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日本の俳優 (1978-) ウィキペディアから
波岡 一喜(なみおか かずき、本名同じ、1978年8月2日[3] - )は、日本の俳優。大阪府[3]大阪市出身。えりオフィス所属。
波岡一喜 | |
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YouTube | |
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活動期間 | 2013年 - |
登録者数 | 1100人 |
総再生回数 | 137,469回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2022年5月7日時点。 |
大阪府立高津高等学校[4]、早稲田大学政治経済学部卒業[1]。大学時代は早稲田大学演劇研究会に所属、大学2年のときに文学座附属演劇研究所夜間部39期生になる[5]。
2004年に『プライド』(フジテレビ系列)でドラマデビュー[6] 。同年、映画『パッチギ!』(2004年製作、2005年公開)の準主演モトキ・バンホー役、『幻星神ジャスティライザー』で神野司郎/デモンナイト役を演じた[3]。2006年にテレビドラマ初主演作となる『ライオン丸G』が放送された[3]。2014年の『ベイブルース 25歳と364日』で映画初主演。
2019年、41歳で自身初となるデジタル限定写真集『FOURTY』が発売[注釈 1]。また、同年のフィギュアスケーターの高橋大輔主演のアイススケートショー『氷艶hyoen2019-月光かりの如く-』に出演し、スケートの腕前を披露して話題になった[7]。
子供のころは気の弱い性格で保育園ではいじめられて登園拒否、その後は小学校まで幼稚園などには行かなかったことを2010年7月のブログで明かしている。幼児期に引っ越し、親の知人の2人の子供と親しくなると、その子たちは性格もケンカも強い子だった[6]。2人からケンカのコツを教わったことで小学1年生から急激にケンカに強くなり、性格も強く活発になった[6]。小学校と中学校でバスケットボールをやっていた[6]。
小学校5年生の時にドラマ『東京ラブストーリー』を見たことがきっかけで、漠然と俳優になりたいと思い始めた[6]。その後高校1年生から、学校に行く傍ら大阪の俳優養成所に入所。当初「高校卒業したら上京して俳優になろう」と考えていたが、母親から上京の条件に大学進学するよう告げられた[6]。高校時代は勉強を疎かにしていたため現役では大学進学できず、母親に土下座して1年間浪人する費用を出してもらった後、横浜の学習塾の寮で暮らした[6]。寮は門限などがある厳しい生活だったが、塾の授業に加えて毎日約10時間必死に勉強し、翌年早稲田大学に合格した[6]。
大学2年の頃、文学座研究生上がりの俳優・松田優作が好きだったことから文学座養成所夜間部を受けて合格。以後昼間に様々なバイト[注釈 2]をして夜に芝居の稽古という日々を送った。研究所に1年間通ったが上に上がれずに退所となった[注釈 3]が、ここで教わった芝居の基礎や新劇の勉強などはその後の俳優人生の糧となった[6]。
後日芸能事務所に所属して年に3、4本舞台に出演しながら、自主制作映画にも出演[注釈 4]。上記のように芝居とバイトに明け暮れて大学にはあまり行かなかったが、ゼミの教授やゼミ仲間の手助けにより何とか4年で卒業できた。
25歳の時、ドラマ『プライド』のアイスホッケーチーム「ブルースコーピオンズ」のメンバーとしてレギュラー出演したことが、役者人生の転機となった。オーディションでは数回に渡りスケート技術の審査が行われ、当時本人はちょっと滑れるレベルだったが1か月間練習し、オーディションの期間中に上達して役を勝ち取った[6]。翌年公開の『パッチギ!』のオーディションでは、三次審査で「学生時代はやんちゃで悪いことやケンカもいっぱいしたけど、母親は大事に思っている」という生い立ちを話した。すると井筒が「ほー、そうか。こいつはモトキ・バンホーがええんちゃうか?」とスタッフに感想を述べた後、同役に抜擢された[6]。
19歳頃から何度か舞台に出演していたため、演技に少なからず自信があった[8]。しかし、撮影期間中は監督の井筒和幸から「学芸会みたいな芝居はやめろ!」「何となく台本を読んで現場に来るな!」など散々しごかれた[注釈 5]。笑うシーンでは、200回以上笑うも「フィルムの無駄」と言われ、カメラを回さずに助監督と2人でずっと笑うが本番で使われたのは5秒程度だった。
このため京都での撮影の2か月間で7kg痩せるほど演じ方に悩み[注釈 6]、撮影中毎晩同室の小出恵介と「明日撮影が休みになれば良い」と話した。しかし撮影後に事務所へ井筒から電話があり、「どこに出しても辛くないようにしてやった」と言われ、実際それ以上に辛いと感じた仕事はないと語る。同作の演技が周りから認められたことで、公開後から仕事のオファーが一気に増えた[8]。その後、27歳でバイトを辞めて俳優業だけで何とか食べていけるようになった[8]。
長男が幼い頃に特撮ヒーロードラマ[注釈 7]を観るようになり、「自身の活躍する姿を子供にも見せたい」という想いが芽生えたことから、マネージャーに打診して『仮面ライダー鎧武/ガイム』への出演が実現した[9][10][3]。
2010年7月のブログでデモンナイトについて「他のラストもあったがあれで良かったと思う」「DVDは貰っていない」と答えている。また、同作ではデモンナイトのスーツアクターを務めた白濱孝次へ演技の要望を逐一伝えていたが、『仮面ライダー鎧武/ガイム』では仮面ライダーシグルドのスーツアクターを務めた金子起也に演技を任せている[9][3]。
2010年7月のブログで「一番印象的で難しかった役柄」と「もう一回やってみたいと思う役柄」として、『ライオン丸G』を挙げている。
自身のブログで、2006年11月11日に一般人の女性と婚姻して2007年9月24日に女児を授かったことを報告し、2010年6月23日に第2子男児、2016年6月7日に第3子女児[11]それぞれを授かった。
育児には積極的で、ママチャリで幼稚園へ送迎したり遠足にも随伴している。ただし家事は不得手で、妻が実家へ行くと麦茶の淹れ方が分からず、洗濯機の使い方を妻に電話で尋ねたことがある。掃除も苦手で、部屋を汚したくないために菓子やパンなどを食す際はゴミ箱を抱えるという。
基本的にインドア派で、外に飲みに行ったり遊びに行くことはあまりしないとのこと[7]。
フリーアナウンサーの八木早希は中学の同級生で、元東京都議会議員でレゲエ歌手のleccaは大学の同級生である[12]。
上地雄輔とは親友で何でも話せる仲である。
『パッチギ!』で芝居作りや役者としての心構えなどを厳しく指導してくれた井筒和幸について「僕を役者にしてくれた恩人」と評している[注釈 8]。
大学受験では早稲田大学に加え、慶應義塾大学、上智大学、一橋大学、立教大学にも合格していた[6]。その中から早稲田大学に選んだ理由は、演劇に打ち込みやすい環境に加え、吉永小百合やタモリなどの有名人の出身大学で「早稲田に行けば芸能人として売れる」というイメージを持っていたことから[6]。
以前は「芝居の現場は戦争」と考えており、オーディションでメンチを切るなど他の俳優に対して対抗心を抱いていたが、子供が出来てからは考えを改め若手を見守る立場をとっている[9][13][3]。
2021年のチャレンジは「ピアノで『戦場のメリークリスマス』を弾く」。年末にストリートピアノでその成果を披露した[14]。
2022年のチャレンジは「ブログを毎日更新する」とし、そのとおり実行した[15]。
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