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日本の企業 ウィキペディアから
ニッカウヰスキー株式会社 (英: The Nikka Whisky Distilling Co., Ltd.)は、日本の洋酒メーカー[注釈 1]。アサヒグループの機能子会社。
本社(アサヒグループ本社ビル) | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 上場廃止 |
略称 | ニッカ、NIKKA |
本社所在地 |
日本 〒130-8602 東京都墨田区吾妻橋1丁目23-1 アサヒグループ本社ビル 北緯35度42分36.5秒 東経139度48分2.7秒 |
本店所在地 |
〒046-0003 北海道余市郡余市町黒川町7丁目6 北緯43度11分14.3秒 東経140度47分30.4秒 |
設立 |
1934年(昭和9年)7月2日[1] (大日本果汁株式会社) |
業種 | 食料品 |
法人番号 | 2010401021550 |
事業内容 | ウイスキー、ブランデー、スピリッツ、リキュール、シードル、焼酎などの製造[2] |
代表者 | 代表取締役社長 岸本 健利[2] |
資本金 | 1億円[2] |
売上高 |
557億1200万円 (2023年12月期)[3] |
営業利益 |
21億9200万円 (2023年12月期)[3] |
経常利益 |
22億0400万円 (2023年12月期)[3] |
純利益 |
12億9800万円 (2023年12月期)[3] |
純資産 |
403億8700万円 (2023年12月期)[3] |
総資産 |
775億2700万円 (2023年12月期)[3] |
従業員数 | 非公表 |
決算期 | 12月31日 |
主要株主 | アサヒビール株式会社 100% |
主要子会社 | 他 |
関係する人物 | |
外部リンク |
www |
1934年(昭和9年)、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の竹鶴政孝によって北海道余市郡余市町に「大日本果汁株式会社」が設立され、同社の略称「
2001年 (平成13年)、筆頭株主のアサヒビール(現在のアサヒグループホールディングス)が全株式を取得し、同社の完全子会社となった[6]。ニッカウヰスキーが製造する商品の販売はアサヒビールが行っている。
寿屋(サントリーホールディングスやサントリー〈二代目法人〉の前身)でウイスキー製造に従事していた竹鶴政孝が、スコットランドに近い気候の北海道でウイスキー作りをするために退社し、資本を集めて北海道余市で創業したのが始まりである。
1934年(昭和9年)7月2日、大日本果汁株式会社を設立。本店(本社)を東京府東京市大森区新井宿(現在の東京都大田区山王)とし、資本金10万円で発足[7]。
最初期の筆頭株主は、加賀証券社長の加賀正太郎。加賀は社内では「御主人様」と呼ばれ、創業者の竹鶴は専務と呼ばれた[要出典]。
ウイスキーは製造開始から出荷まで数年かかるため、経営基盤を固めるために最初期は余市周辺の特産品であったリンゴを原料に、リンゴジュース(商品名は「ニッカ林檎汁」)を製造・販売した[8]。しかし、創業者竹鶴の品質へのこだわりはリンゴジュースにも及び、高価な果汁100%ジュースしか出荷しなかったため、あまり売れなかったという[9]。リンゴジュースの不振をカバーするため、リンゴやブドウを原料にゼリーやケチャップなども販売した[10]。
1935年4月に販売開始したリンゴジュースは、時間が経つと混濁する性質があり、そうなると当時の規制では販売できず、混濁したものは返品されることとなった[10]。同年10月、この返品されたリンゴジュースを原料にして、ブランデーおよび甘味林檎酒を製造することにしたが、竹鶴はブランデー製造時期外に蒸留器を遊ばせておくのはもったいないとして、大麦を仕入れてウイスキーも製造することにした[11]。1936年8月にブランデー・ウイスキーの製造免許を取得、ブランデーとウイスキーの製造を行った[12][注釈 2]。その後、追加の設備投資が必要になる本格的なウイスキー製造は、赤字が解消されるまではと見合わせたが、1939年に経営状況が改善されないままウイスキー製造を開始した[14]。
1940年(昭和15年)にウイスキーの出荷を開始[15][14]。製品は「ニッカウヰスキー」と名づけられた[14]。直後にウイスキーは統制品となり、大日本果汁は海軍監督工場となった[13]。当時スコッチウイスキーの国内最大の消費者は帝国海軍であったが、イギリスからのウイスキー輸入が途絶えたため、日本国産ウイスキーへの需要が高まった。このときは将校への配給用の酒を製造するために優先的に原料の大麦が割り当てられたため、事業の継続が可能となった[16]。
終戦後、他社から相次いで低質の三級ウイスキーが発売されるが、品質にこだわり、低価格商品を投入しなかったため再度経営が苦しくなる[18]。加賀は経営上の理由から再三、三級の発売を要求[要出典]。1950年(昭和25年)に三級ウイスキー(商品名「ニッカスペシャルブレンドウヰスキー」[19][20][21][22])を発売するが、原酒を当時の税法の制限いっぱいの5%ぎりぎりまで入れた[18][20]。着色料も合成色素ではなく、自社製造したカラメルを使用した[18][20]。
1952年(昭和27年)、商号をニッカウヰスキー株式会社に変更し、本社を東京都中央区日本橋に移転[23]。社名に使われている歴史的仮名遣の「ヰ」は、ウイスキーは水が命なので井戸の「井」を使って登記しようとしたところ、当時漢字とカタカナを混在させての社名登記ができなかったため、似たカタカナの「ヰ」を用いた[24]。また、Whiskyの「wi」の発音に近いからという[24]。同年、港区麻布(現・六本木ヒルズ所在地)に東京工場を設置した[25]。この工場は瓶詰めを行うためのものであった[25]。余市から東京への輸送コストを抑えるのが主目的であるが、当時、ウイスキーは出荷時に課税されていたため、輸送時の破損分への課税を防ぐためにも、大消費地に瓶詰め工場を置くことが必要であった。
1954年(昭和29年)、ニッカは銀行からの融資を断られるようになり、資金面で苦しい状況におかれていた[26]。また、大株主であり取締役でもある加賀は健康上の問題を抱えていた[26]。このような状況から、加賀は自身に代わるニッカの後ろ盾となる存在が必要と考え、長年の交友がある朝日麦酒社長の山本爲三郎にかけあい、朝日麦酒の資本参加を実現させた[27]。この資本参加で、主要株主の加賀家・芝川家保有株式から、発行済株式の半数にあたる株式が朝日麦酒に譲渡された[28]。御主人様とまで呼ばれた事実上の社主の突然の行動に、ニッカ社内は騒然となるが、社長の竹鶴は、当時の朝日麦酒社長が知人であることから全く動じなかった[要出典]。加賀は敢えて竹鶴の知人を売却相手に選んだのだと考えられている[要出典]。朝日麦酒は財務強化のために増資し、営業力強化のため弥谷醇平を派遣したが、経営介入はほとんどなかった[28]。
当時、ニッカの二級ウイスキー(かつての三級ウイスキー)は他社製より高く、あまり売れていなかった[29]。弥谷が「全国売上が87%伸びれば価格を下げても黒字になる」と竹鶴を説得[29][16]。1956年(昭和31年)、新二級ウイスキーの「丸壜ニッキー」 を競合と同価格で発売した[29]。積極的なセールス活動を行った結果、ニッカの二級ウイスキーの売り上げは1年で倍増し、ニッカの販売額も業界3位から2位に浮上した。またこれにより他社のセールス活動も激化。ウイスキー販売戦争となった。当時、洋酒ブームが起きており、ニッカ以外も含めた日本でのウイスキー消費量全体も増加した。
1959年(昭和34年)、朝日麦酒による増資支援をうけて西宮工場を開設[30]。1962年(昭和36年)には朝日麦酒の全額出資により、ニッカへグレーンスピリッツを供給することを目的とした朝日酒造株式会社を設立。1964年(昭和38年)、西宮工場隣接地に朝日酒造の工場が完成し、グレーンウイスキーが製造できるようになりブレンドの幅が広がった[31]。朝日酒造は1969年(昭和44年)にニッカウヰスキーに吸収合併された[32][33]。1999年(平成11年)、グレーンウイスキー製造設備は仙台工場に移設された[32][34]。
1960年(昭和35年)、朝日シードル株式会社の事業を朝日麦酒より譲受され[35]、創業時から手がけていたアップルワインやアップルブランデーなどりんご製品の製造を1965年(昭和40年)までに余市から弘前工場に移管した。
1964年(昭和39年)、日本初のモルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドした二級ウイスキー(当時)「ハイニッカ」を発売。翌1965年(昭和40年)には同じく2種のウイスキー原酒をブレンドした一級ウイスキー(当時)、新「ブラックニッカ」を発売する。ハイニッカ、新ブラックニッカに対し、業界首位のサントリーも対抗製品を発売して応戦。再びウイスキー販売戦争が起こった。
1967年(昭和42年)、東京工場は拡張の余地がない上、道路用地収容によりむしろ縮小することになったため、新東京工場(現・柏工場[36])を千葉県柏市に開設[37]。旧東京工場は施設を改築し、麻布工場に改称した[38]。
1969年(昭和44年)には、余市蒸溜所に続き2番目の蒸溜所となる宮城峡蒸溜所(仙台工場)を宮城県宮城郡宮城町(現・仙台市青葉区)に開設[39]。この工場の建設候補地を見学に来た際、創業者の竹鶴政孝が、この地を流れていた新川川の流れを見て、突然、その水でブラックニッカの水割りを作って飲みはじめ、その場で建設を決めたという[40]。このとき、竹鶴はその川の名が新川ということを知らなかった[41]。地元の人に川の名を尋ねると、「にっかわ」という答えが返ってきたので、何故、既にニッカが工場を作ることが知られているのかと驚いたという逸話も残っている[要出典]。
1989年(平成元年)、東証二部上場[42]。操業を停止していたスコットランドのベン・ネヴィス蒸溜所を買収[43]。
2001年(平成13年)、アサヒビールがニッカの全株式を取得[44]。完全子会社化した[44]。
2011年(平成23年)7月1日に親会社のアサヒビール(初代法人)は持株会社移転により「アサヒグループホールディングス株式会社」に商号を変更し、ニッカはアサヒビール(二代目法人)の機能子会社となった。
2015年(平成27年)、「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ2015」にて、優れた酒造メーカー1社にのみ贈られる“ディスティラー・オブ・ザ・イヤー”を受賞[45]。
2022年(令和4年)8月1日付で本社をアサヒグループホールディングスと同じ墨田区へ移転したほか、同年9月1日付で登記上の本店を余市町へ移転した[46]。
北海道余市郡余市町に余市蒸溜所、宮城県仙台市青葉区に宮城峡蒸溜所を開設しており、余市ではモルトウイスキー(主原料:大麦麦芽)、宮城峡ではモルトウイスキーとグレーンウイスキー(主原料:トウモロコシ)を製造している。それぞれのモルトウイスキーは蒸溜所内での熟成後に千葉県の柏工場に送られブレンド・瓶詰めされる。なお、宮城峡蒸溜所で製造されたグレーンウイスキーの熟成ならびにブレンドされたウイスキーの再貯蔵は、栃木県の栃木工場で行う。
余市・宮城峡で製造されたモルトウイスキー原酒は、蒸留に使用するポットスチルの違いにより性格が全く異なる。余市では一次二次とも共に世界で唯一のものとなった『石炭直火式蒸溜』を続けており[注釈 3]、独特の香りがウイスキーに残る。また宮城峡でのグレーンウイスキー蒸溜には効率は落ちるものの原料本来の香味が残りやすいという特徴がある世界でも例が少なく日本では唯一のカフェ式連続式蒸溜機を使用する。
余市蒸溜所は、2002年にモルトウイスキー愛好者団体SMWSにより、英国以外の蒸溜所で初の認定 (No.116) を受けた[76]。宮城峡蒸溜所も2004年にSMWS認定 (No.124) を受けた[77]。
モルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドしたウイスキー。
大麦麦芽だけを原料としたウイスキー。同じ蒸溜所のモルトウイスキーをヴァッティングしたものを「シングルモルトウイスキー」、複数の蒸溜所のモルトウイスキーをヴァッティングしたものを「ピュアモルトウイスキー」と呼ぶ[82]。アルコール度数調整のための加水も行う。
樽での熟成を終えたモルトウイスキーをそのまま瓶に詰めたもの。
蒸溜所やインターネットでの数量限定販売となる「シングルカスク 余市」[97]「シングルカスク 宮城峡」はウイスキーマガジン主催のウイスキーテイスティングで高い評価を得ている。
シングルカスクウイスキーとは、1つの樽から取り出してそのままボトルに詰めたウイスキーで、そのため樽によって個性が異なり、アルコール度数も約60% (普通に売られているウイスキーは約40%) になる。1つの樽からとれるウイスキーも限られることから市場にはあまり出回らない。
また、余市と仙台の各蒸溜所で使用されている蒸溜器の違いから、余市のシングルカスクは力強く、仙台のそれは柔らかくまろやかである。
ニッカでは下記の4種類の樽を使用して熟成させており、それぞれが独特な個性を引き出しているため、シングルカスクではその違いを楽しむことができる。
以前、蒸溜所限定で樽詰前の「原酒 未貯蔵」が販売されていたが、販売終了となり入手することは不可能となった[いつ?]。
会員を募り、会員名が記載された樽に北海道工場製のモルトを詰め、10年間貯蔵した後、シングルカスクウイスキーとして会員に配送する企画[98]。現在は募集終了。1樽に対する会員数は60名[98]。会員はネット上で自分の樽の様子を見ることができ[要出典]、北海道工場見学時に実物を見ることができる[98]。入会時にはスターターキットが送られ、5年後に1本、10年後に2本のウイスキーが送られてくる[98]。また、メッセージを登録することで、10年後にタイムカプセルメッセージとして登録したメッセージがウイスキーと共に送られてくる[98]。このため成人や結婚式などの人生の節目において会員となるケースが多々あった[要出典]。
ウイスキーベースでは、日本における狭義のハイボールで酒税法上の水割りウイスキー (発泡性) ①と、ハイボール本来の定義に含まれるリキュール (発泡性) ① (後述) の2品目を製品化しているが、自社生産は終了した[100]。なお、ウイスキーベース以外のハイボールとしてチューハイなどを製造していた。(後述)
ニッカウヰスキー弘前工場では、東北地方を中心に市町村・JAなどの協力を得て60種以上の「地ワイン」を生産していた[103]。
上記2銘柄は旭化成 (1992年以前は東洋醸造)から引き継いだ商品で[130]柏工場で製造されている。旭化成・東洋醸造時代には旧東洋醸造の本社工場だった大仁酒類工場[131] (静岡県田方郡大仁町:現・伊豆の国市。現在の旭化成ファーマ大仁医薬工場) で製造されていた。
上記5銘柄は協和発酵工業 (現・協和キリン) から引き継いだ商品で、アサヒビールと協和発酵の合弁による「アサヒ協和酒類製造」門司工場で製造されていたが、2006年 (平成18年) 1月1日にニッカウヰスキーとアサヒ協和酒類製造が合併し、ニッカウヰスキーが製造権を引き継いだ。門司工場の製造ラインもニッカに引き渡されている[132](なおこの時、協和発酵より、サントネージュワイン社の保有株式の譲渡を受け、同社のワインの販売元となったことがある)。
また、ニッカ門司工場では前記の経緯もあって太宰府天満宮の御神酒も製造し、納入している。梅の実は天満宮で収穫し御祓いを受けたものを使い、これを焼酎のラインで梅酒として製造する。
酒税法上のリキュール (発泡性) ①とスピリッツ (発泡性) ① (後述) の2品目を製造していた。[100]
ハイリキと旬果搾りは、旭化成 (1992年以前は東洋醸造) が製造・発売していた商品だったが、2002年 (平成14年) に旭化成が酒類事業から撤退。アサヒビールが発売を引き継ぎ、ニッカウヰスキーが製造していた。
缶チューハイ・缶カクテルの一部商品は、アサヒ飲料の工場でも製造されている。
☆印はニュースピリッツ[注釈 6]
左手に大麦の穂を、右手にウイスキーのテイスティング用グラスを持つ男は、事実上、ニッカのアイコンになっている[163]。
原型は戦前に作成され、これを使用したボトルを製造したが、不良品が多く製品化はされなかった[164][注釈 7]。戦後、デザインを修正して「角瓶ニッカ」 (1963年) の外箱、「黒角ニッカ ポケット壜」 (1964年) のラベル、そして新「ブラックニッカ」 (1965年) のラベルで使用され[165]、その後も数種のニッカ製ウイスキーのラベルに印刷され続けている。これは大高重治によるデザインとされている[166]。
この男はウイスキー愛好家たちにはローリー卿と呼ばれ、17世紀の冒険家ウォルター・ローリーがモデルだといわれてはいるが、2代目マスターブレンダーの竹鶴威によれば、実際のモデルはよくわからないという[要出典]。また別の説によれば、19世紀、ウイスキーのブレンドの重要性を説いたW・P・ローリー (William Phaup Lowrie[167]) であるともいわれている[86]。ニッカは「W・P・ローリー」であるとしている[168][164]。
戦前のデザインでは、像は向かって右向きであった[169][168]が、戦後に修正されたデザインでは左向きになった[163]。変えられた理由も不明だが、当時の広告に左、右を向いた2種類のウイスキーのボトルの顔が向き合う写真が使われており、ディスプレイ上の理由で2種類作られたもののうち片方が残ったものと考えられる[独自研究?]。
2014年に始まったニッカの公式Twitterにおいては、彼の語り (一人称は「わし」)で商品やキャンペーンの告知が行われている。
ニッカ製ウイスキーには、一見イギリス風のエンブレムが描かれている。これは竹鶴政孝がスコットランドに留学したとき王室に献上するウイスキーのエンブレムからヒントを得てデザインを考えたものである[170]。一見すると洋風なデザインであるが、左右一頭ずつ中央を向いているのは魔除けの印である狛犬、中央の兜は武芸を意味する山中鹿介が使用した兜、その下の「NIKKA」の文字周辺の模様は文化を表わす市松模様と、日本の伝統的なデザインを用いたエンブレムとなっている[170]。
他、昭和30年代前半までの「丸びんニッキー」CMでは、熊の人形を使ったCMが放送されていた。[190]
この節の加筆が望まれています。 |
この節の加筆が望まれています。 |
ニッカウヰスキーによれば、1935年発売の「日果林檎ジュース」は製品化された日本初の果汁100%リンゴジュースである[注釈 9]。1970年代にも「ニッカアップルジュース」として発売されたが[35]、2015年現在果汁100%ジュースの製造販売は行っておらず[196]、余市蒸溜所内にあるニッカ会館の試飲会場で用意されるリンゴジュースはJAよいちが製造する「りんごのほっぺ」[注釈 10]である。戦前の一時期生産されていたアップルゼリーやアップルソース、リンゴジャムなどを除くリンゴ関連製品は前述の弘前工場に段階的に引き継がれ、青森県産リンゴを使用したアップルワイン[197]、アップルブランデー[198]、シードル[199][出典無効]、りんごポリフェノール[200]が製造されている。また2014年12月にはリンゴ果汁0.1%を使用した「リタハイボール」が期間限定で発売[201]、2015年10月には「ニッカハイボール期間限定余市りんご」が発売される[202]。なお、同系列メーカーのアサヒ飲料による「バヤリースアップル」(果汁10%) はチリ産、中国産、南アフリカ産のリンゴを、「バヤリース プレミアムセレクションふじりんご100」(果汁100%) はアメリカ産を使用している[203]。
本社ビルの地下1階にはかつては直営バーとして、現在は外部委託された「ブレンダーズバー」があり、ニッカのブレンダーの手によるオリジナルブレンドウイスキーや、ブレンド前のキーモルト、シングルカスクウイスキーなどが常時提供されているほか、テイスティングイベントも多く開催されていたが[204]、2021年12月をもって閉店した[205]。
2022年8月1日付で本社をアサヒグループホールディングスと同じ東京都墨田区吾妻橋へ移転した他、登記上の本店所在地も同年9月1日付で北海道余市町へ移転した[70]。
日本国内の工場は下記の8つだが、北海道工場と仙台工場はそれぞれ余市蒸溜所 (石炭を燃料とする直火焚きポットスチルを設置[206])、宮城峡蒸溜所 (ポットスチルは蒸気による加熱[207]、また日本唯一、世界でも数少ないカフェ式連続式蒸溜機を設置) を併設しており、ニッカウヰスキーの中では重要な役割を持つ工場となっている。さらに仙台工場は、作並温泉地区において重要な観光スポットの1つであるため、住所が同社社名に因んで「ニッカ」と名付けられ、また、国道48号から同工場に至る途上の広瀬川に架かる橋も「ニッカ橋」と命名されている。工場は広瀬川と新川川に挟まれているが、新川川 (新川) がニッカワである偶然については「歴史」の項目も参照されたい。
この他、ニッカブランデー (ぶどう系、旧"黒"シリーズ) の原酒の一部はサントネージュワインの工場で生産される。
ベン・ネヴィス蒸溜所の所在地 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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北海道工場 (余市蒸溜所) に最も近い | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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仙台工場 (宮城峡蒸溜所) に最も近い | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ニッカが引き継ぐ前の旭化成は静岡県田方郡大仁町に自社工場を持っていた (前述)。
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