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ステージ101
NHK総合テレビの音楽番組 (1970-1974) ウィキペディアから
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『ステージ101』(ステージいちまるいち)は、NHK総合テレビジョンで1970年1月10日から1974年3月31日まで放送された音楽番組である。
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概要
この番組は、1960年代に全世界を覆った学園紛争の嵐で傷ついた若者の心を癒し良質の音楽を紹介しようという意図で企画された、NHK初の若者向け音楽番組である。番組名は、当時東洋一の広さを誇った[注 1]渋谷のNHK放送センターCT-101スタジオで収録されていたことに由来する[注 2]。
約40名のメンバーからなるレギュラー出演グループの「ヤング101」の躍動感溢れる歌と踊りを中心にして、国内のメジャーからマイナーまで幅広い音楽や海外のポピュラー音楽、さらに「ヤング101の歌」などの番組オリジナルソングを披露した。
オイルショックによる製作費の予算の削減などの影響を受けて番組は4年3か月で終了したが、NHKがその後放送した様々な若者向け音楽番組の先駆けとなった。番組オリジナル曲の「涙をこえて」や「怪獣のバラード」は50年間に渡って広く歌われ続け[注 3]、合唱コンクールで取り上げられることも多い。
ヤング101は既にレコード・デビューしていたグループや歌手から無名の新人に至るまで、多彩な顔触れが集められて結成された。合計88名の歴代メンバーは厳しい指導を受けて高度の実力を身につけて、ヤング101を卒業した後は多くが音楽や演劇のプロフェッショナルとなった。
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歴史
要約
視点
草創
1961年4月からNHK総合テレビジョンのバラエティー番組『夢であいましょう』の演出に携わったNHKディレクター末盛憲彦は、1965年10月から1966年3月までアメリカに滞在して様々なショー番組やミュージカルバラエティ番組を視聴して、そのスタイルを日本に輸入したいと考えた。末盛が特に感銘を受けたのは、大人数の若者のグループ「ヤング・アメリカンズ」が歌い踊る姿であった。帰国した彼は、道徳再武装(Moral Re-Armament)の日本支部が組織したレッツ・ゴー[注 4]が大人数のメンバーでフォーク・ソングを歌う[1]のを見て、ヤング・アメリカンズのような日本人グループが歌い踊るショー形式の音楽番組を作ることをNHKに提案した。
末森の提案が受け入れられて、1970年1月の放送開始を目標に新番組の計画が立てられ、1969年4月、レコード会社の推薦や業界内部でのオーディションに基づいたレギュラー出演グループの編成が始まった[注 5]。その結果、レッツ・ゴーの出身者達によって結成されてまもないシング・アウト[注 6]が最初のメンバーに決まり[注 7]、1967年に結成されたザ・バロン、元ジローズの塩見大治郎、1968年のジョーン・バエズの日本公演で第一部を務めた小林啓子などが加入して、6月頃にヤング101が結成された[注 8]。末盛は『夢であいましょう』と同様に中村八大を音楽監督に迎え、元デューク・エイセスで作曲家の和田昭治(コーラス)、中川久美[2][注 9](ダンス)、早野寿郎(芝居)、永六輔[注 10](トーク)といった各界の実力者を講師としてヤング101に歌や踊り、芝居の厳しい指導を与え、衣装デザインに中嶋弘子[注 11]、ヘアーメイクに大関早苗を迎えて[3][4]放送開始に備えた。また司会に野沢那智と白石冬美を迎えて白黒撮影のテスト版を制作し、局内のスタッフに公開した[5]。
『夢であいましょう』は永六輔と中村八大の共作による番組オリジナル・ソング「今月のうた」を多数生み出した[注 12]。末森らは新番組でもオリジナル・ソングの企画を取り入れようと考えて、中村が放送作家のかぜ耕士と「涙をこえて」を共作した[注 13]。この曲は放送開始前の7月25日にヤマハ音楽振興会が開催した音楽コンクール『合歓ポピュラーフェスティバル'69』でシング・アウトによって披露され、伊東ゆかりの「青空のゆくえ」と共に作曲グランプリを受賞した[6][注 14][注 15]。
1969年11月3日、祝日の午後8時から番組のパイロット版としてグループのお披露目となる『特別番組 ステージ101』が放送され、司会に石井好子と関口宏、ゲストに渥美清、植木等、三波春夫を迎え、番組内でヤング101のメンバーが紹介された。翌々日の11月5日、「涙をこえて」がシング・アウトのデビュー・シングルとして発表され[7]、21万枚を売り上げるヒットになった。12月31日の『第20回NHK紅白歌合戦』の冒頭、両軍司会者によるじゃんけん先行決めの場面でヤング101が応援役として登場。この時初めて、グループ名が公表された。翌日の1970年1月1日、元日の午後8時から再び特別番組『特別番組 ステージ101』が放送された。司会は関口宏、ゲストが水前寺清子と寺尾聡であった。
成長と転換
1970年1月10日〈土)午後8時、『ステージ101』第一回が放映され、週1回のレギュラー番組がスタートした。関口宏が司会を担当し。ヤング101[注 16]とダンサーズ101[注 17]がレギュラー出演、上條恒彦がヤング101のお兄さんとして準レギュラー出演した。番組の方針として、当時の流行歌ではなくフォークソングや海外の曲、そして番組オリジナル・ソングを歌うことが徹底され、「涙をこえて」などが披露された。音楽監督の中村と和田[8]も出演し、ヤング101のコーラス指導を行なってきた和田は、メンバーがつけた「ワンツーおじさん」の愛称で視聴者にも親しまれた。
番組が始まってから、ヤング101のメンバーは週5日間を拘束され、「最初の3日間がリハーサル、翌日スタジオでランスルー、そして本番」[9]という厳しい日程が続く中でますます実力をつけていった。 ヤング101は番組連動企画として活動の場をNHKの外にまで広げて、日本万国博覧会(EXPO '70、1970年3月 - 9月)や札幌冬季五輪(1972年2月)の関連イベントなどに参加した。1971年10月3日には『合歓ポピュラーフェスティバル'71』に出演して、「ヤング101の歌」として番組で披露してきた「人生、すばらしきドラマ」(山川啓介作詞、和田昭治作曲)で入賞を果たした。そして、同じフェスティバルで「出発の歌-失われた時を求めて」を歌ってグランプリ賞を受賞した上條が翌1972年12月31日のNHK『第23回NHK紅白歌合戦』で紅白初出場を果たした時には、応援としてゲスト出演して「出発の歌」のコーラスを歌った。さらにメンバーはヤング101以外での活動も積極的に行なった。田中星児は、ヤング101に加入後、局内で「おかあさんといっしょ」のオーディションの案内を見て応募し、1971年11月からは『ステージ101』出演と並行して初代うたのおにいさんを務めた[注 18]。
早いもので「ステージ101」の番組もやがて、満二歳の誕生日を迎えます。(略)番組発足当初は、やれNHKは学芸会に毛のはえたものを放送するのかとか、「ステージ101」は所詮、温室育ちのカマトト番組に過ぎないなどと悪口やら批判をうけたものですが、今日では漸く、「101」サウンドとして、ポピュラーのコーラスグループとしては一応の声価を得るまでに成長しました。それが何よりの証拠には、現在、各種CMソングにヤングたちは欠かせない存在になっています。 — NHK芸能局チーフ・プロデューサー 各務孝[10]
ヤング101の番組内外での様々な活動の結果、『ステージ101』はより広く認識され人気を得て社会現象のようになり、NHKには「自分もヤング101に入れてほしい」という声が寄せられるようになった。番組が始まったあともメンバーは随時追加されていたが[注 19]、このような人気の高まりを受けて、1971年から1972年にかけて対象を全国に広げた大規模のオーディションが実施されて[注 20]、多くの新メンバーが加入した[注 21]。初期のメンバーは20歳代が中心だったが、第一期生の最年少者だったザ・チャープスの三女の竹内えり子は中学生、第二期生[注 22]の最年少者だった西玲子は高校生だった。1972年に入ると、さらに新しいメンバーが加入した[注 23]一方で初期のメンバーが次々と卒業した結果、代替わりによる低年齢化が起こった。この頃から高校生の女性メンバーも増加し、1973年には谷山浩子、太田裕美[注 24]が加入した[注 25]。
一方、制作スタッフも代わった。1972年3月に末盛が番組ディレクターを降板し林叡作が後任を務めた。末盛の降板に伴ない、音楽監督は中村、和田から東海林修に、振付師は中川久美から坂上道之助、山田卓に代わった。林は1973年4月に退任し、音楽監督は同年10月に東海林から宮川泰に引き継がれた。
番組テーマ曲は放送開始から用いられてきたステージ101テーマソング「ヤッポン!」に代わって、1973年4月からはヤング101の若子内悦郎が作曲した「ステージ101 テーマ'73」となった。
初代司会者の関口は1970年9月末で番組を離れ、黒柳徹子が2代目を務めた。黒柳はアメリカ留学の為に降板する1971年9月まで司会を務め、1971年4月14日からはヤング101の泉朱子が司会者に加わった。1971年10月から1972年4月初めまではマイク真木[注 26]・前田美波里夫妻が3代目として泉と3人で司会を務めた。1972年4月から9月までは沢田研二、加山雄三、西郷輝彦らがマンスリーゲストとして招かれ、一か月交代で泉と共に司会を務めた。泉が同年9月24日に番組を卒業すると、10月から1974年3月31日の最終回までは若子内[注 27]、西[注 28]などヤング101のメンバーが番組進行を行なった。
終了
1973年7月、NHKは9年間続いた前田義徳体制から小野吉郎体制へ移行。同じ頃、内幸町から渋谷への移転を完了しNHKホール(2代目)が開業し、同ホールを活かした新たな番組の制作が大きな課題となった。
同年10月に第1次オイルショックが起こり、NHKには徹底した経費削減が求められた。当時2波だけだったテレビの放送時間が短縮され、翌1974年度の予算も緊縮型となった。その影響でステージ101関連の予算は削減対象となり、やがて公開型の番組に移行すべしという結論に基づいて、番組の終了が決定された。
1974年3月31日午後6時40分、番組最終回の放映が終了すると同時に、ヤング101の44名は全員卒業。『ステージ101』はその歴史に幕を下ろした。
映像と音声の現存・保存状況
放送当時の1970年代にNHKでマスタリングに用いられていた2インチVTRは非常に高価であったため上書き使用が基本だった。このため、番組が終了した1974年にNHKに残された映像は最終回の放送用ビデオテープだけであった。その後、関係者がたまたま録画していた1972年1月19日放送の「開拓」[注 29]が発見され、2016年6月の時点で残っていたのは2本のみであった。
2016年7月1日付のNHKアーカイブスの「NHK番組発掘プロジェクト通信」の「発掘ニュース」No.112では黒柳徹子が2代目の司会者を担当していた頃のモノクロ断片映像が発掘された[11]ことが明らかにされ、さらに同ページの「思い出・コメント」欄にて他にもモノクロ、カラー合わせて数時間分の映像が見つかっていることがアーカイブス担当者より言及された。
NHKアーカイブスによって発掘テープには録画に使用されたビデオレコーダーの関係でモノクロ録画も含まれ、これまで現存していないとされていた初代司会者の関口宏の時代(1970年1月10日 - 1970年9月26日)からは、1970年1月24日放送の第3回が発掘された[12]。また、黒柳徹子の時代(1970年10月10日 - 1971年9月22日)からは、1971年9月15日放送が、ゲスト出演した三木鶏郎が録画したテープに映像状態が不安定ながらも再生可能な状態で残存していた事も報告された[13]。また、2018年4月20日・27日の「発掘ニュース」では田中星児から提供された1971年から1972年度前半のモノクロ録画・1972年度後半から1973年度までのカラー録画による部分映像の提供が特集された[14][15]。
2018年4月6日から「発掘ニュース」で番組の発掘テープが特集され、4月13日の同ページで全編残存、もしくは欠落部が存在するがほぼ全編が存在する発掘テープが以下の合計13本になった[16]事が明らかにされた。
- 1970年1月24日
- 1971年9月15日
- 1972年1月19日(「開拓」)、5月28日、6月25日、8月13日
- 1973年11月11日、12月2日、12月9日
- 1974年1月27日、3月3日、3月17日、3月31日(最終回)
「開拓」・番組最終回の映像と、発掘映像の内9本はNHKアーカイブスと全国のNHK公開ライブラリーで視聴可能である。また、発掘プロジェクトではこの「ステージ101」を発掘し続け、放送回数170回の内、140回分のテレビ音声や映像を収集している。
2021年5月21日、5枚組CDボックスセット『ステージ101 GO!』が発売。ヤング101とメンバーのソロ活動のレコードからの音源に加えて、メンバーのまきのりゆきが番組終了時に番組制作の音声係から受け取って45年間保管していた6 mmの音声テープ[17][注 30]からの音源が収録された。
また、メンバーの青木マスミこと八月真澄から、彼女が知人のNHK美術部員に撮影してもらって長年保管していた最終回のリハーサル映像(8ミリフィルム・音声なし)がNHKアーカイブスに提供された[18]。
2023年12月19日、NHKアーカイブスが発掘した初出の洋楽カバー集『ステージ101 ポップスを歌う』が発売。放送当時のモノラル音源で、全19曲を収録[19]。
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番組終了後の動向
要約
視点
NHKの若者向け音楽番組
2023年現在もNHKでは若者向け音楽番組が趣向を変えながらも続いている。
- 総合テレビ
- 『レッツゴーヤング』[注 31](1974年4月 - 1986年4月)日曜18時
- 『ヤングスタジオ101』(1986年4月 - 1988年3月)日曜18時
- 『ジャストポップアップ』(1988年4月 - 1991年3月)土曜夕方→金曜深夜
- 『ポップジャム(POP JAM)』(1993年4月 - 2007年3月)土曜夕方(単発)→週末深夜
- 『MUSIC JAPAN(通称MJ)』(2007年4月 - 2016年3月)平日深夜→日曜夕方→木曜夜→日曜深夜
- 『シブヤノオト』(2016年4月 - 2022年3月)月1回不定期(単発)→土曜深夜→土曜夜
- 『NAOMIの部屋』(2016年4月 - 2018年3月)月1回不定期(単発)
- 『Venue101』(2022年4月 - )土曜夜枠
- BS2
- 『サンデーヤングミュージック』(1993年 - )日曜18時
ヤング101の再結集
番組が終了してから14年後、1988年5月の『NHKビデオギャラリー』で『ステージ101』が取り上げられ、一城みゆ希らがゲスト出演。これを機に元メンバーをはじめ、かつての出演者やファンらが、ヤング101の復活を目指した活動を開始することとなる。
1993年8月14日に放映された『第25回思い出のメロディー』では、元メンバー17名[注 33]が結集して、『ステージ101』の最終回のフィナーレで歌われた「涙をこえて」を披露した。
2001年10月13日には、インディーズレーベルのウルトラ・ヴァイヴから『ステージ101』の2枚組ベストアルバムCD『ステージ101ベスト』が発売され、3500枚を売り上げた[20]。
2002年8月10日に大宮ソニックシティから生中継された『第34回思い出のメロディー』でも元メンバー26名[注 34]が結集して「怪獣のバラード」と「涙をこえて」をメドレーで披露した[21][注 35]。
2003年10月21日夜、22日昼・夜の計3回にわたり、シアターコクーン(Bunkamura内)にて、ヤング101復活コンサート『ステージ101〜明日に架ける橋』が行われた。歴代メンバー88名の半数に近い37名が約30年ぶりにヤング101を再結成して和田昭治、ダンサーズ101と共に出演し[22]、永六輔、黒柳徹子、関口宏、マイク真木、前田美波里、上條恒彦らがゲスト出演した。さらに、かつてプロたちに選ばれたヤング101が選ぶ側に回り、若い世代のタレントの卵を発掘し新たに「ヤング101Jr.」を結成させ、復活コンサートで共演した。22日夜の部の模様は後日NHK BS2で放送された。
こうした盛り上がりを受け、『NHKアーカイブス』は2006年3月に『ステージ101』の最終回をノーカットで放送した。
ナベプロからヤング101に加入して放送終了まで1年3か月間在籍した太田裕美は、『きよしとこの夜』にゲスト出演した際、「ズンドコタイムトラベル」のコーナーで『ステージ101』のVTRが流されると、自分が青春を過ごしたCT-101スタジオで『きよしとこの夜』の収録が行われていると知って驚いたと述べた。
2016年3月6日放送の新・BS日本のうた(NHK BSプレミアム)の「あの歌に再会」というコーナーにいづみ朱子、ザ・チャープス、田中星児を始めとする元メンバー16名[注 36]が出演して、テーマ曲の「ヤッポン!」「人生すばらしきドラマ」「涙をこえて」を披露した。
2018年7月28日、NHKアーカイブスが開催した『ステージ101』スペシャル上映会に元メンバー15名[注 37]が出席した。一城みゆ希が司会を担当し、他の元メンバーも舞台挨拶を行なった[17]。
放送終了から50年以上が経過して、元メンバーには亡くなった者も、今なお第一線に立ち続けている者もいる。
放送時間
- 1970年1月10日 - 1971年4月3日
- 毎週土曜日 20:00 - 21:00
- 1971年4月7日 - 1972年3月29日
- 毎週水曜日 20:00 - 20:45
- 1972年4月9日 - 1973年4月1日
- 毎週日曜日 19:20 - 20:00
- 1973年4月8日 - 1974年3月31日
- 毎週日曜日 18:00 - 18:40
歴代音楽監督
※ほかに三沢郷、前田憲男、服部克久などが「音楽」担当としてクレジットされていた。また、シング・アウトの一員としてヤング101に加入して1971年9月まで在籍した樋口康雄が、卒業した後には作・編曲に関与した。
出演者
要約
視点
歴代司会者
- 初代:関口宏(1970年1月10日 - 1970年9月26日)
- 2代:黒柳徹子(1970年10月10日 - 1971年9月22日)
- 3代:マイク真木・前田美波里[23](1971年10月6日 - 1972年3月29日)
1971年4月14日からヤング101の泉朱子が司会者に加わった。1972年3月末にマイク真木夫妻が降板した後は、ゲストが一カ月交代で泉と司会を行ない、泉が9月末に番組を卒業すると、10月からはヤング101の若子内悦郎、西玲子らが後を引き継いだ。
ヤング101
※出典[24] [25] [26] [27] [28]に基づいて、メンバー名を在籍当時の名字の五十音順に列記した[注 38]。太字は番組終了時の在籍者。()内は番組での愛称と出演した期間を示す。アップルズ、シング・アウト、ザ・チャープス、ザ・バーズ、ザ・バロン、ワカとヒロのメンバーは末尾に示した。ヤング101在籍前後の活動や在籍中のソロ活動については、脚注や各々のページを参照のこと。
- 相沢忠彦(アイちゃん、1971年7月7日 - 1974年3月31日)
- 青木マスミ(アオちゃん、1971年7月7日 - 1974年3月31日)[29][注 39]
- キャンディー浅田(1973年10月21日 - 1974年3月31日) [注 40]
- 井口典子(ノコ、1970年1月10日 - 1973年4月1日)[注 41]
- 池田美和(イケちゃん、1970年1月10日 - 1971年4月3日、シング・アウト)[30][31][注 42]
- 石岡ひろし(ひろし、1970年1月10日 - 1972年8月20日)[32][33][注 43]
- 石川裕子(1973年10月21日 - 1974年3月31日、アップルズ)[注 44]
- 泉朱子(シュコ、1970年1月10日 - 1972年9月24日)[34][注 45]
- 一城みゆ希(みゆ希、1970年1月10日 - 1972年9月24日)[注 46]
- いとう朋彦(トモ、1973年4月8日 - 1974年3月31日)[注 47]
- 伊藤悟(ジャイアント、1973年4月8日 - 1974年3月31日)[注 48]
- 伊藤三礼子(ミレ、1971年7月7日 - 1974年3月31日)[注 49]
- 井上稔(コンコン、1971年7月7日 - 1974年3月31日)
- 江崎英子(グリ、1970年1月10日 - 1973年4月1日)[注 50]
- 江崎和子(エミちゃん、1970年1月10日 - 1971年4月3日、シング・アウト)
- 大城孝治(コージ、1973年1月21日 - 1974年3月31日)
- 太田裕美(ヒロミちゃん、1973年1月21日 - 1974年3月31日)[注 51]
- 大原マリ子(1973年10月21日 - 1974年3月31日、アップルズ)[注 52]
- 小野寺正夫(1973年10月21日 - 1974年3月31日)
- 小原初美(ハツミちゃん、1970年1月10日 - 1973年4月1日)[注 53]
- 温碧蓮 (オンちゃん、1970年1月10日 - 1973年4月1日)[注 54]
- 加藤芽久美(メミ、1972年10月1日 - 1974年3月31日)
- 加奈綾子(カナちゃん、1971年7月7日 - 1972年9月24日)
- 上市光男(ミツオ、1970年1月10日 - 1971年4月3日)
- 上村優(1973年10月21日 - 1974年3月31日)
- 河内広明(ヒロ、1970年1月10日 - 1974年3月31日、ザ・バロン、ワカとヒロ)[注 55]
- 岸じゅんこ(ジュンちゃん、1973年10月21日 - 1974年3月31日)
- 岸龍也(タツヤ、1971年7月7日 - 1973年4月1日)[注 56]
- 木下とも子(トモ、1973年1月21日 - 1974年3月31日)
- 北美奈々(1973年10月21日 - 1974年3月31日)[注 57]
- 清須邦義(クニ、1970年1月10日 - 1972年3月31日、ザ・バロン)[注 58]
- 串田アキラ(アキラ、1970年1月10日 - 1972年3月31日)
- 工藤たけし(タケシ、1972年6月4日 - 1974年3月31日)[注 59]
- ビル・クラッチフィールド(ビル、1970年1月10日 - 1971年4月頃、シング・アウト)[31][注 60]
- 黒沢裕一(クロ、ユーボー、1970年1月10日 - 1972年3月31日)[35][注 61]
- ケリー・コア(1970年3月 - 1970年9月頃、シング・アウト)[注 62]
- 湖東美歌(ミカ、1973年4月8日 - 1974年3月31日) [36][注 63]
- 小林啓子(オケケ、1970年1月10日 - 1971年4月21日)[注 64]
- 小林善美(おとうさん、1970年1月10日 - 1971年4月3日、シング・アウト)[31][37][注 65]
- さいとうあきひこ(ムーミン、1972年6月4日 - 1974年3月31日)[注 66]
- 佐藤幸平(コッペ、1973年4月8日 - 1974年3月31日)
- 塩見大治郎(ダイちゃん、1970年1月10日 - 1974年3月31日)[注 67]
- 宗台春男(チュンタ、1970年1月10日 - 1973年4月1日、ザ・バロン)[38][注 68]
- 庄司淳(ジュン、1973年4月8日 - 1974年3月31日)[注 69][39]
- 諏訪マリー(マリー、1971年7月7日 - 1974年3月31日)[注 70]
- 惣領泰則(パタ坊、ソーリョー、1970年1月10日 - 1971年4月3日、シング・アウト)[注 71]
- 田頭信幸(エル、1972年10月1日 - 1974年3月31日)[注 72]
- 高木吾郎(ゴロー君、1971年7月7日 - 1972年3月31日)[注 73]
- 高野美千代(ミッちゃん、1970年1月10日 - 1973年4月1日)[40][41][注 74]
- 高橋キヨシ(キヨシ、チョボ、1970年1月10日 - 1972年9月24日)[42][注 75]
- 竹内えり子(ケイコ、チビケイ、1970年1月10日 - 1974年3月31日、ザ・チャープス)[注 76]
- 竹内まり子(チャコ、1970年1月10日 - 1974年3月31日、ザ・チャープス)[注 77]
- 竹内ゆり子(タカちゃん、1970年1月10日 - 1974年3月31日、ザ・チャープス)[注 78]
- 田中星児(セイジ、1970年10月31日 - 1974年3月31日)[注 79]
- 谷山浩子(ヒロコ、1972年10月1日 - 1974年3月31日)[注 80]
- ジュリアン・チェング(1970年10月31日 - 1971年4月21日)[注 81]
- 津島隆文(アー坊、1970年1月10日 - 1973年4月1日)[注 82]
- 豊田順子(ジュンちゃん、1970年1月10日 - 1972年3月29日、ザ・バーズ)[注 83]
- 豊田礼子(レイちゃん、1970年1月10日 - 1973年4月1日、ザ・バーズ)[注 84]
- 中岡淑子(ナカカ、1970年1月10日 - ?、シング・アウト)
- 中川圭子(ドド、1971年7月7日 - 1973年10月21日)[注 85]
- 中山エミ(1973年4月8日 - 1973年10月21日)[43][注 86]
- 長沢澄子(オスミ、1970年1月10日 - 1973年4月1日)[注 87]
- 西玲子(ニック、1971年7月7日 - 1973年10月21日)[注 88]
- 畑山佳代(1973年10月21日 - 1974年3月31日、アップルズ)[44][注 89]
- 浜岡万紗子(マサコ、1973年4月8日 - 1974年3月31日)[注 90]
- 早川節子(セッちゃん、1973年4月8日 - 1974年3月31日)
- 速水雄二(ジョージ、1973年4月8日 - 1974年3月31日)
- 原田時芳(クマさん、1970年1月10日 - 1971年4月3日、シング・アウト)[注 91]
- 東俊(1973年4月8日 - 1973年10月21日)[注 92]
- 樋口康雄(ピコ、1970年1月10日 - 1971年9月22日、シング・アウト)[注 93]
- 広美和子(チョロ、1971年7月7日 - 1974年3月31日)[注 94]
- 藤島新(フジシン君、1971年7月7日 - 1973年4月1日)[注 95]
- 藤村泰介(1973年10月21日 - 1974年3月31日)[注 96]
- まきのりゆき(のり坊、1971年7月7日 - 1974年3月31日)[注 97]
- 牧ミユキ(トミー、1970年1月10日 - 1972年9月24日)[45][注 98]
- 桝川譲治(1973年10月21日 - 1974年3月31日) [46]
- 三國真理子(ミク、1973年4月8日 - 1974年3月31日)
- 水木誠(マコ、1970年9月5日 - 1972年11月26日)[注 99]
- 宮川裕史(1973年10月21日 - 1974年3月31日)
- 宮口森也(1970年1月10日 - 1970年8月頃、シング・アウト )[注 100]
- 向山照愛(ドンちゃん、1970年1月10日 - 1971年4月3日、シング・アウト)[31][注 101]
- 八代かずみ(デコちゃん、1971年7月7日 - 1973年10月21日)[注 102]
- 山崎功(ヤマちゃん、1972年6月4日 - 1974年3月31日)[注 103]
- 山田美也子(ミヤちゃん、1971年7月7日 - 1973年4月1日)[注 104]
- やまべ星子(1973年10月21日 - 1974年3月31日)
- リディア(1970年1月10日 - 1970年3月頃、シング・アウト )
- 若子内悦郎(ワカ、1970年1月10日 - 1974年3月31日、ザ・バロン、ワカとヒロ)[注 105]
メンバーの変遷
※各メンバーの在籍期間に加えて、各司会者の在任期間とNHKアーカイブスに完全もしくはほぼ完全に残存する映像が保存されている放送回の放送時期を示す。
※名前の表記と情報の詳細については注釈を参照のこと[注 106][注 107][注 108]。

その他の出演者
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放送日程
要約
視点
※NHKアーカイブスに完全もしくはほぼ完全に残存する映像が保存されている放送回を*で示す。ゲストは原則として五十音順に表記。
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楽曲
番組テーマソング
歌はいずれもヤング101。
オリジナルソング
ステージ101のオリジナルソングとして、以下の曲が番組で披露された[27]。
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ディスコグラフィ
要約
視点
オリジナル・アルバム
概要
番組の人気が高まり、番組オリジナル・ソングが増えてきた1971年4月5日、EXPRESS/東芝音楽工業(東芝レコード)からステージ101名義のアルバム『ステージ101』が発表された。NHK芸能局の三ツ橋実の解説[50]には
番組発足の時から、なるべく早い機会にヤング101のLP出版(ママ)を実現したいと思っていましたが、何しろ番組制作のスケジュールやトレーニングに追われて、なかなか思うように行かず、いささか焦り気味の感さえあります。ですから今回の場合は、ヤング101の全員参加ではなく、いわばピックアップ・メンバーによる作品となった訳です。
とあり、メンバー全員ではなく一部が参加して制作された[注 115]。また
曲目の殆どは「ステージ101」のオリジナル・ソングで構成されておりますが、ソロをとった諸君は必ずしも、TVの場合と同一の人ではありません。これは我田引水になりますが、番組でも、ソロの人選に迷う位、人材が豊富です。今回の盤を聞いても(ママ)、それぞれ個性を十分発揮しているようできっとご満足いただけると思います。
とあり、収録曲の幾つかには番組とは異なるソリストが選ばれ、その選択に合わせて新しい編曲が施されていた。
東芝レコードからは続いて『ステージ101 ニュー・フォークの世界』(1971年9月5日)、さらに『ステージ101 若い旅』(1972年1月7日)が発表され、これら3作のアルバムはオリコンチャートに入る売り上げを記録した。一方、『ステージ101』が発表された2か月後にCBSソニーから『NHKステージ101 サイモンとガーファンクルを歌う』(1971年6月1日)が発表された。以後、1973年12月までステージ101名義のアルバムが東芝レコードとCBSソニーという二つの大手レコード会社から発売され続けた。編曲は番組の歴代音楽監督である中村八大、和田昭治、東海林修、宮川泰の他、奥村貢、三沢郷、山屋清、元ヤング101の樋口康雄[注 116]らが担当した。東海林が編曲とプロデュースを担当したアルバム『ぼくら青春の日々』(1973年3月21日)には、林立夫(ドラムス)、鈴木茂(ギター)、細野晴臣(ベース・ギター)が参加した。
1973年7月、東芝レコードから元ズー・ニー・ヴーの町田義人との共作アルバム『白いサンゴ礁』が発表された。このアルバムにはズー・ニー・ヴーが1969年に放ったヒット曲「白いサンゴ礁」「可愛い貴方だから」のカバーや樋口が書き下ろした「100円の幸福」が収録された[注 117]。同年11月にはトリオ・レコードからアルバム『アニタ・カー ヤング101 ピコ』が発表された。この作品はMCAレコードの楽曲集であり、前年12月に日本人として初めてMCAと作家契約を結んだ樋口が、彼と同様にMCAと契約していたアメリカ人の編曲家のアニタ・カーと共同で編曲を担当した。
番組終了後の1974年5月に、キャニオンからアルバム『さよならステージ101』が発表され、オリジナル・アルバムは合計18作になった[注 118]。
LP
- 東芝レコード
- ステージ101(ETP-8069)1971年4月5日)
- ステージ101/ニュー・フォークの世界(ETP-8115)1971年9月5日
- ステージ101/若い旅(ETP-8151)1972年1月7日
- ステージ101/赤い屋根の家(ETP-8172)1972年4月25日
- ステージ101/怪獣のバラード(ETP-8198)1972年9月5日
- ステージ101/愛の限界(ETP-8222)1972年12月20日
- ステージ101/ロッカ・バラード・スペシャル(ETP-8249)1973年5月5日
- 町田義人&ヤング101/白いサンゴ礁(ETP-8262)1973年7月5日
- ステージ101/スタジオ・ライヴ!(ETP-8268)1973年9月5日
- ステージ101/ビートルズ・ソング・ブック(ETP-9093)1973年12月1日
- CBSソニー
- NHKステージ101/サイモンとガーファンクルを歌う(SOND-66056)1971年6月1日
- NHKステージ101/ヤング訪問!!(SOLJ-11)1972年4月21日
- NHKステージ101/サイモン&ガーファンクル・ベスト (全訳)(SOLJ-23)1972年6月1日
- NHKステージ101/ぼくら青春の日々(SOLJ-56)1973年3月21日
- NHKステージ101/ぼくら心のふるさと(SOLJ-87)1973年9月21日
- NHKステージ101/ヤング集合!!(SOLJ-91)1973年12月21日
- トリオ
- アニタ・カー ヤング101 ピコ(3A-1010)1973年11月21日
- キャニオン
- さよならステージ101(AV-3012)1974年5月25日
CD(オリジナル・アルバムの復刻版)
編集アルバム
LP
CD
- ステージ101ベスト(Ultra-vibe、CDSOL-1043)
- ワカが選ぶみんなのステージ101(Ultra-vibe、CDSOL-1051)
- GOLDEN☆BEST / ステージ101 ヤング青春の日々(Sony Music House、MHCL240-1)
- ステージ101 GO! / ヤング101(CSレコード、DQCL 3611-15)
- ステージ101 ポップスを歌う(CSレコード、DQCL-799)
EP(シングル)
シングル
- 愛するハーモニー / 愛するハーモニー(CBSソニー、SOLA-19)1972年4月21日
- 怪獣のバラード / 初恋の場所(東芝、ETP-2710)1972年7月25日
- 恋人よ飛んでおいでよ / 恋人よ飛んでおいでよ (インストゥルメンタル)(CBSソニー、SOLA-20)1973年4月1日
- ヴァケイション / ザ・ロコモーション(東芝、ETP-2853)1973年6月25日
- ビューティフル・サンデー / ミスター・ロンリー(東芝、ETP-20265)1976年4月20日
4曲入りEP
- ステージ101(東芝、ETP-4285)1971年
- ベスト・フォー(東芝、ETP-4312)1972年
- ステージ101(東芝、ETP-4323)1972年
- BEST4(東芝、ETP-4338)1972年
- BEST4(東芝、ETP-4339)1972年
- 明日に架ける橋(CBSソニー、SOLE-21)1973年
- 心の旅(CBSソニー、SOLD-28)1973年
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ヤング101の『ステージ101』以外の活動
NHK総合テレビジョン
NHK教育テレビジョン
- 『A Step to English』
- 英語の歌の披露[57]
映画
ソロ活動
→詳細は「ステージ101またはヤング101の作品 § ヤング101のソロ・レコード」を参照
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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