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ミスタートウジン
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ミスタートウジンは日本の競走馬。主に中央競馬のダート戦線で出走し、オープン特別競走で5勝を挙げる。中央競馬の最高齢出走記録となる15歳[注 1]まで現役を続け、通算100戦を目前にしながら故障のため引退。通算成績は99戦11勝。競走馬引退後は種牡馬となった。現役時は「ダートの長老[1]」「中高年の星」と呼ばれた[2]。
半兄にミスターシクレノン(鳴尾記念、ダイヤモンドステークス勝ち)がいる。
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経歴
要約
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生い立ち
1986年、北海道門別町の白井牧場に生まれる。父ジュニアスはイギリスのミドルパークステークスの優勝馬。母ナオユキは中央競馬のクイーンカップ、牝馬東京タイムズ杯でそれぞれ2着の実績を持つ。幼駒の頃より筋肉が発達した大柄な馬で、白井牧場々長の市川康範によれば「サラブレッドとも道産子とも違うし、ばん馬の子が一頭交じってるみたいだった」という[3]。
戦績
初出走となったのは1988年10月9日の新馬戦(7着)で、2戦目に初勝利を挙げた。4歳時は1勝を挙げたあとクラシック競走の皐月賞に出走するも13着に敗れ、その後はしばらく条件馬として過ごした。
5歳になり、初戦のダート競走・稲荷特別を勝利し、一戦をはさみ同じくダート競走のストークステークスにも勝利。この時点でダート戦は4戦4勝となり、このあたりからダート路線を主軸に活躍し始める。6歳になりオープンクラスに昇格し、1991年には武蔵野ステークス(当時はオープン特別競走)を勝つほか、天皇賞(秋)では兄のミスターシクレノンとともに兄弟出走を果たしている(シクレノン11着、トウジン14着)。翌1992年からしばらくは、秋冬に多く組まれるダート競走に万全を期すため、春夏は完全休養することが習慣となった[4]。この頃、特にダート競走では常に5着以内に入り賞金を得、8歳となった1993年の初頭にはガーネットステークスと平安ステークス(いずれも当時オープン特別競走)を連勝。特に1400メートルから1800メートルの距離に強さを見せた[5]。市川康範は、「百メートルランナーみたいな格好の筋肉は、素直に力のいる短距離のダートで生かされた」と述べている[5]。
9歳(1994年)になると5着以内を確保できないことが増え[6]、同年に出走した帝王賞では、これを最後としての引退も視野に入れられていたが、2着に入ったことから「まだやれる」と現役続行となった[4]。しかし以後の成績は振るわず、11歳となった頃には厩舎に「可哀想だ、動物虐待だ」といった非難の電話も寄せられていた[4]。一方で、毎年の放牧先であった白井牧場には、10歳を過ぎた頃から見学の問い合わせが増え、「トウジン様」宛の贈り物が届くようにもなっていた[7]。高齢まで現役を続けた理由について、調教師の福島信晴と馬主の藤立啓一は、それぞれ次のように述べている。
「(前略)競走馬として生まれたからには、走れる限り、競走に出るのが幸せなんや。この馬が、仮にGIかGIIでも取っていれば、種馬になる道も残されている。けど、その時点では種馬になるのは無理だった。もし、ぼくの手を離れたら、もっと切ない結果になるやろう」—福島信晴[4]
「馬が走りたがっているんやから、走らせたろやないか、という気持ちやね。オーナーのぼくが諦めて、ほな、乗馬クラブへ出そか、と決断したとする。何カ月かは置いてもらえるかもしれんけど、それから先は、わからん。ぼくとしては、この馬にもうひと踏ん張りしてもらって、箔をつけてやね、引退の花道を飾らせたかったんや」—藤立啓一[4]
1996年夏から1998年2月までは、脚部不安のため長期休養する[4]。復帰後初戦の銀嶺ステークスでは8着だったが、同期のサクラホクトオーの仔サクラスピードオーに先着している。4歳時の皐月賞ではサクラホクトオーにも先着しており、親子二代に先着を果たすという記録を残した。3戦目の交流重賞・黒船賞では最後方から追い込んで4着に入った。この競走前には京都競馬場の誘導馬への転身も考えられていたが、13歳という年齢から「物覚えが悪くなるので」と競走後に不採用が通知された[4]。次走・オアシスステークス7着の後に右前球節骨折を発症し休養[4]。翌1999年1月に復帰したが、4戦を消化したあと同じ箇所に再び剥離骨折を生じ、再度休養した[4]。
15歳になり、中央競馬の同一競走最多出走記録である8度目の出走[8]となった銀嶺ステークスで通算99戦を消化。陣営は100戦目にGI・フェブラリーステークスを走り引退するという青写真を描いていたが除外され[9]、次に黒船賞を選択するが補欠馬に回され出走できなかった[9]。そのあとも100戦目を迎えるべく調教されていたが、右前浅屈腱不全断裂の怪我を負い、100戦目を迎えることなく引退した。15歳での出走は、中央競馬では1956年に出走したアリサトの13歳を更新する最高齢記録[注 2][10]、重賞未勝利ながら獲得賞金額は4億円超にのぼった。
引退後
重賞勝ちもない成績であったが、馬主の藤立がミスタートウジンの子を強く望んだことや、福島がその子の受け入れを請け合ったこと、またマスメディアや競馬ファンから注目されたことで、引退後は種牡馬入りが叶った[11]。初年度には2頭の産駒を出しており、うち1頭が勝ちあがったことも話題となった。種牡馬生活を送った3年間で3頭の牝馬から都合6頭の産駒が生まれたが、競走馬として大成した馬は出なかった。
2002年10月1日、種牡馬を引退。その後は白井牧場に繋養されていたが、2007年5月に隣接する日高ケンタッキーファームに移った[12]。2009年には同ファームの閉鎖に伴い日高町富川の乗馬クラブに移動し、エモシオンとともに繋養されていたが、同年の誕生日前にはもといた白井牧場へ移動となり、当て馬をしながら余生を過ごしていた[13]。2013年12月17日、老衰により死亡[14]。
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競走成績
要約
視点
以下の内容は、netkeiba.comの情報[15]に基づく。
- 15位入線繰り上がり14着(1位入線メジロマックイーンが18位降着)
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エピソード
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競走馬時代のミスタートウジンは田中康三厩舎から福島信晴厩舎に移籍しているが、これは厩務員の西谷憲が移籍した際に、馬主の藤立啓一が「トウジンは西谷さんにしか任せられない」として一緒に移籍させたことによる。
血統表
ミスタートウジンの血統(ボールドルーラー系(ナスルーラ系) / Nearco5×4=9.38% Mumtaz Begum5×5=6.25%) | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ボールドルーラー系(ナスルーラ系) |
[§ 2] | ||
父 *ジュニアス Junius 1976 黒鹿毛 |
父の父 Raja Baba1968 鹿毛 |
Bold Ruler | Nasrullah | |
Miss Disco | ||||
Missy Baba | My Babu | |||
Uvira | ||||
父の母 Solid Thought1957 栗毛 |
Solidarity | Alibhai | ||
Jerrybuilt | ||||
Unforgettable | Burning Dream | |||
Cantadora | ||||
母 ナオユキ 1969 黒鹿毛 |
*ジルドレ Gilles de Retz 1953 鹿毛 |
Royal Charger | Nearco | |
Sun Princess | ||||
Ma Soeur Anne | Majano | |||
Grande Soeur | ||||
母の母 ツルミヒメ1956 黒鹿毛 |
シマタカ | *プリメロ | ||
第参マンナ | ||||
デイプレイク | *ダイオライト | |||
第四パシフイツク F-No.4-d | ||||
母系(F-No.) | プロポンチス系(FN:4-d) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Nearco4×5、Mumtaz Begum5×5 | [§ 4] | ||
出典 |
|
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主要参考文献
- 『優駿』2000年4月号(日本中央競馬会)
- 山本徹美「頑張るお父さんの星 - ミスタートウジンが駆け抜けた日々」
- 大塚美奈『馬と人、真実の物語』(アールズ出版、2002年) ISBN 978-4901226424
脚注
関連項目
外部リンク
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