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日本における死刑囚

日本の死刑囚 ウィキペディアから

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日本における死刑囚(にほんにおけるしけいしゅう)では、日本における死刑囚に関し記述する。

日本の法令(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律など)においては、死刑囚、すなわち日本の刑事裁判死刑判決確定した者を死刑確定者(しけいかくていしゃ)と呼称する。

日本の死刑囚の処遇

要約
視点

死刑執行が猶予される場合

闘病中や精神障害妊娠中など刑の執行を停止しなければならない場合や、非常上告の有無、再審請求中、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認されなければならないとされる。そのうち妊娠中を理由に死刑執行が猶予された者は現行法上存在しない。これは被告人が妊娠している場合には裁判手続きが停止になるためである[注 1]。なお1872年に処刑された夜嵐おきぬは、江戸時代の法であったが、出産まで執行が猶予されている。そのため、死刑判決確定から20年以上経過して執行されていない場合には、これらの条件のうちいくつかが該当しているといえる。また組織犯罪の死刑囚では共犯逃亡していたり公判が終了していないため、死刑執行が行われていない例がある(例として連合赤軍事件の死刑囚や三菱重工爆破事件の死刑囚など)。

また財田川事件(後に再審無罪)の元死刑囚のように故意もしくは過失で裁判記録の一部が破棄されたために上申書作成が不可能になり死刑執行が出来なかったケースや、樺太で戦中発生した樺太・西柵丹強盗殺人事件の死刑囚が同様に、ソ連軍の侵攻で裁判記録を運び出せず消滅したために、個別恩赦で無期懲役に減刑されたケース[1]がある。

死刑囚の扱い

死刑の判決を受けた者の刑は、死刑そのものであることから、死刑執行に至るまでの期間の身柄拘束は「刑の執行ではない」として、処刑までの間の身柄は、刑務所ではなく拘置所に置かれる。

マスコミでは、死刑確定者を「死刑囚」と呼んでいるが、既に執行された場合や、刑の執行によらず獄中で死亡した場合は「元死刑囚」と呼ぶ。再審によって無罪が確定した場合、新証拠等によって無罪の可能性が高くなり釈放された場合は、敬称に戻している。

戦後、恩赦による減刑は政令恩赦は15名、個別恩赦は11名いる。政令恩赦はサンフランシスコ平和条約締結を機に行われ、個別恩赦は諸般の事情を考慮して行われたが、1975年に福岡事件の殺人の実行者に対する事例を最後に行われていない。そのため、日本において現在では死刑囚がどんなに改悛したとしても恩赦減刑される道は事実上閉ざされている。そのほか、再審で無罪になった元死刑囚は5名いたが、袴田事件(2024年10月9日再審無罪確定)を除きいずれも1980年代の事例である。また死刑が執行されず獄死したものも少なくない。1946年から2007年3月までの死刑確定者は自殺・獄死・恩赦減刑を除くと728人であった。この時点までに死刑執行者は627人、この時点での未執行者は101人であった。なお戦後女性死刑囚2024年12月31日時点で17人(収監中6名、執行5人、獄死6人)である。

2024年12月末時点での、日本における死刑確定囚は106名(うち女性6名)であり[2]、確定後の拘置期間は2005年9月時点[3](この時点での確定者は68名)で、平均して8年3ヶ月である。

死刑囚の処遇

日本における死刑囚の処遇は、他の懲役刑のそれと大きく異なる。まず自らの死をもって罪を償うのが死刑であるため、国家の収入の一部となる刑務作業を科されず、「死」の直前まで原則として拘置所に収監されることになる。死刑囚の中には被害者への償いのために軽作業を行ったり、書籍の点字翻訳のボランティアをしていた[4]ものもいる。

また、例えば東京拘置所には特別に死刑囚房といった設備が無いため、死刑囚と同じフロアに刑事被告人が収監されている場合[5]があるという。実際に元外交官で文筆家の佐藤優は、東京拘置所に収監中、両隣に袴田事件袴田巌元死刑囚(現在釈放中)と連合赤軍事件坂口弘死刑囚がいたと証言[6]している。また、死刑囚の処遇には次のようなもの[5]があるという。主に自らの罪を悔い改めさせる事を目的としている。

  • 請願作業 - 本人が希望する場合、軽作業(内職等)を7時間程度行わせる事ができ、作業に見合った収入を受け取らせることもできる
  • 教誨 - 死刑囚に単独の宗教教誨を受けさせる
  • 礼拝用具等の使用 - 宗教的用具を所持使用させる
  • 教科指導 - 俳句書道などを学習させる
  • 情操教育物の使用 - 書道の道具などを所持使用させる
  • ビデオ視聴 - 映画等のビデオ鑑賞を独房内で行わせる

死刑囚の移送

死刑判決が確定した死刑囚を移送することは、刑事施設の側は保安上の理由等から回避したい事態と思われる。近年、死刑囚を移送する際の事故は、少なくとも報道されていない。(しかし、懲役20年の判決が確定した受刑者については、2013年に移送中に逃走を試みた事件があった[7]。)

死刑囚の移送は以下のような場合に行われる。

刑場のある刑事施設への移送

刑場のある刑事施設は、2021年現在、全国で7箇所(札幌刑務所〈収監先は隣接する札幌拘置支所〉、宮城刑務所〈収監先は隣接する仙台拘置支所〉、東京拘置所名古屋拘置所大阪拘置所広島拘置所福岡拘置所)あり、多くの死刑囚は未決のうちから、刑場のある上記の施設のいずれかに収容されて死刑判決が確定することになる。それは、地方裁判所で一審判決を受けた後も身柄の拘束が続く場合、原則的に高等裁判所がある場所の拘置所・拘置支所に移送されるためである(例:ファミレス2人射殺事件の元死刑囚。千葉から東京へ移送ののち、2013年4月26日に東京拘置所で死刑執行。)。

高等裁判所がある場所の拘置所・拘置支所は全国で8箇所あるが、高松矯正管区以外の拘置所には刑場がある。もちろん、一審段階から刑場のある拘置所・拘置支所に収容されている者は、死刑判決が確定しても原則として移動することはない(例:名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件の元死刑囚。名古屋から移動せず、2013年2月21日名古屋拘置所で死刑執行。)。

刑場のない刑事施設で死刑判決が確定するのは、主に以下の場合である。

また、1945年 - 1963年の間は、東京に刑場がなかったため、死刑執行のため、宮城刑務所に死刑囚を送っていた。これは「仙台送り」と呼ばれていた[14]

共犯死刑囚の分散

刑場のある施設であっても、1箇所に3人以上の共犯死刑囚が収容されている場合、1つの施設あたり2人以下になるよう分散が図られる。

例えば、警察庁広域重要指定118号事件の3死刑囚はもともと3人とも宮城刑務所仙台拘置支所に収容されていたが、うち1人は東京拘置所へ移送された(3人とも執行はされず病死)。

また、大牟田4人殺害事件の4死刑囚は、死刑確定時には4人とも福岡拘置所に収容されていたが、死刑囚のうち1人は広島拘置所、もう1人は大阪拘置所に移送されている。

オウム真理教事件の死刑囚13人は長年東京拘置所に全員が収容されていたが、全裁判が終結したことを受け2018年3月に分散された(その後、7月6日に元教団代表で全事件の首謀者の麻原彰晃(松本智津夫)以下7名、7月26日に残りの6名が執行)[15][16][17]。なお、この13人については、2012年の春に刑場のある7施設への分散の予定があったが、2011年末に逃亡共犯者が出頭したために移送が立ち消えになった旨の報道があった[18]

この他、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の3死刑囚、マニラ連続保険金殺人事件の3死刑囚(うち1人は最近病死)も分散されている。

一方で、東京拘置所に収容中の架空請求詐欺仲間割れ殺人事件の死刑囚3人は分散されていない。

なお、3人以上の共犯死刑囚を1箇所の拘置所に収容しない理由は、共犯関係にある死刑囚は同日に死刑執行されるのが原則だからである。同日に同じ刑場で3人以上の死刑を執行するのは困難とされる[19]が、1984年以降で1つの拘置所で同日に3人の死刑を執行した例もオウム真理教事件以外にも1例だけ存在する(1996年12月20日の死刑執行)。オウム真理教事件では2018年7月6日に3人、同年7月26日に3人が東京拘置所で執行された。

死刑囚の出廷

これは死刑囚本人が被告人として出廷する場合と、証人として出廷する場合がある。

前者としては、宇都宮監禁殺人事件の死刑囚が、収容されていた東京拘置所から水戸へ移送され、水戸地裁で判決を受けたのち、再び東京拘置所に移送された例がある[20]

後者としては、オウム真理教事件の逃亡犯3人の裁判員裁判に、2013年から2015年にかけて、井上嘉浩中川智正新実智光小池泰男広瀬健一の5名が出廷した例がある。この出廷に関しては、検察側は死刑囚の心情の安定の問題、死刑囚に危害が加えられる可能性など、移送に伴う混乱は必至であるとし、「裁判所に呼ぶのはリスクしかない」と反対した[21]。これは、死刑囚13名を全国7箇所の拘置所・拘置支所へ分散しようと計画していたこととは大きな矛盾であった。一方で、拘置所で行なった死刑囚の出廷の予行演習の情報は外部へ漏れ、テレビで放映された。実際の死刑囚の出廷は厳戒態勢のもと行われ、事なきを得た。

死刑囚の医療機関への受診

死刑囚が病気に罹患し、その刑事施設で対応出来なければ、医療施設の整った他の刑事施設や外部の医療機関に受診させるため移送することがある。場合によっては入院もあり、そこで死亡する場合もある。

医療刑務所で死亡した例としては、高知連続保険金殺人事件の女性死刑囚大阪医療刑務所)、平沢貞通元死刑囚(八王子医療刑務所)、マニラ保険金殺人事件の元死刑囚(八王子医療刑務所)[22]

外部の医療機関で死亡した例としては、高岡暴力団組長夫婦射殺事件の元死刑囚(名古屋の病院)、警察庁広域重要指定118号事件の元死刑囚(仙台市内の病院)。

外部の医療機関を受診させなかったために死刑囚で失明したとして民事訴訟となり、国側が死刑囚に対して和解金を支払った事例もある[23]

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日本における死刑囚の確定と執行の推移

要約
視点

江戸時代後期・幕末

日本全体及び江戸時代全体を通じた死刑執行数は不明であるが、江戸大阪町奉行並びに奈良奉行、その他の代官郡代における死刑執行数は、期間は限定されるが、以下の通りである[24]

さらに見る 年, 磔 ...
  • 上記の表では、15歳未満少年少女と女性は含まれていない。この期間中に15歳未満少年は死刑執行されておらず、
    罪1等を減じて遠島となって、親戚預かりとなった者が3人いる。計上されていない女性は10人死刑執行されている。
  • 上記の表では、死後磔刑により執行された者は含まれていない。この期間中に死体の状態で磔刑を執行された者8人、の上死体の状態で磔刑を執行された者1人いる。また、江戸での執行ではないが死体の状態で磔刑執行された有名人に大塩平八郎大塩平八郎の乱の首謀者)がいる。
  • 市中引き回しは、伝馬町牢屋敷で行われる獄門と死罪の場合は江戸中引廻刑場小塚原鈴ヶ森)で行われる磔と火罪の場合は五ヶ所引廻であり、当時の極刑は火刑や磔であったため、後者の方が罪が重いとされた。但し獄門の場合、牢屋敷にて斬首後、刑場にて3日2晩、晒し首にされた。
さらに見る 年, 磔 ...

大坂の火罪は江戸とは比較にならないほど少なく、天明5年から天保2年までの47年間は一件も執行されていない[25]

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明治時代

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  • 1868年(明治元年)における東京府内の死刑執行者は190人(磔3人、梟首95人、斬首:92人、全て男)[33]、京都府内の死刑執行者は17人(刎[身首処ヲ異ニス]:11人、梟首5人、死罪[袈裟斬り]:1人)、群馬県で9人(梟首:3人、斬首:6人)[35]。神奈川県内では、死刑執行はなかった[30]
  • 1869年(明治2年)〜1871年(明治4年)の執行数は、1876年(明治9年)10月13日に行われた元老院会議の改定律例249條1項改正ノ件(號外第16號意見書)第3議会における細川潤次郎の発言による[274]。但し、手塚豊によれば、廃藩置県が行われるまでが存在しており、藩独自の司法や行政を行っていたこと、版籍奉還後は明治新政府に許可を得るよう指示されたが、即座に実行されたわけでないため、藩が明治新政府に報告していない死刑が1871年(明治4年)以前に存在していることが指摘されている[45]。そのため、1871年(明治4年)以前の細川潤次郎の発言による執行数は、明治新政府として把握した数であるため、細川潤次郎が発言した該当年の執行数に「以上」と付加している。
  • 国事犯として1869年(明治2年)〜1878年(明治11年)の間に死刑執行された者が107人(梟首された江藤新平含めた15名、それ以外は斬首刑)いる。死刑執行理由は、士族反乱で反乱側についたこと(51人、未遂の思案橋事件含む)・明治政府関係者暗殺(27人、未遂の岩倉具視襲撃事件含む)・一揆を主導及び一揆で殺人を犯したもの(15名)・明治新政府転覆の疑い(12人)・会津藩復興陰謀を企てたこと(1人)・外国人殺害(1人)である。国事犯とは別に、1872年(明治5年)11月25日キリスト教信仰を理由により京都で秘密裏に獄内で死刑執行された市川栄之助(公式発表では獄死)や秩父事件加波山事件激化事件による11人の死刑執行や幸徳事件を含めた大逆事件により死刑執行された14人を含めた場合、133人となる。
    また、治安維持法による死刑執行者はいないが(ゾルゲ事件により死刑執行されたリヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実は、治安維持法より重い国防保安法により、死刑判決を受けている。)、特高警察拷問虐待により194人(小林多喜二も拷問により亡くなっている。)が死亡しており、この死因とは別に病死による獄死が1,503人いる[275][276]
    他にも1923年(大正12年)の9月1日に発生した関東大震災の混乱によって生じた「朝鮮人共産主義者井戸を入れた」というデマにより、自警団警察・旧日本軍により朝鮮人の虐殺事件が大量に生じている。朝鮮人以外にも、朝鮮人と誤解されて中国人が犠牲となった事件、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件や秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件[277]、香川出身からの薬の行商団15人の内9人が犠牲となった福田村事件など地方出身の日本内地人、発音のために朝鮮人と誤認され殺害された聴覚障害者の事件の事例がある。そして、社会主義無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件川合義虎ら社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きている。この震災の混乱により生じた犠牲者数は不明であり、少なくとも約578人が殺害されている(朝鮮人の殺害者数については、吉野作造の調査より2,613人、大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』より6,661人[但し、山田昭次によれば、内訳を再計算すると6,644人になると指摘している]となっている)[278]
  • 1872年(明治5年)の4月3日に鞠山騒動により自裁した4人と同年11月4日に自裁した加賀本多家旧臣12人、11月25日の京都でキリスト教信仰を理由により京都で秘密裏に獄内で死刑執行された市川栄之助(公式発表では獄死)は含まれていない。
  • 1876年(明治9年)、1878年(明治11年)~1878年(明治13年)については、昭和43年版犯罪白書の「II-7表 死刑執行人員(明治6〜昭和42年)」に記載の該当年の執行人員が、恩赦によって減刑された者が含まれているため、「太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年」の「第九十三巻 治罪・赦宥一」~「第九十四巻 治罪・赦宥三」[167][184][168]と「太政類典・第四編・明治十三年」の「第六十一巻・治罪・赦宥一・犯情酌量」[185]と「公文録・明治十四年」の「百九十三巻・明治十四年五月・司法省(三)」[191]により恩赦を受けたことを確認できた者を差し引いた人数である。
    なお、この期間に限定している理由は、以下である。
    • 1874年(明治7年)については、広島県史料の「国史稿本 刑罰(明治4‐10年)」に記載しているその年の執行人数が斬首9人と絞首1人であり[279]、日本政表(明治7年)の刑事裁判の20ページに記載の数値と一致しているが、この年に金丸京平(当時15歳)が放火の罪(罪状内容:病気の母にバイ(巻貝の一種)とバショウの根を具にしたお味噌汁を食べさせようとしたが、味噌については、購入するお金が無いため金井久佐衛門の家に行って貰い受けようとしたが、その家の妻に断られたため、そのことを恨んで1874年(明治7年)3月5日夜にその家を放火)で斬首刑が言い渡されたが、殺意を持って犯行に及んだわけではないことを理由に翌年1月19日に終身懲役へ減刑されている[280]が、広島県史料にその青年の名前が記載されていないため、恩赦による減刑を受けた者がその年に含まれていないと判断し、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている。
    • 1875年(明治8年)については、滋賀県史料の「滋賀県史(2編) 政治部 聴訴断獄(明治8・9年)」では強盗傷害により6人の男性が斬首されているが、この年に恩赦の減刑を受けた者2人の罪状が殺人(罪状内容:領民から金銭を掠め取るなど非道行為を行った駿河守最上五道家の家臣宮田忠左衛門を4人組で殺害。)であることと言い渡された刑罰が絞首刑と異なるため、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている。
    • 1876年(明治9年)については、強盗傷害で斬首刑が言い渡された奥海吉(罪状内容:仲間2人と組んで、1件の侵入窃盗と強盗2件を起こし、1874年(明治7年)10月6日)に起こした強盗事件で、家主に左膝に傷害を負わせる。)が、同年8月8日に起こった同獄者の首つり自死に対して人命救護を行ったため、翌年3月7日に終身懲役に減刑されているが、滋賀県史料の「滋賀県史(2編) 政治部 聴訴断獄(明治8・9年)」と第二司法省年報より、計上されているため、この年については昭和43年版犯罪白書に記載の数値から1名差し引いている[131][281][133]
    • 1877年(明治10年)については、第3司法省年報より恩赦を差し引いた数値であるため、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている[282]
    • 1878年(明治11年)については、長崎県史料の「刑罰条(明治9‐11年)」[283]より、斬首刑を言い渡された2人の内、1人(松尾多吉 罪状:田畑を売り渡した際、勝手に借金分を差し引かれた上で支払われたことに恨み、酒で酔った勢いに任せて、2度の放火未遂を経て、1877(明治10年)6月3日深夜に放火する[284])は恩赦により終身懲役へ減刑されているが、司法省第四刑事統計年報[285]より、長崎県裁判所本庁で男性2人に斬首刑の判決が下されたており、両者の数値より含まれた人数であった。しかし、長崎県裁判所佐賀支庁で斬首刑の判決が下された持永ノイ(罪状内容:1875年(明治8年)5月に自身の男児を死産する。その後、再び妊娠するも夫は漁に出ている時に不倫をする。更に、生活苦により出来た借金を返済するため、近所から預かった品物を返済のために勝手に売ったこと、自身の病気によってが欠損している外見を夫が良く思ってなかったことにより、翌年7月19日に妊娠している状態で離婚する。しかし、両親ともに死別しており頼れる親戚も無く、行く当てもなく住む場所も無い状態を嘆き、そのような状態にさせかつ自身の容姿を嫌う夫を恨み、同年7月28日に夫の家へ放火して、夫の家だけでなく隣家と牛小屋を焼失させる[286]。)が1878年(明治11年)7月26日に懲役終身に恩赦により減刑ささたが、第3司法省年報[287]と司法省第四刑事統計年報[288]と長崎県史料の「刑罰条(明治9‐11年)」[283]より含まれていないことが確認できたため、持永ノイを除いて「太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年」の「第九十三巻 治罪・赦宥一」[167]と「第九十五巻 治罪・赦宥三」[168]により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑4人と絞首刑3人の合計7人を差し引いている。
    • 1879年(明治12年)については、山口県史料の「政治之部 刑罰5(明治5‐17年)」[289]より3人の男性が斬首刑の判決が言い渡されていることになっているが、司法省第五刑事統計年報より、広島裁判所支庁より男性4人が斬首刑の判決が下されており[290]、残り1人は光永伊三郎(罪状:大上民三郎とその母親と同居人に8円余り[注 30][99]の窃盗の疑いを掛けられ、神籤祈祷で自身が犯人にされるものの、最終的に村の集会で犯人でないと判断された。それに対して、大上民三郎に5円[注 31][99]の賠償金を求め、最終的にその半額を支払いとなったが支払ってもらえず、殺害を決意をする。その後、警察に訴えて公で裁く方が良いと判断し殺意がいったん無くなったが、偶然に大上民三郎に会い、祈祷の際の質に入れた品物を受け戻すように厳しく責められ、再び殺害を決意。その後、1878年(明治11年)9月25日に大上民三郎に重傷を負わせ、民三郎の母親を殺害する。殺害後自死しようとしたが、止められ未遂に終わる[291]。)に対する恩赦による終身懲役への減刑によるものであった。但し、大分県に関しては、恩赦による減刑を受けた者が1人(荏隈伝七 罪状:不倫相手が離婚後に婚約することを約束をしていたが、幼いころからの親しい友人と結婚することを知り、結婚の邪魔をするため、1879年(明治12年)12月11日に学校から盗んだ石炭油で友人の家を放火[292])いたにもかかわらず大分県史料[293]と司法省第五刑事統計年報に差異が生じていないため、大分県の荏隈伝七を除いた「太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年」の「第九十三巻 治罪・赦宥一」[167]と「第九十四巻 治罪・赦宥二」[184]及び「太政類典・第四編・明治十三年」の「第六十一巻・治罪・赦宥一・犯情酌量」[185]により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑12人(内、女性が2人)と絞首刑2人の合計14人を差し引いている。なお、大分県に関しては、大分県史料[293]より1878年(明治11年)に2人の男性がそれぞれ梟首刑と斬首刑をそれぞれ1人に判決が下されているが、司法省第四刑事統計年報[294]では、熊本県裁判所支庁より梟首は2人に判決が下されていることになっている。
    • 1880年(明治13年)については、静岡県史料の「駿河国史 第3輯 材料 処刑書類(明治11‐14年)」[295]と司法省第六刑事統計年報[296]より、女性1人(半田ハツ 罪状:生計を助けるため、養育費5円を貰う形で棄てられていた乳児を育てたが、母乳があまり出せない状況で粥を与えたが日に日に弱っていき、養育費も尽き果ててしまい困り果て、乳児が泣き叫んでいることを理由に夫から「この子は死んでしまった方が良い。」という言葉をきっかけに乳児を圧死させる[297]。)斬首刑の判決が1880年(明治13年)6月4日に下されているが、情緒酌量の余地があるとして同年8月24日に恩赦により懲役終身に減刑されているため、昭和43年版犯罪白書の「II-7表 死刑執行人員(明治6〜昭和42年)」に記載の明治13年の執行人員から「太政類典・第四編・明治十三年」の「第六十一巻 治罪・赦宥一・犯情酌量」[185]と「公文録・明治十四年」の「百九十三巻・明治十四年五月・司法省(三)」[191]により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑11人(内、女性が1人)と絞首刑2人の合計13人を差し引いている。
    • 1881年(明治14年)については、「公文録・明治十四年」にある太政官と司法省との間で授受した文書の中で、この年に死刑判決を下された死刑囚の恩赦が旧刑法施行直前のためか無かったため、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている[298]
    •  1882年以降は、死刑の判決を下された人数と執行された人数で区別しているため、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている[299]
  • 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)と特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)の2種類ある。日清・日露戦争で旧陸軍の戦地裁判に関しては死刑執行された者はおらず(旧海軍は、日清戦争における執行者数は、1895年(明治28年)の常設軍法会議を除き不明であるが、日露戦争においては死刑執行された者はいない。)、両戦争とも内地で起きた犯罪により常設軍法会議によって死刑判決が下され、執行されている[235][236][237][265]。そして、日清戦争中に起きた旅順虐殺事件により軍法会議によって処された者はいない。
  • 日清・日露戦争における占領地での死刑執行は含まれていない。日清戦争では死刑執行された者は11人(1894年:2人、1895年:9人 全員男性)[239]であり、日露戦争では56人(軍政署:39人、民生署:17人)[266]であり、あくまでも裁判により死刑宣告された者に限る。

大正時代

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  • 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)と特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)の2種類ある。第1次世界大戦時に設置された青島守備軍臨時軍法会議において、1919年(大正8年)に強盗殺人により死刑執行された6人は含まれるが、シベリア出兵時の特設軍法会議(浦塩派遣軍軍法会議、北部沿海州派遣隊臨時軍法会議[後に、薩哈嗹州派遣軍臨時軍法会議と改称する。]、⻄伯利亜派遣第十三師団軍法会議、野戦第十一師団臨時軍法会議)により執行された者は不明である為、含まれていない。
  • 1923年(大正12年)の9月1日に発生した関東大震災の混乱によって生じた「朝鮮人共産主義者井戸を入れた」というデマにより、自警団警察・旧日本軍により朝鮮人の虐殺事件が大量に生じている。朝鮮人以外にも、朝鮮人と誤解されて中国人が犠牲となった事件、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件や秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件[277]、香川出身からの薬の行商団15人の内9人が犠牲となった福田村事件など地方出身の日本内地人、発音のために朝鮮人と誤認され殺害された聴覚障害者の事件の事例がある。そして、社会主義無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件川合義虎ら社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きている。この震災の混乱により生じた犠牲者数は不明であり、少なくとも約578人が殺害されているが、上表には含まれていない(朝鮮人の殺害者数については、吉野作造の調査より2,613人、大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』より6,661人[但し、山田昭次によれば、内訳を再計算すると6,644人になると指摘している]となっている)[278]

昭和時代前期

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  • 1925年に制定された治安維持法による死刑執行者はいないが(ゾルゲ事件により死刑執行されたリヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実は、治安維持法より重い国防保安法により、死刑判決を受けている。)、特高警察拷問虐待により194人(小林多喜二も拷問により亡くなっている。)が死亡しており、この死因とは別に病死による獄死が1,503人いる[275][276]
  • 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)と特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)の2種類ある。
  • 旧日本陸軍の1938〜1947年まで(特設軍法会議に関しては、1936年(昭和11年)以降)と1942〜1947年の旧日本海軍の軍法会議による死刑執行数は不明である。また、戦時中における軍法会議の中には、本来死刑にする罪でない逃亡兵士を故意に敵に投降逃亡したとみなし、銃殺刑に処された例が多くあると指摘されている[354]
  • 第2次世界大戦終戦から1951年6月11日までの間に連合国による軍事裁判によって死刑執行されたA級戦犯(7人)やBC級戦犯(約1,000名)は含まれていない。また、死刑執行者の中には、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮や台湾出身者の軍人軍属も含まれている[355]。処刑方法は、約3分の2が絞首刑、残りは銃殺刑であり、中国においては市中引き回しの上、死刑が執行されている。そして、BC級戦犯の軍事裁判において、捕虜虐待等の実態の誇張や反論の機会が与えられないまま、虚偽の一方的な証言のみによって、事実審理も行わず死刑判決が下った例が多くあると指摘されている[356]

昭和時代中後期・平成以降

  • 収容数は、年末の確定死刑囚の収容者数である。
さらに見る 現行刑事訴訟法施行以後 ...
さらに見る 年, 備考 ...

グラフ

1949年以降の死刑確定数、死刑執行数、死刑囚収容数を示す。情報源は本項の表による。

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日本の死刑囚の事例

生き返った死刑囚
1872年石鉄県(現・愛媛県)の久万山騒動に参加し、役所に放火した田中藤作(当時31歳)が絞首刑執行後に蘇生した事例があった。彼は「既に死刑が執行されており、再度執行する法的根拠がない」として、放免と原籍編入を指示された。原因は当時の処刑器具「絞柱」に構造欠陥があったため確実に絶命させられなかったためといわれている。ほかにも同時期に2人がおなじように蘇生したとされるが、こちらについての伝承は明らかではない。
執行されなかった死刑囚
1945年8月9日アメリカ軍が行った長崎市への原子爆弾投下では、爆心地近くに戦時中の規定で九州地区唯一の処刑場に指定されていた長崎刑務所浦上刑務支所があったため、死刑囚2名(4名とする書籍もある)も含む刑務所にいた全員が一瞬にして死亡した。
戦後在日米軍によって処刑された少年死刑囚
上坂冬子著『巣鴨プリズン13号鉄扉』によれば、ほかの戦争犯罪人と同じように、18歳の少年(数え年であるため、満年齢で16〜17歳である。)が死刑になった事実があるという。それによれば1945年12月19日に、北海道札幌市にあった進駐軍宿舎に盗みに入った少年がアメリカ兵を殺害したために、アメリカ軍軍事法廷で、わずか2日の審理で1946年1月23日に死刑が確定、5月17日に巣鴨拘置所絞首刑になった。
過去に長期収監されていた死刑囚
平沢貞通死刑囚は、1955年4月7日最高裁上告棄却で死刑確定後、歴代法務大臣が死刑執行命令書へ署名しなかったために執行されないまま、1987年5月10日に獄中で95歳で病死した。確定死刑囚の確定後収監期間32年0ヶ月(逮捕後通算38年9ヶ月)は当時の世界最長であり、ギネス世界記録にも世界記録として認定された。ただしこの記録はすでにマルヨ無線事件の死刑囚が死刑確定後収監期間49年4ヶ月(2020年3月末時点)と超えている。
福岡事件のうち、実行犯とされた死刑囚は1947年逮捕され死刑確定後の1975年に恩赦により無期懲役に減刑された。この時点で28年収監されていたが、仮出所したのが1989年であり、釈放された元死刑囚の逮捕後収監期間としては最長の42年7ヶ月の記録を持っていた。
現在、長期収監されている死刑囚
冤罪と主張される死刑囚の執行は避けられる傾向にある。これは執行された後で仮に無罪の証拠が発見された場合、もはや回復不能であることが理由である。実際に名張毒ぶどう酒事件では1972年に死刑確定後、冤罪の可能性が指摘されていることから執行は行われないまま、2015年に病死している。同様に川端町事件の死刑囚も1970年に確定しているが2025年6月27日現在執行されていない。
一方、飯塚事件の死刑囚は冤罪疑惑があったにもかかわらず、2006年の死刑確定から約2年後の2008年に執行された。
1974年に発生したピアノ騒音殺人事件の死刑囚は1977年に死刑判決が確定したが、2025年6月27日現在でも執行されていない。これは犯行動機(近隣騒音)に同情した全国の騒音被害者たちが助命嘆願運動を繰り広げたほか、控訴審で行われた精神鑑定責任能力なしの判断が出され、無期懲役に減軽される可能性があったにもかかわらず、死刑囚が「刑務所内の騒音に耐えられず、死にたい」との理由で控訴を取り下げた事情がある。現在彼は精神異常が亢進しているといわれており、今後も死刑執行が行われない可能性があり、冤罪を指摘されず再審請求を提出していないにもかかわらず、前述の平沢の確定死刑囚としての年数を更新した。
確定後、最も執行までの収監期間が長かった死刑囚
1975年に発生した秋山兄弟事件は、兄弟2人が犯した事件であったが、裁判では相手が主犯であると擦り合った。裁判所は弟を主犯と認定し死刑に、兄を無期懲役とした。死刑が確定したのは1987年であったが、執行されたのは2006年であったため、判決確定後19年5ヶ月で死刑が執行され、その待機期間としては戦後最長であった。また執行時の年齢が77歳であったが、記録が残る中では日本国憲法下で最高齢の記録である。
日本の女性死刑囚
現代の日本における死刑囚の大半は男性である(約94%)。そのため女性死刑囚は少なく、第二次世界大戦後に死刑判決が確定した女性死刑囚は17人である。そして、2024年12月31日時点で6人が収監中である。また、戦後に死刑判決が確定した女性死刑囚17人中5人は執行、5人は病死、1人は恩赦により減刑されている。
戦後初めて女性に対し死刑判決が確定したのは1949年に発生した菅野村強盗殺人・放火事件の女性に対するものであったが、彼女は精神異常と結核のため恩赦されている。戦後初めて死刑が執行されたのは1960年に発生したホテル日本閣殺人事件の主犯(確定は3番目)に対するもので、1970年に執行された。また同じ年には女性連続毒殺魔事件で確定した59歳の女性(確定は2番目)も執行されている。その後、1980年代は女性死刑囚の執行は無かったが、死刑執行モラトリアム後の1997年に夕張保険金殺人事件の主犯の妻が執行され、これは約27年ぶりのことである。その後2000年代に執行されることはなく、2012年には福島悪魔払い殺人事件の加害者が、2016年には久留米看護師連続保険金殺人事件の加害者の執行が行われた。
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備考

死刑囚の時効

2010年平成22年)4月27日に公布・施行された改正刑法により、死刑確定者の時効は廃止されている。

刑法第32条に「時効は、刑の言渡しが確定した後、次の期間その執行を受けないことによって完成する」とあり、死刑については30年と規定されており、30年執行されなければ時効が成立するかのような誤解があるが、刑法第34条に「死刑、懲役、禁錮及び拘留の時効は、刑の言渡しを受けた者をその執行のために拘束することによって中断する」と時効が中断することが定められているため、拘置所等に身柄が拘束されている場合は刑が時効消滅しない。

帝銀事件の元死刑囚が死刑判決確定後30年経過した際に「時効の成立」を主張したが、身柄が拘束されて時効が中断していたために認められなかった。なお、拘置所から脱獄して30年以上、逃亡生活を送れば時効が成立するものとされていた。ただし、死刑囚の脱獄は実際に何件か起きているが、30年後の時効完成まで確実に逃亡出来た者は現在まで1人もいない[注 46]

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脚注

参考文献

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