延暦寺
滋賀県大津市にある仏教寺院 ウィキペディアから
滋賀県大津市にある仏教寺院 ウィキペディアから
延暦寺(えんりゃくじ、旧字体:延󠄂曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。山号は比叡山。本尊は薬師如来。正式には比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と号する。
延暦寺 | |
---|---|
根本中堂(国宝)と廻廊(重文) | |
所在地 | 滋賀県大津市坂本本町4220 |
位置 | 北緯35度4分13.62秒 東経135度50分27.33秒 |
山号 | 比叡山 |
宗派 | 天台宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 薬師如来 |
創建年 | 延暦7年(788年) |
開山 | 最澄(伝教大師) |
正式名 | 比叡山延暦寺 |
別称 | 比叡山、叡山 |
札所等 |
新西国三十三箇所第18番(横川中堂) 西国薬師四十九霊場第49番 近畿三十六不動尊霊場第26番(無動寺) びわ湖百八霊場第108番(横川中堂) 法然上人二十五霊場特別霊場(青龍寺) 西山国師遺跡霊場客番(文殊楼) 真盛上人二十五霊場第2番(青龍寺)・第3番(浄土院) 播州薬師霊場特別札所 東海四十九薬師霊場特別札所 神仏霊場巡拝の道第150番(滋賀第18番) |
文化財 |
根本中堂、金銅経箱ほか(国宝) 根本中堂廻廊、絹本著色天台大師像ほか(重要文化財) 世界遺産 |
公式サイト | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 |
法人番号 | 2160005000614 |
平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。横川中堂は新西国三十三箇所第18番札所で本尊は聖観音である。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、(1,200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。
比叡山、または叡山(えいざん)とも呼ばれる。このほか、興福寺を指す南都に対して北嶺(ほくれい)、園城寺を指す寺門に対して山門の異称もある。[1]
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺と並んで平安仏教の中心寺院であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である[2]。「日本仏教の礎」(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を東塔北谷に建てたのが始まりである[3]。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった[4]。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている[5]。和歌などに「我が立つ杣」や「都の不二」と詠まれてきた[6]比叡山は文学作品にも数多く登場する[7]。1994年(平成6年)に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
また、「十二年籠山行」「千日回峰行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が弘仁8年(817年)に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある[8]。
比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。
最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(現・滋賀県大津市坂本にある生源寺)に生まれた(生年は天平神護3年(767年)説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。
20歳の延暦4年(785年)4月6日、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、隋の天台大師智顗の著述になる『法華三大部』(『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』)を研究した。だが、青年最澄は思うところあって奈良の大寺院での安定した地位を求めず、同年7月中旬に郷里に近い比叡山(日枝山)に籠り、修行と経典研究に明け暮れた[9]。
延暦7年(788年)、最澄は大和国三輪山より大物主神の分霊を比叡山に勧請して「大比叡」とし、従来の地主神大山咋神を「小比叡」としたという。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことであった。そして、比叡山麓の坂本にある日吉社を鎮守社としている。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ、延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた[9]。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持つこととなった。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち奈良の旧仏教から完全に独立し、延暦寺において独自に僧を養成することができるということである。
最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、全ての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家に認められたものであり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野国・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
だが最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた[10]。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた[10]。
大乗戒壇の設立は、弘仁13年(822年)、最澄の死後7日目にしてようやく許可された。このことが重要なきっかけとなって、後に延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる[10]。弘仁14年(823年)、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった[9]。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして北嶺と呼ばれるようになった[9]。なお、最澄の死後、義真が最初の天台座主になった[11]。
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794年 - 864年)と円珍(智証大師、814年 - 891年)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった[11]。
なお、比叡山の僧は後に円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円仁派はかつて円珍が住し、円珍派の根拠地となっていた千手院(山王院)などの堂舎を打ち壊すと、円珍派の僧約千人を追放処分にした。すると、円珍派の僧達は山を下りて延暦寺の別院であった園城寺(三井寺)に入り、延暦寺から独立した。以後、延暦寺の円仁派は山門(山門派)と呼ばれ、園城寺の円珍派は寺門(寺門派)と呼ばれ、対立・抗争を繰り返した。こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきたのである。
延暦寺による園城寺への攻撃、焼き討ちはすさまじく、中世末期までに園城寺は全焼7回を含む大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
平安時代から鎌倉時代にかけて延暦寺から多くの名僧が出ている。円仁、円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建、寺内の規律維持、学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。その一方で、当時の比叡山からすれば法然の専修念仏思想などは「異端」であったため、念仏停止を要求するなどの対抗措置・圧力をかけたり、武力衝突(嘉禄の法難)も起きている。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力をもってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが鎮守社の日吉社にある神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じ、強訴という手段で時の権力者に対し自らの主張を通していた。
また、祇園感神院(現・八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺の末寺とされた。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。延久2年(1070年)には祇園感神院は鴨川西岸の広大な地域を「境内」として認められ、朝廷から「不入権」を認められた[12]。
このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによって財力も保有し、時の権力者をも無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は興福寺と並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。
延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力を付けた武家政権をも脅かした。従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が鎌倉幕府創業の功臣・佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(建久二年の強訴)。
建武3年(1336年)には足利尊氏と戦うために後醍醐天皇が延暦寺に立て籠もっている。その際、延暦寺は天皇方に味方している。
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府第六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山の長であったが、還俗し、将軍就任後は比叡山と対立した。
永享7年(1435年)、度重なる比叡山制圧の機会にことごとく和議を諸大名から薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出して斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立て籠って義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢は変わらず、絶望した僧侶たちは2月に根本中堂に火を放って焼身自殺した(永享の山門騒乱)。当時の有力者の日記には「山門惣持院炎上」(満済准后日記)などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したと思われる。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工させた。
嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝の日野氏などが京都の御所から三種の神器のうちの剣璽の二つを奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て籠り、朝廷から追討令が出たことにより幕府軍や僧兵により討たれる事件が起きている。
宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残っていた本尊の一部から新しく本尊を彫り直し、根本中堂に安置している。
なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が嘉吉の乱で殺害されると延暦寺は再び武装化し、数千人の僧兵軍団を強大化させ、以前のように独立国状態に戻った。
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と、それに呼応しようとした延暦寺を攻めて焼き討ちを行った。これによって根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍が焼かれた。
その後、復興した延暦寺であるが、戦国時代末期に織田信長が京都周辺を制圧し、浅井長政・朝倉義景らと対立すると延暦寺は浅井・朝倉連合軍を比叡山に匿うなど信長に敵対する行動をとった。元亀2年(1571年)、信長は自らに敵対する延暦寺とその僧兵4千人に対し、自らの味方になるか、それが嫌なら織田方、浅井・朝倉方どちらにも付かず中立の立場をとるように再三通達を行ったが、延暦寺は断固拒否した。それを受け、信長は自らに味方する園城寺に本陣を置いて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちを行った。これにより延暦寺や日吉社の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたともいわれている)。一方で発掘調査の結果、この時の焼き討ちは山上では根本中堂と大講堂くらいしか焼かれていないのではとの説もある。
この時の戦いの様子は比叡山焼き討ちも参照。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が自害すると、早速青蓮院尊朝法親王が延暦寺の再興を朝廷や諸大名、民衆に働きかけて勧進活動を始めている。また、日吉社も生源寺行丸によって再興への動きが始められた。
天正12年(1584年)5月1日に羽柴秀吉が山門復興の許可を出すと、正覚院豪盛、施薬院全宗、観音寺詮舜、恵心院亮信ら天台僧によって再建事業が行われた。さらに、正親町天皇からも諸大名に対して延暦寺復興の勧進を募る綸旨が出されている。
東塔の根本中堂は仮堂ではあるが、天正13年(1585年)から再建が始められて天正17年(1589年)10月に完成した。そして、出羽国(現・山形県)の立石寺から灯明を移し、「不滅の法灯」も復活させている。横川の横川中堂は天正年間(1573年 - 1593年)に恵心院亮信によって再建され、慶長9年(1604年)に淀殿によって改築された。西塔の釈迦堂(転法輪堂)は、文禄4年(1595年)11月に園城寺が秀吉の怒りを買って闕所処分にされると、秀吉は園城寺の金堂(弥勒堂)を延暦寺に寄進することとし、移築されたものである。
また、秀吉によって延暦寺は1573石の寺領が寄進されている。後に徳川家康によって3427石が寄進され、延暦寺の寺領は合わせて5000石となっている。こうして延暦寺は江戸時代に入ってからは天海の働きによって再興が続けられ、各僧坊の再建も行われた。
しかし、寛永2年(1625年)に天海により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は寛永寺に移された。その一方で、寛永19年(1642年)には徳川家光によって本格的な根本中堂の再建がなされている。
延宝9年(1681年)、神仏習合や山王神道(山王一実神道)を改めようとする動きが日吉社から出て延暦寺と争いになるが、貞享元年(1684年)に日吉社は論争に敗れた。翌貞享2年(1685年)に延暦寺は日吉社に山王神道を守るようにと厳命し、日吉社に受諾させている。
1868年(明治元年)に神仏分離令が出されると、延暦寺の鎮守社であった日吉社は独立して日吉大社と名称を改めたばかりでなく、境内にあった仏像や仏具を全て処分して仏教色を排した。この日吉大社の過激な動きは廃仏毀釈が全国の寺社に波及していくきっかけとなった。
こうして延暦寺の威勢は衰えたかに見えたが、慶応4年(1868年)に江戸で行われた上野戦争によって寛永寺が大打撃を受けたこともあり、延暦寺が天台宗の宗務を行うこととなり、再び天台宗の総本山としての威厳を取り戻している。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により本坊、文殊楼、無動寺、大剰寺、山麓の宿院などが倒壊する被害を受ける。山内の老樹も多数倒木となった[13]。
1956年(昭和31年)10月11日午前3時30分に重要文化財だった大講堂から出火、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、これら2棟とその他の堂舎が全焼。阿弥陀如来像など仏像21体も焼失した。原因は山上事務所受付係の男による放火[14]。
1975年(昭和50年)5月26日、第26回全国植樹祭のために来県した天皇、皇后が行幸啓[15]。
1987年(昭和62年)8月3日、8月4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。
1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されている。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される[16]。
延暦寺が運営する霊園に隣接した残土処分場に、2004年以降に京都市内の建設会社の西日本開発が建設残土を大量に搬入するようになり、総量は大津市土砂条例で定められた9,900平方メートルをはるかに越えるようになった。大津市は2012年10月に当該の業者に中止命令を出すと共に、条例違反でこの業者を滋賀県警に告発したが、直後に処分地の所有者が変更され、不法投棄は継続された。土砂の崩落も相次ぐようになって負傷者も出るようになり、参拝者が危険に曝されるリスクが高まったことなどから、延暦寺と地域住民らが、滋賀県公害審査会に公害紛争処理法に基づく公害調停を申し立てることになった[17]。この不法投棄問題で滋賀県警は、法人としての西日本開発とその男性社長を大津市土砂条例違反容疑で書類送検した[18]。2014年7月7日に、大津市が行政代執行などで土砂崩落防止工事を実施することや、周辺の河川や水路の水質検査を2017年度まで実施することなどで調停が成立した[19]。
2006年4月21日、延暦寺にて指定暴力団山口組の歴代組長の法要を実施した。この件については事前に滋賀県警察から「組織の権力誇示と香典名目の資金集めに利用される」として法要の中止要請がなされていたが、延暦寺側は「これは単なる宗教の行事」として要請を拒絶し、その後、延暦寺内阿弥陀堂において法要式典の中では最高級とされる「特別永代回向」に最高幹部ら100名近い組員が参加し執り行われた。
同寺を含め全国にある約75,000の寺が所属する財団法人全日本仏教会は、約30年前の1976年、全日本仏教徒会議において「暴力団排除」の決議を行っており、また2006年3月13日には全日本仏教会理事長である安原晃が「組織暴力団の義理かけ法要への協力を止めよう」との声明を発表した直後であった。法要後、全日本仏教会は、これらの決議及び声明を無視した延暦寺側に対して遺憾の意を表明した。
後日法要が終わったのち、この式典について延暦寺法務部は報道陣に対し「次からは暴力団の法要は拒否したい」とのコメントを述べた。その後、同寺は5月18日に大津市内で「一山協議会」を開き、代表役員の執行と、6人の執行局役員全員が責任を取って総辞職した。その中で同寺は寺院関係者及び全日本仏教会への謝罪を表明しており、ホームページにおわびを掲載、宗内の約3000寺に「おわび状」を郵送している。
その後同寺は、歴代組長の家族ら少人数での位牌参拝を認めていたが、各自治体で暴力団排除条例が相次いで制定されるなど、暴力団排除への社会的気運が高まってきたことなどから、2011年に同寺は山口組に対し、参拝を止めるよう伝達し、山口組もこれを了承した[20]。
2016年4月、「延暦寺会館」副館長の男性僧侶が20代の修行僧ら3人に暴力をふるい、うち一人に左耳の鼓膜を破るなどの重傷を負わせた。男性僧侶は動機について「修行僧の態度にカッとなって頭に血が上り、殴ってしまった」としている。延暦寺は男性僧侶を厳重注意し、刑事告発しない方針。「厳粛に受け止め、伝統の名誉と信頼の回復に努めます」とコメントを発表した[21][22]。
山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする
十二年籠山行では
7年間、1年に100日から200日、合計千日間、比叡山の山内を巡拝する回峰行。途中、堂入りという荒行を行い、これを満行した者は生身の不動明王、当行満阿闍梨と呼ばれる。千日間を満行した者は北嶺大行満大阿闍梨と呼ばれる[23]。第二次世界大戦以降で満行した者は、2017年現在、14人。
比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して「三塔」と言い、さらに細分して「三塔十六谷二別所」と呼称している。このほか、滋賀県側の山麓の坂本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる寺院群、比叡山とは関係の深い日吉大社などがある。境内には歴史的経緯から他宗派の管理する堂宇も存在する。
伝教大師最澄が開いた延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。
第2代天台座主・寂光大師円澄が開いた地であり、本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域である。東塔から北へ1キロほどの所にある。
第3代天台座主・慈覚大師円仁が開いた地であり、本堂にあたる横川中堂を中心とする区域である。西塔から北へ4キロほどの所にある。嘉祥3年(850年)に円仁が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。
平安時代、良源が弟子の尋禅のために、飯室谷に妙香房を建立したのが始まりである。寛和元年(985年)、良源没後に尋禅が妙香院と改称し、整備拡充を行った。
比叡山上に建てられている坊である山坊に対して、麓の坂本にある坊は里坊と呼ばれる。もともとは山上に住んでいた老僧が隠棲するために建てられたものであるが、中世には主に僧兵集団の住坊となっていた。
現在、坂本には里坊が54か所ある。※印の付いた寺院の庭園は、国の名勝に指定されている。
長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が弘仁8年(817年)に設けた広済院があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」である[8]。 1958年(昭和33年)に建立された最澄の「遺跡顕彰碑」があり、最澄の遺徳をしのぶ法要が毎年営まれる[8]。
(建造物)
(絵画)
(彫刻)
(工芸品)
(書跡典籍、古文書、歴史資料)
(一山寺院所有分)
上記のほか、以下の重要文化財についても、延暦寺が「管理団体」に指定されており、比叡山国宝殿に保管されている[38]。
その他の子院所有の重要文化財。
典拠:2000年までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。2000年以降の指定物件については、個別に脚注を付した。
1942年7月30日、落雷による火災で以下の建造物1件、工芸品1件が焼失した[39]。
1956年10月11日、上司に叱られたのを恨んだ延暦寺受付係の18歳の少年による放火により以下の建造物2件、彫刻5件(いずれも当時重要文化財)が焼失した。[40]
東塔区域の最寄りのバス停は、延暦寺バスセンターである。以下の路線が乗り入れ、江若交通・京都バス・京阪バスの各事業者によって運行されている。なお、叡山ロープウェイ比叡山頂駅を利用する場合は延暦寺バスセンター・比叡山頂停留所間はバスで約5分を要する。
延暦寺バスセンター停留所
西塔区域の最寄りのバス停は、西塔バス停である。このバス停には江若交通の路線が発着する。
西塔バス停
横川区域の最寄りのバス停は、横川バス停である。このバス停には江若交通の路線が発着する。
横川バス停
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.