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井上慶太
日本の将棋棋士 ウィキペディアから
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井上 慶太(いのうえ けいた、1964年1月17日[1] - )は、将棋棋士、九段。若松政和八段門下[2]。棋士番号は157[1]。兵庫県芦屋市出身[1][3]。
日本将棋連盟棋士会副会長(2011年4月 - 2015年6月)、日本将棋連盟非常勤理事(2015年6月 - )、同連盟常務理事(2017年2月 - )[注 1]。
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棋歴
- 1978年、神戸市立高倉中学校3年のとき、中学生名人戦で準優勝(優勝は達正光)[4]。翌1979年、兵庫県立星陵高等学校1年の高校選手権で3位となり(優勝は古作登)、高校を中退して奨励会に入会[5]。高校1年での入会は非常に遅い方である。入会から3年余り経った1983年2月4日の対局で神吉宏充に勝ち、成績を13勝3敗として四段に昇段、プロ入りを果たす[2]。
- 1985年度、新人王戦で棋戦初優勝(決勝三番勝負の相手は森下卓)。翌1986年度には若獅子戦で優勝。1987年度の第36期王座戦で南芳一、米長邦雄、真部一男を破りベスト4に進出した。翌1988年度の王座戦でも米長らを破りベスト4。しかし、当初は順位戦との相性は悪かった。1988年度の第47期順位戦C級2組では、勝てば昇級という最終局で逆転負けを喫する。しかし、兄弟子の谷川浩司から送られた「報われない努力はない」との手紙に勇気付けられ[注 2]、翌年、7期目の順位戦にして初の昇級を勝ち取る。
- 1993年度の第52期順位戦C級1組では、タイトル経験者の屋敷伸之、郷田真隆らを破り10戦全勝でB級2組へ昇級。さらに、1995年度、1996年度の順位戦では、2年連続昇級を決めて、一気にA級八段となる。
- 初のA級順位戦(1997年度)では、最終9回戦の対島朗戦で横歩取り8五飛戦法[注 3]を用いて勝利。自身が5勝4敗でA級残留して米長邦雄(4勝5敗)をA級からの陥落に追い込み、また、同戦法が一躍注目を浴びるきっかけともなった。
- 翌年度(1998年度)のA級順位戦は、最終局で自分が負けても兄弟子の谷川が島朗に勝てば降級を逃れるという展開となったが、井上、谷川ともに敗れたことにより、井上は降級となってしまった。
- 竜王戦のランキング戦では、1993年度(第6期)に5組優勝、1996年度に4組優勝、1999年度に3組優勝、2001年度に2組優勝と、通算4回も優勝を記録。
- 2008年度の第67期B級1組順位戦で、混戦の中頭一つ抜け出して、A級復帰を決める。11期振りのA級復帰は、原田泰夫(14期振り)に次ぐ2番目の記録。
- 2011年3月3日の対局(第61期王将戦一次予選・対伊藤博文戦)で勝ち、八段昇段後250勝により九段昇段[2]。なお、この時点での通算成績は、635勝456敗(勝率0.5820)。
- 第84期順位戦を満61歳・C級1組在籍・降級点無しの状態で迎えた時点で、以降の順位戦及び竜王戦における成績にかかわらず、フリークラスの定年を超過して(短くとも満66歳・2029年度の全公式戦が終了する日まで)現役を続行できることが確定した。
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棋風・エピソード
- 居飛車党であるが、振り飛車党のような軽快な捌きを重んじる軽い棋風である。
- プロ棋士としては珍しく、終盤まで居玉のまま勝利した経験を持つ。(2017年1月27日・第43期棋王戦予選・対星野良生戦・手数99手)
- 羽生善治が1996年2月14日に七冠独占を達成した6日後の2月20日、オールスター勝ち抜き戦で井上が羽生に勝ち、「羽生七冠」に初めて勝った棋士として話題となった[4]。
- 順位戦A級・竜王戦1組在籍経験者でありながら、タイトル戦登場だけでなく、その挑戦者決定戦への進出もいまだに果たしていない。このことは「将棋界の七不思議」のひとつとされる。段位も九段でタイトル経験者でもありながらA級在位歴が無い、福崎文吾や中村修とは逆の立場である。
- 子供大会の景品に用意していたアマチュア発の戦法「嬉野流」の定跡本を見たのをきっかけに2022年の公式戦で戦法の採用を始めた。戦績は1年間で9局4勝5敗であったが、敗戦局でも中終盤を優位に進めていたことや、同時期に村田顕弘が嬉野流に独自の工夫を加えた「村田システム」を公式戦で採用するなどしたことで、嬉野流が他のプロ棋士にも注目されるようになり、戦法開発者の嬉野宏明が2022年度の将棋大賞升田幸三賞を受賞している[6]。
- 二人の藤井六段との因縁
- B級2組で迎えた1995年度順位戦は9勝1敗で1期抜けを遂げたが、当期における唯一の黒星である1995年12月22日の7回戦・対藤井猛六段戦は、井上が居飛車穴熊に組もうとしたところ、「藤井システム」の前に47手で惨敗した一局である(対居飛車穴熊の藤井システムの1号局)。当時、井上の居飛車穴熊は天下一品と言われていたが、それゆえ、藤井猛の標的にされてしまった[注 4]。
- 2018年3月28日、前月に朝日杯将棋オープン戦で史上最年少の棋戦優勝を遂げ六段に昇段した藤井聡太と、第68期王将戦一次予選で対局し勝利し、藤井の四段時代から続いていた連勝を16で止め、六段昇段後初の黒星を付けた[3]。藤井は井上戦以降に再び連勝を続け、2018年5月18日の第31期竜王ランキング戦5組準決勝で船江恒平を破って竜王戦の昇段規定を満たし史上最年少七段となったため、井上は「藤井聡太六段」に唯一の黒星をつけた棋士となった[3]。
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人物
- 兄弟子である谷川浩司の良き飲み友達である。また、谷川と同じく大の阪神タイガースファン(阪神ファン)であり、谷川を特集した毎日放送『情熱大陸』では、甲子園球場で谷川と一緒に阪神を応援している姿が放送された。谷川は「タイガースに対する思いは井上に負ける」と語っている。日本将棋連盟関西本部からタイガース所属選手に名誉段位や賞状などを贈呈する際は、阪神タイガースのレプリカユニフォームを着用している。
- 1992年に結婚した妻は、かつて関西将棋会館の売店職員だった[7]。新居を探していたときに偶然、加古川市内のマンションに当選したことが移住のきっかけである[8]。
- 1981年の王位戦予選、淡路仁茂 対 中田章道の339手に及んだ将棋で記録係を務めていた。深夜に及ぶ対局で尿意を催してしまい、限界になりそうなところ、当時奨励会員だった長沼洋が様子を見に来てくれたために、惨事を免れた。
- 棋士仲間でのあだ名は「キューピー」である。これは顔の風貌と、笑ったとき頬にエクボが出来るからである[9]。ベビーフェイスなため、パンパースとも呼ばれていた。将棋ファンからは「ケイタ」と呼ばれることが多い。
一門
居住地の加古川市で「加古川将棋倶楽部」を主宰し[8][10]、ここから複数の棋士、女流棋士、奨励会員が育っている。
- プロ棋士となった弟子は以下の9名(2025年4月1日時点)。
- 女流棋士となった弟子は以下の1名(2025年4月1日時点)。
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昇段履歴
→昇段規定については「将棋の段級」を参照
主な成績
一般棋戦優勝
- 優勝合計 2回
将棋大賞
- 第21回(1993年度) 勝率第一位賞
在籍クラス
→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
年度別成績
日本将棋連盟 表彰
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その他表彰
著書
- 井上慶太の居飛車は棒銀で戦え(2016年6月14日、NHK出版、ISBN 978-4140162422)
- 居飛車奇襲戦法(2002年7月、創元社、ISBN 4-422-75081-X)
- 粉砕振り飛車破り―最新の急戦策で振り飛車を撃破する!(2001年7月、創元社、ISBN 4-422-75078-X)
- 四人将棋入門(共著、1994年7月、クレオ、ISBN 4-906371-47-7)
脚注
注釈
- “日本将棋連盟新役員のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. www.shogi.or.jp. 2024年8月8日閲覧。
- 船江は非公式戦ではあるが、藤井から勝利を上げている(第4回ABEMAトーナメント)
脚注
関連項目
外部リンク
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