平和条約の当事国でないソ連もこの条約に基づいて南樺太・千島列島の領有権を主張できないとする説に言及する[125]。
三大同盟國ハ日本國ノ侵掠ヲ制止シ且之ヲ罰スル爲今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國カ淸國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ
1943年、太平洋戦争中に米・英・中がカイロで首脳会談を行った。この時のカイロ宣言では、日本の侵略を制止し、日本を罰し、1914年の第一次世界大戦以後日本が奪取した太平洋上の領土を奪還することや、満州・台湾を中国に返還することを目的としている。また、米・英・中には領土拡張の考えがないとしている。カイロ宣言は、米・英・中の宣言であり、ソ連と関係した南樺太や千島列島は、同宣言の奪還の直接対象とはなっていない。
一方で、ソ連が後に参加した1945年のポツダム宣言では日本の主権範囲について「カイロ宣言の条項は履行されるべき」の文言があり、カイロ宣言についてソ連に対して間接的に影響を及ぼしている。
ポツダム宣言 八
「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
「カイロ」宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州、および四国ならびにわれらの決定する諸小島に限られなければならない
ポツダム宣言ではカイロ宣言を履行されなければならないとしている。カイロ宣言では南樺太・千島には言及されておらず、ポツダム宣言でも千島列島・南樺太に関する言及は無い。ただし、四国よりも大きい樺太が諸小島に含まれるとも解釈できない。宣言ではソ連への千島・南樺太の譲与にも言及がない。
南樺太と千島列島のソ連軍占領は連合軍「一般命令第一号(陸、海軍)」に従って行われた。トルーマンの「一般命令第一号」原案では、千島列島の日本軍がソ連に降伏すると記載されてなかったため、スターリンはヤルタ協定に基づき、赤軍に対し降伏させるようトルーマンに要求。
トルーマンはスターリンの要求を受け入れた。しかし、同時にスターリンが要求した北海道東北部の占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した。他方、米国側はソ連に対し、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させるよう要求したが、スターリンに拒否された。
翌1946年1月、連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、日本政府は、琉球・千島・歯舞群島・色丹島・南樺太などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。その直後、ソ連は占領地を自国(厳密にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の領土に編入している。サンフランシスコ平和条約に調印していないソ連が占領した島々を、ロシアが現在も実効支配している。
第二章 領域 第二条(c) (和訳原文)
- 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄する。条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、アメリカ全権のダレスは歯舞群島は千島に含まないとするのが合衆国の見解とし、連合国内で合意をみない旧日本領土の最終処分については22条に基づいて国際司法裁判所に付託することができるとした[126]。日本全権の吉田は、南樺太および千島列島は日本が侵略によって奪取したとのソ連全権の主張は承諾できない、としたうえでソ連による北方占領地の収容を非難する根拠として日露和親条約や千島樺太交換条約での平和的な国境の画定を指摘し、南樺太と千島列島のソビエトによる収容が一方的であると非難し、かつ歯舞・色丹については「日本の本土たる北海道の一部を構成する」と、国後・択捉については「日本領であることについて、帝政ロシアも何ら異議をはさまなかった」とそれぞれ説明している[127]。
国内では、サンフランシスコ講和条約締結前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて島津久大政務局長が[22]、同条約締結直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄条約局長が[24]、同年11月6日の参院特別委員会に草葉隆圓外務政務次官が[23]、それぞれ「南千島は千島に含まれている」と答弁している(但し、西村・草葉は歯舞・色丹に関しては千島列島ではないと答弁した)。この答弁がされていた当時は条約を成立させて主権を回復することが最優先課題であり、占領下にあって実際上政府に答弁の自由が制限されていた[128]。この説明は国内的に1956年2月に森下國雄外務政務次官によって正式に取り消された[26]。
その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としており、1956年頃から国後・択捉を指すものとして使われてきた「南千島」という用語が使われなくなり、その代わりに「北方領土」という用語が使われ始めた。日本政府は1964年に国後・択捉に対する「南千島」という旧来の呼称に代え、四島を返還要求地域として一括する「北方領土」という用語を使用することを決定した[129][130]。
以上の経緯から、日本政府は一度は主権を放棄した国後・択捉について返還を求めることについては「復活折衝」と表現する者もいる。
この条約では日本が放棄した旧領土の帰属先については意図的に除外されており、ソビエト全権のグロムイコはこの英米案からなる講和条約案を非難している[131]。これはすでに朝鮮半島で始まっていた東西陣営による角逐(朝鮮戦争、あるいは封じ込め政策)の緊張のなかで、北方占領地や台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったためで、ソビエトは米国による西南諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治の形での実効支配についても非難している[132]。
また、第二条(c)のほかに、北方領土問題に関する条文として、第二十五条と第二十六条が存在する。
現在、サンフランシスコ講和条約においては以下の条文を適用することによりロシア(旧ソ連)による南樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の領有権は否定されているというのが、この条約を批准した日本など46カ国の立場である。
第七章 最終条項 第二十五条 (和訳原文)
- この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。
つまり、ロシア(旧ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印・批准していないのでこの条約上の連合国には該当せず、当該条約はそのような国に対していかなる権利、権原又は利益も与えられてはおらず、すなわち、日本が放棄した千島列島や南樺太をロシアが領有することは認めないということである[133]。
さらに、日本がこの条約に違反した場合の罰則も規定されている。
第二十六条 (和訳原文)
- 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。
アメリカは、日本がソ連との間で色丹・歯舞の二島「譲渡」で妥協しようとした際、上記の条文を根拠として、沖縄の返還に難色を示した[134]。
日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十一号) 9
- 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
1955年6月、松本俊一を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日になって態度を軟化させ、歯舞・色丹を日本領とすることに同意した。松本はソ連側の妥協を受け、これで平和条約交渉は妥結すると安堵したが、日本政府は国後・択捉も含めた北方四島全てが日本領であるとの意向を示したため、交渉は行き詰まった。
1956年7月、重光葵外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで日ソ平和条約交渉が再開された。当初、重光は四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見るや、8月12日、歯舞・色丹二島返還で交渉を妥結することを決心し、本国へ打診。しかし、当時、保守合同で発足した自由民主党の党内には派閥間の思惑もあり、重光提案を拒否、日ソ平和条約交渉は膠着した。さらに、8月19日に重光外相はロンドンで行ったアメリカのダレス国務長官との会談の席上、ダレスに択捉島、国後島の領有権をソ連に対し主張するよう強く要求される。この中でダレスは「もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とする」と述べたとされる[135]。ダレスの沖縄の米国領有の根拠はサンフランシスコ平和条約第26条の「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない」を適用するものとされた。この米国からの介入はダレス恫喝として知られている。なお、この会談の記録は外務省に保管されており、鈴木宗男が2006年2月、松本の書籍の内容が事実であるかどうかを政府に質問したが、政府は今後の交渉に支障を来たす恐れがあるとして、明確な回答を一切避けた[136]。
自民党内部の反鳩山勢力の思惑や米ソ冷戦下の米国の干渉などにより、平和条約交渉は完全に行き詰まった。
1956年、かねて日ソ関係正常化を政策目標に掲げていた鳩山一郎首相は局面を打開すべく自ら訪ソしようと考えた。領土問題を棚上げにして戦争状態の終了と、いわゆるシベリア抑留未帰還者問題を解決する国交回復方式(アデナウアー方式)に倣うものとし、この場合、国交回復後も領土問題に関する交渉を継続する旨の約束をソ連から取り付けることが重要だった。鳩山訪ソに先立ち松本俊一が訪ソし1956年9月29日にグロムイコ第一外務次官との間で「領土問題をも含む平和条約締結交渉」の継続を合意する書簡を取り交わした。
同10月12日に鳩山首相が訪ソ、ブルガーニン首相らと会談。実質的交渉は河野一郎農相とフルシチョフ党第一書記との間で行われた。日本側は歯舞・色丹の「譲渡」と国後・択捉の継続協議を共同宣言に盛り込むよう主張したが、フルシチョフは歯舞・色丹は書いてよいが、その場合は平和条約交渉で領土問題を扱うことはない、歯舞・色丹で領土問題は解決する旨主張した。18日午後の会談で、河野が提示した案文に対しフルシチョフは平和条約締結交渉の継続を意味する「領土問題を含む」との字句を削除したいと述べ、河野はソ連側からの案文をそのまま採用したものだとして反論、河野は総理と相談するとして辞し、同日中にフルシチョフを再訪し、字句削除の受け入れを伝えた。ただし日本側は「松本・グロムイコ書簡」を公表することで説明をつける考えであり、ソ連側の了解を得て公表された[137]。
1956年の日ソ共同宣言では歯舞・色丹を平和条約締結後に日本に引き渡す取り決めを結ぶ。日ソ共同宣言の締約によりソ連の賛同を得て日本は国際連合に加盟を果たすことになるが、平和条約交渉における領土問題の取り扱いについて日ソ間で直ちに認識の違いが露呈してくることとなる。1960年、日米安全保障条約の改正によりソ連は領土問題の解決交渉を打ち切り、領土問題は日本側の捏造でしかなく、当初から領土問題が存在しないことを表明(日本政府ならびに外務省は、ソ連は領土問題は解決済みと捉えている、としている)。日本もソ連との間では、まず北方領土問題が解決しなければ何もしないとの立場をとった。
1973年10月に田中角栄首相とブレジネフ共産党書記長との会談を経て、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して、平和条約を締結する」との日ソ共同声明が出された。日本政府はこの共同声明を根拠に、首脳会談でブレジネフから「領土問題が未解決である」ことの言質を得たと認識しているが、日ソの共同文書には「領土問題が存在している」旨の明記はなされなかった。
1991年4月にゴルバチョフ大統領が来日し、領土問題の存在を公式に認めた。ソビエト連邦の崩壊後の1992年3月に東京で行われた日露外相会談で、ロシア側が北方領土問題において歯舞・色丹を引き渡す交渉と国後・択捉の地位に関する交渉を同時並行で行った上で平和条約を締結することを含めた秘密提案を行ったものの、四島返還の保証はなかったことで日本側は同意しなかった。1993年10月、日露首脳会談が行われ、両首脳は北方四島の帰属問題について両国間で作成された文書や法と正義の原則に基づき解決することで平和条約を早期に締結するよう交渉を続けることを日露共同文書で明記した東京宣言が発表された。1997年11月のクラスノヤルスク合意では、東京宣言に基づいて2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすことで日露首脳が合意した。
1998年4月、日露首脳会談で日本側は「択捉島とウルップ島の間に、国境線を引くことを平和条約で合意し、政府間合意までの間はロシアの四島における施政権を合法と認める案」を非公式に提案(川奈提案)。1998年11月、日露首脳会談でロシア側は「国境線確定を先送りして平和友好協力条約を先に結び、別途条約で国境線に関する条約を結ぶ案」が非公式に提案された(モスクワ提案)。2001年3月、日露首脳会談で日ソ共同宣言が平和条約交渉の基本となる法的文書であることを確認し、1993年の東京宣言に基づいて北方四島の帰属問題の解決に向けた交渉を促進することを明記した文書に両首脳が合意した(イルクーツク声明)。
日本側は四島返還が大前提であるが、ロシア側は歯舞・色丹の引き渡し以上の妥協はするつもりがなく、それ以上の交渉は進展していない。
2005年11月21日の未明に、訪日したプーチン大統領と小泉純一郎首相(当時)の間で日露首脳会談が行われた。これによって領土問題の解決を期待する声もあったが、領土問題の交渉と解決への努力の継続を確認する旨を発表したのみに留まり、具体的な進展は何も得られなかった。また、ロシア側も、原油価格の高騰による成長で、ソビエト崩壊直後のような経済支援や投資促進のカードを必要としなくなりつつあり、またラトビア、エストニアなどソ連併合時に国境を変更させられた両国との国境問題とも絡み合い、北方領土問題の解決を複雑にしている。
2009年2月18日サハリンでロシアのメドヴェージェフ大統領と日本の麻生太郎総理大臣が会談し、領土問題を「新たな、独創的で、型にはまらないアプローチ」の下、我々の世代で帰属の問題の最終的な解決につながるよう作業を加速すべく追加的な指示を出すことで一致した[138]。
2020年12月、プーチンは領土割譲呼び掛けなどの行為を処罰する刑法改正案に署名しこの条項は8日付けで発効した。最高刑は10年の懲役[139]。
戦後になると、北方領土を実効支配したソ連が、周辺海域で操業する日本の漁船を領海侵犯等の理由で取り締まるようになった。
日本政府は上述のトラブルを避けて、北方四島の海域で日本の漁船が操業できるようにするための協定が日ロ(日ソ)の間で締結されるようになった。
1963年に発効した「日ソ貝殻島昆布採取協定」(日ロ貝殻島昆布採取協定)は民間協定という形で、歯舞群島の貝殻島付近において、日本の漁業者が昆布漁をできるようにする取り決めで、北海道水産会という民間団体とソ連(ロシア)の関係当局とが毎年話し合って収穫できる昆布の量を決め、採取権料をソ連(ロシア)側に支払って漁を行う内容になっている。
日ソが200海里漁業水域を設定したことに伴い、それぞれ相手国200海里水域内で行う漁業についての交渉が行われ、1978年に日ソ漁業暫定協定とソ日漁業暫定協定が同年12月に締結され、発効された。
1985年に発効した日ソ地先沖合漁業協定(日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の両国の地先沖合における漁業の分野の相互の関係に関する協定)は、日ソ漁業暫定協定とソ日漁業暫定協定を一本化し、両国政府が自国の二百海里水域における他方の国の漁船による漁獲を許可することのほか、相手国の漁船のための漁獲割り当て量等の操業条件の決定の方法、許可証の発給、漁船の取り締まり、漁業委員会の設置等について規定されている。有効期間は3年間とし、その後はいずれか一方が終了通告を行わない限り、1年ずつ自動的に延長される。日本側は水域の資源管理という名目で、協力費をソ連(ロシア)側に支払っている。
これらの協定は、1991年12月以降、国家としてソ連を引き継いだロシア連邦との間で引き続き有効である。
1998年には、北方四島の12海里水域(領海)における日本漁船の安全操業の枠組みを定める「日本国政府とロシア連邦政府との間の海洋生物資源についての操業の分野における協力の若干の事項に関する協定」(北方四島周辺水域における日本漁船の操業枠組み協定)が発効された。北方四島周辺の12海里水域(領海)で日本の漁業者が漁をできるようにする取り決めであり、毎年協議が行われ、操業条件が話し合われる。この協定には違法操業に対する取締りの規定はない。有効期間は3年間とし、その後はいずれか一方が終了通告を行わない限り、1年ずつ自動的に延長される。日本側は水域の資源管理という名目で、協力費をロシア側に支払っている。
2015年6月にロシアで排他的経済水域内でのサケ・マスの流し網漁を全面的に禁止する法案を可決し、2016年から施行されたが、北方領土におけるロシアの排他的経済水域内の漁業において流し網漁に依存する日本漁船に大きな影響が出ると見られている[140]。
1964年から、元島民及びその親族による北方領土にある先祖の墓所への参拝が人道的観点から断続的に実施されている。当初は簡単な証明書で渡航出来ていたが、ソ連側から旅券の携行を強く要求されたため1976年に一旦中断。10年後の1986年に口上書が交換され、再び簡単な証明書での墓参が実現した[141]。また、日本国民の北方領土関係者およびロシア人北方領土居住者に対するビザなし渡航が1991年の日ソ首脳会談で提案され、1992年4月から実施されている[142]。
1991年12月のソ連崩壊に伴って、ロシアを含む旧ソ連諸国と日本とで1993年に「支援委員会の設置に関する協定」が締結・発効された。支援委員会は旧ソ連諸国の市場経済への移行を促進するメカニズムとして設置され、ロシアが実効支配する北方四島においては市場経済への移行を促進するためとして北方四島の診療所や発電所や緊急避難所兼宿泊施設に支出された[143]。2002年の鈴木宗男事件発覚により、支援委員会の不透明さが問題視されて廃止された。
また、日本政府は北方四島の地区病院への医療器具や薬品の提供、北方四島の医師・看護師等の研修受け入れ、北方四島の患者の北海道の病院受け入れ[* 13]という形で北方四島へ医療支援をしている[144]。
北方領土四島には色丹村・泊村・留夜別村・留別村・紗那村・蘂取村・歯舞村の7村が地方自治体として存在していた。1959年に歯舞村が根室市と合併したため、歯舞村であった地域は現在、根室市に属している。
1983年4月1日施行の「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」(昭和57年8月)第11条により、日本国民の誰でも本籍を置くことが可能となっている(法律施行以前は不可となっていた[145])。これは上記6村が元来北海道根室支庁に属する自治体であったため、各村自治体が実効的な存在を喪失して以降も上位の地方自治組織が機能しているためである。現在この手続きは根室市役所が行っている。なお、樺太や北千島に関しては、すでに樺太庁や北千島関連役所が消滅していることに加え、帰属が未確定であることを日本政府および外務省が公認しているため、このような措置は行われていない[* 14]。
日本側の行政区分の一覧
海上保安庁が開示している「日本の領海等概念図」では、北方領土四島全てが領海に含まれている[146]。
日本小型船舶検査機構が提供する航行区域の水域図では北方領土四島周辺にも、小型漁船であれば船舶検査が不要となる12海里のラインが示されており[147]、東沸湖などの湖には二級小型船舶操縦士を取得すれば航行可能な平水区域の設定も確認できる[148]。
現在、ロシアの施政権が行使されている状態にある北方四島は、ロシアの行政区分ではサハリン州に属している。国後、択捉、色丹島の現人口は合計約1万7000人で、これはソ連侵攻時に住んでいた日本人とほぼ同規模という。歯舞群島にはロシア国境警備隊のみが駐屯している[149]。
ロシアは2014年、択捉島にイトゥルップ空港を整備、2017年色丹島に経済特区を設置する[150]など、実効支配を強めている。
サハリン州は開発が遅れたために、カニやウニなどの魚介類を始め、ラッコやシマフクロウなど、北海道本島を始めとした周辺地域では絶滅あるいはその危険性が高い生物の一種の「聖域」状態となっている。ロシア政府は北方領土を含む千島一帯をクリリスキー自然保護区に指定して、禁猟区・禁漁区を設定するなど、日本の環境保護行政以上の規制措置が取られている。だが、ソ連崩壊後には密猟などが後を絶たず、一部の海産物は日本国内に密輸で流れているという説もある。
現在、一部の環境保護団体の間には北方領土を含む千島一帯の世界遺産登録を求める主張があり、また日本の環境保護行政は水産関係団体や開発業者に対して甘すぎるため、領土返還後には貴重な生態系が破壊される恐れがあるとして返還を危惧する人々もいる。一方、日本国内にも領土問題とは一線を画して、北方領土の対岸で先に世界遺産に登録されている知床とともに、日露両国が共同でひとつの世界遺産地域を作っていくべきである、という声もある。しかし、世界遺産に登録された状態の北方領土が返還された場合、旧島民の持つ土地所有権や漁業権をどうするのかについて不透明であるために、何らかの特別法制定が必要となる可能性がある。
北方四島交流事業を除くと、日本人が北方四島を訪問するにはロシアの査証を取得しなければならない。ロシアの査証取得後、稚内港または新千歳空港、あるいは函館空港からサハリンに渡り、ユジノサハリンスクで北方四島への入境許可証を取得し、空路または海路でアクセスすることになる。
この方法はロシアの行政権に服する行為であり、ロシアの北方四島領有を認めるとして、日本国政府が1989年(平成元年)以来自粛を要請している。しかし、自粛要請に法的強制力は存在しないため、北方四島のロシア企業との取引・技術支援や開発のため、多くの日本人ビジネスマンや技術者がロシアの査証を取得し、北方四島に渡航している。日本国政府としては、この方法での北方四島への渡航者に対して特別な対応や懲罰はしていない[151]。
ロシア側が北方領土を固有の領土とし、領土問題を否定する理由については、以下の要因があげられる。
日本政府ならびに外務省は、ロシア連邦国内の一般国民レベルでは、北方領土問題の存在自体があまり知られておらず、これを踏まえてロシア政府ならびに識者が、ロシアの北方四島領有は国民によって支持されていると主張している、と述べている。だが、実際にはロシア国内の学校では、ロシアの北方四島領有は第二次世界大戦の結果承認された正当なものであり、北方四島は戦勝国であるソ連が獲得した正当なロシア固有の領土であると教えている。このため、ロシア国内にて北方領土問題は日本政府の一方的な主張に過ぎず、正当性のないものである、という認識が一般化している。
また、オホーツク海には潜水艦発射弾道ミサイル搭載型潜水艦(SSBN)が配備されており、ロシアの核抑止力維持のため戦略的に重要な位置づけにある[152]。地政学的または軍事的見解によれば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)を含め、ロシアはソ連時代にオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこからアメリカ軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海にアメリカ海軍を自由に出入りさせられるようになる。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上で極めて重要なルートでもあり、これがアメリカ同盟国である日本の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。ロシア連邦運輸省のエゴーロフは連邦最高総局のレポートのなかで、南クリル諸島の海域が凍結しない海峡として太平洋への自由航行のために重要であると報告している[153][* 15]。
北方領土には、石油に換算しておよそ3億6000万トンと推定される石油や天然ガス、世界の年間産出量の半分近い量の生産が見込まれるレニウムなど手付かずの豊富な地下資源が眠っており[154]、水産資源においても世界三大漁場のうちのひとつに上げられるほど豊富である[155]。ロシアの天然資源・環境省によれば、これら北方領土周辺の資源価値は2兆5000億ドルに上ると推計され[155]、これらの資源を巡る問題もまた北方領土の日本への返還を困難なものとしている[156]。
サンフランシスコ講和条約に対しても、ロシア側の主張は日本側のものとはかなり食い違っている。当時のソ連側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中華民国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されており、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れ、1945年9月2日に降伏文書にも調印した。日本が降伏文書に調印する9月2日までは、日本とソ連の間でまだ戦争が続いていたというのがロシアの立場であり、降伏文書調印以前の占領は合法であるという立場である[* 16]。日露の間は平和条約の締結こそしていないが、ロシアは占領地区を既に自国へ編入している。さらに、サンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には択捉島・国後島が含まれるのはもちろんのこと、色丹島・歯舞群島のいわゆる小クリル列島もまた含まれるとしている。その上で、第二次大戦の処理方針として大西洋憲章やカイロ宣言ならびにポツダム宣言で領土不拡大の原則が定められているが、第二次世界大戦当時日本が連合国でないことから日本にこれらの原則は適用されないとし、かつ敗戦国であることから日本の北方四島の領有は根拠がないばかりか不法行為で、日本の敗戦と同時に北方四島は放棄された、としている。これらを踏まえて、日露間の領土問題は架空の存在で事実無根であるとしている。
ロシアはかねてから、日露平和条約締結により北方二島「譲渡」に応じる、としているが、日露平和条約締結には、日米安全保障条約の破棄ならびに米軍を始めとする全外国軍隊の日本からの撤退が第一条件となっており、二島「譲渡」は平和条約締結後、順を追って行うとしている。これは暗黙の了解ではなく、ソ連時代に度々公言されていたことである。そして、日米安保問題に抵触していることから、アメリカが日露間に領土問題は存在する、として返還を要求するようになっている。これについては近年、ロシア国内にて「日本に南クリルが譲渡されれば、米軍基地が設置される」と懸念する意見が上がっている。このため、ロシアは米軍に対して返還後の北方四島への米軍基地設置をしないことを要求しており、米軍も基地設置をしないと明らかにしている。
以前の日本側には「ロシアは経済的に困窮している。よってそのうちロシア側が経済的困窮に耐えられず日本側に譲歩し、北方領土を引き渡すであろう」という目論見があり、鈴木宗男失脚以後の日本の外務省の基本戦略は、北方諸島への援助を打ち切って困窮させるという、返還の世論を引き出そうとする「北風政策」であるが、問題は経済的に困窮しているかどうかといったレベルの事項ではない。事実、プーチン大統領就任以降驚異的な経済的発展を遂げたロシアは、2015年を目標年次とする「クリル開発計画」を策定し、国後、択捉、色丹島に大規模なインフラ整備を行う方針を打ち出した。結果、かつて無人島であった色丹島・歯舞群島には近年になって移住者および定住者の存在が確認されており、ロシア側の主張する二島「譲渡」論も困難な状況となっていった。
近年では、ロシア政府は「北方領土」という領土問題自体が存在しない、といういわゆる領土問題非存在論にシフトしつつあり、2010年11月には二島「譲渡」論ならびにその根拠となっている日ソ共同宣言を疑問視する見解が外相から出されている。2018年には、ロシア国内世論において「南クリル(北方領土)はロシアの領土である」という意見が多数を占めるようになった。このため「南クリルの帰属を巡り日本に交渉の必要性が無いことを理解させるべきだ」「既に解決済みなので四島一括返還はおろか二島譲渡にも応じてはならない」と、島の引き渡しを完全否定する意見がロシア国内で支配的になっており、択捉・国後両島のロシア人住民による抗議活動が頻繁に起こっている。ロシア社会において日本に対する認知度は高まってきているが、いずれも文化的・経済的なものに限られており、その認識にしてもあまり深いものではない。また、「文化交流と領土問題解決は別問題」として、日本が領土問題ならびにロシア政府に対して大きな誤解をしている、という認識が広まっている。サハリン州では日本に対する関心が深いが、現状の国境を承認することを前提として交流を深めようとするものである。
「北方四島は外国の領土になったことがない日本固有の領土であり、ソ連の対日参戦により占領され不法占拠が続けられている状態であり、この問題が存在するため戦後60年以上を経たにもかかわらず日露間で平和条約が締結されていない」とするのが日本政府の見解である[157]。内閣府では「固有の領土である北方四島の返還を一日も早く実現するという、まさに国家の主権にかかわる重大な課題」としている[158]。根室・釧路の漁民はソビエト・ロシアの一方的主張にもとづく海域警備行動により銃撃を受け、死傷者を出している[159]。
2000年以降のロシアの北方領土問題への対応について列記する。
2014年、択捉島の中央部に民間空港としてヤースヌイ空港が開港した。滑走路の全長は約2,300 mで、サハリン・ユジノサハリンスクとの間で定期便が運航されている。一方、空軍は旧日本軍が建設した空港を使用している。
2018年1月30日、メドベージェフ首相は、ロシア空軍がヤースヌイ空港を基地としても使用する軍民共用化を許可する政令に署名した[168]。
2016年11月22日、ロシア海軍太平洋艦隊機関紙『ヴォエバヤ・ヴァーフタ』は、択捉島に3K96 リドゥートに代わる対艦ミサイルP-800地上発射型「バスチオン」を配備したこと、および従来対艦ミサイル配備のなかった国後島にKh-35地対艦ミサイル型3K60バルの移送がなされたことを明らかにした[161][162]。
2017年2月22日には、セルゲイ・ショイグ国防相により、クリル諸島に同年内に5,000人規模の師団が新たに配備される計画になっていることが明らかにされ、日本政府側から懸念が出された[167]。
2020年にも択捉島と国後島に地対空ミサイルS300V4が配備されたが、2022年ロシアのウクライナ侵攻後の2023年8月、衛星画像の分析から地対空ミサイルS300V4は島外に搬出されており、本土に再配備された模様と報じられた[169]。
2019年2月26日、ロシアの国営通信会社ロステレコムはサハリンと択捉島、国後島、色丹島を結ぶ高速インターネット網が開通したと発表[170]。海底の光ファイバーケーブルは中国のファーウェイが敷設しており[171][172]、2018年6月に着工した際は日本政府はこれに抗議して、菅義偉官房長官は「ロシアと中国に外交ルートを通じて抗議した。中国に抗議したのは、工事に中国企業が参加しているからだ」と述べた[173]。
国際社会では一部の国が過去に・もしくは現在に至るまでロシアの北方領土の領有を認めておらず、北方領土は日本領であるとしている。
アメリカ合衆国は当初からソ連ならびにロシアの北方領土領有を認めておらず、1956年から日本の立場支持を表明している。戦後1953年には共和党のアイゼンハワー大統領が年頭教書演説で、「あらゆる秘密協定を破棄する」と宣言し、1956年には「ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米政府の公式文書でなく無効」との国務省声明を発表し、具体的にソ連の北方領土占有に法的根拠がないとの立場を表明した[174]。2022年2月7日にはアメリカ政府が在日米国大使館を通して、「北方領土問題で日本を支持」すると同時に「北方四島に対する日本の主権を1950年代から認めている」と見解を示し、日本政府の領土主張を全面的に支持することを公式に発表した[175]。
EUは、2005年7月7日に北方領土の日本への返還をロシアに促す決議を採択した。
中華人民共和国は冷戦中、ロマノフ朝時代に併合された外満州、及び中ソ対立の影響から日本の北方領土領有の主張を支持していたが、冷戦終結前後の中露間の和解及び関係改善を受け、近年では立場を変えている。2021年、中国外務省の趙立堅報道官は、北方領土問題に関し、「世界反ファシスト戦争(第二次世界大戦)の勝利の結果は正当に尊重され、遵守されなければならないと常に確信している。」と発言し、中国がロシアによる北方領土領有を認めるような趣旨の発言を行った。[176]
イギリスは立場を明らかにしてこなかったが、2016年に報道された電報を通じ、 1946年2月当時からのロシアがソ連時代から北方領土領有を主張する最有力根拠としてきた「ヤルタ密約」(ヤルタ協定のうち極東密約)が大西洋憲章に反する上に米議会の批准もないために有効性が無いとの認識を示していたことが示されている[174]。
ウクライナは2022年10月に大統領と議会が北方領土はロシア連邦に不法占拠されている日本の北方領土に対する立場を支持することを表明した。ゼレンスキー大統領は「ロシアの占領下にある北方領土について、日本の主権と領土の完全性を尊重することを確認し、関連する法令に署名した。」「ロシアは、これらの領土に対して何の権利もなく、世界中の誰もがそのことをよく理解している」と表明した。ウクライナ議会は「国際社会は、北方領土が日本に帰属するという法的地位を定めるため、すべての可能な手段を講じるべきだ」と国連や欧州議会などの国際機関にも「北方領土が日本の領土であると定めるための一貫した支援と行動」を求めた[177][178]。
しかしながら、ロシアの北方領土領有には、国際法に基づいた法的根拠が全く存在しておらず、同様に日本の北方領土領有にも、国際法に基づいた法的根拠が存在しない。日本はサンフランシスコ平和条約に於いて千島列島すなわちクリル列島を放棄したが、その千島列島の範囲が条約に明記されておらず、南端がウルップ島までなのか、北方四島も含まれるのかが明らかにされていない。また、北方領土は公式には千島列島ならびに南サハリンとともに帰属未定地となっているため、厳密には主権不明、すなわちどの国の領土にも属していないことになっている。このため、多くの国が北方領土は日本領でもロシア領でもなく、帰属は不明との立場をとっている。これにより、日本・ロシア両国の北方領土領有には、国際法の整備が必要となっており、領土問題の解決をより困難な物にしている。
当事国が領土の帰属問題について合意することが困難な際、国連機関である国際司法裁判所を利用することができる。しかし、国際司法裁判所の制度によれば、付託するためには紛争当事国両国の同意が必要であり、仮に日本が提訴した場合、ロシアが国際司法裁判所への付託に同意しない限り審議は開始されない。ただし、領土問題は存在しないとするロシアの立場上、ロシアが国際司法裁判所への付託に同意することはない。過去の北方領土問題関連の国際司法裁判所をめぐる外相間交渉については上記「北方領土関係史」の1972年の箇所を参照のこと。個別交渉の場合、ソビエト・ロシアはサンフランシスコ講和条約に参加していないため、北方領土問題解決にはロシアの同意が不可欠となっている。これに対して下記各項目のような提案や交渉が行われてきた。
四島に対する日本の領土返還主張を日本政府が全面放棄し、ロシアの支配および領有を現実としてだけでなく、法的にも正当なものとして承認し、その上で四島に対して日本が経済開発などで進出していく解決法である。これは領土問題は存在しないとするロシアの立場とも一致する上、交渉が進展しないがために日本側からも全面放棄論が出てきている[179]。
半面、この解決法は1956年の日ソ共同宣言の「平和条約締結後に歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡す」「日ソ間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続する」とする条文を完全に否定している。これについては、かつて日本は「日ソ共同宣言の存在自体を否定している」として、反対の立場をとっていたが、最近はそのような態度は見せなくなりつつある。ロシアは「日ソ共同宣言はあくまでもソ連によって出されたものであり、ソ連が存在しない現在では全くの無効である」として、日本の領土返還主張の全面放棄こそが最善策であるとの見解を示している。
日本の政府が公式に主張する解決策である。「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島のなかにも(国後択捉)両島は含まれないというのが政府の見解」である[27]。日露和親条約から樺太・千島交換条約を経過して、ソビエトによる軍事占領に至るまでは北方四島は一度も外国の領土となったことはなく、日露間の平和的な外交交渉により締約された国境線である。
カイロ宣言[* 17]の趣旨においてこの四島を「占領」状態ではなく「併合」宣言したことは信義に対する著しい不誠実であり、ポツダム宣言に明示されている放棄すべき領域がカイロ宣言を指定している以上、「千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始」以前からの領土である千島列島、あるいは少なくともソビエトの署名がないサンフランシスコ講和条約に立脚したとしても「一度も外国の領土になったことのない」日本固有の領土である北方四島をソビエトが併合宣言したことは承認できない、とする。
連合国は、第二次大戦の処理方針として大西洋憲章やカイロ宣言で領土不拡大の原則を宣言しており、ポツダム宣言にもこの原則は引き継がれている。この原則に照らすならば、ロシアの北方四島領有は領土不拡大の原則に反した不法行為であり、北方四島は戦勝国であるソ連が獲得した正当なロシア固有の領土であるという主張は成り立たない。したがって、ロシアには日本固有の領土である北方領土の放棄を求める権限はなく、またそのような法的効果を持つ国際的取決めも存在しない。
日本は「北方四島に対する我が国の主権が確認されることを条件として、実際の返還の時期、態様については、柔軟に対応する」「北方領土に現在居住しているロシア人住民については、その人権、利益及び希望は、北方領土返還後も十分に尊重していく」とする四島返還論を主張している[180]。
日ソ共同宣言に基づき、宣言通りに平和条約を締結後に歯舞群島・色丹島を「引き渡す」ことによって、領土問題を終結するとするのが「唯一の法的根拠がある」[181]解決策であるとする。ロシア側は「この解決策は「返還」にはあたらず、「善意に基づく譲渡」に該当する」との立場を取っている。
ロシア側の根拠は、「日本は既にサンフランシスコ講和条約によって、北方四島を含む千島列島の領有権を放棄しているため、旧ソビエトの領有宣言により、北方領土の領土権はすでにロシアにある」というものである。サンフランシスコ講和条約の第2条(c) で日本は千島列島を放棄している。ロシア側はこの千島列島の定義には北方四島が含まれるとする。その根拠として日本が署名した樺太・千島交換条約のフランス語の原文が示される。この認識の上で「両国の平和条約締結および、ロシアの千島列島に対する領土権を国際法上で明確に確立するという国益のためならば、平和条約を締結後に歯舞・色丹の二島を日本側に『引き渡し』てもよい」とするのがロシア側の立場である。また「この立場は日ソ共同宣言で日露の両国が確認しているので、これから遊離することはあり得ないだけでなく、四島『返還』を求める日本は不誠実である」とロシア側は主張している。
実際に当時の全権委員の松本俊一の回想録『モスクワにかける虹』や原貴美恵による研究においても[182]、日ソ共同宣言がこの解決策を意識したものであったと述べられている。しかし、領土に関する国会の情勢は、GHQによる占領下の国会論議においてすでに、沖縄や小笠原などを含め、のちの民社党議員を中心とした日本社会党や日本共産党などの野党議員がこの問題を軸に、現実的外交[* 18]を標榜し右顧左眄する吉田内閣から以降の政権党(自由党)を糾弾する構図であり[* 19]、左派・右派議員あるいは朝野(与野党)を問わない活動家による四島返還を主張する機運が高まり、四島返還要求が日本の国策になった。
また、アメリカ側は国務長官ダレスがロンドンにおける重光外相との会談のなかで国後択捉に関して忠告を与え、仮に残り二島の返還を放棄するなら米国としても沖縄を米国領として併合することになるとの主旨のメッセージを日本側に伝え[183]、二島譲渡を念頭にした鳩山外交は内外からの圧力により挫折することになり、日ソ共同宣言と引き換えに承認された国際連合への加盟を花道に鳩山内閣は総辞職となった。
なお、旧ソビエトはサンフランシスコ講和条約に署名しておらず、同条約からの利益をえることは25条により拒否されている(先述)。結果として、日本はロシアとは未だに平和条約を締結していない。さらに、サンフランシスコ講和条約ならびに日ソ共同宣言では日本が放棄した千島列島および南樺太がどの国に帰属するのかは明記されておらず、不明のままである。これに対してロシアはサハリン州を設置し、千島列島および南樺太の領有を主張しているが、国際法上は法的根拠がないとされている。
ロシア側は「日本の領有権そのものがすでに消滅しており、両国の平和条約の締結における条件は日ソ共同宣言で確認済みであり、この合意を破棄した日本に問題の根源がある」と見なしており、現在では前述の日本の領土返還主張全面放棄がよりよい解決策であるとの見解を示すようになっている。これに対して、日本側は「北方領土の全ての『領有権』を主張する立場」を取っており、両国の交渉は平行線をたどる状況にある。
ロシア側は日本がすでに北方領土の領有権を放棄していると見なしており、平和条約締結後にその見返りとしてロシア領である二島を「引き渡す」という案以外を認めていない。よってこれらの妥協案は、基本的に日本が国際法上未だに領有権を保持しているという前提に立った上で日本国内で議論されている論である。以下はその主なものである。
平和条約を締結した後に歯舞・色丹の両島を日本に「譲渡」することはロシアと日本の両国が認めている。ただし、ロシア側は既に領土問題は国際法上では解決済みとの立場をとる。日本側は平和条約締結後も残りの領土返還を要求すると主張しているので、これに対して、ロシア側にどれだけの譲歩を引き出すか、あるいは引き出すこと自体が可能なのかが、ほかの案での問題となる。つまり、残りの択捉・国後の両島への対応が争点となる一方で、両国の国際法上の認識そのものが争点となっている。
「北千島を含めた千島列島全体が日本固有の領土であり、日本に返還されるべき」と主張する勢力も存在する。日本共産党は「千島・樺太交換条約は平和裏に締約されており、この樺太・千島交換条約を根拠に、得撫島以北を含めた全千島の返還を要求できる」という、千島列島全島返還の立場をとっている[187][188]。
スターリン時代の旧ソ連は、第二次世界大戦の時期に、バルト三国の併合、中国東北部の権益確保、千島列島の併合をおこないました。これは「領土不拡大」という連合国の戦後処理の大原則を乱暴にふみにじるものでした。このなかで、いまだにこの無法が正されていないのは、千島列島だけになっています。ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」やサンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提にせず、スターリンの領土拡張主義を正すという正義の旗を正面から掲げて交渉にのぞむことが、何より大切であることを強調したいのであります。
(2005年2月7日 日本共産党委員長 志位和夫)[189]
日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時におけるスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にある。スターリンは、ヤルタ会談(1945年2月)でソ連の対日参戦の条件として千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、この秘密の取り決めを根拠に、日本の歴史的領土である千島列島(国後、択捉(えとろふ)から、占守(しゅむしゅ)までの全千島列島)を併合した。これは「カイロ宣言」(1943年11月)などに明記され、自らも認めた「領土不拡大」という戦後処理の大原則を蹂躙するものだった。しかもソ連は、千島列島には含まれない北海道の一部である歯舞群島と色丹島まで占領した。第2次世界大戦終結時に強行された、「領土不拡大」という大原則を破った戦後処理の不公正を正すことこそ、日ロ領土問題解決の根本にすえられなければならない。
(2010年11月9日 日本共産党委員長 志位和夫)[190]
なお、日本共産党の北方領土を含む千島列島問題に関する姿勢は一貫しておらず、全千島列島をソ連領としたり、歯舞・色丹の二島の返還を主張していた時期もあった[* 20][191]。
民間では、千島および歯舞諸島返還懇請同盟(現在の北方領土返還要求運動都道府県民会議)が千島全島および歯舞群島の返還を求めていたが[192]、後に国後、択捉、色丹及び歯舞群島のみの返還に主張が変化した。
ロシアからも、四島返還論及び二島譲渡論が提案されたことがある。これは主権無き領土返還と呼ばれるもので、北方四島または歯舞・色丹二島に対する日本の施政権を認めるが、主権は引き続きロシアが有するものとする。これについて日本は、無意味にして実行不可能な提案は受け入れられないとして拒絶しており、ロシアも直ちに提案を撤回している。[要出典]
ロシア側にも北方領土を返還するべきだと主張する者がいる[193]。
ボリス・スラヴィンスキーは「共同宣言は、1993年に調印できると思われる平和条約の締結を条件として、日本に色丹島と歯舞諸島を返還するというソ連の態度を確認している。そのあとで道理にかなった順序で国後島と択捉島を日本に返還すべきである。」と述べた[194]。
グローバリゼーション問題研究所のミハイル・デリャーギンは、ロシア側が北方領土を返還した場合について言及したことがある[195]。
ノーベル文学賞作家であるアレクサンドル・ソルジェニーツィンは著書『廃墟のなかのロシア』の中で、「ロシア人のものである何十という広大な州を(ソビエト連邦の崩壊時に)ウクライナやカザフスタンに惜しげもなく譲渡」する一方で、「エセ愛国主義」から日本に領土を返還することを拒んでいるロシア連邦政府を批判し、これらの島がロシアに帰属していたことは一度もなかったと指摘、さらに日露戦争やシベリア出兵という日本側からの「侮辱」への報復といった予想されるロシア人からの反論に対しては、ソ連が5年期限の日ソ中立条約を一方的に破棄したことが「いっさい(日本に対する)侮辱には当たらないとでもいうのだろうか」と述べ、「国土の狭い日本が領土の返還要求を行っているのは日本にとり国家の威信をかけた大問題だからである」として日本側の主張を擁護。「21世紀においてロシアが西にも南にも友人を見つけられないとすれば、日露の善隣関係・友好関係は充分に実現可能である」とし、日本への北方領土返還を主張した[196]。
2010年11月15日、ロシアのベドモスチ氏は、台頭する中国に日本と協力して対抗するための第一歩として、歯舞群島・色丹島の引き渡しあるいは共同統治が必要であるとした[197]。なお、ソビエト連邦の崩壊後の日露両国は、日ソ共同宣言に明記されている「平和条約締結後の歯舞群島・色丹島の日本への引き渡し」を再確認しており、国後・択捉両島の取り扱いが領土問題における焦点となっている。
映画監督アレクサンドル・ソクーロフは、2011年12月にサンクトペテルブルクの日本総領事館で旭日小綬章を受けた際、「北方領土は日本に返還すべきだ」「ロシアは日本から学ぶべきことがたくさんある」「日本人に、かつて彼らのものだったすばらしい土地を返す必要がある」と述べた[198][199]。
2005年、ヨーロッパ議会は「北方領土は日本に返還されるべき」との提言を出した[200]。2005年7月7日付けの「EUと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文の中で、ヨーロッパ議会は「極東の関係諸国が未解決の領土問題を解決する2国間協定の締結を目指すことを求める」とし、さらに日本・韓国間の竹島問題や日本・中国ならびに台湾(中華民国)間の尖閣諸島問題と併記して「第二次世界大戦終結時にソ連により占領され、現在ロシアに占領されている、北方領土の日本への返還」を求めている[201]。
旧ソ連構成国で多くの北方領土居住者の故地であるウクライナの最高議会は2022年10月7日に北方領土を「ロシアによって占領された日本の領土」と認め、「北方領土に関する日本の立場を支持する」旨を宣言した決議第8108号を採択。同日、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は「北方領土を日本の領土」であることを確認する大統領令に署名した[202]。
ソ連で第4代最高指導者を務めたニキータ・フルシチョフは、晩年に記した回想記の中で、平和条約締結後とはいえ歯舞・色丹の引渡しに合意したのは、漁民と軍人しか利用していない島で防衛的、経済的に価値がなく、これらを引き換えに日本から得られる友好関係は極めて大きいと考えており、「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」、「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と後悔の念を述べ、「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリンのプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘した[要検証]。この文章はフルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されていたが、ゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって、1989年になってはじめてその内容が公開された[203]。
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