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清惠波清隆

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清惠波清隆
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清惠波 清隆(きよえなみ きよたか、1923年6月24日 - 2006年4月25日)は、石川県鳳至郡(現在の鳳珠郡穴水町)出身(出生地は樺太真岡町、現在のロシア極東連邦管区サハリン州ホルムスク)で、立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は端 清隆(はし きよたか)→大上戸 清隆(おおかみど - )。最高位は東前頭2枚目(1951年5月場所)。現役時代の体格は175cm、118kg。得意手は右四つ、寄り[1]

概要 清惠波 清隆, 基礎情報 ...

吉野山の婿養子であり、黒瀬川の元岳父でもある[1]

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来歴・人物

16歳の時に立浪部屋へ入門し、1940年1月場所で初土俵[1]

本名の「清隆」、育った樺太の「恵須取町(現・サハリン州ウグレゴルスク)」に、所属部屋の「立浪」からそれぞれ1文字を取って四股名を「清惠波(「恵」は、縁起を担いで旧字の「惠」を使用し、「浪」は「波」に変えた)」とした。下の名前は途中で「清隆」から「一綱」に変えたが、上の名は序ノ口に付いてから引退するまで、「清惠波」で通している[1]

右四つからの、寄り相撲が得意であったが、取り口は地味だった。出世は遅く、十両優勝を手土産に、1949年1月場所にて新入幕を果たした[1]

しかし、その後は中堅力士として終始し、三役昇進は成らなかった。また、二桁勝利を何度も記録しながらも、三賞は一度も受賞できなかった。

自己最高位の東前頭2枚目で迎えた1951年5月場所では、4日目に大関汐ノ海から、自身唯一となる「銀星」を奪っている(なお汐ノ海は、同場所後に引退し、年寄・出来山を襲名した)。

長く幕内で活躍し、1959年1月場所では35歳7ヵ月で再入幕を果たした。これは、戦後2位の年長再入幕記録(当時)であった。1960年1月場所限りでの現役引退まで、土俵生活はおよそ20年に及んだ[1]

引退後は年寄中川を襲名し、間もなく、立浪部屋から独立して中川部屋を創設した[1]

しかし、関取を1人も出せないまま、1973年に部屋を閉鎖。その後は、立浪部屋に戻った。

日本相撲協会では、監事(現在の副理事)を歴任。新進で同部屋の後輩・北尾光司(後の横綱・双羽黒)に期待を掛け、自分が停年(定年)退職した後は年寄名跡を譲っても良いという意向を表明していたが、彼のトラブルによる廃業(1987年暮れ)のためその願いも叶わなかった。

中川の名跡は、同門(立浪・伊勢ヶ濱連合)の宮城野部屋に所属していた元前頭・竹葉山に貸与し、彼が1989年6月に宮城野部屋を継承した後は、同じく同門の元・福ノ海朝日山部屋)に貸与、最終的に同郷で同部屋の後輩でもある大翔山に譲られた。

2006年4月25日、致死性不整脈のため逝去。享年82。

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主な成績・記録

  • 通算成績:392勝419敗6休 勝率.483
  • 幕内成績:237勝295敗6休 勝率.445
  • 現役在位:63場所
  • 幕内在位:36場所[1]
  • 各段優勝
    • 十両優勝:1回(1948年10月場所)

場所別成績

さらに見る 一月場所 初場所(東京), 三月場所 春場所(大阪) ...

幕内対戦成績

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴

  • 清惠波 清隆(きよえなみ きよたか)1940年5月場所 - 1954年9月場所
  • 清惠波 一綱(- かずつな)1955年1月場所 - 1960年1月場所(引退)

年寄変遷

  • 中川(なかがわ)1960年1月 - 1988年6月(停年退職)

参考文献

脚注

関連項目

外部リンク

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