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ファミリーコンピュータのゲームタイトル一覧

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ファミリーコンピュータのゲームタイトル一覧(ファミリーコンピュータのゲームタイトルいちらん)では、日本で発売されたファミリーコンピュータおよび日本国外で発売されたNintendo Entertainment System(以下:NES)対応のゲームソフトを発売順に、また発売されなかったタイトルおよび非ライセンスタイトルを列記する。


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発売ソフトの形態・変遷

要約
視点
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ファミリーコンピュータの本体。
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Nintendo Entertainment System(NES)
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ファミリーコンピュータ用カートリッジの例。
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ラベルの貼られていないNES用カートリッジ。

1983年7月15日に任天堂が発売したファミリーコンピュータは、アーケードゲーム『ドンキーコング』をそのまま遊べるようにするというコンセプトのもとで開発され[1][2]、同じくアーケードゲームからの移植である『ドンキーコングJR.』『ポパイ』と合わせた3タイトルがローンチタイトルとなった[1]。ゲームセンターでしか遊べなかったゲームが家庭でも遊べることは子供達にとって魅力的なものであり[3][注 1]、また本体価格は子供の買える値段とは言い難いものの、試遊コーナーを設ける玩具店やデパートも見られた[3]。その2か月後の1983年9月9日にはアーケードゲームからの移植作である『マリオブラザーズ』が発売され、同作はファミコン初期の代表作となった[5]。とはいえ、1983年の年末から年明けまでに発売された作品の多くは『五目ならべ 連珠』など、対戦要素のある実在のスポーツやボードゲームのゲーム化だった[6]。これらの作品はCPUとの対戦により1人でも遊べるため、子供の保護者が楽しんでいた例も見られた[6][7]。1984年には、周辺機器・光線銃を発売したものの、費用上の理由からそこまで普及しなかった[8]

当初任天堂はソフト全てを自社作品で賄う方針だった[2]。しかし、本体を発売した頃にハドソンに対して周辺機器の1つであるファミリーベーシックの開発を持ち掛けたことでハドソンはファミリーコンピュータへの参入を決め、初めてのサードパーティー作品として『ナッツ&ミルク』と『ロードランナー』(1984年7月20日)が発売された[9]。次いで、独自に本体を解析していたナムコは任天堂から1984年2月中旬頃にソフト開発をする許可を得た[10]。これを受けて、同社のアーケードゲーム『ギャラクシアン』(1984年9月7日)と『ゼビウス』(1984年11月8日)の移植版の発売も決定した[2][注 2]。サードパーティー受け入れの背景には、「ソフトの充実とライバルとの差別化」という目的があった[11]

『ゼビウス』が世間の話題を集める[12][注 3]中、1985年2月にはアーケードゲームを発売していたコナミ工業タイトージャレコアイレム[14]など各所からソフト開発の申し出が任天堂に寄せられた[12][4]。これに対して任天堂はアタリショックの二の舞を危惧したが、ファミコンソフトに特許権がないため、当初は商標権のみで対応せざるを得なかった[12]。その後、あるメーカーが独自に開発したカセットを回収せざるを得なくなった事態の発生により危惧は的中し、任天堂にも苦情が寄せられたため、任天堂がカセットを製造して品質を保証するライセンシー制度の新設が決定した[12][15][注 4]。同様の背景から、北米への輸出に際しては家庭用ゲーム機に対する悪いイメージを払拭するため、名称をNintendo Entertainment System(以下:NES)に変更し、ゲーム機らしさを排する方針を決めた[17]。こうして、Nintendo Entertainment Systemは1985年10月に北米で発売され、後述の『スーパーマリオブラザーズ』ほか複数作品がローンチタイトルとして発売された[18]。一方、欧州ではPC向けソフト会社 Ultimate Play The Gameにルーツを持つレアがNES向けに多種多様なソフトを開発し、様々なパブリッシャを通じて世に送り出していった[19]

ファミコン発売当時は、ハードの製造元が倫理審査を担う仕組みがとられていた[20]。その一方で、ナムコやコナミなどのサードパーティ7社は、カセットの製造を認められており[15]、独自のデザインをカートリッジに施した例[注 5]や、任天堂では扱えないような作品を引き受けること[注 6]もあった。

当時はゲームが子供に与える影響が日本の国会で取り上げられたり、メディアでゲームに対する批判が取り上げられるなど、ファミリーコンピュータに対する否定的な意見が多かったが、1985年9月に発売された『スーパーマリオブラザーズ』では子供のみならず大人も夢中になって遊ぶほど人気となり、ゲームの持つ明るさや面白さで否定的な印象が払拭された[23]。任天堂としてはROMカセットより容量が多く、原価も安い[24]クイックディスクを基にした周辺機器ディスクシステムへの移行を考えており[23]、『スーパーマリオブラザーズ』がカセットで出す最後のソフトのつもりだったものの、以後もカセットでの出荷が続いた[25]。この『スーパーマリオブラザーズ』のようにディスクよりも低容量のカセットで世界的な反響を得られたという結果は、任天堂にとって予想外だった[23][注 7]

『スーパーマリオブラザーズ』以後、任天堂はディスクシステムに注力したため、『マッハライダー』(1985年11月21日)から『マイクタイソン・パンチアウト!!』(1987年11月21日)までの2年間はROMカセットで新規タイトルを発売しなかったが、この間にパソコンゲームを発売していたエニックスが参入し、ファミリーコンピュータ初のアドベンチャーゲームとなる『ポートピア連続殺人事件』(1985年11月29日)や同じく初となるロールプレイングゲーム『ドラゴンクエスト』(1986年5月27日)を発売するなどパソコンで人気のあるジャンルを展開し、いずれの2作もヒットした[26]。この辺りから、テレビゲームの変化[注 8]をファミリーコンピュータに関わる当事者も感じるようになった[27]。エニックス以降も、『ドラゴンクエスト』に触発されたスクウェアが『ファイナルファンタジー』(1987年12月18日)を発売し、後に両タイトルはドラゴンクエストシリーズファイナルファンタジーシリーズとして人気を博していった[28]。また同じく、パソコンで当時は人気が得られたシミュレーションゲームだった光栄の『信長の野望・全国版』(1988年3月18日)やボーステックの『大戦略』(1988年10月11日)などが移植された[29]。オリジナル作品においては、カプコンのアクションゲーム『ロックマン』(1987年12月17日)はステージの攻略順がプレイヤーの任意である点や、倒したボスの武器を使えるようになるという点が人気を集め、シリーズ化された[30]。中でもシリーズ第2作の『ロックマン2 Dr.ワイリーの謎』は「E缶」をはじめとする補助アイテムの導入が後続のロックマンシリーズにも引き継がれ、後に同人作品[注 9]も登場した[31]

以上挙げたライセンシー以外にも音楽企業のポニーキャニオン、出版企業の徳間書店東京書籍、映画会社の東宝東映、玩具メーカーのバンダイなど異業種やライバル企業の参入も相次ぎ[32]、日本では最終的に発売元は99[注 10]まで増えた[33]ことで発売されたソフトのラインナップも多様化し、サードパーティーによってファミリーコンピュータの人気は支えられた[32]。このようなソフトの中には、ゲーム雑誌が何らかの形でかかわった作品もあった[34][注 11]

一方で多様化によって、上記のような高評価を得られなかったタイトルも登場した。例えば漫画などのゲーム化の場合、『シティ・アドベンチャー タッチ ミステリー・オブ・トライアングル』(1987年3月発売)[35]や日本国外のみで発売されたFriday the 13th[36]では、原作との内容の乖離が指摘されていた。また、原作の内容がファミリーコンピュータの仕様やプレイ環境にそぐわなかったケース[注 12]や、国によって人気に差が出てしまったケース[注 13]もあった。

このほかにも、様々な事情から、内容の一部を差し替えた上で、日本国外で発売した作品もあった。たとえば、ディスクシステム用ソフト『夢工場ドキドキパニック』はカセット向けに移植される際、主人公[注 14]をマリオシリーズのキャラクターに変更したうえで"Super Mario Bros. 2"として日本国外向けに発売された[39]。のちに同作が日本でもカセット作品『スーパーマリオUSA』として発売された結果、キャサリンヘイホーといった『夢工場ドキドキパニック』を初出とする敵キャラクターがマリオファミリーの一員として認知されるようになった[40]。また、『ディジャブ 悪夢は本当にやって来た』の場合、北米版ではタイトルロゴのスコッチウィスキーが硬貨に差し替えらたほか、死体や流血といった表現が削除されている[41]。他機種(またはアナログゲーム)からの移植でも同様に、一部の要素が削除・変更されたケースもあった[注 15]

1990年11月21日に次世代機としてスーパーファミコンが発売されて以降、ファミリーコンピュータの人気作の続編が次々とスーパーファミコンに進出し、ファミリーコンピュータの市場は衰退していった[43]。1991年に発売された作品のうち、サンソフトの同名マスコットキャラクターを主人公とした『へべれけ』(1991年9月発売)は、独特の世界観やキャラクター性が人気を集めた[44]。一方、5月に発売された『メタルマックス』は、当時としては珍しかったポストアポカリプス的な世界観や、自由度の高さからカルト的な人気を博した[45][46]。1993年に発売された作品のうち、任天堂の『星のカービィ 夢の泉の物語』と『ジョイメカファイト』の2作はどちらもヒット作となった[47]。うち前者はゲームボーイ用ソフト『星のカービィ』に続くシリーズ第2作であり、「コピー能力」や「ミニゲーム」といった要素はシリーズの基礎となった[48][49]。後者は関節などを省略することにより、ファミリーコンピュータでも対戦型格闘ゲームを成立させたことで知られている[50][47]。そして、日本でのライセンスタイトルは1994年6月24日発売の『高橋名人の冒険島IV』が最後となり[51]、北米でのライセンスタイトルはその約半年後に発売された『ワリオの森[52]が最後となった。

他方、任天堂の許諾を得ずにソフトを制作する者もいた。このうち、アタリゲームズの子会社・テンゲンは『パックマン』や『テトリス』など初期の北米向け作品においてはライセンスを取得していたものの、やがてアメリカ合衆国著作権局からファミリーコンピュータのロックシステムのコードを盗用する形で、本体と通信するカートリッジのクローン・Rabbitを作成した[53]。そして、任天堂の正規カートリッジと誤認させる形でロックシステムを回避することでgauntletなどを発売した[53]。その後、テンゲンが任天堂を独占禁止法で訴えた際に、任天堂からコード盗用などを理由に訴訟英語版を起こされ、最終的には任天堂にとって有利な和解で終わった[53][17]。また、テンゲンが北米で発売していた『パックマン』についても、1993年にナムコから再販されることとなった[54]

各国のライセンスタイトルの供給が終わった後も、海賊版など許諾を得ずに作られたソフトの供給は続いていた[注 16]。21世紀以降も『ミスタースプラッシュ』[57]などの互換タイトル(非ライセンス)が開発・発売されており、新規タイトル数は増え続けている。一方、正規品やFC互換タイトルの偽物も出回るようになった[注 17][59][56]

プラットフォームとしての展開終了以降、ドラゴンクエストシリーズなどファミリーコンピュータが初作で人気を得てシリーズ化された作品はプラットフォームが変わって以降も継続的に新作が発売されている。また、ファミリーコンピュータ用タイトルの一部は他タイトルにミニゲームとして収録されたり[注 18]、『Rare Replay』といったオムニバス作品への収録[61]、さらにはバーチャルコンソールなどのダウンロードサービスで配信されるなど、ファミリーコンピュータ以後に発売されたプラットフォームでも遊べる[注 19]。また、元々が海賊版であっても権利を侵害する箇所が修正され、正規のソフトとして発売された例もある[注 20]

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発売されたタイトル

要約
視点
さらに見る 目次 ...


本節の「発売されたタイトル一覧表」には合計で「1384」のゲームタイトルを発売日・発売元とともに列記している。また「地域ごとの発売年一覧表」には1983年から1995年に発売されたゲームタイトル数を地域および年に分けて列記している。なお任天堂の「発売ソフトタイトル数推移表」によると、発売された合計タイトル数は日本が1,047、北米が679、その他が351であり[63]、差が存在する[注 21]ことに注意されたい。

さらに見る 地域, 1983年 ...

以下「発売されたタイトル一覧表」の「備考」列にはゲームタイトル名から想起できるゲーム内容およびジャンルを簡潔に記載することとし、タイトル名から超えたゲームの内容(地域によって内容が異なる場合を除く)や制作に関わったスタッフなどの詳細情報は記載しない。 具体的には以下の通り。

「脚注」列には「備考」列に記載した文章の出典や、発売元の発売日を記した出典などを記載する。タイトルの列挙に関して、発売日が同日のタイトルは50音順とする。

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非売品

さらに見る 作品名, 配布元 ...

発売されなかったタイトル

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非ライセンス品

現行製品当時の非ライセンス品

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本体サポート終了後の同人作品

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備考

  • 『ナッツ&ミルク』及び『ロードランナー』(1984年7月20日発売)までの全発売ソフトの発売当初の定価は3,800円だった(ファミリーベーシックは除く)。
  • 『デビルワールド』(1984年10月5日発売)以降、箱がやや大きめのサイズに変更された。
  • 任天堂発売のタイトルについては同日発売の『4人打ち麻雀』と『F1レース』(1984年11月2日発売)以降、カセットに貼られるシールがパッケージと同様のイラスト入りのものになった。それ以前は光線銃シリーズのみイラストが入れられていたが、その後他の旧タイトルについてもこのスタイルに統一された(ピンボールとファミリーベーシックとドンキーコング3は除く)。
  • ゲームセンターCXのファミコン編の最終回では最後のゲームタイトルの『高橋名人の冒険島IV』が紹介がされず、1つ前の『Jリーグウイニングゴール』の紹介でファミコン編が約7年間(1985年以降)で終わった。
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脚注

参考文献

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