トップQs
タイムライン
チャット
視点
1973年の阪神タイガース
ウィキペディアから
Remove ads
1973年の阪神タイガース(1973ねんのはんしんタイガース)では、1973年の阪神タイガースの動向をまとめる。
この年の阪神タイガースは、金田正泰が2度目の監督就任をしたシーズンである。
概要
要約
視点
1972年に村山実前監督の指揮権返上を受けて監督代行のまま指揮を執った金田正泰がこの年から再び監督に就任。金田新監督のもと、前年2位躍進の原動力となった江夏豊や上田次朗をはじめ古沢憲司、谷村智啓らがローテーションを守るなど投手陣は盤石だった。チームは開幕から前年8連覇の巨人が苦戦したこともありまずまずのスタートを切ると、7月までは中日と首位を争った。
だが、8月18日から9月22日にかけ8勝17敗2引分と足踏み、しかもその間巨人との対戦で5戦全敗し猛追される。この間、8月30日の中日戦では江夏と、中日先発・松本幸行による投手戦で、延長11回まで中日打線を無安打無得点に抑えていた江夏が自らサヨナラ本塁打を放ち、プロ野球史上初となる「延長戦ノーヒットノーラン」を達成した。
9月23日の広島戦ダブルヘッダーから10月7日の中日戦までは10勝1敗と一気に盛り返し、10月10日から後楽園球場での巨人との直接対決を迎える。第1戦は4番で正捕手の田淵幸一が逆転満塁本塁打を放ち、最後は江夏が締めて第1戦を逆転勝利[2]。翌11日の試合は3回まで7対0とリードするが、そこから巨人打線が反撃すると江夏が打ちこまれ、後を受けたリリーフ陣も失点し、勝てる試合を10対10で引き分けた[3]。その後、広島2連戦を1勝1敗とし、残り2試合で優勝マジック1が点灯、20日の中日戦(中日球場)に勝つか引き分けで優勝が決まるところに持ち込む[4]。
その中日戦は、中日先発・星野仙一の前に打線が沈黙、先発の江夏も失点を許して2対4で敗れ、次の甲子園(翌21日の予定だったが雨で1日延びて22日)での巨人との最終戦直接対決に勝った方が優勝というNPB史上初の状況となった[4]。だが、その最終戦は0対9で大敗し9年ぶりのリーグ優勝は成らなかった[4]。試合終了直後には、敗戦に怒った阪神ファンが大挙してグラウンドになだれ込み、三塁側巨人ベンチを襲撃。逃げ遅れた巨人・王貞治ら数名が負傷するというアクシデントが発生。巨人・川上哲治監督の胴上げも行われない異常事態となった[5]。それにとどまらず、暴徒化した観客の対応に兵庫県警察の機動隊が要請を受けて出動する事態に発展し[6]、球場外に出された後も騒ぐファンを沈静化させるため警察の依頼により試合終了から1時間以上が過ぎた後に監督の金田が外に出て、ハンドマイクで「私は涙こそ流していないが、気持ちの中は皆さんと同じく残念でたまらない。来年こそ一層がんばるので、ファンの皆さんも理解してほしい」と呼びかける結果になった[7]。
この年は優勝した巨人に11勝13敗2分と善戦し、中日、広島、大洋には勝ち越したが巨人が16勝10敗と貯金を稼いだヤクルトに9勝17敗と大きく負け越したのがV逸の一因となった。
この年の巨人戦は先述の試合の他に、7月1日には先発・上田が9回裏二死までノーヒットノーラン。快挙達成まであと一人という所で長嶋茂雄にヒットを打たれるも完封勝利。8月5日には黒江透修の放った打球をセンターの池田純一が芝生に足をとられて転倒し後逸。「世紀の落球」とも言われたプレーでチームは逆転負けを喫する(試合後金田監督は「池田は悪くないけど、芝生が悪かった」と池田をかばった)など、印象的な試合が多かった。
一方、グラウンド外では険悪な出来事も幾つか起こり、8月には遠征先の名古屋の旅館で、以前から金田監督に冷遇され不満を募らせていた鈴木皖武が、シーズン終了後の11月23日に行われたファン感謝デー終了後には以前から金田監督と確執のあった権藤正利が、それぞれ金田監督を殴打する事態が発生した。鈴木は事態発覚後に球団から一ヶ月の謹慎処分、同年限りでの引退が決まっていた権藤に至っては、セ・リーグから勤続20年の連盟表彰を授与されるはずだったが、この一件で取り消しになり、自由契約扱いでの退団となった。
Remove ads
チーム成績
レギュラーシーズン
1 | 遊 | 藤田平 |
---|---|---|
2 | 二 | 野田征稔 |
3 | 左 | 池田純一 |
4 | 捕 | 田淵幸一 |
5 | 一 | 遠井吾郎 |
6 | 右 | カークランド |
7 | 三 | 後藤和昭 |
8 | 中 | 佐藤正治 |
9 | 投 | 江夏豊 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 読売ジャイアンツ | 66 | 60 | 4 | .524 | 優勝 |
2位 | 阪神タイガース | 64 | 59 | 7 | .520 | 0.5 |
3位 | 中日ドラゴンズ | 64 | 61 | 5 | .512 | 1.5 |
4位 | ヤクルトアトムズ | 62 | 65 | 3 | .488 | 4.5 |
5位 | 大洋ホエールズ | 60 | 64 | 6 | .484 | 5.0 |
6位 | 広島東洋カープ | 60 | 67 | 3 | .472 | 6.5 |
Remove ads
オールスターゲーム1973
→詳細は「1973年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
選手・スタッフ
試合結果
※日付の後の(a)はダブルヘッダー第1試合(b)はダブルヘッダー第2試合
※セーブ制度は1974年から
Remove ads
個人成績
要約
視点
投手成績
※色付きは規定投球回数(130イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高。
- 完封合計は継投も含む
打撃成績
- 色付きは規定打席(403打席)以上の選手
- 太字 はリーグ最高
Remove ads
表彰
達成記録・出来事
- 4月26日 - 田淵幸一が巨人3回戦(後楽園)で6回に関本四十四、8回と9回に菅原勝矢から本塁打を放ち1試合3本塁打を記録、球団史上4人目(5回目)で9回の本塁打は通算100本塁打、史上75人目
- 5月9日 - 田淵幸一が巨人4回戦(甲子園)で2回、7回、9回と高橋善正から本塁打を放ち1試合3本塁打を記録、球団史上6回目
- 5月10日 - 田淵幸一が巨人5回戦(甲子園)で1回に高橋一三から本塁打を放ち、前日の同カードから4打数連続本塁打を記録し、史上5人目で上記の4月26日から同一カード7打数連続本塁打を記録
- 5月13日 - 権藤正利が大洋3回戦(新潟)で8回から救援登板し通算700試合登板、史上7人目
- 7月1日 - 上田二朗が巨人12回戦(甲子園)で9回2死までノーヒットノーランを続けていたが、長嶋茂雄にヒットを打たれてノーヒットを阻まれる。「あと1人で費えたノーヒットノーラン」は史上15人目で球団史上5人目
- 8月30日 - 江夏豊が中日20回戦(甲子園)で中日打線を延長11回ノーヒットノーランに抑え、11回裏に自ら2号サヨナラ決勝本塁打を打つ[8]。ノーヒットノーランは史上48人目(59度目)
- 9月2日 - 江夏豊が巨人21回戦(後楽園)で1回に王貞治に阪神戦通算100本目の本塁打を打たれる
- 9月9日 - 田淵幸一がヤクルト25回戦(甲子園)で9回に敬遠で歩かされ相手投手の安田猛の連続無四死球イニングの記録が81で止まる
- 10月10日 - 藤田平が巨人24回戦(後楽園)で8回に倉田誠から安打を放ち通算1000安打、史上84人目
- 10月20日 - 中日26回戦(中日)に敗れ、翌日の巨人26回戦(甲子園)は、勝ったチームがリーグ優勝という決戦となる[9]
- 10月22日 - 雨で一日延びて巨人26回戦(甲子園)が行われ、0対9で大敗。試合後、怒ったファンがグラウンドに乱入、巨人ベンチを襲撃するなど暴動を起こす(スコアはs:1973年セ・リーグの最終決戦参照)[10][11][12][13]。
- 11月23日 - 権藤正利がファン感謝デーが行われた甲子園球場の監督室で、江夏豊立ち会いのもと金田正泰監督を殴打[14]
- 12月12日 - 球団は金田正泰監督に暴力を振るったとして権藤正利を11月23日付で契約解除したと発表[15]
ドラフト指名選手
→詳細は「1973年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads