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日本のプロレスラー、元大相撲力士 ウィキペディアから
天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、1950年2月2日 - )は、日本の男性タレント、元プロレスラー、元大相撲力士。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重112kg)。血液型A型。所属事務所はMILLENNIUM PRO。エクセリングと業務提携している。
基礎情報 | ||||
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四股名 | 島田 源一郎 → 嶋田 源一郎 → 島田 源一郎 → 天龍 源一郎 | |||
本名 | 嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう) | |||
生年月日 | 1950年2月2日(74歳)[1] | |||
出身 | 福井県勝山市[1] | |||
身長 | 186cm | |||
体重 | 112kg | |||
BMI | 32.37 | |||
所属部屋 | 二所ノ関部屋 | |||
得意技 | 突っ張り、左四つ、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭筆頭 | |||
生涯戦歴 | 393勝355敗(77場所) | |||
幕内戦歴 | 108勝132敗(16場所) | |||
優勝 |
十両優勝1回 幕下優勝1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1964年1月場所[1] | |||
入幕 | 1973年1月場所[1] | |||
引退 | 1976年9月場所[1] | |||
引退後 | プロレスラー | |||
備考 | ||||
2019年7月22日現在 |
多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、天龍は65歳まで第一線で活躍し続け、日本のプロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として一目置かれる存在だった。
福井県の勝山市にて農家の長男として生まれる。農家の生まれであることから幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。同時に大きな体がコンプレックスになっており、勉強も苦手だったことと合わせて周囲からはからかわれがちであった。幼少期は夕方から相撲を見て、夜はプロレスやプロ野球の巨人戦を見るのが嶋田の世代の日常であった[2]。嶋田が好きであった力士は「栃若」ではなく朝潮であり、嶋田は勝負に淡々としていたところやどこかほんわかした雰囲気を好きな理由として挙げている。朝潮が好きな力士であったため、入門が内定してからも高砂部屋の方が良かったと思うことがほんの少しだけあった。いわゆる「アンチ大鵬」であり、大鵬戦の際は柏戸、栃ノ海、佐田の山など対戦相手の方を応援したという[3]。
当時の時代柄もあったが、小学校高学年になると学校を休んで田植えの手伝いを行うことを家族から課せられた。夏になると葉タバコの剪定を行い、足元にマムシがとぐろを巻く風を通さない畑の中で作業した。タバコの匂いが手に付くため嶋田少年は当時タバコに興味を持たず、タバコを吸ったのは50歳を過ぎてから5、6年の間だけである[4]。
嶋田は後に「学校が好きだったわけじゃないけど、理不尽な気がして、自分が不憫で悔しかったのを覚えています」と家業の手伝いに対する思いを語っている。小学校時代から砲丸投げにリレーの選手、中学校に入ると柔道部や野球部と、少年時代はほとんどの運動部の試合に駆り出された。なかでも相撲は嶋田本人にとって楽しく、小学5年生からは中学生に負け無しであった[5]。一方野球部の活動に関しては父も娯楽としか見ておらず否定的であり、相撲大会に駆り出されるうちに野球部はいつの間にか退部扱いになっていた[6]。後に本人は、体が大きくて左投げであったことから、野球を続けていたらプロになってもっと金を稼いでいただろうと、冗談めかしながら振り返っていた[6]。
嶋田の父は厳格であったが、稲刈りの季節でも秋場所が始まると作業を嶋田の祖父母や母に任せ、嶋田を連れて相撲を見ていた。嶋田の父も相撲の時だけは優しい父親というイメージであったため、相撲は嶋田にとって良い思い出であり、嶋田が相撲の世界に抵抗なく入れた要因となった[4]。
勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学するも、父が床屋で髪を切ってもらっていた際に床屋の店主が二所ノ関部屋後援者に「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで二所ノ関部屋の巡業が来た時に二所ノ関部屋後援会が嶋田を連れて行って大鵬に会わせ、大相撲へ勧誘した。嶋田は相撲取りと言えばゴツゴツした厳つい風貌を思い浮かべていたが、均整のとれた綺麗な体をしていた大鵬を見た嶋田は泰然自若としたものを感じた。ちゃんこを食べながら大鵬と話を行っている時、大鵬からある食べ物を勧められたが、それが牛タンであることを知る(これが嶋田が牛タンを生れて初めて食べた時であった。)と、草を食べて涎を垂らしている牛の姿が想像され、途端にえづき、そこから箸が進まなくなった。中学2年の夏休みに20日間の体験入門を経験したが、目に飛び込んだ部屋施設は近代的なビルであり、親方の自室も映画に出てくるような洋館であった。嶋田は3階にある客室で寝泊まりしていたが、朝に4階の稽古場から四股を踏む音が響いて驚いたという。その時関取衆は巡業中であったため留守番していた若い衆としか相撲を取らなかったが、実際に相撲を取るとあっという間に羽目板まで吹っ飛ばされ、その強さを思い知らされた。嶋田の性格的にも、瞬時に勝ち負けが決まり、またすぐにリセットして仕切り直すという相撲のリズムは合っていた。入門後、地元に帰って秋の相撲大会に出れば1回も負けず、賞品の大学ノートが100冊くらい溜まったため、やはりプロで鍛えられるということは凄いと嶋田は思ったという。父は中学を卒業してから入門してほしいと考えており、嶋田に対しても「トボけた考えを起こすなよ!」と釘を刺したが、1963年の暮れに二所ノ関部屋の若者頭が再び勧誘に訪れ、紆余曲折があったが嶋田はその話を聞きたくなかったため友人の家に逃げていた。そんな時に力道山が刺殺されたことを伝える大ニュースを知った。プロレス界を築き上げた人物が、後にプロレスで大成する嶋田の入門の際にこの世を去ることに関して、後に嶋田は「なんか運命的ですね」と振り返る。因みに父も体が大きく村相撲でも強かったため将来は相撲取りになりたかったが、一人っ子なので両親に反対されて断念したという経緯をたどっている[3]。
1963年12月、大相撲の二所ノ関部屋に入門[7]。入門に際して地元の名士から5万円の餞別を貰った(当時平均的な月給が8000円から1万円程度であった)。新聞にも入門したという報告が掲載されて餞別ももらったので、本人はおめおめとは帰れないと覚悟していた[8]。入門に伴い、中学2年途中で墨田区立両国中学校へ転校した[9]。転校初日に教師から「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。授業中に眠ってもいいから」と言われたことから学業の指導に差別を感じ、実際に白紙の答案用紙を提出する新弟子もいたことから頭に来て嶋田はこっそり通信教育の教材を取り寄せて相撲と学業の両立を誓い頑張っていたが、結局は兄弟子に見つかって通信教育を中止させられたという。入門当初は部屋に所属力士が80人おり、その中の一人であった大麒麟(当時・麒麟児)などと稽古をして力を付けた。最初はその日その日を過ごすので精いっぱいであったが、力士生活に慣れていくと「20歳までに十両に上がれればいいな」などと目標を持てるようになった。大鵬の付け人をしていたある時、大鵬は嶋田に対して「上の力士が下の者とやるときは、受けて立つ相撲を取れるようにならないとダメなんだ。自分からぶちかましにいくような、みっともない相撲は取るなよ」と助言した[3]。
14歳のある時、自身を部屋に勧誘した若者頭に連れられて錦糸町の「ヤマキ」というステーキ屋で生まれて初めてステーキを食べた。当時の日本人にとってステーキは大層な贅沢品で、ましてや福井の田舎から上京した14歳の少年にとっては格別の味であった。この味は嶋田の印象に残り、プロレス入り後にはゲン担ぎとしてステーキを食べる習慣が身に付いた[10]。現役当時の二所ノ関部屋は、場所中の初日と中日は決まってすき焼きだった。タニマチの三和銀行が毎回、大量の牛肉を差し入れたという。番付社会なので嶋田は入門してから5年から6年経って、ようやく肉のある場所に座れるようになった。しかもそれでも、生卵をつけて食べられるようになるのは、そこからさらに2年から3年を要した[10]。当時の普段の食糧事情はというと、鍋の他におかずが3品から4品付くのは十両以上で、若い衆は鍋だけであった。嶋田は鍋の汁だけでどんぶり飯を3杯食べ、その汁も漬物すらも無くなって砂糖をかけて米を食べたりもした。2020年代になると下っ端力士も正面に座って胡坐をかいて食べているが、当時嶋田のような下っ端は、半身になって箸を持った手だけのばして米を食わなければならなかった。当時は弟子が多く、座れる人数が限られていたため、できるだけ多く座れるようにみんな半身で車座になっていた[10][11]。
相撲部屋での生活は、入門前に父の下で過ごした日々より厳しくなく自由があったと嶋田本人は後年振り返っている[6]。相撲教習所で受けた和歌森太郎の授業は本人曰く「俺らみたいな連中にはもったいないよ。あの和歌森先生の授業でも寝ているんだから(苦笑)」とのこと[6]。教習所では礼儀を教え込まれたが、嶋田にとって一番印象的だったのは、ある親方に言われた「もし、今後相撲人気が無くなったとしても、40~50年は今の給与形態でお前たちを養っていけるだけの余裕はある」という話であり、嶋田は後に協会が今の両国国技館を無借金で建てた時に「あの話は本当だったんだ!」と実感した[12]。一方、入門当初は「練習生」扱いであったため、当時の相撲部屋全体の経済水準によるところもあろうが、「練習生3、4人のためにもったいない」と稽古後に体を洗うための湯を沸かしてもらえず、冬でも水を浴びて体を洗った[13]。師匠の事は最初「いつも火鉢の前に座っているかったるいオヤジ」程度にしか思っていなかったが、番付を上げて相撲のことが分かるようになると、自分を自由に破門・廃業させる権限を持つ、生殺与奪の権利を握る人物だと自覚して怖いという意識が生まれるようになった[14]。
16歳の時のある巡業では、移動の際に兄弟子から大鵬の双眼鏡を持って行くよう命じられたが、それを聞き忘れたためその巡業中にかわいがりに遭い、竹刀や青竹、さらに角材で殴られたが「これで俺も一人前の力士だ」と却って自信をつけたといい、かわいがりを行った兄弟子たちも「どうだい、きつかったか? これでお前も一人前だよ」と翌日からは何事もなかったかのように接していた[15][16]。日頃からかわいがりを行う兄弟子を稽古場の相撲で負かすことは自身にとっての気晴らしであった。嶋田本人もかわいがりを行う側になったことがあり、その時には人間の残虐性が出る様に自分も恐ろしくなったという[17]。後年時津風部屋力士暴行死事件を受けて元幕内力士として記者からコメントを求められた際には「全く必要なし、人間がいじけるだけ、金属バットやビール瓶が出てくるようなのはただのイジメ」「かわいがりってのは原因があって、例えば門限を破ったとか、ご法度のタバコとか、やられる人に落ち度があったからで、やる方だって何かがないとやれないですよ」と当時とは正反対の認識を示した[18]。自著でも同様の主張をしていた[19]。
若手時代は金が無かったため両国から離れた小岩や平井で酒を飲み、よく兄弟子の悪口を言って憂さ晴らしをした。現役当時、力士の気晴らしと言えばパチンコとストリップぐらいであり、北の富士や玉の海が当時力士の趣味として珍しいゴルフやボウリングを嗜んでいたことには、天龍を含む力士皆が驚いていた[20]。当時後年よりも大相撲力士が多かった時代背景上幕下になることは一定のステータスで、幕下になると一目置かれるようになったため、それで兄弟子気分になって遊び惚けてしまったのもしばらく足踏みした要因であると後に本人が振り返っている[21]。
1965年5月場所初土俵の貴ノ花とは、相撲教習所で手を合わせており、負けはしなかったが吊り上げているつもりでも残られたりと独特のしなやかさとバネに手を焼き、当時三段目と幕下を往復していた嶋田は「俺って素質がないのかな」と考えさせられたという。ある時から突っ張りを取り入れ、それが自分に合っていたのか、以降番付を伸ばしていった[3]。入門は嶋田の方が1年ほど早かったが、新弟子時代の貴ノ花には「おう、嶋田!」と呼び捨てにされていた[12]。
「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰める。四股名「天龍」は細くてすらっとした当時の嶋田の体型、反骨心のある気質などから、師匠が天竜と重なる所を覚え、関取に上がったらこの四股名を付けようと考えていたという。元々出羽海部屋の四股名であったため部屋付きの10代湊川(後9代二所ノ関)が出羽海部屋へ何度も出向いてようやく許しを得たといい、その天竜からは「お前、間違っても俺の名前を汚すなよ、コノヤロウ!」と面と向かって言われたという。しかし天龍は、「競走馬の名前や、町の中華料理屋の名前のイメージが先立って(苦笑)、その四股名の大きさにまったく気づいていなかったんですよ。のちにだんだん、文献を読んだりするうちに、『龍(竜)』とは中国では皇帝のシンボルとなるような最高の霊獣であるとか、あの『梅常陸』で、大相撲界に一時代を築いた、大横綱常陸山が直々に天竜さんに付けられた四股名だとか、そういうことを知ってあらためてすごさを認識したというのが、正直なところです」と当時を振り返っている。大鵬の引退相撲には関取として参加しており、かつての付け人として面目を保ち恩返しを行うことに成功した。常に先手で突っ張ってそのまま突き切るか叩き込む、攻撃の中に勝機を見いだすような取り口であったが、四つになった時に「こうなったら勝てる」という型がないという弱みがあった、と後に本人が2017年の相撲専門書籍で分析している[3]。
力士時代はおだてられた部分もあったであろうが周囲から「大鵬二世」と称され、それだけの大器として期待されていた。しかし天龍本人は、それが自身の自惚れを生み、勝負に対する執念や相撲に向き合う姿勢が足りていない原因となったと2017年にムックの特集で振り返っている。現役当時、貴ノ花や輪島が砂だらけになって泥臭く鍛錬していたのを「ダサいな」と冷めた目で見ていた、相撲を舐めていた自分がいたと、後に自己批判している。1973年5月場所、3勝4敗で迎えた栃東知頼との取り組みから5連敗したのは、勝負に対する執念の無さの表れであったと自ら語っている。一方、1973年5月場所で三役に上がっていればプロレスに行くことはなかったであろうと語っている[3]。因みに「大鵬二世」と称された弟子は6人いると後で天龍は聞いたという[8]。
1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川親方(大麒麟)の押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛正裕が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈し、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受ける[22]。親方に1度反旗を翻したということから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた[23]。完全に嫌気がさしていた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右(後筑波大学名誉教授)と出会い、森岡がブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意[24]。それまでプロレスを観戦したことはなく、レスラーの名前はおろか、技名も知らなかったという説がある。大相撲時代に向上心が無く甘えがあると自分で感じていた天龍は、プロレスに進んで自分を変えたいと感じていた[25]。1976年秋場所に勝ち越した(東前頭13枚目、8勝7敗)のを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。入門に至った背景には廃業前に付き合っていた女性が死去して相撲に対する励みが無くなったのもあり、一説には最終場所で勝ち越して相撲を辞めるのが勿体なく思っていたところ当時の師匠からプロレス入りすることをサンケイスポーツにバラされて引くに引けなくなったという[26]。
入団と共に渡米し、ザ・ファンクスのもとで修行する。相撲時代にプロレスごっこをしていた時の感触から自分でも少しはやれるだろうと考えていたが、初めて全日本の道場でジャンボ鶴田にボディスラムを放たれた時には脱糞するかと思うほどの衝撃を受け、大相撲で幕内まで昇進した天龍の自信は崩れ去った。当時、そばで見ていた渕正信が言った「ねえ、プロレスは簡単じゃないでしょ。甘くないんだよ」という一言は40年以上経過しても本人にとって忘れられないものであった[12]。ドリー・ファンク・ジュニアは現役の選手であったため1週間から10日に1回程度しか天龍を指導する余裕が無く、天龍は毎日のように電話で教えを乞うた[12]。ドリーからは何かとジャンボ鶴田と比較され、当時の天龍にとってそれは嫌な事であったが、ドリーは倒されることに抵抗があってプロレスに適応できなかったアントン・ヘーシンクの指導に苦心した経験から「プロレスは投げられても負けじゃない。相手に身をゆだねることがスタミナを温存するポイントだ」と諭すように教えたという[27]。ドリーに指導してもらえない間は腹筋ローラーやブリッジで体を鍛えたと言い、このトレーニングのおかげで現役を長く続けることができたとプロレス引退後に本人は振り返っている[27]。
1976年11月13日(土曜日)にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューした(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館)においてリング上で断髪式を行う[28]。止め鋏は馬場が入れている[29]。通常、幕内経験者の断髪式典は国技館(当時は蔵前国技館)の土俵上で開催されるのが通例であるが、プロレスのリング上でそれが行われるのはきわめて珍しい出来事でもあった。なお、デビュー当時のリング名は単に四股名と同じ「天竜」だけであった[30]。
天龍の日本でのデビューは1977年6月11日、東京・世田谷区体育館における馬場と組んでのマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦で、グランデをフォールして初陣を白星で飾る[31][32]。大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、巡業も毎回グリーン車のチケットが用意された(グリーン車に乗れる日本人選手は他には馬場、ジャンボ鶴田だけ)。しかし本人はまだ一人前の動きもできないのに大熊元司、グレート小鹿ら大先輩レスラーを差し置いてグリーン車に乗るのは気が引けたため、普通車両に移動して先輩達と話をしていた。デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれるなどしたが、体格は大相撲時代の名残を残し、スタミナが不足していたこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低く、タイガー戸口が全日本所属だった時期には、キャリアの違いもあって戸口よりも格下扱いであった。
その後はアメリカで再修行を行い、エディ・グラハムのCWF、ジム・バーネットのGCW、ジム・クロケット・ジュニアのMACWなど、NWAの南部テリトリーをヒールのポジションで転戦[33]。MACWでは1981年2月7日、ノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、デューイ・ロバートソン&ジョージ・ウェルズを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得[34]。タイトル初戴冠を果たした[35]。
帰国後の7月30日、交通事故の後遺症で緊急帰国したディック・スレーターの代打としてビル・ロビンソンのパートナーに起用され、当時の王者組の馬場・鶴田組保持のインターナショナル・タッグ王座の挑戦をしたことを契機に飛躍のきっかけを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っている[36]ように、この試合以降から評価も急上昇。全日本プロレス第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。この年の秋にはNWA世界王者リック・フレアーへの挑戦権も獲得した。
このインター・タッグ戦から、天龍はライバル団体である新日本プロレスの総帥のアントニオ猪木に遠慮して、全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め[37]、全日本で異彩を放つようになっていく。もともとアメリカでは使っていたが「日本でもイノキに遠慮せず使ってしまえ」とロビンソンからアドバイスがあったという逸話が専門誌に掲載されることもあった(本人へのインタビューではない)。天龍はそれまでは紫のタイツを使用していたが、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黒と黄のリングシューズという、引退まで続いた天龍スタイルへと変更。鶴田と組み次期ダブルエースの座を確立する。1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田との鶴龍コンビを結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア戦では「馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲」を受けている。鶴龍コンビはリーグ最終戦まで得点単独1位だったが、最終戦でスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビに敗れ優勝を逃した。しかし師匠の馬場&ドリーと同点2位という成績は、全日本エースの世代交代を印象づけるものとなり、この年のプロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を受賞した。シングル戦でも頭角を見せ、1984年2月にはリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得する。
さらに1984年9月からの長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田との鶴龍コンビで長州&谷津嘉章と抗争を繰り広げた。
1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日本マットの活性化を目指して龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでの馬場&ラッシャー木村とのタッグ対決において、入場時に馬場を奇襲、孤立した木村を戦闘不能にした上で復活し孤軍奮闘する馬場からパワーボムからのエビ固めで、ハンセンと二人がかりながら日本人では初めて馬場からピンフォールを奪った[38]。天龍は試合後、当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾った。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。
1990年、横浜文化体育館大会において鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱し、SWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWSでは『部屋別制度』という、他団体には存在しなかったシステムを取り入れており、部屋対抗戦をカード編成の主体とし、天龍は道場『レボリューション』の道場主に就任。SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場[39]。北尾光司とタッグを組んでデモリッション(スマッシュ&クラッシュ)と対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した[40]。SWSはマッチメイカーを天龍派であるレボリューション所属のザ・グレート・カブキが担当していたため、集客面や注目度などを検討して天龍やレボリューション派寄りのマッチメイクになる傾向が強く、それに不満を持つ反天龍派からの不満と反感を買い、天龍派と反天龍派の対立が深刻化し、それが大きな要因となり旗揚げから約2年程で崩壊している。
SWS崩壊後の1992年6月28日、天龍はWARを設立して新日本との対抗戦に活路を見出した。反選手会同盟と熱戦を繰り広げ、12月14日に越中詩郎を、1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により1993年と1994年のロイヤルランブルに出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。
1994年1月4日、天龍は東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちを収めた唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった[41]。1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。
1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し藤原喜明、北尾を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得する。この試合は、天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。
1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年、全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王座に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。
2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、旗揚げ戦から長州力とシングル6連戦をする予定であったが、3戦で休止となった。8月にはWJに入団(実際は発表だけで、契約はフリーであった。)、11月には長州とタッグを組んでWMGタッグを奪取したもののWJは経営が迷走し、WJを離脱した。
2004年1月4日、天龍は新日本プロレス東京ドーム大会に参戦、中西学とシングルで対決したが結果は天龍の敗北におわった。その後、同年2月1日、新日本プロレス札幌大会で中西とタッグを組んでIWGPタッグ王座に挑戦したが王座奪取は出来なかった。同年8月には2度目のG1 CLIMAX出場を果たす。
2005年初頭からは元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は、三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの当時、馬場元子が認めなかったとされている。天龍も、ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕ができ、参戦が実現した。7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では天龍の元付き人であった小川良成と対戦し、勝利を収めた。他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮崎豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。
この他、DRAGONGATEにも参戦し、天龍のWAR時代の元付き人でもあるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。同団体では2005年より最高顧問も務める[42]。
同年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテインメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。
2006年7月27日には6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。
2007年6月、「ハッスルエイド2007」でレイザーラモンHGに敗れてモンスター軍を追われたが、翌月に浜松で開かれたハッスル24のメインイベントでハッスル軍に助太刀し、リーダーで2006年8月まで共闘していた坂田亘の要請を受けてハッスル軍に加入。10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。天龍もベテランとして若いメンバー達を支えつつ存在感を保ち続けた。 2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。
ハッスルの活動停止後、しばらくは鳴りを潜めていた天龍だったが、2010年3月に入ると4月にプロレス団体「天龍プロジェクト」を設立し、活動を再開させる方針を明らかにした[43]。同興行には、百田光雄や折原昌夫などが参加することが発表されている。なお、天龍プロジェクトは天龍の娘でもある嶋田紋奈が代表を務め、興行に係る各種業務を切り盛りしている。
2011年3月6日、ユニオンプロレスにおいて高木三四郎がプロデュースするプロジェクト「TKG48」に最高顧問として加入することが発表され、4月3日のユニオンプロレス新木場大会に参戦した[44]。
2011年12月から腰部脊柱管狭窄症の治療のため、プロレス人生では初めての長期欠場に入った。2度の手術とリハビリを経て、2012年12月29日に後楽園ホールで行われた『天龍プロジェクト10 天龍源一郎復帰戦〜革命〜』のメインイベントで復帰戦を行った[45]。
2015年2月9日、天龍は記者会見を開き、「今年(2015年)11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」ことを表明した。引退の理由として天龍は、「妻の病気で、今度は俺が支える番だ」と思ったことと、「プロレス人気の盛り上がりにそろそろ潮時かな」と感じたことを挙げている[46]。また天龍は「たかだか幕内の相撲取りだった自分がプロレスの世界に入って、名前が知られるようになって良かった。(全日本プロレスでの師匠である)ジャイアント馬場さんに感謝している。」と語った[47]。11月に引退興行を行うことを予定し、それに合わせて『天龍源一郎 引退〜Revolution FINALTOUR』と題した引退カウントダウン大会を行っていくことも明らかにしている[46]。以降引退までにメジャー、インディー問わず各団体に「天龍引退ロード」として参戦している。
2015年6月26日、天龍プロジェクトの記者会見を行い、11月15日の両国国技館興行にて引退試合を挙行することを発表した。天龍は「(蔵前の)国技館で初土俵を踏み、最後は(両国)国技館で終わるとは、これもひとつの運命」と、引退試合を行う心境を語った[48]。
8月16日、両国国技館で行われた新日本プロレス主催の「G1クライマックス」優勝決定戦の会場に現れ、オカダ・カズチカに対して引退試合の相手に指名し、オカダもこれを受諾して決定した[49]。
引退ロード第1戦 2月21日 道頓堀プロレス 大阪府立体育会館 | ||
天龍源一郎 TORU 〇ラ・ピート 正岡大介 リアル・イヌナキン |
18分11秒 ダイビング・ダブル・ニー・ドロップ→片エビ固め |
空牙 ガメラス ヲロチ 三原一晃× ドラゴンJOKER |
引退ロード第2戦 3月6日 天龍プロジェクト 新木場1stRING大会 | ||
〇天龍源一郎 嵐 |
10分11秒 ラリアット→体固め |
那須晃太郎× 杉浦透 |
引退ロード第3戦 3月15日 かしま元気プロジェクト 鹿島町立体育館 | ||
天龍源一郎 〇高岩竜一 |
13分22秒 デスバレーボム→片エビ固め |
アントライダー ドラゴンJOKER× |
引退ロード第4戦 3月23日 プロレスリングFREEDOMS 後楽園ホール | ||
天龍源一郎 〇マンモス佐々木 Hi69 |
14分59秒 29歳→体固め |
グレート小鹿 佐々木貴× 葛西純 |
引退ロード第5戦 4月3日 天龍プロジェクト 新宿FACE | ||
〇天龍源一郎 越中詩郎 |
8分35秒 ラリアット→体固め |
高木三四郎× 竹下幸之介 |
引退ロード第6戦 4月25日 ニコニコ超プロレス 千葉・幕張メッセ | ||
天龍源一郎 〇竹下幸之介 アントーニオ本多 |
12分29秒 19歳→体固め |
KUDO 坂口征夫 マサ高梨× |
引退ロード第7戦 4月26日 琉球ドラゴンプロレスリング ネーブルカデナアリーナ | ||
天龍源一郎 〇越中詩郎 |
14分34秒 ダイビング・ヒップ・アタック |
グルクンマスク× 首里ジョー |
引退ロード第8戦 4月30日 天龍プロジェクト 新木場1stRINGメインイベント | ||
〇天龍源一郎 | 12分30秒 65歳→片エビ固め |
拳剛× |
引退ロード第9戦 5月30日 天龍プロジェクト 大阪府立体育会館第2競技場 | ||
〇天龍源一郎 ドリー・ファンク・ジュニア NOSAWA論外 |
16分31秒 ラリアット→片エビ固め |
諏訪魔 青木篤志 佐藤光留× |
引退ロード第10戦 6月7日 KAIENTAI DOJO 千葉BlueField | ||
天龍源一郎 〇真霜拳號 |
15分22秒 垂直落下式ブレーンバスター→片エビ固め |
稲松三郎 関根龍一× |
引退ロード第11戦 6月13日 プロレスリング・ノア 広島グリーンアリーナ | ||
天龍源一郎 小川良成 〇高山善廣 |
15分37秒 エベレスト・ジャーマン・スープレックス・ホールド |
丸藤正道 永田裕志 井上雅央× |
引退ロード第12戦 6月30日 大日本プロレス 札幌テイセンホール | ||
天龍源一郎 〇河上隆一 |
13分40秒 ハリケーン・ドライバー→片エビ固め |
橋本和樹 神谷ヒデヨシ× |
引退ロード第13戦 7月25日 全日本プロレス 後楽園ホール | ||
〇曙 天龍源一郎 ウルティモ・ドラゴン |
17分27秒 ヨコヅナ・インパクト→体固め |
秋山準 大森隆男 入江茂弘× |
引退ロード第14戦 7月27日 天龍プロジェクト 新木場1stRING | ||
天龍源一郎 新井健一郎 〇火野裕士 |
22分10秒 Fucking Bomb→エビ固め |
藤原喜明 真霜拳號 田村和宏× |
引退ロード第15戦 8月23日 DDTプロレスリング 東京両国国技館 | ||
天龍源一郎 〇高木三四郎 赤井沙希 |
13分9秒 シットダウンひまわりボム→エビ固め |
石川修司 樋口和貞× 里村明衣子 |
引退ロード第16戦 8月30日 大日本プロレス 愛知名古屋国際会議場イベントホール | ||
天龍源一郎 ×神谷ヒデヨシ |
12分16秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド |
関本大介〇 橋本和樹 |
引退ロード第17戦 9月2日 天龍プロジェクト 東京後楽園ホール | ||
天龍源一郎 〇柴田勝頼 |
20分26秒 PK→体固め |
鈴木みのる 飯塚高史× |
引退ロード第18戦 9月13日 プロレスリングZERO1 新潟県佐渡市相川町民体育館 | ||
天龍源一郎 〇アジャ・コング |
8分11秒 ダイビング・エルボー・ドロップ→体固め |
里村明衣子× 大谷晋二郎 |
引退ロード第19戦 10月4日 FREEDOMS 岩手一関市総合体育館 | ||
〇佐々木貴 宮本裕向 |
19分45秒 新型Dガイスト |
天龍源一郎 葛西純× |
引退ロード第20戦 10月5日 FREEDOMS 秋田大館市民体育館 | ||
〇葛西純 佐々木貴 |
14分08秒 パールハーバー・スプラッシュ |
天龍源一郎 進祐哉× |
引退ロード最終戦 11月15日 天龍プロジェクト 東京両国国技館 | ||
×天龍源一郎 | 17分27秒 レインメーカー→片エビ固め |
〇オカダ・カズチカ |
天龍は引退後について、指導者としてプロレス界に関わることは頑なに否定していた[47]。自身のDVD発売を記念したトークショーを全国各地で行う一方で[50]、芸能活動を本格的に開始した。以後、バラエティ番組の司会[51]、本格的な俳優デビュー[52] など、バラエティタレントとして多岐に渡る活動を行っている。
2019年4月から小脳梗塞を発症し3度入院、6月に退院。入退院の事実は9月に公表され、同月から芸能活動に復帰した[53][54]。
2021年3月19日からは「うっ血性心不全」との診断により入院[55]。4月28日、退院した[56]。
2022年6月24日、天龍の現役時代に元WARのフロントやマネージャーを務めていた妻と死別した。妻は肺がんで療養中であった[57]。
2022年9月2日、広範囲にわたる頸髄損傷のため「突然死のリスクが非常に高い状態である」との診断を受け入院していることを明らかにした[58]。正式な病名を「環軸椎亜脱臼に伴う脊髄症・脊髄管狭窄症」と公表[59]した。2か月間は頸椎を固定する「ハローベスト」を装着しリハビリに努め、2023年1月には自宅に一時帰宅するなど回復の傾向を見せた。同年2月12日には新木場1stRINGで天龍を支援する興行『天龍祭~天龍源一郎AID』の開催が決定し、さらに同月19日の日本プロレス殿堂会主催イベントの来場へ向け、リハビリを続けていた[60]。しかし、同年2月11日に敗血症性ショックのため緊急手術を行った事を天龍プロジェクトが公表した。数日前から発熱や血圧の低下が見られたため、緊急性の高い状態であると判明し、緊急手術を行い成功したものの集中治療を受けている状態とされた[61]。6月時点では主治医の許可を得て週刊誌系インターネット記事の取材に応じられる段階まで回復した[10]。6月22日、退院[62]。
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1964年 (昭和39年) |
(前相撲) | 西序ノ口22枚目 5–2 |
西序二段96枚目 4–3 |
東序二段67枚目 3–4 |
西序二段87枚目 5–2 |
東序二段38枚目 4–3 |
1965年 (昭和40年) |
東序二段13枚目 5–2 |
東三段目64枚目 3–4 |
西三段目77枚目 5–2 |
西三段目33枚目 4–3 |
東三段目22枚目 2–5 |
西三段目47枚目 3–4 |
1966年 (昭和41年) |
西三段目58枚目 3–4 |
西三段目63枚目 4–3 |
西三段目51枚目 5–2 |
東三段目14枚目 4–3 |
東幕下95枚目 4–3 |
西幕下75枚目 6–1 |
1967年 (昭和42年) |
西幕下43枚目 3–4 |
西幕下46枚目 3–4 |
西幕下58枚目 2–5 |
東三段目12枚目 3–4 |
西三段目20枚目 1–6 |
西三段目50枚目 5–2 |
1968年 (昭和43年) |
東三段目22枚目 4–3 |
西三段目11枚目 3–4 |
西三段目26枚目 5–2 |
東三段目5枚目 5–2 |
東幕下43枚目 4–3 |
東幕下36枚目 3–4 |
1969年 (昭和44年) |
東幕下39枚目 5–2 |
西幕下24枚目 3–4 |
東幕下29枚目 5–2 |
西幕下18枚目 3–4 |
東幕下24枚目 4–3 |
西幕下20枚目 3–4 |
1970年 (昭和45年) |
西幕下24枚目 6–1 |
東幕下7枚目 3–4 |
西幕下9枚目 3–4 |
東幕下14枚目 3–4 |
西幕下19枚目 優勝 6–1 |
東幕下4枚目 3–4 |
1971年 (昭和46年) |
西幕下7枚目 3–4 |
西幕下12枚目 4–3 |
西幕下10枚目 5–2 |
西幕下3枚目 6–1 |
西十両11枚目 6–9 |
東幕下2枚目 3–4 |
1972年 (昭和47年) |
西幕下4枚目 4–3 |
西幕下3枚目 3–4 |
東幕下7枚目 6–1 |
東十両13枚目 8–7 |
西十両8枚目 10–5[64] |
東十両3枚目 10–5 |
1973年 (昭和48年) |
東前頭13枚目 8–7 |
東前頭10枚目 9–6 |
西前頭5枚目 6–9 |
西前頭9枚目 6–9 |
東前頭13枚目 9–6 |
東前頭7枚目 9–6 |
1974年 (昭和49年) |
西前頭筆頭 5–10 |
西前頭5枚目 6–9 |
西前頭9枚目 6–9 |
東前頭11枚目 8–7 |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭7枚目 5–10 |
1975年 (昭和50年) |
東前頭12枚目 5–10 |
西十両3枚目 8–7 |
東十両2枚目 4–11 |
西十両10枚目 優勝 13–2 |
西前頭13枚目 6–9 |
西十両2枚目 8–7 |
1976年 (昭和51年) |
東前頭14枚目 4–11 |
西十両4枚目 10–5 |
東十両筆頭 7–8 |
西十両2枚目 10–5 |
東前頭13枚目 引退 8–7–0 |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
朝登 | 0 | 1 | 旭國 | 1 | 3 | 荒瀬 | 2 | 0 | 巌虎 | 2(1) | 1 |
大潮 | 4 | 2 | 大錦 | 3 | 4 | 大鷲 | 2 | 4 | 魁輝 | 1 | 0 |
和錦 | 0 | 1 | 北瀬海 | 5 | 3 | 北の湖 | 1 | 1 | 北の富士 | 0 | 1 |
黒姫山 | 0 | 4 | 高鉄山 | 2 | 0 | 琴ヶ嶽 | 1 | 0 | 琴乃富士 | 1 | 1 |
白田山 | 1 | 3 | 大旺 | 2 | 2 | 大豪 | 1 | 0 | 大受 | 0 | 1 |
大竜川 | 2 | 2 | 貴ノ花 | 0 | 1 | 高見山 | 1 | 1 | 玉輝山 | 0 | 3 |
玉ノ富士 | 0 | 2 | 千代櫻 | 0 | 1 | 千代の富士 | 1 | 0 | 時葉山 | 3 | 1 |
栃東 | 6 | 3 | 金城 | 1 | 1 | 羽黒岩 | 5 | 2 | 播竜山 | 0 | 3 |
福の花 | 2 | 9 | 富士櫻 | 6 | 0 | 二子岳 | 4 | 7 | 双津竜 | 1 | 2 |
前の山 | 2 | 3 | 増位山 | 1 | 5 | 丸山 | 1 | 1 | 三重ノ海 | 1 | 3 |
陸奥嵐 | 4 | 5 | 豊山 | 2 | 4 | 吉王山 | 2 | 3 | 吉の谷 | 4 | 2 |
義ノ花 | 1 | 0 | 琉王 | 3 | 3 | 龍虎 | 1 | 3 | 若獅子 | 3 | 3 |
若ノ海 | 2 | 6 | 若三杉 | 1 | 1 | 若二瀬 | 0 | 2 | 輪島 | 0 | 1 |
鷲羽山 | 4 | 2 |
痛みの伝わるプロレスを標榜していたこともあり、相手のどんな技も徹底的に受けて相手を光らせる術に長けている。相手の技を食らった際のやられっぷりも、天龍の試合を見る上では欠かせない。
ビッグマッチでは受けの時間のほうが長いが、それゆえに打たれ強さで耐えた上での反撃は半端ではなく、新日本に参戦した際にも多くの実力者とのシングルマッチで勝利を収めている。ここ一番ではジャーマン・スープレックス、浴びせ蹴り、トペといった意表を突く技を繰り出していくのも天龍の大きな特徴でもある。一方で、アメリカをサーキットした経験もあることから、アメリカン・プロレスにも対応でき、ランディ・サベージとの一戦では、女性マネージャーのシェリー・マーテルの介入に翻弄される役を演じきった。
50代に入ってからは肉体の衰えもあり、パワーボムの様な大技を使う機会は徐々に減ったが喉笛へのチョップとグーパンチの連打、顔面蹴りなどの打撃を中心とした武骨なファイトスタイルを確立している。メジャーからインディーまで多くの団体で戦ったことで、後年はファイトスタイルの幅を更に広げている。
打撃技の攻防には強い一方で、新日本勢と5対5のタッグマッチで戦った際には木戸修の脇固めやアキレス腱固めといった関節技に苦しめられ、試合途中にもかかわらず右腕を痛めてそのまま場外に戦線離脱したこともある。
天龍は「大技を乱発せずに試合を組み立て、必殺技は一発で仕留める」というオーソドックスな試合展開には「古い」として批判的であり、「勝てるんだったら先に得意技を出して、もしそこで跳ね返されたら、そこからまた組み立てればいい」としている[65]。
その他、天龍の場合は試合中に対戦相手や観客を驚かせる意外な技を繰り出すことがある。以下、主な技を記す。
プロレスゲームの1つであり、画面の3分の2を埋めてしまう迫力のリアルタイムアクションウィンドウがメイン画面を食うような見栄えになっている[114]。
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