東村山市
東京都の市 ウィキペディアから
東京都の市 ウィキペディアから
東村山市(ひがしむらやまし)は、東京都の多摩地域北部にある市。
ひがしむらやまし 東村山市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 東京都 | ||||
市町村コード | 13213-6 | ||||
法人番号 | 1000020132136 | ||||
面積 |
17.14km2 | ||||
総人口 |
152,240人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 8,882人/km2 | ||||
隣接自治体 |
東久留米市、清瀬市、東大和市、小平市 埼玉県所沢市 | ||||
市の木 |
ケヤキ (1974年9月25日制定) | ||||
市の花 |
ツツジ (1974年9月25日制定) | ||||
市の鳥 |
ハクセキレイ (1994年12月1日制定) | ||||
東村山市役所 | |||||
市長 | 渡部尚 | ||||
所在地 |
〒189-8501 東京都東村山市本町一丁目2番地3 北緯35度45分17秒 東経139度28分07秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
武蔵野台地のほぼ中央、狭山丘陵の東縁に位置する。北西部の丘陵地域を除き市域の大半は平坦な土地である。江戸時代の初めに幕府の老中、松平伊豆守信綱が掘らせたことから「伊豆殿堀」とも呼ばれる野火止用水や、狭山丘陵から流れ出している柳瀬川支流、空堀川から水利を得て、畑作が盛んなところだった。
市域は東西5.878 km、南北5.240 km、面積は17.14平方キロメートルで多摩地域26市中14番目である。市制施行は東京都において13番目であり、推計人口10位、人口密度12位、歳入額14位など東京都の市においておおむね平均値ないしは中間値となる自治体である。
市内には、旧村名で大字でもあった久米川、野口、廻田、(南)秋津、恩多(大岱)が町名として残り、道路は市域が江戸時代尾張徳川家の鷹場であったことに由来する鷹の道[1][注釈 1]などが残る。また現代的な幹線道路としては南北に府中街道、東西に新青梅街道(ともに往復4車線)が通じ、東村山市役所・東村山駅・久米川駅付近の野口橋[注釈 2]で交差している。
市内初の鉄道は1894年(明治27年)12月21日の川越鉄道(現・西武国分寺線)久米川停車場(現・東村山駅)であり、以来2社8路線9駅が展開し[2]、久米川駅が駅500m範囲の人口で多摩地区一位になる[3]など主に住宅地からなる都市となっている。
当市の出身者でコメディアン、芸人の志村けんの『東村山音頭』によって全国的に市名が知られることとなった。その中にも出てくる多摩湖(村山貯水池)は大部分が西隣の東大和市に所在しているが、新宿副都心開発により閉鎖された淀橋浄水場の代替地となった東村山浄水場はこの貯水池などを水源とし、都民が恩恵にあずかっている。
市域には旧石器時代からの遺跡が分布し、縄文時代には笹塚遺跡をはじめ縄文中期の集落遺跡が数多く分布し、縄文後晩期では下宅部遺跡の存在が知られる。弥生時代の遺跡は皆無で、古墳時代には後期集落は見られるものの、古墳の存在は無い。
律令制下では武蔵国多摩郡に属し、奈良・平安時代の遺跡では完形の瓦塔(東京国立博物館所蔵)が出土した東村山市No.2遺跡のほか、平安時代の池状遺構も見られる。古代には官道である東山道武蔵路の道筋が南北に比定されている。
平安後期には狭山丘陵に武蔵七党の村山党が進出し、一族は鎌倉幕府の御家人となった。鎌倉時代には鎌倉街道上道が通り、久米川宿を中心とする宿場として栄え、日蓮は佐渡島に流刑される際に当宿に宿泊している。鎌倉末期には武蔵野台地を舞台に新田義貞率いる倒幕軍と幕軍の間で一連の合戦が起こり、市域では久米川の戦いが起きている。また、幕府滅亡後に成立した建武の新政に対して北条氏残党が蜂起した中先代の乱における合戦も起こっている。戦国時代には相模国の戦国大名である後北条氏の領国に含まれ、後北条領国では川越街道が整備されたため、相対的に鎌倉街道の重要性は薄れる。
江戸時代は幕府直轄領となり、武蔵野台地の開拓が進む。また、尾張徳川家の設置した鷹場にも含まれる。明治維新後には野口村、廻田村、久米川村、南秋津村の各村は韮山県、次いで品川県の所属となり、1872年(明治5年)に神奈川県多摩郡の所属となった。1878年(明治11年)には郡区町村編制法により多摩郡北部が北多摩郡となり、1880年(明治13年)には埼玉県入間郡に属していた大岱村も北多摩郡に編入となった。
1889年4月1日の町村制施行の際に、北多摩郡野口村、廻田村、大岱村、久米川村、南秋津村が合併して東村山村(ひがしむらやまむら)となった。
1894年以来2社8線9駅の鉄道が市内に通じ、古道以来の交通の要衝だったところに、近代には周辺村からの人の流れと物資の集積地としての機能が発生した。鉄道開通による宅地化が進むなかで、現在の栄町一帯は西武新宿線開通後、東京都内の沿線では田無に次ぐ商業地域となっていく。
1942年4月1日に東村山町(ひがしむらやままち)となった。この段階では、東京府内の隣接自治体で最も早い町制だった。
1964年4月1日に東村山市となった。市制と同時に現在の各町が設置され、前後して富士見町に私立中学高校が複数開校した。1967年には新青梅街道、1973年には鉄道の武蔵野線が開通。ベッドタウンとして開発が進められ、都営住宅や団地、官公庁住宅の整備が行われ、現在の市の姿となる。
「東村山」の名称は、(村設置当時)いろいろ議論されたが、桓武平氏の流れをくみ、武蔵國武士としてこの地に拠を擁した村山党(武蔵七党の一党)の由来でもある武蔵国村山(狭山丘陵南麓付近)の地、その最東端にあたるため「東」を頭に冠し「東村山」と名付けたものという[5]。村山の地名は狭山丘陵を見て群山(むれやま)、村山などと称したことによる。
東を冠する現存の市で、町村制施行時の村から同名のまま町制、市制施行したのは当市のみである(千葉県東金市は町村制施行時に町、山形県東根市は町制時に新設、その他市制施行時に東を冠した市とは命名事情が異なる)
東村山市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 東村山市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 東村山市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
東村山市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
2005年に夜間人口(居住者)は144,402人である。市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は115,046人で昼は夜の0.797倍の人口で、夜間に比べて昼の人口は3万人弱ほど減る。昼間人口/夜間人口比が0.8以下の市は東京都区市部に5つしかなく、東村山市がオフィスや工場・学校が少なく住宅の多い都市であることが推察される。なお2010年及び2015年の国勢調査では昼間人口は0.8倍以上となっている[6]。
通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者43,759人、市外から市内へ入る通勤者は18,471人と通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は7,124人、市外から市内へ入る通学生は3,056人と学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い[7]。なお、国勢調査では年齢不詳の者が東京都だけで16万人おり、この項の昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に若干の誤差は生じる。
東村山市では、住居表示に関する法律に基づく住居表示は実施していない[8]。土地区画整理事業施行区域を含め、市制施行時(1964年10月1日)に13町を置き、その後地番を整理すること(町名地番整理)により住所整理が実施されている。
町名 | 地番整理実施年月日 | 町区域設定前の大字(町村制以前の村名)[9] |
---|---|---|
1968年5月1日 | 久米川・大岱 | |
栄町二丁目 | 久米川 | |
栄町三丁目 | 久米川・野口 | |
1969年9月1日 | ||
本町二丁目 | ||
本町三丁目 | 久米川 | |
本町四丁目 | ||
野口・廻田 | ||
美住町二丁目 | ||
富士見町二丁目 | 廻田 | |
富士見町三丁目 | ||
富士見町四丁目 | ||
富士見町五丁目 | 野口・廻田 | |
1970年9月1日 | 久米川・野口 | |
諏訪町二丁目 | 野口 | |
諏訪町三丁目 | ||
野口町二丁目 | ||
野口町三丁目 | ||
野口町四丁目 | ||
1971年9月1日 | 廻田 | |
多摩湖町二丁目 | ||
多摩湖町三丁目 | ||
多摩湖町四丁目 | ||
廻田町二丁目 | ||
廻田町三丁目 | ||
廻田町四丁目 | ||
1972年9月1日 | 野口 | |
萩山町二丁目 | 久米川・野口・大岱 | |
萩山町三丁目 | 久米川・野口 | |
萩山町四丁目 | 久米川・大岱 | |
萩山町五丁目 | ||
1973年9月1日 | ||
恩多町二丁目 | ||
恩多町三丁目 | ||
恩多町四丁目 | ||
恩多町五丁目 | ||
久米川 | ||
青葉町二丁目 | ||
青葉町三丁目 | 南秋津 | |
青葉町四丁目 | ||
1974年9月1日 | ||
秋津町二丁目 | ||
秋津町三丁目 | 久米川・南秋津 | |
秋津町四丁目 | 南秋津 | |
秋津町五丁目 | ||
久米川 | ||
久米川町二丁目 | ||
久米川町三丁目 | ||
久米川町四丁目 | 久米川・野口 | |
久米川町五丁目 | 久米川・南秋津 |
候補者名 | 当落 | 年齢 | 党派名 | 新旧別 | 得票数 |
---|---|---|---|---|---|
関野杜成 | 当 | 43 | 都民ファーストの会 | 新 | 39,492票 |
谷村孝彦 | 当 | 54 | 公明党 | 現 | 32,773票 |
尾崎あや子 | 当 | 58 | 日本共産党 | 現 | 23,500票 |
北久保眞道 | 落 | 64 | 自由民主党 | 現 | 22,415票 |
鈴木龍雄 | 落 | 48 | 民進党 | 新 | 11,166票 |
山内章明 | 落 | 64 | 無所属 | 新 | 1,521票 |
駅および住宅地に隣接した商店街のほか、大規模商業店舗が一部の駅周辺にある。久米川駅西友の駅直結への反対や、新小平駅水没事故時迂回対策の秋津駅と新秋津駅の連絡通路建設反対による工事中止など、地元商店の保護に積極的である。市商工会が早期に、地名の入らないドメイン名の取得およびサイト開設を行っている。
市内商店会数は18[14]、主要道路である府中街道は中央部の既存市街地を通過し、新青梅街道は沿道を小平霊園や東村山浄水場などが多く占めているなど幹線道路沿いの大規模店舗立地は少なく、15万人規模の都市にもかかわらずイオングループはウエルシア薬局とミニストップ1店舗のみ、ドンキホーテグループやファーストリテイリングの進出はない。
地域別構想において久米川駅の周辺を、市の「中心核」の位置づけのうち飲食業をはじめとする商業機能を中心とした都市機能を強化し、さらに魅力を高める取り組みを進めていくこととしている[15]
インターネットの活用としては、2019年1月には市としてインスタグラムのアカウントを開設し、飲食・観光客誘致などを図る取り組みを始めた[16]。
在来の東村山駅を中心とする旧市街地と久米川駅を中心とする新市街地の構成に対し、計画的に結び付け町の発展をうながすべく1954年から(現本町一丁目および四丁目)に官公庁用地約1万坪を確保した。1958年に市役所を現在地に建設。官公署街となった[5]。東村山市立中央図書館・国税庁東村山税務署・東京消防庁東村山消防署本町出張所(旧本署)・警視庁東村山警察署・NTT東村山局舎・東村山法人会・東村山市医師会・JA東京みらい東村山支店(旧東村山市農業協同組合)等が立地している。
管轄地域は市域に等しい。同署は東京消防庁第八消防方面本部の隷下にある。消防は市町村の責任業務であるが、多摩地域のほとんどの市町村は東京消防庁へ消防業務を委託しており、当市もそれに倣っている。
二次救急対応
ベッドタウン開発が着手される前は、農家と富豪の邸宅が若干存在していたことを除き、全域が雑木林で占められていたため、その土地柄を活かして結核患者を対象とした診療所が多く点在していた。このうち、八国山緑地の麓にあった診療所は『となりのトトロ』作中にも出てきている。なお、現在[いつ?]市内に存在する総合病院は、全てその診療所の跡地に建設されている。
保育園は児童福祉施設のためこの項ではないが、当市は東京都で2019年に対前年の待機児童数の増加が87人と最大の増加を示した自治体である[19]。
公共交通空白地域の設定は鉄道駅から600m以上かつバス停から300m以上離れた地域、公共交通不便地域としてバスの運行本数が1時間1本未満のバス停から300m以内の地域としており、 2018年コミュニティバスガイドライン更新時点(ところバス乗り入れ実証実験前の段階)での該当地域は3.7平方キロメートル(市域の21%)・2.7万人(人口の17%)である[20]
西武鉄道とJR東日本あわせ8路線が通っている。東村山駅は乗換え駅となっている。現在[いつ?]高架化工事が行われている。 [21][注釈 4]
市内の公共交通空白地域対策にコミュニティバス「グリーンバス」を運行している。また東京都シルバーパスの利用は市内では西武バスのみ。当市内での発行は西武バス久米川駅案内所の営業終了に伴い、東村山市シルバー人材センターの扱いとなった[22]。
主要な幹線道路として、新青梅街道(東京都道5号新宿青梅線)及び府中街道(東京都道16号立川所沢線)がともに往復4車線で供用されており、新宿・青梅・府中・所沢の4方面へのアクセスが確保され、道路交通による都市間移動は主にこの2つが担っている。
主要な市道としては、東村山駅・府中街道方面と新秋津駅・所沢街道方面とを結ぶ、当市の "シンボル道路" と称して「さくら通り」(東村山3・4・27号東村山駅秋津線)が整備されている。
市内に国道、高速道路および自動車専用道路は通っていない。国立市の国立府中インターチェンジ(中央自動車道)および埼玉県所沢市の所沢インターチェンジ(関越自動車道)が最寄り、ともに市役所から走行距離で約11km。また、首都圏中央連絡自動車道へのアクセス向上として、所沢市内で事業中の飯能所沢線を当市内に延伸させる計画が存在する。さらに構想として、地域高規格道路である多摩新宿線が新青梅街道に並行する形で市内を通るルート案が存在する[24][25]。
2020年現在、市内には国宝が1件、国の重要文化財が2件、東京都指定文化財が3件、市指定文化財が37件存在する[26]。
など。
上述した下宅部遺跡を含め、市内では148か所の遺跡が確認されている。主に空堀川より北部に集中している[28]。
|
|
|
など。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.