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日本の男性声優、俳優、音響監督 (1958-) ウィキペディアから
堀川 りょう(ほりかわ りょう、1958年2月1日[3][6][13][14] - )は、日本の声優、俳優、音響監督、YouTuber。アズリードカンパニー(代表取締役)[15]および株式会社ジャグラーインターナショナル所属[8]。大阪府[13]枚方市出身[4]。東京都昭島市育ち[5]。青二プロダクションに所属していたころは堀川 亮(ほりかわ りょう)の芸名で活動していたが[1][16][17]、2001年4月3日に現在の芸名に改名した[18]。インターナショナル・メディア学院学院長[19]。妻は同じく声優の及川ひとみ。
ほりかわ りょう 堀川 りょう | |
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2014年 Fan Expo Canada | |
プロフィール | |
本名 | 堀川 亮(ほりかわ まこと)[1][2][3] |
愛称 | りょうちゃん・ベジータ |
性別 | 男性 |
出身地 | 日本・大阪府枚方市[4]、東京都昭島市[5] |
生年月日 | 1958年2月1日(66歳) |
血液型 | O型[6] |
職業 | 声優、俳優、音響監督 |
事務所 |
アズリードカンパニー[7] ジャグラーインターナショナル[8] |
配偶者 | 及川ひとみ |
公式サイト | 堀川りょう オフィシャルサイト |
公称サイズ(時期不明)[6] | |
身長 / 体重 | 165 cm / 53 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1984年 - |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え |
デビュー作 |
広野健太 (『夢戦士ウイングマン』)[9][10][11][12] |
俳優活動 | |
活動期間 | 1960年代 - |
ジャンル | テレビドラマ、映画、舞台 |
小さい頃のことはあまり覚えていないが、母が芸能の世界が好きであり、ピアノ、バレエなど色々な習い事をさせられていたという[20][21]。しかし乗り気でなかったようで、どれも続かず辞めてしまったという[20]。その中で習い事の一つとしてオーディションを受けて大阪府の劇団のアカデミー児童劇団に入団したことで、小学校低学年から子役として活動[9][20][21][22]。当時住んでいた大阪府枚方市から大阪市内まで、京阪電車で通っていたという[21][22]。学校はあまり行っておらず、必要な出席日数を確保するのに苦労していたという[20][21]。子役時代は「ろくでもないガキ」であったといい、仕事ではしょっちゅう叱られ、撮影所に行っていた時は小道具や衣裳係に怒られながらも遊び回り、竹光などもボロボロにし、セットの障子も穴あけまくっていたという[20][23]。その分演じることに対してのガッツだけはあり、監督には気に入ってもらっていたといい、スタッフからは小道具の専用の刀なども作ってもらったりしていたという[20][23]。1967年に国民的ヒーローとして人気を博した時代劇ドラマ『鞍馬天狗』(大瀬康一主演版)の主人公の相棒・杉作少年を演じて脚光を浴びる[13]。実力派子役として京都・太秦などで活躍し、『素浪人 月影兵庫』『素浪人 花山大吉』『水戸黄門』などに出演した[13]。『水戸黄門』の初代黄門役の東野英治郎とも共演しており、母によると「大きくなったら俳優座に来いよ」などと、声をかけてくれたという[22][24]。
松竹新喜劇を率いていた藤山寛美にも、舞台に呼んでもらっていた[22]。当時の藤山の舞台は、セリフも立ち位置も間も一分の隙もなく調整され、緻密な計算に基づいて上演され演ていたため、演じる側は完璧に再現させなくてはならず、稽古場ではクスリとも笑いが起きなかったという[22]。舞台では割れんばかりの爆笑の渦であり、緊張と高揚を同時に体験できる舞台は、エキサイティングな場だったという[22]。
芝居の楽しさを知り始めた一方で、芝居以外の普通の子供としての生活では、失ったものも多くあったという[22]。同じ団地で一番仲良くしていた人物が、ある時からなぜかよそよそしい態度をとるようになり、 気になって問いただしたところ「うちのお母ちゃんがな、お前としゃべったらいかんって言うねん」と言われ、子供時代で一番傷ついた経験かもしれないという[22]。芝居の世界で無邪気に楽しんでいたが、「普通の世界」から思いもかけない敵意のまなざしを向けられたが、その経験もまた演技の奥行きにつながったと思い、「あの時から、「芝居」と意識的に繋がり出したのかもしれない」「普通の世界」が思わぬ形で傷つけたことをきっかけに拓かれた、新しい道だったのかもしれない」という[22]。
周囲のスタッフの言う通りに演技し、褒められれば嬉しく、子供なりに「もっと認められたい」という気持ちを強く持つようになったという[22]。真冬の川へ飛び込むというきついシーンも子供だてらにしており、唇をガタガタ震わせながらも、周囲のキャストやスタッフが「こいつ、根性あるなぁ!」と口々に言ってくれるのを誇らしく感じていたという[22]。そういう現場が好きであり、「撮影所をテーマパークか遊園地のように感じていたのかもしれない」と語る[21][22]。江戸の町並みの家屋のセットに入ると、その時代に迷い込んだような感覚を覚え、非日常空間で味わった高揚感や幸福感は、演じるときのベースになっている気がするという[22]。1969年のドラマ『なんでも引き受け候』で4代目三遊亭小圓遊や中村玉緒とレギュラー出演したことがあった。当時、偶に京都に呼んでもらい、途中から「ちょっと待てよ」というシチュエーションになったため、現場から少し離れたという[5]。小学6年生の12歳くらいの時にTBSで放送されていた時代劇『彦左と一心太助』に出演していた時、 一心太助役の山田太郎に「お前ちょっとうちに来い」、「東京来たらうちにおいで」と言われて新栄プロダクションに所属していた[5][25]。しかし中学時代、その人物が事務所を退所して、「無責任やな」と思い、何となく宙ぶらりんになった状態だったという[5]。中学時代に、父の仕事の都合で東京都昭島市に転居し、その後も東京の撮影所に通って、テレビドラマ、芝居に出演していた[5][22][26]。将来を意識するようになったのはこの頃からであり、「芝居の世界で食べていけるようになりたい」という思いが徐々に芽生え始めたという[22]。「このジャンルをやりたい」という明確なイメージはなく、主に出演していたのは時代劇だったが、現代劇にも興味があり、舞台も好きで、ドラマも好きであり、演じることであれば何でも関心があったという[22]。ただし、それぞれの「違い」を味わうようになったのは大きな変化だったと語る[22]。
中学2年生になるまでは子役の活動をしていたが、それ以後は「少し学業に専念しよう」と思った[20]。それについては「学校生活をしてこなかったため、コンプレックスもあった」と感じているという[20]。1番中途半端な時期であり、スタッフにも「君こんな所来ている場合じゃないよ、勉強しなさい」と言われ、高校卒業まで一旦芸能活動を休止して、学校生活をしていた[20][27]。中学時代は写真部に所属していた[28][29]。
演じることに対する気持ちが揺らぐことはあり、中学の頃といった思春期だった頃、「本当に自分はこの道でやっていけるのだろうか?果たしてできるのかな?」と思ったことはあったという[30]。子供で幼かった頃は何も考えずに遊ぶのと同じ感覚で活動していたが、少し成長して考えられるようになると迷いが出てきたが、16歳の時には「自分が役者で生きる」と決断して以降は迷わずに済んだという[30]。もう決意してしまったことから迷わず、それが原点だったという[30]。「何が必要か?どうしなければならないのか?」ということで迷うことはあってもその原点は揺れ動くことがないため、原点のある土台そのものを取り替えるということは考えていなかったという[30]。
12歳の1学期までは枚方市立第四中学校に通っていたが、中学1年の2学期で東京に来てから堀越中学校[5]に通っていた[27][29]。堀越高等学校卒業[4][25]。高校卒業後の進路でCBS・ソニーから出ることを内定していたが、「ごめん大学行く」と言って断念したという[25]。獨協大学経済学部に進学したが、中退している[4]。劇団四季の研究所を経て[17]、劇団四季にも所属していた時期がある[12][28]。劇団四季退団後は小劇団のような所で芝居をしており、その間は役者では食べられないため、アルバイトもしていた[12][28]。最初にしていたアルバイトはホテルオークラだった[12]。
俳優としてはタカモトプロ所属となっている[31]。2020年2月より株式会社ジャグラーインターナショナルに所属[32]。
その後、当時所属していた事務所から「アニメ声優のオーディションを受けてみないか」と言われて、1984年にテレビアニメ『夢戦士ウイングマン』の主人公・広野健太役で声優デビュー[9][10][11][12][13][33]。出演していたテレビ、映画の映像に対してのアテレコは経験がある[10]。非常に嬉しいと思ったが、一方で慣れない仕事に対する悩みもあったという[9][10][11]。実際に動画が完成した状態での収録だったが、台本を見ていると絵が動いて先へ行ってしまい、逆に絵を見ていると手元の台本が見られないことがあり[34]、それによりジレンマに陥り、セリフをある程度丸暗記して(細かい「てにをは」は勘弁してもらい)画面のみを見て収録した[10][33]。
当日は2月で、スタジオに行くと建物の前に雪が山のように積もり、これからの前途多難さを物語っているようであったが、「もともと声優という仕事は好きだし、ここで音を上げたら沽券に関わる」と思った[9]。一方、「さあどうする俺?どうすんの?」と危機的な状況を楽しんでしまうところがあった[9]。
その後、収録を重ねていくうちに、5話目あたりからは役に集中しながらも全体を俯瞰できるようになったという[9]。台本を覚えていたが、それ以降は収録の回数を重ねることで早さにも慣れ、だんだんコツを掴んでいけるようになったという[10]。
声優としてのデビュー作以降、数多くの作品に一気に出演したが、「流れというものがある」といい、その流れの中で、「必要とされていたのだ」と語る[10]。2005年時点では「声優としてのお仕事をいただけるのでしたら、ずっと続けさせていただきたい」と語る[10]。
同人舎プロダクションの研究所[17]、同人舎プロダクション[2][16][26]、青二プロダクション[1][2][9][17][35]で活動後、アーク・ライツを経て、アズリードカンパニーに所属しその代表取締役となった。
現在は声優養成所インターナショナル・メディア学院の学院長も務めている。
演じている役柄に共通するのは「お坊ちゃん」であり[37]、デビュー当時は透き通るような高い声が特徴的であり、少年役を演じることが多かった[38]。最初の当たり役になったのが、『聖闘士星矢』の瞬であった[38]。ブレイク後は様々なタイプの美形キャラを演じていたが、『ドラゴンボールZ』のベジータがきっかけで、ベジータに近い存在である敵役が増えた[38]。明るく軽いキャラクターも得意としている[37]。
2005年時点では必ずストレッチ、発声などはするようにしている[30]。演じてきたキャラクターはわりと叫ぶことが多かったため、昔の役者は「(声が)出なくなるのだったら辞めちまえ!」という感じであったことから、しっかり喉を鍛えていないと潰れて声が出なくなってしまうという[30]。
『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』は思い出深い作品で、いまも語り継がれるガンダム史に名前を刻めたことを、誇りに思っているという。『0083』で担当した役のコウ・ウラキについては、ひよっこから一人前の戦士へと成長する姿が印象的と語っている[39]。
『GS美神』の横島忠夫役は、一時期シリアスなキャラクターが続き、アドリブを言えずにフラストレーションが溜まっていたところへオファーが舞い込んで来たものだった。丁度ギャグ物をやりたいと思っていた堀川は、番組プロデューサー関弘美の「この役は君にしかできない」という言葉にも応える形で、喜んで引き受けたという[注 1]。久々に「気分の赴くままに思いきり」な演技が可能なキャラクターを担当した堀川は、アドリブの多さにおいて堀川以上の認知度を誇る共演者の千葉繁と共にアドリブを連発していた。また、主役の美神令子役の鶴ひろみは「2人のすぐ後だと吹き出して台詞を言えないことがあった」と語っている[40]。また、原作者である椎名高志の結婚式の際、堀川は鶴と共に司会を担当した。
『名探偵コナン』では主人公・江戸川コナンのライバルである服部平次を演じており、堀川自身は思い入れのあるキャラクターとして今後の活躍を期待している。なお、『コナン』への初出演は1996年2月12日放送の「バレンタイン殺人事件」であり、堀川は同エピソードで被害者の大学生・皆川克彦を演じていた。
撮影所に行ってもカツ丼、トンカツといった揚げ物系が好きだったことから小学校後半で太り、小学5、6年生の辺りから「ビア樽」というあだ名が付けられていた[23]。
幼い頃から、電車の中で『週刊少年サンデー』、『週刊少年マガジン』を読みながら撮影所に通っていた[22]。当時のお気に入りは手塚治虫の漫画『どろろ』[22]。
当時、好きで読んでいた『いなかっぺ大将』で、テレビアニメ版の主人公の風大左衛門を演じた野沢雅子とは後年、テレビアニメ『ドラゴンボールZ』で孫悟空とベジータとして出会うことを、知る由もなかったという[22]。
酒については、25から26歳ごろまでは下戸だったが、その後上戸となり、特に焼酎を好む。健康にも気を遣っているが、これは「末永く酒類を楽しめるように」との思いからだという。
特技は水泳、野球[41]、英会話(実用英語技能検定準1級所持)[7][42]。母は若い頃、水泳学校の先生をしていた[23]。英語を学ぶきっかけは中学校くらいの時、アメリカ合衆国のテレビシリーズが日本で放送開始して、セリフは日本語吹き替えだが、OP、EDは原曲で流して耳から入っていったという[27]。その後、極東放送を聞くようになって、「ヒアリングがある程度鍛えられていたかもしれない」と語る[27]。そこで聞いていく内に父親が神奈川県横浜市戸塚区に行き、従兄弟が1年間、アメリカ合衆国ワシントン州シアトルに交換学生で行って女子が逆に家の叔父の所に来ていたという[27]。当時日本で放送されていたのが『セサミストリート』であるとか、その時から対面で英語喋っており、会話成立して来ると堀川も楽しくなったからである[27]。中学時代の英語の成績は抜群に良かったという[27]。趣味は探索、旅行[41]。憧れた俳優は勝新太郎[41]。座右の銘は「円転自在」[41]。
若手時代、積極的な態度を誤解され、周囲から孤立してしまった時、佐藤正治と戸谷公次に「これから皆で飲みに行くから、来るか?」と声をかけられ、それをきっかけに皆と仲良くなれたことを感謝しており、後に佐藤と現場で一緒になった際、「あの時は嬉しかったなぁ」と言ったところ、「まだ言ってるのか」と笑われたという[11][43]。
太字はメインキャラクター。
※はインターネット配信。
発売日 | 商品名 | 歌 | 楽曲 | 備考 |
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