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尾崎紀世彦

日本の歌手 (1943-2012) ウィキペディアから

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尾崎 紀世彦(おざき きよひこ、1943年昭和18年〉1月1日 - 2012年平成24年〉5月30日)は、日本ポップス歌手東京都渋谷区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市出身。1960年ハワイアンバンド「ヒロ・ハワイアンズ」結成、1965年カントリーバンド「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」加入。1967年からコーラス・グループザ・ワンダース」を経て、1970年にソロ歌手としてデビュー。愛称は「キーヨ」。ダイナミックな歌唱力と、立派なもみあげや髭がトレードマーク。身長173cm(1972年3月)[1]

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来歴・人物

要約
視点

生い立ち

バレエダンサーの両親のもと、現在の東京都渋谷区に男3人兄弟の次男として生まれ[1]、小学校入学時より神奈川県茅ヶ崎市で育つ。父、繁(芸名:藤田繁)と兄の彰彦(芸名:藤田彰彦)はクラシック・バレエのダンサー・演出家[2][3][4][5]、母:礼子は日劇ダンシングチームの一期生。父方の祖父はイギリス人のHenry Buckingham Lucas[注 1][注 2]、本人は日英クォーターである。

幼少の頃から米軍向けラジオFENジャズカントリー等に親しんでいた。茅ヶ崎市立第一中学校卒業後、YMCA国際ホテル学校へ進学する。趣味は小学生で始めたサーフィン乗馬、祭りの神輿担ぎ、ハーレーの収集とツーリング、縦目メルセデス(オールドベンツ)でドライブ、ヨット沖縄スクーバ射撃、銀細工、シルバーアクセサリーの収集、料理[6][7]

バンド時代

ヒロ・ハワイアンズ 1960年 - 1964年

13歳の時に父にウクレレを買って貰い、中学の同級生6人でハワイアンバンドを結成する。教則本が先生だった。箱根ホテル小涌園のバンド募集のオーディションに合格し、17歳でセミプロデビューする。ここで司会を担当したのは当時大学生だった露木茂(のちにフジテレビ アナウンサー)。1964年には念願の日劇出演を果たすが、目標達成とメンバーの学業と家業の忙しさから解散に至る[8]

ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ 1965年 - 1966年

契約した芸能プロダクション東京ハワイアンズがジミー時田と同じ所属先という縁で、セカンドボーカルとギターで参加する[9][10]。 アルバム『尾崎紀世彦/カントリー&ウェスタンを歌う』では、演奏を「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」に在籍した石田新太郎とシティライツが担当した。ジミー時田は、1967年から音楽活動の場をアメリカに移している。

ザ・ワンダース 1967年 - 1969年

1967年1月グループ・サウンズでも活躍したコーラス・グループザ・ワンダースを結成する。初期メンバーは、栗敏夫と朝紘一、尾崎の3人。TBSやNHKのポップス番組に出演し[11]、洋楽カヴァー、テレビ主題歌などをリリースする。 「ジ・エコーズ」名義で『ウルトラセブン』の主題歌・挿入歌も担当。主題歌冒頭で連呼される、3番目の「セブ〜ン♪」が尾崎の声である[12][13]。シングル「また逢う日まで」レコーディングの際には、既に解散していた元メンバーが再結集しバックコーラスを務めた[12]

ソロ活動

日音村上司プロデューサー(後の日音・社長、会長)の熱心な働き掛けがあり、1970年8月に「別れの夜明け」で日本ビクター音楽レコード事業部(現:ビクターエンタテインメント)の社内レーベルフィリップス・レコード(後の日本フォノグラム→ポリグラム→ユニバーサル ミュージック)よりソロデビュー[12]。デビューにあたって、「ザ・ワンダース」のリーダー小栗俊雄が歌手を引退、日音に所属し尾崎のディレクターとなった。ダイナミックな歌唱は業界内で話題となるが、同年9月、タクシー乗車中に六重衝突という交通事故に巻き込まれ、4ヶ月に及ぶ入院生活でレコードの宣伝活動ができず売れなかった[14]

1971年、「また逢う日まで」「さよならをもう一度」「雪が降る」「愛する人はひとり」が次々とヒット、出身地・茅ヶ崎ではワンマン・ショー、大阪にて初のソロ・コンサートを開催する。2枚目のシングル「また逢う日まで」が売り上げ100万枚を突破、第13回日本レコード大賞大賞と第2回日本歌謡大賞大賞をダブル受賞する。日本レコード大賞を受賞した際に両手でVサインを、さらにトロフィーを持ち上げて笑顔でVサインをしたパフォーマンスは、今もテレビで流れる名シーンである。

同年、『第22回NHK紅白歌合戦』に白組トップバッターとして初出場する。翌1972年、「ふたりは若かった」「こころの炎燃やしただけで」「あなたに賭ける」とヒットを重ね、「ゴッドファーザー〜愛のテーマ」 (日本語詞) で、紅白歌合戦に連続出場。1990年にも『第41回NHK紅白歌合戦』に出場している。

1979年、「My Better Life」をリリース。歌謡番組を始めとして『ミュージックフェア』『サウンド・イン"S"』などのポップス番組に出演する。その後も、『青春のポップス』『ときめき夢サウンド』『魅惑のスタンダードポップス』ほか多くの番組で、レパートリーである数々の映画音楽、ジャズを披露[15]

1987年には「サマー・ラブ」がスマッシュヒットする。1994年より、音楽バラエティ番組である『THE夜もヒッパレ』にも出演。1995年、ソロデビュー25周年の記念コンサートを開催する[16]。 同年に放送されたアニメ空想科学世界ガリバーボーイ』では、主題歌「燃えろ!ガリバーボーイ」を熱唱し、この番組で尾崎の歌声を知った若者も多い。

1990年代より旧知の演奏家たちと共にジャズ、ハワイアン、カントリーのライブ・コンサートを定期的に公演する[17][18]2007年に行われた、テレビ番組以外でのオーケストラとのポップスコンサートも恒例となった[19][20][21]。ソロツアーとして、2010年2月から「プレミアムコンサート」が開催された[22]

2011年4月、翌5月に公演予定のコンサートを「病気療養のため中止する」旨、主催者より発表される[23]。翌年5月、度重なる取材・報道に対し「1年以上前から入院している」ことが、親族より明かされた[24]2012年5月30日[注 3][25]肝臓癌のため東京都内の病院で死去[26][27]69歳没

9月2日、ホテルオークラ東京にて「尾崎紀世彦をしのぶ会」(発起人:今井直次[注 4]前田憲男猪俣猛筒美京平)が開催され、長年親交があったペギー葉山大林宣彦上條恒彦尾藤イサオつのだ☆ひろ錦野旦ら多くの音楽関係者・友人が出席して追悼した[28][29][30]ハワイ出身女性との最初の結婚では1男1女を、2度目の結婚では1女をもうけた。療養の際には、交流が続いていたハワイ在住家族の献身的な看病があったという[26][31]

2012年12月30日、日本作曲家協会より第54回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた[32]2013年10月1日、「大衆音楽の殿堂」顕彰者に入選、殿堂入りした[33]

エピソード

  • 1972年3月27日から始まった第44回選抜高等学校野球大会の入場曲にも『また逢う日まで』が選ばれ、当日、観客席から入場行進を見ていた。
  • 1974年から1980年代、ジミー時田が出演する六本木や新宿にあるカントリーのライブハウスに客として度々現れ、ジミーに「素敵なゲストが来ている。」とステージに促されてカントリーソングの他『また逢う日まで』を歌わされていた[34]
  • 茅ヶ崎市の生家隣が元TBS所属でフリーアナウンサーの鈴木治彦の邸である。小さい頃は庭伝いに垣根を潜り抜けて毎日のように遊びに行き、有名になってからも鈴木の姿を見つけるや「お兄さーん」と駆け寄っていた[35][36]
  • バイク好きでも知られ、16歳で2輪免許を取得。Z400LTD(カワサキ)、750カタナ(スズキ)、GSX-R750(スズキ)、ドゥカティ・パンタ、ハーレー、XLR-BAJA(ホンダ)などを愛車としていた。
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ディスコグラフィー

要約
視点

シングル

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コンパクト盤

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アルバム

スタジオ・アルバム

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ライブ・アルバム

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コンピレーション・アルバム

ベスト盤:LP&CT
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ベスト盤:CD
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参加作品

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オムニバス盤
  • テーマ・ジャンル・年代・作家別、収録多数

未収録曲

  • シングル、オリジナル・アルバム、コンピレーション・アルバム何れにも未収録
非売品
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未発売 - テレビ番組・CM用にレコーディング

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過去の出演

テレビ

音楽番組
他多数
ドラマ・アニメ特撮番組

映画

吹き替え

CM

他多数
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公演

ライブ・コンサート

  • 尾崎紀世彦コンサート/ショー(大阪厚生年金会館他 4公演、1971年)
  • 尾崎紀世彦リサイタル(日生劇場、1972年10月24日 - 10月28日)- ライブ・アルバムに一部収録
  • 尾崎紀世彦ショー(日本劇場、1973年9月29日 - 10月4日)
  • 尾崎紀世彦リサイタル(大阪厚生年金会館他、1976年)
  • ピープル'82(3都市 4公演、1982年)
  • ハニーサウンドオン・ライブ - 尾崎紀世彦(TBSホール、1989年)- 放送:TBSラジオ、ハワイアン・ソング他
  • 尾崎紀世彦クルージング・ライブ(にっぽん丸 香港-東京、1990年)- 放送:NHK-BS
  • 尾崎紀世彦(25周年)コンサート(渋谷公会堂、1995年6月17日)[16]
  • 尾崎紀世彦コンサート(1996年)
  • 尾崎紀世彦リサイタル/コンサート'97(府中の森芸術劇場他 10公演、1997年)
  • 尾崎紀世彦コンサート'98〜昨日たちの旋律〜(1998年)
  • 尾崎紀世彦VS前田憲男 Swing in the Night「THE MEN」(オーチャードホール他、1999年 - 2003年)- CDに一部収録[38]
  • 尾崎紀世彦&猪俣猛ジャズテッド(名古屋ブルーノート他、2006年 - 2008年)[47]
  • 尾崎紀世彦プレミアムコンサート(九州中心に19公演、2010年2月10日 - 3月18日)[22]
他多数

イベント

  • 箱根アフロディーテ箱根芦ノ湖畔 メインステージ、1971年8月7日)- 洋楽カヴァーソング
  • アキタ・ジャズフェスティバル'95(1995年)-「思い出のグリーングラス」「酒とバラの日々」
  • 尾崎紀世彦ばんえい応援ライブ(帯広競馬場、2007年5月25日)- カントリー・ソング[48]
  • '08旭ジャズまつり(2008年7月27日)尾崎紀世彦&猪俣猛ジャズテッド
他多数
国歌独唱

客演

他多数
ミュージカル
-「365回目の恋」[7][27]
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受賞歴

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著書・関連著書

脚注

外部リンク

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