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日本のアナウンサー、司会者、タレント (1954-) ウィキペディアから
古舘󠄁 伊知郎(ふるたち いちろう、1954年〈昭和29年〉12月7日[1] - )[注 1]は、日本のフリーアナウンサー、司会者、YouTuber、立教大学客員教授。元テレビ朝日アナウンサー。フリー転身後はニュースキャスターも務めた。古舘󠄁プロジェクト所属。
ふるたち いちろう 古舘󠄁 伊知郎 | |
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プロフィール | |
本名 | 同じ |
愛称 | いっちゃん |
出身地 | 日本 東京都北区 |
国籍 | 日本 |
生年月日 | 1954年12月7日(69歳) |
血液型 | AB型 |
最終学歴 | 立教大学経済学部 |
勤務局 |
テレビ朝日 テレ朝勤務(1回目)1977年 - 1984年 テレ朝勤務(2回目)2004年 - 2016年 |
所属事務所 | 古舘󠄁プロジェクト |
部署 | コンテンツ編成局 アナウンス部 |
職歴 | 元テレビ朝日アナウンサー |
活動期間 | 1977年 - |
ジャンル | 報道 |
配偶者 | 既婚 |
著名な家族 | 古舘󠄁佑太郎(長男) |
出演番組・活動 | |
出演中 | 『ゴゴスマ -GO GO!Smile!-』(毎週水曜日) |
出演経歴 |
『夜のヒットスタジオ』 『おしゃれカンケイ』 『クイズ赤恥青恥』 『筋肉番付』 『NHK紅白歌合戦』 『報道ステーション』 など |
その他 | 立教大学客員教授、プロレスやF1などの実況 |
古舘伊知郎 | |
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YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2020年 - |
登録者数 | 26.7万人 |
総再生回数 | 3388万7346回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2022年12月13日時点。 |
浜野繊維工業で管理職をしていた(後に社長となった)古舘󠄁順太郎と、安也子(旧姓 堀口)の間に誕生[2]。父と母は、それぞれの父親(すなわち伊知郎の両祖父)が中国大陸・青島に移住し商売をしていた時以来の縁があり、安也子が日本で女学校に進学した折に家庭教師として順太郎が選ばれたこともなどでも縁が深まり、2人は結婚することになったという[注 2]。
東京都北区で育つ。本人が29歳の時に、両親が板橋駅商店街近くのこの実家の土地を売ったが、商店街に出店していた寿司店(金寿司)が買い取ってビルを建設し、今も同じ場所で営業中。本人曰く「この寿司屋はほぼ実家の感覚」(2023年8月19日放送、TBS系『人生最高レストラン』より)。
北区立滝野川第二小学校、千代田区立今川中学校(現:千代田区立神田一橋中学校)、立教高等学校(現:立教新座高等学校)、立教大学経済学部経済学科卒業。
1977年、全国朝日放送(テレビ朝日)にアナウンサーとして入社。この年の4月に日本教育テレビ(NET)からテレビ朝日に改称しており、テレビ朝日の一期生であった。当時テレビ朝日はモスクワ五輪の独占放映権を得ており、その関係でアナウンサーを大量採用したため、この年は異例ともいえる男女10人近い採用となった。同期には吉澤一彦、宮嶋泰子、渡辺宜嗣、中里雅子らがいる。同年7月には、新日本プロレスの実況中継番組『ワールドプロレスリング』担当に配属され、越谷市体育館での長州力VSエル・ゴリアス戦で実況デビュー。
1980年からは『ワールドプロレスリング』で山本小鉄とコンビを組む。「おーーーーーっと!」「掟破りの逆サソリ」「名勝負数え唄」「人間山脈」「風車の理論」「エリート・雑草逆転劇」などの独特な表現は「過激実況」と呼ばれ、アントニオ猪木全盛期、新日本プロレスの黄金期を支えた。また、大発行部数を誇る週刊少年マガジンで連載されたマンガ『異能戦士』(小林よしのり)に古館一郎(ふるたち いちろう)のキャラで頻繁に登場し、プロレスファン以外にも知られる存在となった。なお、フリーになった直後の1984年9月には、フジテレビ『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんプロレス」のコーナーに、覆面アナウンサー「宮田テル・アビブ」(宮田輝のもじり)として出演した。「奮い立ち伊知郎」と名乗り覆面を被って出演したこともある。しかし、NGを出してひょうきん懺悔室に送り込まれ、水を被り、正体を明かした。
1984年6月にテレビ朝日を退社後、7人の仲間と企画集団「古舘プロジェクト」を設立し、フリーアナウンサーに転身[注 3][注 4]。
局アナ時代から10年以上担当したワールドプロレスリングの実況を1987年3月に勇退し、その後は1989年から1994年までフジテレビのF1放送や、競輪における特別競輪(現:GI)決勝戦の実況中継等で人気を博す。また、テレビ番組の司会者としても、『夜のヒットスタジオDELUXE』を皮切りに、各局でレギュラーを持ったほか、マイク1本で2時間以上、1人でしゃべり続ける「トーキングブルース」を、1988年から開始した。
1987年6月12日、新高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル新高輪)の飛天で行われた、郷ひろみ&二谷友里恵の結婚披露宴の司会を務めた。ウエディングケーキは二谷の手作りケーキで、入刀の際に古舘は「新婦の手作りのウェディングケーキ。高さを競うより心を競いたい」と言って拍手喝采となった。披露宴はフジテレビが「おめでとう郷ひろみ・二谷友里恵結婚披露宴」と題して大々的に中継し、テレビ中継の視聴率は、史上最高の47.6%、瞬間最大視聴率58.5%を記録。
NHKと民放キー局5社で全てレギュラー番組を持ち、1988年には映画『スウィートホーム』、1991年にはNHK連続テレビ小説『君の名は』に出演するなど、俳優業にも挑戦した。また、テレビ朝日の『ニュースフロンティア』[3]でのキャスターも担当。
1994年 - 1996年には、NHK『NHK紅白歌合戦』の白組司会を担当、史上初の民放のアナウンサー出身の紅白司会者となった[4][5]。元々紅白の司会を目指していたとも話している[6]。97年に中居正広にバトンタッチしたことが発表された日、古館が自殺したというフェイクニュースが各マスコミにばらまかれて困惑したという[7]。
1989年、アントニオ猪木がスポーツ平和党から参議院選挙に立候補した時には、「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」というキャッチコピーで応援した。
世界水泳では2001年の日本・福岡大会と2003年のスペイン・バルセロナ大会を2大会連続で特別実況し、世界陸上では1999年のセビリア大会から2001年エドモントン大会にかけて、女子マラソンの実況を担当。
2004年4月5日、『ニュースステーション』の後継番組である『報道ステーション』の初代メインキャスター(アンカーマン)に就任。他局のレギュラー番組や、CM出演を相次いで降板した。以後、後の降板まで仕事は基本的に『報道ステーション』に絞っていた。週刊誌のインタビューについても『報道ステーション』開始後は応じていなかったが、2014年には『AERA』(七月十四日号)の取材に応じている[8]。『報道ステーション』担当後も日本テレビ『おしゃれカンケイ』のみ2005年3月まで出演を継続した(こちらについても『報道ステーション』専念のために降板を示唆し、番組は打ち切りとなった)。
2006年7月3日放送の日本テレビ『みのもんたの“さしのみ”』へのゲスト出演を最後にテレビ朝日以外での番組出演を、2008年5月6日放送のテレビ朝日『テスト・ザ・ネイション』を最後に『報道ステーション』以外の司会およびバラエティ番組の司会は『報道ステーション』を降板するまで行わなかった[9]。
2015年12月24日に『報道ステーション』の降板を発表。これは61歳の誕生日を迎えた17日後の出来事で、「現在のキャスターの出演契約を2016年春で満了とする事で合意したこと」と、「自ら新しい挑戦をしたい」とする古舘の意思を尊重してのものである[10]。12月24日には降板説明記者会見を開き[11]、「不自由な12年間だった。言っていいことと、いけないこと…大変な綱渡り状態でやってきた」「今日もずっとインターネット(の反応)を見ていたら、『古舘降板だってさ。やったぜ!』っていうのがありまして、一番印象に残りました(笑)。『ああ、そういう人はいっぱいいるんだなー』って…そういう人には『よかったですね』と言いたいですし、『育ててくれてありがとう』とも言いたいです」と記者団に向かって快活に答えた[12]。その後、『報道ステーション』のメインキャスター(アンカーマン)を2016年3月31日をもって降板。
同年6月1日、恵比寿アクトスクエアで行われた公開トークイベント「微妙な果実〜トーキングフルーツ」で活動再開[13]。古舘によると、「トーキングブルース」復活を促したのはテレビ朝日の早河洋会長だという[14]。
同年11月よりフジテレビにて『フルタチさん』、『トーキングフルーツ』を担当することが決定[15]。なお同年7月、10月からのレギュラー番組が一切決まっていないと発言していた[9]。レギュラー番組が中々決まらなかった状況について、女性誌記者が「その原因はテレビ局にとって古舘が高い買い物だと思われてしまったからです」と推測していた[16]。古舘は当初簡単にレギュラー番組は決まると思っていた節もあったという[17]。
2018年10月期放送のTBS日曜劇場『下町ロケット』にレギュラー出演し、NHK連続テレビ小説『君の名は』以来27年ぶりに俳優業に挑戦[18]。2019年4月、立教大学客員教授に就任[19]。2020年度前期放送の『エール』で、NHK連続テレビ小説に29年ぶりに出演[20]。
2020年よりYoutubeを開始。2022年1月に登録者数10万人を突破。
2022年1月25日、新型コロナウイルスの感染を発表[21]。同年2月1日に隔離期間が終了した[22]。古舘は2021年7月に行われた堀江貴文との対談で新型コロナウイルスワクチン接種反対派として「効果や副作用について『半信半疑』」と主張していたが[23][24]、その翌月にワクチン接種を2回目まで行っており、復帰時に「私は高齢者ですけど重症化を防いでる一部にワクチンが寄与しているな、とも痛感しました」とコメントしている[22]。
母と姉は喋り達者であり、喋る隙さえ与えられず無口な少年だった。小学生になっても人前で喋ることが苦手、朗読の時間は寝たふりをしていた。小学生の頃、健康優良児を目指して食べまくった結果“無口のデブ”になった。いつになっても越えられない優秀な実姉へのコンプレックスから出会ったのがプロレスであり、200名以上のプロレスラーを丸暗記。そこに立ちはだかったのが母親で、外国の俳優・女優の名前を全部暗記していた。こうして始まったのが、どちらかが言えなくなるまで続ける映画俳優vsプロレスラーの記憶勝負、この対決が喋ることへの目覚めだったとしている[25]。
1987年7月に日本航空の元客室乗務員[26]と結婚。1男2女の父親。長女は吉田明世の同級生であり、吉田が幼少の頃より彼女とも親交がある[27]。長男・佑太郎はThe SALOVERSのボーカリストを経て俳優として活動している。娘2人はいずれも既婚者であり、彼女らの結婚式では父親の古舘が直接司会を務めた。
1991年、姉が癌で他界。この時、それまで特に親しくなかった逸見政孝は、フリーアナウンサー同士で身内を癌で亡くしたという同じ経験を持つことから古舘にお悔やみの手紙を送った。ここから2人の間に交流が始まり、逸見が癌で闘病中に日本テレビ『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の司会を代行している。なお、逸見は会見前に自身が癌であることを伝えていた。古舘は告白を聞き、何も言えなかったという。逸見の見舞いにも訪れたとしている[25]。
2012年5月28日、母が死去。姉と同じく癌によるものだった。母の入院先は姉と同じ病院を選んだ。姉の癌が発見される前、体調不良を訴えてある病院に通院していたが、何度通っても診断は「大丈夫」という言葉だけで「おかしい」と思い、別の病院に切り替えたところで癌と判明した。発見が遅すぎたため「最初からその病院だったら姉は死なずに済んだかもしれない」と後悔していたことにもよる。
『報道ステーション』で多忙を極める中、姉以上に献身的に看病したという。同日夜、『報道ステーション』開始の数時間前に母が息を引き取り、局内での番組の打ち合わせ中に訃報を聞いたという。姉と同様、仕事で母の最期を看取ることはできなかった。母が亡くなってから数時間後に始まった『報道ステーション』の生放送では、普段と変わらぬ様子で、淡々とニュースを伝えた[28]。
中学時代からの吉田拓郎のファン[29]。拓郎とは自身が司会を務めた『おしゃれカンケイ』(2000年6月18日)で共演した[30]。
THE ALFEEの高見沢俊彦とは親友。『古舘伊知郎のトーキングブルース』のステージで使用する楽曲の提供を毎年行っており、それらをまとめたCDアルバムが発売されている。
プロレスファン以外の視聴者にも古舘の名が一躍認知されるようになった端緒は、1985年のフジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会抜擢だった。当時民放各局に乱立していた音楽番組の中でも抜きん出た番組であり、そこにフリー転身から1年しか経たない抜擢について、当時の視聴者から危惧の声が上がっていた。その当初の視聴者の反応も、当時の『夜のヒットスタジオ』の看板司会者であった芳村真理の強い後盾もあったためか不安の声は聞かれなくなり、司会者としてのキャリアを上げる大きな契機となった。1988年に芳村は番組を勇退し、自身も独立早々の苦境時に最初に使って貰ったという恩義から、『夜のヒットスタジオ』、そして芳村に対しての強い敬意の念を抱いている(『SmaSTATION!!』に出演した際にこのことを述べている)。結婚式の仲人は芳村夫妻が務め、芳村とは家族ぐるみの親交を続けている。
2003年、『ニュースステーション』のメインキャスターを務めた久米宏は「後を受け継ぐ古舘さんに何かメッセージありますか?」と記者に尋ねられた際(久米の『ニュースステーション』降板表明会見より)、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ」と回答した。これに対し、先述した『AERA』のインタビューで「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど」「それから久米さん嫌いになったんですけど」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど」と語った。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と気遣うコメントをしたことがある[31][32]。
久米は「古舘君をはじめ、かなり人が勘違いしている。僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。僕が原稿を読んでいる時間が結構あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている[33]。
親友の高見沢俊彦からは「いっちゃん」と呼ばれている。テレビ朝日時代の同期の南美希子からも「いっちゃん」と呼ばれている。また、『夜ヒット』で司会コンビを組んだ芳村真理(上記の通り、古舘夫妻の結婚式の媒酌人も務めた)や加賀まりこからは「伊知郎さん(または伊知郎ちゃん)」と呼ばれている(ただし、両者共にこの呼び名で古舘を呼ぶのは番組出演以外の場のみで番組共演時は主に「古舘さん」の呼称を使っていた)。
『報道ステーション』を受け持った時期の年収は、同番組以外からの物を含めて5億円程度とされる[37]。12年間でのギャラ総額について、本人曰く「世田谷、一等地、50軒分位」に相当する[38]。
長きにわたる実況人生の中で、全日本古武道選手権とTBS『筋肉番付』のGHOST CHAIR[注 5]が2大地獄と語っている[注 6]。
1985年、『夜のヒットスタジオDELUXE』の司会のオファーを受ける際、フジテレビに呼ばれて出向いた時にプロデューサーから「極秘な話」として台本を渡されたが、そこにあったのは「木曜夜9時 歌とバラエティーの新番組」というダミーの新番組だった。所属事務所で検討した末にオファーを受けることになったが、そこでフジテレビ側から初めて、実はこれは『夜のヒットスタジオDELUXE』の司会だったことを伝えられる。これについて古舘は「もし断ったら、(自分に代わってなった)後任の方にも迷惑かける」からということでダミーの番組を仕立てて交渉に当たるという、念には念を入れた局側の意図があったのではといったことを話している[39]。
1994年・1995年の紅白において、両組司会コンビを組んだ上沼恵美子とは、この共演が原因で確執が生じたとされる[40][41]。1996年の紅白における両組司会もこの2人を起用する方向で話が進み、古舘は続投したが、上沼は古舘との確執を理由に拒否したと伝えられている[42]。
2016年8月8日、太田光(爆笑問題)の母親が他界し、同月14日に東京・青山葬儀所にて執り行われた葬儀・告別式に、なぜか親族側で列席し、一度も会ったことがない太田の母親の棺を持った[動画 1]。
『報道ステーション』開始は2004年4月だが、その3年位前から早河が古舘プロジェクトの会長に対し、「『ニュースステーション』の後を古舘でお願いしたい」という打診があった。スポーツ実況やバラエティ番組、「トーキングブルース」等々、娯楽もので生きていきたいという思いからその打診を長らく断っていたが、早河に「自由にあなたの絵を描いて」と言われたため最終的に引き受けた。降板する2年位前に早河に「辞めさせてほしい」と申し出たが、契約があと2年残っているということで、「もうちょっと頑張ってよ」と言われ踏み止まった[43]。
『報道ステーション』のメインキャスター担当時、3年間自身の拘りから「こんばんは」の挨拶をしなかった時期がある。この件に関し、視聴者から苦情が寄せられていたが、止めなかったという。しかし、プロデューサーから「いい加減にしてくれ」「もう無駄な拘りは止めてくれませんか」と厳重注意を受け、それ以降態度を改めて挨拶をするようにしたと話している[44]。
『報道ステーション』時代、視聴者から毎日自身のもとへ100件以上の電話・メール(本人曰く「95%以上が誹謗中傷」)が寄せられ、それら全てに目を通していることを明かしていた。古舘は「そりゃ傷つくよ、メッタ打ちされるからな」と言いつつも、そんな心ない声にも「強烈な俺のファンじゃないか。ありがとうありがとうって無理矢理言い聞かせる」と発言[45][46]。新聞6紙(朝日・読売・毎日・産経・東京・日経)を購読・熟読していたとも話している[47]。なお、『報道ステーション』時代、毎日息苦しい思い(鬱憤が溜まったとも)をし、帰宅は2・3時頃だったことも明かす[38]。また、『報道ステーション』のメインキャスター降板後に「あのキャスター黙らせろ」「すぐ謝罪しないと困る」など、民主党政権からの圧力があったことを明かしている[48]。
2016年3月31日放送の『報道ステーション』出演最終日では、番組終盤に約8分間にわたって視聴者に向けて挨拶した。古舘は降板理由について「窮屈になってきました」と明かした上で「自分なりのしゃべりや言葉で皆さんを楽しませたいというわがままな思いが強くなった」と告白。続けて「巷でですね、何らかの圧力がかかってやめさせられるということでは一切ございません。それが真相です」と安倍政権や放送法遵守を求める視聴者の会からの圧力を否定する主張をした。また、朝日新聞5月31日朝刊では「画面上、圧力があったかのようなニュアンスを醸し出す間合いを、僕がつくった感はある」と述べている。また、古舘は自身の報道姿勢について「空気は一方向に流れがち。だから、誰かが水を差さなければならない」という、コメンテーターとして『報道ステーション』に出演していた中島岳志が、かつて番組内で述べた文言を引用した上で「人間は少なからず偏っている。情熱を持って番組を作れば多少は番組は偏るんです」とそれらの報道姿勢を貫いた自身の理念を説明した上で、最後は「人の情けに掴まって、折れた情けの枝で死ぬ。『浪花節だよ人生は』の一節です。死んでまた再生します!みなさん、本当にありがとうございました!」と深々と頭を下げ12年のメインキャスター生活にピリオドを打った[49]。『報道ステーション』のメインキャスターを降板する際、他局でも「古舘伊知郎が報道ステーションのメインキャスターを降板」が取り上げられた。なお『報道ステーション』のメインキャスター降板後も、テレビ朝日への直接の出演も積極的に行っている模様。
古舘は『報道ステーション』を担当したことについて新聞記者出身だった筑紫哲也、岸井成格と比較し「外交、政治、経済にくわしくもない、ど素人が、重い任を背負ってしまった」と述べている[50]。
自身のメインキャスター就任が決まった際、前任者の久米から冷たい対応をされた時とは対照的に、自身の後任の富川悠太に対しては、過去の仕事ぶりを褒め称え、視聴者にも「よろしくお願いします」と呼びかけたり、「悩んだ時は相談してほしい」など、熱いエールを送った[51]。その一方で富川がメインキャスターを担当している『報道ステーション』については「時折見ている」としており毎日見ているわけではないことを述べ、その理由として「嫌な突っ込みじじいになっちゃうから」と述べている[50]。なお富川とは、その後も交流を続けている[52]。
自らの実況スタイルを「亜流」と称するように、数々のキャッチコピーを編み出した。あらかじめ考え抜いた言葉を幾つも用意し、本番に臨んでいる。特に地方会場からの実況の場合を中心に、その土地にちなむ歴史、偉人、産業などの紹介をしそれを登場しているプロレスラーや技などにこじつけて実況するのも古舘流。特にCMに入る前に話す「この番組は金太郎の足柄山で有名な南足柄市市立体育館より実況生中継でお送りしております」などは恒例。
また、新日本プロレスがメキシコ遠征した際、『ワールドプロレスリング』で何試合も連続して実況を担当した古舘は、高地であるメキコ特有の暑さと息苦しさも手伝ってハイな状態となり、この時一度だけプロレス実況における「恍惚の極みに達した」と語っている。
海外に行った時は現地の文化などを織り交ぜた実況をし、メキシコだと「マヤ文明」、エル・カネックをアステカ帝国を混じえた「アステカのならず者」と称し、メキシコの試合会場「エル・トレオ、正式名称トレオ・デ・クワトロ・カミノス」など現地を紹介した。
プロレスやF1の実況ではレスラーやドライバーのキャッチコピーに『顔面』というフレーズを多用していた[73]。
一時期、特別競輪(現在のGI)決勝戦実況を担当していた競輪でも、当時圧倒的な強さを誇った神山雄一郎に対して「捲り狼」、「太モモ四輪駆動」、「栃木(小山)のヘラクレス」などの異名を与えた。
自身を「しゃべる富士山大爆発」と称した。
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