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渡哲也

日本の俳優、歌手 (1941-2020) ウィキペディアから

渡哲也
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渡 哲也(わたり てつや、1941年昭和16年〉12月28日 - 2020年令和2年〉8月10日[2][3])は、日本俳優演歌歌手タレント実業家。本名、渡瀬 道彦[1](わたせ みちひこ)。

概要 わたり てつや 渡 哲也, 本名 ...

島根県生まれ、兵庫県淡路島出身[1]株式会社石原プロモーション第2代代表取締役社長、相談取締役。実弟は俳優の渡瀬恒彦

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来歴

要約
視点
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国際情報社『映画情報』第30巻第5号(1965年)より
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愛と死の記録』(1966年)
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『白鳥』(1966年)
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続東京流れ者 海は真っ赤な恋の色』(1966年)

島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ[4][5]。父親は日立に勤務[6]して広島県呉市の軍需工場などを転々とし、日立の安来工場に勤務していた時に当地出身の渡の母と結婚していた[4][5]。戦時中の1943年[6]、父親は任地の日立呉工場を退職し[6]、実家がある兵庫県津名郡淡路町(現:淡路市)に戻り洋品店を開業、小学校一年生途中から淡路島で育った[4]。出身を淡路島にしているのは、日活に入ったとき石原が神戸市生まれなので、淡路島の方がイメージ的にいい、という判断で決めたからだという[4][5]。終戦後の物資不足で長男と四男は亡くなった[6]。淡路町立石屋小学校、三田学園中学校・高等学校(6年間の寮生活)[7]青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部で、1966年に全日本大学空手道選手権大会で優勝も果たした[8]

大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた[9]。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募した[9]。小さい頃から機械いじりが好きだったので就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験 (国語・数学・物理・化学) が全科目英文で不合格となり、「せめて日本語の問題だったら…ブラブラしてて日活撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、出向いていた日活撮影所の食堂で偶然スカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社した[10][9]

既に斜陽期に差し掛かっていた日活では高橋英樹に続くスター候補として、 “映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也!!” として大々的に売り出された[11]。記者会見の場で瓦割りを披露し、翌日のスポーツ紙やニュース映像でも大きく取り上げられた[11]

1965年(昭和40年)3月『あばれ騎士道』で宍戸錠とのW主演でデビューし、この作品で、エランドール賞新人賞を受賞し、2作目の『青春の裁き』で単独主演[9]、オープニングクレジット映像では空手の型・約束組手を披露し、本編での複数相手の乱闘シーンでは飛び蹴りや二段蹴りを連発し正拳突きで止めを刺すなど空手部キャプテンの実績を生かした作品になっているが、殺陣師から「そんなに腰が低いとスクリーンでの見栄えが悪い」として腰高に直され不本意な空手になってしまった、と」と述懐していた[11]。また「裕次郎2世」と言われたことから、リメイク版の『嵐を呼ぶ男』に主演するなど、日活は裕次郎と同様な路線での売り込みをしていた[12]。同期で活躍しているのは太田雅子(後の梶芽衣子)。

1965年、『泣かせるぜ』で石原裕次郎と初共演[13]。続いて『赤い谷間の決斗』でも共演した[14]。裕次郎は当時の渡の中に亡くなった赤木圭一郎を見ていたという[15]

1966年には監督鈴木清順 脚本川内康範東京流れ者』に主演し、主題歌「東京流れ者」を歌いヒットさせた[9]

吉永小百合との初共演映画の『愛と死の記録』で第17回ブルーリボン賞新人賞を獲得。

1968年(昭和43年)舛田利雄監督による『無頼より・大幹部』から始まる『無頼』シリーズ6作品は渡の日活時代の代表作となった。同年には『紅の流れ星』に出演、この作品でも新たな魅力を見せるなど[12]日活のスターとなった。しかし映画界は斜陽の時代で、日活も苦戦したが、渡は小林旭等他のスターとは異なる存在感を示し、『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』、『関東流れ者』など最後まで、日活ニュー・アクションと呼ばれた映画で輝きを放った[9]。1971年、日活のロマンポルノ路線への転換にともない、1971年(昭和46年)7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社した[16]

1971年からは『さらば掟』、『追いつめる』、『剣と花』など松竹製作映画に連続して主演した。東映など映画会社数社から渡の引き合いがあったものの、『さらば掟』の撮影時、石原プロから出向いていたスタッフの仕事ぶりに感銘を受けたことや石原への尊敬の念などから[17]、渡は1971年(昭和46年)、借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社[18][16][19][20]。また『ゴキブリ刑事』などの東宝作品、リメイクされた『野良犬』などの松竹作品にも出演した。また連続テレビドラマにも出演する中、1972年(昭和47年)、テレビ時代劇『忍法かげろう斬り』収録中に肋膜炎を発症し入院。第20話で降板となり、第21話から最終話(第26話)まで渡瀬恒彦が代役を務めた。

1974年(昭和49年)大河ドラマ勝海舟』の主演に抜擢されるが、収録中に高熱が続き入院。第9話で途中降板となる[14]。風邪をこじらせた後、急性肝機能不全症を併発して国立熱海病院(現在の国際医療福祉大学熱海病院)に入院、入院は9か月に及んだ(その後、膠原病であったことが判明)[21][22][23]。なお代役には松方弘樹が抜擢された[14][22][24]。一方で前年1973年8月にリリースした「くちなしの花」が年明けからヒットチャートを上昇し、1974年の年間シングルチャートで7位を記録[25][21]オリコンセールス:77.4万枚[26]、累計150万枚を売り上げ[27]全日本有線放送大賞金賞も獲得し渡の代表曲となった。渡の体調も秋には回復し、年末の第25回NHK紅白歌合戦に初出場し、テレビで初めて生歌唱した[21]

1974年(昭和49年)、再び映画各社の間で激しい争奪戦が起こり[19][25][28]、特に弟・恒彦をスカウトした[29]岡田茂東映社長(当時)が[25]高倉健の次の東映の看板スターにしたい」と熱心に誘い[14][16][25][28][30]、渡自身も「アクション映画をやりたい、自分のキャラクターを活かしてくれるのは東映を置いて他にない」と強く東映入りを希望したとされたため[25][28]、1975年(昭和50年)に渡は東映入りと報道もされた[28]。当時の東映は実録ヤクザ路線の台頭から、俊藤浩滋が高倉らを伴い独立しようとしたお家騒動があり[25][28][31][32][33]、岡田は渡を高倉の後釜に据えようと画策していた[14][16]。もともと1973年の『仁義なき戦い』で菅原文太をスターダムに押し上げた広能昌三役も最初にキャスティングされたのは渡であったが[20][34][35]、この時期、渡は体調が優れず実現に至らなかった[4][31][34]。1974年暮れ、『脱獄広島殺人囚』「新仁義なき戦いシリーズ」とも渡は出演要請を受けたが[28][36][37][38]、体調がまだ万全ではなく断った[25][28]。岡田からの東映移籍の誘いは「私は石原裕次郎に恩義があります。石原裕次郎を裏切ることはできません」とキッパリ断った[14][16][19][30][39]。但し、東映の映画出演については了承したため[16][28]、1975年2月、東映実録ヤクザ路線極北といわれる『仁義の墓場[40]でようやく東映初出演、初主演した[14]。東映映画の出演は、岡田社長が『勝海舟』の代役をスムーズに進めてくれた返礼の意味もあった[41]。同作公開後、岡田社長は「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の"渡路線"を確立することだ」とぶち上げ[39][41]、この年4月の『大脱獄』で菅原文太と[42][43]、5月の『県警対組織暴力』で梅宮辰夫と競演させ[44]、6月の『スーパー・アクション/強奪』(『資金源強奪』として映画化)と8月の『日本暴力列島・北九州電撃戦』(映画化されず)で主演させ、"東映スター渡"をイメージ付けようとしたが[41]、『仁義の墓場』撮影後、再び病に倒れた[42][45][46]。先の『大脱獄』は、最初は高倉健、渡哲也、五木ひろしの三大共演を予定していたが[31][47]、五木がギャラ問題で降り、代わりに抜擢されたのが菅原文太で[31][47][48]、高倉、渡、菅原という三大共演の可能性もあり、実際に3人の名前の書かれたポスターも製作された[49]。しかし渡が前年に続き長期入院したため三大共演はおろか、渡と高倉、渡と菅原[注釈 1]の共演も永遠に実現することはなかった[39][43][47]。この1975年は、東宝系の芸苑社製作で今井正監督の水上勉原作『その橋まで』の映画化の主演も受けていたがこれも流れた[39][50]。入院は延べ2年半に及んだ[4]が、病み上がりで撮影中に体調が急激に悪化した『仁義の墓場』は[51]点滴を打ちながら演じる渡の負のエネルギーが、石川力夫の怨念が乗り移ったかのような迫力を持ち、評価が高い[35][45]キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では、日本映画歴代38位に選出されている。1976年(昭和51年)『やくざの墓場 くちなしの花』の主演で第19回ブルーリボン賞主演男優賞を獲得。渡はこの後、石原プロのテレビドラマに専念するため、映画出演から一時的に撤退した。しかし、岡田茂との付き合いはその後も続き[52]、1996年に岡田から「もう映画を演ってもいいんじゃないか」と促され[53]、『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』の宮沢賢治の父・政次郎役で20年ぶりに映画界に本格復帰した[53][54]。本作でこの年の各映画賞助演男優賞を独占している。

石原プロは会社再建と経営安定のため、テレビドラマへ本格進出[19][55]。渡にとって復帰第1作及び主演ドラマ『大都会 闘いの日々』は『大都会 PARTII』『大都会 PARTIII』とシリーズ化、続いて主演した『西部警察』もシリーズ化され、5年間放映された。これら刑事ドラマでの「角刈りにサングラス」というスタイルは渡のトレードマークとなった。

渡は石原プロ再建に貢献し、石原の下で副社長も兼務していた。1986年、病気療養のため降板を余儀なくされた石原裕次郎の代役として『太陽にほえろ!』に出演し、同番組の最終回まで出演して最終回では復帰した石原裕次郎と共演し、これが二人の最後の共演となった[56]

1987年(昭和62年)7月17日午後4時26分に石原裕次郎が肝細胞癌のため52歳で死去。10月、渡が石原プロの二代目社長に就任した。

1989年(平成元年)3月、渡が社長となって初の石原プロ制作作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の第5話を撮影中、渡扮する倉本班長がヘリから降りて全力疾走するシーンで、ヘリから着地した際、全治1か月半の「腓腹筋断裂」の怪我を負った。

1991年(平成3年)に自ら直腸癌であると発表。柏木純一の著書『渡哲也 俺』に壮絶な闘病記が記されている。これにより、オストメイト人工肛門使用者)であることを明らかにしている。

1996年(平成8年)に大河ドラマ秀吉』に出演。劇中では、主人公の秀吉(演・竹中直人)の主君である織田信長を演じ、退場回に放送された本能寺の変でのシーンは大きな反響を呼んだ。大河ドラマへの出演は、1974年(昭和49年)に病のため途中降板した『勝海舟』で主演をした時以来である。その後は2005年(平成17年)放送の『義経』に出演。劇中では、主人公の源義経(演・滝沢秀明)の物語上における父のような存在である平清盛を演じた。

2003年(平成15年)8月、テレビ朝日系『西部警察2003』のロケーションで、石原プロ所属俳優の自動車運転ミスにより、見物客5人が重軽傷を負う事故が発生。名古屋市内で会見した渡は、予定していた連続ドラマの制作、放送中止を明らかにした[57]。その後、第1弾として制作されたスペシャル版については紆余曲折を経て『西部警察 SPECIAL』のタイトルで、翌年2004年10月31日に放送された。

2005年(平成17年)に紫綬褒章を受章した。

2011年(平成23年)5月11日2009年(平成21年)の石原裕次郎23回忌を終えたことの区切りや、自らの健康上のこと、社長在籍期間が裕次郎の社長在籍期間と同じ24年目を迎え「それを越えるわけにはいかない」などの理由から、3月28日付をもって石原プロモーション社長を退任したことを発表した[58]。12月23日放送のTBSの年末スペシャルドラマ『帰郷』では、弟の恒彦と約40年ぶりの共演を果たした。1971年(昭和46年)4月から1972年(昭和47年)3月に放送のNHKの連続ドラマ『あまくちからくち』以来のことで、その時と同じく兄弟役で共演した[59][60]。その後恒彦とは、十津川警部シリーズ50「消えたタンカー」で再び共演、渡は犯人役で出演した。

2015年(平成27年)6月10日急性心筋梗塞で緊急入院、手術を受けていたことが、7月17日に明らかになる[61]。約1か月で退院。11月10日宝酒造「松竹梅」のCM撮影で仕事復帰(前年8月の同CM発表会見以来、1年3か月ぶり)[62]

2017年(平成29年)3月14日午後11時18分、弟・恒彦が胆嚢癌による多臓器不全のため72歳で死去[63]4月1日、石原プロモーションの経営陣に復帰[64]。「相談取締役」の肩書きで相談役取締役を兼任する。

2020年(令和2年)8月10日午後6時30分、肺炎のため死去[2][3]78歳没(享年80)。渡の遺志により直後の発表はされず、石原プロ関係者には8月12日に死去が知らされ、一般への公表は家族葬が終了した8月14日に行われた。お別れの会なども、渡の遺志により行われなかった[65]。最後の仕事は同年の6月下旬、同年過去に製作された宝酒造のCMに新たに声を録音する形で出演したものとなった[66][67]。映画での最後の作品は『男たちの大和/YAMATO』である。

戒名は「萬修院泰然自道居士」。墓所は目黒区碑文谷円融寺にある。

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人物

人柄

  • 日活デビュー当時、食堂で食事をしていた石原裕次郎に挨拶に行った際、本来なら食事中に挨拶をするのは失礼なことであるにもかかわらず、石原は他の俳優達とは違い怒りもせず、立ち上がって自ら進んで握手し、「石原裕次郎です。君が新人の渡君ですか、頑張って下さいね」と声を掛けてくれたため、渡はとても感銘を受けた[15]。その後、石原プロが財政難に陥ると、いろいろと世話になった石原の窮地を救うため、『さらば掟』の出演料全額にあたる[68]、当時180万円を持って石原の元へ赴き、「社員の皆さんのお茶代にでも使って下さい」と差し出した[15][注釈 2]
  • さらば掟』で監督を務め、渡や石原と旧知の仲である舛田利雄に石原プロへの加入を考えていることを話すと、舛田は渡に「石原裕次郎という存在が居る以上は、裕次郎が一番という扱いになるのは明らかで、やめたほうがいいのではないか」と言われたが、それでも構わないと石原プロ入りした[17]
  • 高倉健と会う機会があり、話をした際に、いつか共演したいと渡が言うと高倉は「いつか一緒に泥船に乗ろう」と返したという[69]
  • 渡が東映に来るようになり、深作欣二の映画に出演した際、擬斗を担当していた菅原俊夫と深作の意見が合わず、渡の意見を聞くことになったが、まだ駆け出しの菅原の気持ちを渡が尊重し、「菅原の案を採用したい」と気配りしたことに対し、菅原は呼吸ができなくなるほど感動し、渡の人柄に大きく心を引かれたと語った[70]
  • 日活でデビュー間もない頃、日活所属の大部屋俳優たちから生意気だと言われ、その日は黙ってリンチを受けたが、翌日には空手部の部員を引き連れて日活に乗り込むと、大部屋俳優たちに勝負をしようと言い放ち、大部屋俳優たちは恐れをなしたという[71]
  • ある時、撮影所の食堂に渡がやって来ると、食堂のテーブルや椅子が散乱していた。渡は少し前に来た萩原健一が何かに怒って食堂を荒らしたと知り、萩原をここへ連れて来いと激怒、渡のケンカ強さを知る萩原は、恐れをなしてそそくさと逃げ出したという[72]
  • 大都会シリーズ』で演じた黒岩の様な役について「こういったかっこいい役柄は嫌いである。もっと欲望にまみれたような人間、人間味がある役を演じたい。」と話していた[73]。また個人的には『大都会 闘いの日々』の脚本が気に入っているが、『大都会 PARTII』、『大都会 PARTIII』の方が視聴率が高いことにもどかしさを感じると話していた[73]
  • 大都会 PARTII』で共演した松田優作は渡を尊敬していて、渡と共演したいという理由で同番組への出演を決めた[74]。また松田は渡に「石原プロの経営の為に映画への出演を諦めてまでドラマに出るべきではない。」と言っていたという[75]。渡もそこまで自分のことを思ってくれる松田の言葉にとても感動したという[76]
  • 大都会 PARTIII』撮影時、共演していた宮本刑事役の苅谷俊介の夫人が入院していた。苅谷が金に困っているという話を聞いた渡は、撮影終了後に苅谷を呼び止め「お前怒るなよな。見舞いには花が相場なんだがあいにくないんでな。少ないけどこれ取っとけ」と言って金の入った封筒を渡した。苅谷は「帰っていく渡さんの後ろ姿を涙でまともに見られなかった」と語っている[77]
  • 西部警察』で共演した庄司永健によると、渡は他の誰よりも早くスタジオ入りし、いつもセットの掃除をしていたという [76]
  • 鈴木清順は渡の存在を月に例えていた[78]
  • 石原プロに所属していたものの、「俳優は一匹狼であるべき」という考えを持ち、気に入った仕事だけを自分で選びたいという信念を持っていた[79]。そのため、裕次郎の死去後は石原プロを離れる気持ちがあり、石原プロ社長の就任の要請があっても固辞してきた。しかし、小林正彦専務からの説得を受け、俳優としての考えを一旦封印し、社長に就任し長年会社と社員に対する責任を優先させてきた[80]

趣味・嗜好

  • 趣味は「焚火」、焚火を見ながら煙が何処へたどり着くのかなどを漠然と考えるのが好きであったという[81]。また渡の自宅を訪れた松田優作にも焚火に付き合わせていたという[75]
  • 甘党であり、ソフトクリーム好きで[82]、石原プロワールドでは「渡哲也のヘルシーソフトクリーム」なる商品が販売されていた。

その他

  • 太陽にほえろ!』では、石原裕次郎の代役としてボスのポジションを務めたが、日本テレビと東宝は718話で番組の放送を終わらせず、もう少し長い間、渡を出演させて『太陽にほえろ!』を継続させる構想を持っていた[83]
  • 1966年、映画『愛と死の記録』で共演して以来数作品で共演した吉永小百合とは、日活所属当時、結婚も考える仲であったが[84]、吉永の両親の反対により断念した[85][86]。1998年の映画『時雨の記』で約30年振りの共演を果たすと[87]、2000年の『長崎ぶらぶら節』でも共演、また、宝酒造「松竹梅」のCMでも共演、互いにもう一度映画で共演を望んでいたが叶わなかった[88]
  • プロテニスプレイヤーの錦織圭及びスリーピースバンドOmoinotakeのベースである福島智朗、TSKさんいん中央テレビのアナウンサー・福島睦[89]は遠縁の親戚である。渡の祖母と錦織の曽祖父が兄弟であり、渡と錦織の母親[90]及び福島兄弟の父親[91]はとこにあたる。この縁で渡は錦織の試合を観戦したことがある[92]
  • 石原裕次郎と誕生日が同じである。年齢は7歳差。
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モデル・オマージュ

  • 島崎譲著『THE STAR』第5巻で大門プロ副社長であり、大俳優の嶋哲也しま てつや、渡がモデル)が登場し、天下の大門プロが社運を賭けて巨費を投じて企画した新作刑事ドラマ『バイオレンス刑事(コップ)』で初監督をする。嶋の独断で初めて大門プロ以外の俳優として長瀬優也(主人公)を主役に抜擢し、どんなに危険な状況でもおもしろいものになれば撮影を続行し、仕事のためならなんでもする仕事の鬼だが、閉鎖的になっていく大門プロに一石を投じるために長瀬を起用し、人命さえもおびやかす危険なシーンをこんなにも美しい愛のシーンに変えてしまう長瀬の俳優としての力量に感謝している。
  • 新田たつお著『静かなるドン』の「静かなる慕情」の挿話で主人公の近藤静也(新鮮組)が敵対する日本最大の広域暴力団鬼州組若頭(No.2)として不渡哲也ふわたり てつや、渡がモデル)が登場し、六代目組長・海腐雄二からも力量を見込まれて、七代目襲名のための手柄として新鮮組に決戦を挑むも戦い慣れしていないことが災いして死亡する。
  • 宮崎克高岩ヨシヒロ著『松田優作物語』第4巻legend of you;36.「Illusion」では、映画監督:深作欣二のインタビューの中で深作が優作と撮る予定であった作品(口のきけないヤクザの話)について語られ、その内容を漫画で再現した挿話が描かれており、配役は口のきけないヤクザを松田優作、組長を渡が演じている[注釈 3]。劇中では組長の渡に従順に仕えるヤクザの優作が幼なじみで組長の情婦である女性との逢引きをマンションの外で待っていたところ、ベランダからヒットマンが侵入するのを目撃し、それを電話で渡に伝えようとするも伝えることができずにマンションに響く銃声を耳にして号泣する優作の姿が描かれている。
  • ゆでたまご原作の漫画・アニメ『キン肉マン』には、渡をモデルにした赤岩刑事(『大都会シリーズ』の黒岩刑事のパロディ)、または五分刈刑事が主にコメディパートに登場する。

出演

要約
視点

太字は主演

映画

さらに見る 公開年, 作品名 ...

テレビドラマ

舞台

歌番組

NHK紅白歌合戦出場歴

さらに見る 年度/放送回, 回 ...
注意点
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

その他

  • ふたりのビッグショー(1994年1月2日、NHK)
    新春企画 渡哲也・加藤登紀子「青春のスタンダード 石原裕次郎を歌う」

ドキュメンタリー

  • 感動ドキュメント 渡哲也 波瀾万丈の54年(1996年、TBS)

他多数

CM

  • 宝酒造 松竹梅、松竹梅「天」(2003年9月 - 2021年9月)
    もともと石原裕次郎が出演していたもの(1968年 - 1987年)を石原の没後に引き継いだ(1989年 - )。引継ぎ以前の一時期、渡は同業他社の大関のCMに出演していた。大関では大瀧詠一がCMソングを手がけたものもあり、松竹梅では渡自らがCMソングのフレーズ「喜びの酒…」を歌うこともあった。1995年には実弟・渡瀬とも『松竹梅』のCMで共演を果たした[95]。1998年から3年間は吉永小百合と共演。2003年9月以降は、主力商品が「松竹梅 天」に移行し[96]、しばらくは女優との共演は無かったが、2014年10月から前田敦子と共演するCMが放送された[97]。松竹梅「天」のCMソングの最後には渡の「天」の声が挿入されている。
    2020年版では、過去映像の合成による「石原裕次郎との初共演版」として作られた。裕次郎出演版と渡出演版の過去映像を合成し[98]、2020年に収録した渡の音声を加えている[99]。2021年9月以降の出演契約は更新せず、今回のCM撮影を以って渡は松竹梅のCM出演から勇退した。
  • 東芝 インバーターエアコン
  • カゴメ トマトジュース
  • 日本興亜損保 舘ひろし、神田正輝、深江卓次と共演
  • 日本コカ・コーラ ジョージア 木村拓哉SMAP)と共演
    • 登場篇(2006年6月 - )
    • ストリートミュージシャン編(2006年8月 - )
    • カミナリ篇(2006年10月 - )
    • ベンダー前篇(2006年11月 - )
    • オフィス篇(2006年11月 - )
    • 純金名刺・今年もよろしく篇(2007年1月 - )
    • 純金名刺・応募篇(2007年1月 - )
    • 呼び出し篇(2007年1月 - )
    • もう一本篇(2007年1月10日 - )
    • 純金名刺・締切迫る篇(2007年2月 - )
    • 湯気篇(2007年2月 - )
    • 桜篇(2007年3月21日 - )
    • 駅篇(2007年5月 - )佐藤めぐみと共演
    • 部下に心配される篇(2007年7月 - )木村祐一と共演
    • 上司にお詫び篇(2007年8月 - )山崎静代と共演
    • 女スパイ参上篇(2007年10月 - )ベイスー・ウーと共演
  • 第一三共
    • 企業 「どこの薬か」編(2008年3月 - )
    • リゲイン 「リジャパン 勇気のしるし」編(2012年4月 - )
  • 年末ジャンボ宝くじ(2013年11月・12月) - 木村拓哉壇蜜クリス松村との共演だが、人形での出演

ゲーム

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作品

要約
視点

シングル

さらに見る 発売日, 規格 ...

アルバム

  • 冬列島(ポリドール・レコード、MR-3092)
  • おもいで螢/みちづれ(ポリドール・レコード、MR-3181)
  • 酒は男の子守唄(1980年、ポリドール・レコード、28MX-1010)
  • 風の舞う港から(1986年、トーラス・レコード、28TR-2110)
  • ラストシーンは見たくない(1988年、トーラス・レコード、32TX-1088)
  • 渡哲也 スーパーベスト(2003年4月6日、Webkoo)[注釈 23]
  • GOLDEN☆BEST 渡哲也(2004年6月2日、ユニバーサルミュージック)
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受賞・受章

演じた俳優

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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