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日本の作曲家 (1946-) ウィキペディアから
萩田 光雄(はぎた みつお、1946年6月16日 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。静岡県出身。血液型A型。
疎開先の福島県信夫郡信夫村(現在の福島市)で生まれた。戦後、そこから一家は東京に戻ろうとしたが、まだ焼け野原だったため、埼玉県浦和に引っ越す[1]。
両親はともに静岡の生まれで、家業は電子部品を作る会社の経営で、家は東京の大森にあった[1]。
父は音楽には興味はなかったが、母は琴を弾き、11才年の離れた兄は、自分で電蓄を作り、ベートーヴェンやモーツァルトのレコードを聴いていた。上の姉はピアノを習っていたので、自宅にはピアノがあったが、幼少期の音楽体験はなかった[1][2]。
中学校に入りブラスバンドの応援で打楽器を担当し、その後正式部員となり3年に進級する際、先生から「(管楽器の)トランペットとホルンとチューバの欠員が出たので、どれかやってみないか」と言われ、チューバだけ音が出せたので、担当した[1]。このとき、低音楽器のチューバを担当したことが後のアレンジに活きたという[1][2]。
父の経営している会社に入るつもりだったので、慶應義塾志木高等学校を卒業後、慶應義塾大学工学部電気科を進学するも、在学中も音楽三昧だったので、途中で跡継ぎに進むことは考えなくなり、そのまま卒業する[1]。大学在学中にはクラシカルギタークラブに在籍していた。
音楽の道に進もうと決めたのは22歳の頃に、ある音楽雑誌が主催する作曲コンクールに応募し、一等賞をもらったことがきっかけである[1]。
その後、「オーケストラみたいなことがやりたいので専門知識を勉強しよう」と、24歳の時にヤマハ音楽振興会の作・編曲教室に入学した。修了後ヤマハに勤務し、ポピュラーソングコンテストの応募作品のミキシングなどの仕事をする。
1973年、高木麻早の「ひとりぼっちの部屋」で編曲家としてデビューした[2]。1975年に布施明の「シクラメンのかほり」と、翌1976年に梓みちよの「メランコリー」で日本レコード大賞編曲賞を2年連続で受賞した。
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