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日本の女性声優、歌手 (1974-) ウィキペディアから
折笠 富美子(おりかさ ふみこ、1974年12月27日[2] - )は、日本の声優、歌手、舞台女優。東京都江戸川区出身[2]。アトミックモンキー所属[5]。
おりかさ ふみこ 折笠 富美子 | |
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アニメいずめんと 2012 | |
プロフィール | |
本名 | 折笠 富美子[1] |
愛称 | おりちゃん[2]、おりりん[3]、ふーみん[3] |
性別 | 女性 |
出身地 | 日本・東京都江戸川区[2] |
生年月日 | 1974年12月27日(49歳) |
血液型 | A型[4] |
職業 | 声優、歌手、舞台女優 |
事務所 | アトミックモンキー[5] |
公式サイト | アトミックモンキー|折笠 富美子 |
公称サイズ(時期不明)[6] | |
身長 / 体重 | 157 cm / 42 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1999年[2] - |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え、ラジオ |
デビュー作 | 冬月あずさ(『GTO』)[2][7] |
女優活動 | |
ジャンル | 舞台 |
音楽活動 | |
活動期間 | 2003年 - |
ジャンル | J-POP、アニメソング |
職種 | 歌手 |
レーベル | ジェネオンエンタテインメント |
1974年12月27日[8]に東京都江戸川区で2人姉妹の次女として生まれる。
3歳頃に子供音楽教室に通い始める[9]。ただし、順番に指名されて発表しなくてはいけないことがとにかく嫌で、注目されるのが苦手であったという[9]。小さい頃は音楽好きで、歌番組を見るのが好きだった[9]。クラシック、高校生の頃はDREAMS COME TRUEも聴いていた[10]。あと母が台所で料理をしながら聴いていたリチャード・クレイダーマンの演奏、姉のお下がりのビートルズのカセットテープも好きであった[10]。その頃は内気で人見知りな子供だった[11]。自分から「習い事をしたい」と言い出して通わせてくれたため、習字と英語教室、小学4、5年生の時にはそれに加えて水泳教室や算数が苦手だったため塾といった習い事はたくさんしていた[9]。エレクトーンも習っており、音楽は得意だったが、子供の頃から人前が苦手だったため、リコーダーのテストなどは嫌いだったという[9]。その頃の将来の夢はテレビドラマの影響で学校教師、デザイナーになろうと考え、教師の真似をして自分で出席簿を作ってみたり、デザイナーの真似をしたたくさんドレスの絵を描いて、親に見せたりして遊んでおり、影響を受けやすいタイプであった[9]。しかし当時は役者になりたいとは考えておらず、その役を役者が演じているところまで見えていなかったかもしれないという[9]。「声優」という仕事を意識しないで作品の世界として見ていたことからアニメに関しても同じであった[9]。
中学時代は他の習い事は辞めていた[9]。しかし唯一音楽教室の延長線上で習っていたエレクトーンは続いていたこともあり、中学3年生の終わり頃、「鍵盤が弾ける」と友人に誘われて軽音楽部に所属していた[9][10][11]。練習が嫌いで、エレクトーンでは、先生がお手本で弾いてくれたのを、譜面もちゃんと確認せずにノリで弾いたりして、指使いを間違えて注意されていた[9]。バンドになると皆で演奏するため、ノリだけでは通用せず、軽音楽部では真面目に練習しており、皆との練習は楽しかったという[9]。軽音楽部ではほとんどが初心者であったため、1曲完成するのにとても時間がかかっていたことから基本的にはコピーであった[9]。バンドではメンバーは全員が女の子で当時、人気のあった女性バンドのコピーは先輩がすでにしていたため、かぶらないように、最初から選らばないようにしており、主に『ユニコーン』と『ビートルズ』の曲をコピーしていた[9]。中学3年生の時、学園祭で初めてバンド演奏を発表していた[9]。出演バンドは4組で、その時はたくさんの人物が見にきてくれたが、折笠は人に見られるのが苦手で、とても緊張していた[9]。入っていたバンドのボーカルが、ライヴ活動の好きであったため、色々な意味でバンドを引っ張っていてくれた[9]。バンド活動を通して、いずれはミュージシャンという夢はそこまで考えていなかった[9]。家庭の事情も少し複雑で、「将来のことは高校へ行ってから考えても遅くはないだろう」と思っていた[9]。友人の中には明確な夢を持っている子もおり、バンドのボーカルなどは「将来歌手になる」と言っていたが、その頃の折笠は、役者は思ったことすらなかった[9]。当時はバンドブームだったため、ボーカルと一緒に、学校外で他校の友人とバンド[注 1]を組んだりもしていた[12]。プロを目指す、というわけではなく、ただ楽しく続けていた[12]。演奏そのものが「楽しい」というのもあったが、演奏をすることで、自分も、バンドのメンバーも、客も、「みんな一緒に楽しんでいる!」というライブの雰囲気が好きだった[12]。しかし、バンド活動をしている友人の中には、折笠よりはるかに演奏がうまい人物たちがたくさんおり、圧倒されてはいた[12]。音楽仲間の中には、留学した人物もおり、実家の寺を継ぐと言っていた人物、音楽系に進んだ人物もいたが、役者はいなかった[12]。しかし、大半の人物は大学進学を希望していたと語る[12]。このことを「あの時友達が軽音部に誘ってくれなかったら、今の私はなかったかもしれません」と回想している[11]。
中学、高校は女子校で[9]、軽音楽部でキーボードを担当、また生徒会副会長を務めた[13]。母子家庭で育ち、女手一つで姉妹を育てた母を見ていたため、大学への進学は考えていなかったという[12]。「エレクトーンのブライダルプレイヤーになろうかと思ったが、『音楽じゃない別の形の表現』を」と思っていた[14]。
高校時代は、友人とたくさん話をしており、部活をしていない時は、学校の屋上にあった談話室で話をしていたと言ってもいいくらいであったという[12]。
音楽の道に進むか迷っていた時に、三宅裕司主催の劇団スーパー・エキセントリック・シアター(以下SET)の募集を見かけて、「表現を学べる場」に進もうと高校2年生の頃にオーディションを受けて合格する[12][15][16]。当時は親には内緒でオーディションに応募していたという[11]。研修生オーディションを受けた中では、折笠は最年少で周囲は大人ばかりであった上に、「体を動かせる服装で来てください」と言われて、「レオタードのお姉さん達がいる中で自分だけは学校指定のジャージのような状況だった」と振り返っている[15]。特技披露も切り札がなかったので、「とりあえず歌います」と学園祭でソロを披露した事もあった『星に願いを』を英語で歌ったという[15]。何次にも渡るオーディションを受けて帰宅する度に、母から「ここまで来られたのだから、いいんじゃない」と慰められており、母は反対していた訳でなかったが応援するというよりは、折笠には無理だろうと思っていたようで、「こんなトロい子ができるわけない」と感じていたという[15]。しかし難関を突破して、オーディションに合格し研究生に昇格する[15]。合格したときは驚いていたという[16]。3年生からSETの第3期研究生として養成所に通う[16]。
レッスンに行ってみたところ、「こんなに体育会系なの?」と驚き、体力にも自信がなく、周囲からも「自転車乗れるの?」と言われてしまうくらい何もない、ゼロからのスタートであった[15]。SET研究生時代はジャズダンス、バレエ、タップダンス、歌唱、演技のそれぞれの基礎、それとバク転などアクロバットと殺陣のレッスンなどを毎日こなす日々で拳立て伏せもしていた[15]。痛かったが、女子のため、「ここまででいいです」と多少は手加減して、そのお陰で精神と身体能力が鍛えられて、体育の成績が8から10に上がった[15]。1年間、昼間は学校に行き、夕方からSETのレッスンを受けるという毎日を続けていた[15]。両立は大変だったが、一緒に学ぶ仲間たちにも恵まれ、地方から上京してきた人物、演劇経験者、会社員などの演技経験のある人もない人もいっぱいおり刺激をたくさん受けていた[11][15]。個性も年齢も皆バラバラであったが、とても仲が良かった[16]。その中で、折笠は最年少であった[15]。同期には、折笠のように何もかも初めてという人物は、あまりいなかった[16]。バレエであれ、ダンスであれ、歌であれ、何かしら経験していた人物がほとんどで、それこそ「3歳からやっています」ような人物も少なくなかった[16]。運動神経も並で、全て未経験な分、劣等生になってしまったが、一度も「それで辞めたい」と思ったことはなかった[16]。日々色々吸収できる環境でチビッ子扱いされながらも、大人に混じり目標に向かって頑張ることがすごく楽しくて充実していたという[15]。
高校卒業と同時に養成所の卒業公演の査定に合格し、1993年[17]にSETの劇団員として所属する[16]。その時、折笠たちは、卒業公演で劇団の女優が脚本を書いてくれた作品を上演していたが、折笠がWキャストの主人公のうちのひとりに選ばれて思うようにできなく、いっぱいいっぱい泣いていた[16]。演出家の言っていることは理解できるが、表現できる術を持っていないことがジレンマであった[16]。少しでも吸収したく、Wキャストの自分と同じ役を演じている人物のことはもちろんだが、演じている他の人物のことをよく見るようにしていた[16]。
高校の卒業式の次の日が卒業公演2日前だったため、卒業式は泣いてる暇もなく、慌ただしい状況で、式の余韻も、友人とのお別れもそこそこに、「また連絡するね!」という感じであった[16]。その公演を無事に終えて、「やっと本当に卒業式を迎えた」という気がしていたという[16]。折笠は合格で、劇団員の合否発表が郵送で送られた時は驚いたものの、「ここからさらに高い階段が続いているのだろう」と覚悟はしていた[16]。母は折笠に「頑張らなきゃね」と気軽に言ってくれたが、内心は「うちの子にやっていけるかしら」ととても心配していたようであった[16]。
入所した時には30名ほどいた同期も、1年間のレッスンを通して卒業時には25名まで減り、その中から折笠を含め4名が劇団員として合格した[16]。三宅と話をした時に「なぜ選んでいただけたのか」を聞いてみたところ、「キャラクター」がその理由であった[16]。折笠たち第3期は、わりと皆のんびりして、それぞれのキャラクターが濃く、折笠はその中にあっては目立たない、普通な感じであったが、「SETにいないキャラがやっと入ってきた」と言われたという[16]。
初めての舞台公演は楽しく、一番最初のステージの時、本番前に舞台監督と、舞台袖で「初舞台なので、とても緊張しているんです」と話をしていた[16]。その時、「僕もね、この舞台は初めてだから緊張しているんだよ」と言ってくれた[16]。それで目が覚めて舞台は役者だけではなく、皆で作っているということを、肌で感じることができた瞬間であった[16]。劇団員だった頃、三宅裕司、小倉久寛、岸谷五朗、寺脇康文も在籍しており、第一線で活躍している俳優のすぐ近くにいられる、という恵まれた環境は財産だと感じていた[18]。1ヶ月公演があると、自分の出番以外はほとんど舞台袖におり、「何かを盗めてたら」と先輩の芝居を見ていた[18]。そういう人物たちに直接指導くれるということはほとんどなかったため、自分から吸収しようと思った[18]。目に見えないものだったことから、すぐにそれを活かして、というわけにはいかないが、「これは絶対に無駄なっことじゃない」と思っていた[18]。1ヶ月公演では、脚本は同じであったが、役者のテンション、体調で変化があるとそういうのを目の当たりにしていたことで、吸収できたものがあるように思った[18]。たとえば、役者が公演中に出演できなくなったらその代役が折笠ではなく先輩の女優だったとしても、そのセリフを覚えるということは「無駄にはならない」と思い、覚えたりしていた[18]。「この作品だったら自分はこの役だろう」という目線で脚本を読み、必ずチェックするようにしていたという[18]。テレビドラマの仕事もしたが、「もっと広いところで勝負してみよう」と3年間在籍したSETを退所[18]。当時は劇団員に昇格してすぐに役をくれるわけもなく、舞台、映像の仕事場で、その他大勢の役で雑に扱われるような、つらく苦しい経験もしており、「全然仕事がない、この先どうしよう?」とただ待つ日々に不安になっていた時期もあったという[15]。この3年間で、ただやみくもに緊張するのではなく、いい意味で緊張感に切り替えることができるようになった気がしていた[18]。その後は、研究生の時からだが、「芝居はみんなで作るものなのだ」と心から感じられるようになったことも、大きな成長であった[18]。劇団員になった時に、「その感覚をいつまでも忘れずに活かしていこう」と思い、とにかく、いつでも周囲をよく見るようにしていたという[18]。
研究生時代は高校生であり、忙しくてほとんどできなかったが、劇団員になってから社会人としての生活もあることから、たくさんアルバイトしていた[16]。稽古が佳境に入ってくると、深夜まで稽古ということもあり、残って自主練習などをしていたかったため、だんだん家に帰る時間もなくなってしまった[18]。結局、アルバイトをしながら風呂なし・共同トイレのアパートで生活し、ほとんどジャージで過ごしていたと語っている[18]。「むいていないな」とは、しょっちゅう思っていたが、与えてくれたチャンスであったことから、「ここで吸収できるものは吸収しよう」と思っていた[18]。その頃、手紙のやり取りをしていた友人がおり、飲み会の話だとお酒落の話を書いてくれたが、折笠はお金がなく、電車賃もなく、アパートと稽古場をジャージで住復するような生活で成人式にも出席できなかった[18]。しかし、「自分のやりたいことにチャレンジしているのだ」という気持ちが強かったため、「嫌だ」と感じていたこともなかった[18]。三宅がキャラクターで拾ってくれたという話を聞いた時に「お前みたいなヤツが、実は私、こんなに凄いことができます!というモノを持っていたら、客はすごく感動するよ」と言われたため、必死にバク転の練習をしていた[18]。18、19、20歳ぐらいの時は、稽古が終わりアルバイトに行き、深夜1時ぐらいにアルバイトを終えてから稽古場に戻り、ひとりで練習していた[18]。
フリーで小劇場、映像の仕事をしながらオーディションを受けていた[15][18]。そんな中、大河ドラマの『徳川慶喜』に1年間出演[18][19]。舞台は知り合いのツテでいい役も演じてたが、映像は仕事自体も少なく仕事をもらっても「女A」というセリフ一言の端役、エキストラであり、「セリフをもっとしゃべりたい!」という思いが強く声優の仕事にたどり着いた時はまっすぐな強い願いが届いた感じだったという[15]。
劇団退団後もどのように仕事をつかめばよいか不安であった[15]。やりたいが、その行き場がない悲しさもあり、不安で、「このまま辞めるべきなのか」とも思ったという[20]。数が少くなくても、仕事で演技ができる場を与えられた時に、とても「楽しい」と感じていたことから辞めないで続けることができた[20]。演じることが好きなんだといい、仕事がない時代を経験していたからこそ、仕事のありがたみをより感じることができたのだと語る[20]。劇団を退団していなかったら、いつまでも芝居、芝居小屋の空気の中にいる状態だったため、そのありがたみを気付くことができなかったかもしれないという[20]。
その頃は「この余裕ある時間は勉強の時間」と考えていたが、舞台を観に行くお金もなかったため、テレビを観ていた[15]。当時は映像演技にも興味があったため、その時流行していたドラマ、人気女優の芝居を録画して、何度も巻き戻したりしながらひたすら研究していた[15]。
「もうダメだな」ようなことは全く思わず、ダメも何も、芽も出ていないわけだったことから、そういう発想にはならなかったという[15]。演じたい気持ちだけが強くあったため、怖いもの知らずだったと語る[15]。
SETの研究生時代の卒業公演でダブルキャストだった女優が、劇団ヘロヘロQカムパニーの旗揚げメンバーだった縁で、座長の関智一、長沢美樹と知り合った[15]。後に、関から当時、マネージャーを務めていた現・アトミックモンキーの社長の人物を紹介され、声の仕事を始める[15]。声の仕事は、最初に少しゲームに出演していたが、その時は「声優になる」という気持ちが固まっていなかった[15]。
声優としてのデビューは1999年のテレビアニメ『GTO』のヒロインの冬月あずさ役である[2]。その時はマネージャーから「とりあえず挑戦してみよう」と言われて、『GTO』のオーディションを受けたという[15]。
制作スタッフ達は「折笠さんのもつ芝居の空気感が今までの声優とはちょっと違うことが面白いから」と選んでくれたという[7]。この役に抜擢された時に折笠はすでにドラマ版の『GTO』を見ていたので、ドラマ版『GTO』で冬月あずさ役を演じていた「松嶋菜々子みたいだ」と、姉がかなり喜んだという[21]。
初めて声の仕事をした時はとても楽しかったが、1日に2本以上仕事が入ると、切り替えができなく大変であった[20]。映像にしろ舞台にしろ、1日で複数の作品に関わることはそうそうなかったため、「映像の仕事なら1日中、舞台だったら1ヶ月以上の芝居のことしか考えない」という世界にいたため、最初の頃は午前中の仕事の役に、午後の仕事が引きずられたりしていた[20]。
声優デビューした頃はそれまで前述のとおり、舞台、映像の仕事はしていたが、声優としては初心者だった[7]。当時は現場のことは無知で、アフレコ用に書かれていた台本すら初めて見るような状況だった[15]。カット割りを理解して絵をチェックするのも、アドリブの息だけで感情を表現するのも初めてであり、かなり戸惑っていた[7]。
最初の収録日までに時間があったため、山寺宏一主演アニメの収録現場を見学して、学ばせており、『GTO』では、声優の道に入るきっかけをくれた関智一との共演もあり心強かった[7]。周囲のレギュラーの皆に、台本チェックの仕方など技術的なことを実践を通して教わり、支えてくれた[7]。そのおかげで、自分の進む先のほうが重要だったことから仕事に対し、役に対し、真っすぐに誠実でいるあり方をいつも考えていたという[7]。
その後、様々なアニメやゲームに声を当てていった他、歌手としても活動している。
歌の仕事をくれた時に、単純に「チャンスをいただけた」という嬉しさもあったが、バンドをしていた頃に「自分に音楽は無理だ」とちょっとしたプチ挫折をしていた[20]。ここまで色々なことにチャレンジしてきて、声優という仕事にたどり着いたうえでくれたチャンスのため、「演じることと切り離して考えたくない」という思いもあった[20]。2009年時点では「今の自分に音楽という場を与えられて、どんな表現ができるのだろう」といつも考えている[20]。「役」というキャラクターを「与えられたら、自分のエネルギーを注いでそのキャラクターを立たせてあげたい」という感じであった[20]。キャラクターソングを歌っている時の方が、迷いなく歌えるという[20]。
東京俳優生活協同組合(1999年[17] - 2007年2月28日[22])を経て、アトミックモンキー(2007年3月1日[22] - )に所属。
通ってた渋谷区の小学校は2005年時点では廃校となり、看護学校になっている[23]。
姉も女子校に通っていた[12]。
憧れている先輩は、『ヴァンドレッド』、『明日のナージャ』などで共演していた京田尚子を挙げている[24]。
少女、大人の女性役などさまざまなタイプのキャラクターの声を演じている[19]。
声の仕事は、演じる上では、絵に自分が入り込んでしまう感覚でしている[20]。スタジオでは、いつも視界に端に隣で芝居をしている人物の空気を感じながら演じるようにしているという[20]。
劇場版アニメ『千年女優』の主人公、少女時代の藤原千代子役は深く印象に残っており、アフレコしていた時期は、声優の仕事を始めて1年もたっていない頃での大抜擢で、周囲も大御所ばかりで、必死で演じていた[7]。千代子役は特に、ひたむきに駆け抜けるようなキャラクターのため、演じる自分と役がシンクロしており、かつての折笠が持っていた映画に出演してみたい夢を役の上で色々映画で演じており、「夢が叶った」という喜びもあったという[7]。
『プリキュアシリーズ』は、初代の頃から何度となくオーディションに参加しているが、年齢とキャリアを重ねてきて「もう難しいのかもしれない」と心の中では希望と諦めが混ざり合っていた[24]。その時に『スイートプリキュア♪』の南野奏 / キュアリズム役[15]に抜擢され、喜びは大きかったという[24]。
かかずゆみを部長[25]とする「着物部」に所属しており、イベントには連れだって和装で参加する事がある[26]。なお、かかずゆみ・豊口めぐみとは演劇ユニット「R*L(ラフラフ)」を結成している[27]。
テレビアニメ『苺ましまろ』のメインキャラクターを演じた5人(本人・生天目仁美・川澄綾子・千葉紗子・能登麻美子)とで「ましまろ会」なる親睦会をしている。
太字はメインキャラクター。
枚 | 発売日 | タイトル | 規格品番 | オリコン 最高位 | |
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初回限定盤 | 通常盤 | ||||
1st | 2004年1月21日 | Lune | GNCA-1011 | GNCA-1012 | 66位 |
2nd | 2005年9月14日 | Flower | GNCA-1056 | GNCA-1057 | 64位 |
3rd | 2007年12月21日 | うららかeasy | - | GNCA-1152 | 248位 |
4th | 2009年3月25日 | Serendipity | GNCA-1216 | 211位 | |
楽曲 | タイアップ | 時期 |
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輪廻の果てに… | テレビアニメ『真月譚 月姫』エンディングテーマ | 2003年 |
星めぐり | アニメ情報番組『アニメTV』エンディングテーマ | 2004年 |
Flower | アニメ情報番組『アニメTV』エンディングテーマ | 2005年 |
クラス・メイト | テレビアニメ『苺ましまろ』エンディングテーマ | |
Sweetie | テレビアニメ『アニマル横町』後期エンディングテーマ | 2006年 |
心の輝き | テレビアニメ『メイプルストーリー』エンディングテーマ | 2007年 |
夕待ちの風 | OVA『苺ましまろ』エンディングテーマ | |
ボクノリズム | テレビアニメ『メイプルストーリー』第25話エンディングテーマ | 2008年 |
ずっと、ずっと | OVA『苺ましまろ encore』エンディングテーマ | 2009年 |
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