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1979年の阪神タイガース
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1979年の阪神タイガース(1979ねんのはんしんタイガース)では、1979年の阪神タイガースの動向をまとめる。
この年の阪神タイガースは、ドン・ブレイザー監督の1年目のシーズンであり、いわゆる空白の一日で渦中にあった江川卓をドラフト1位指名し、江川とのトレードで小林繁が阪神に入団したシーズンである。
概要
前年、球団創設以来初の最下位に沈んだチームは、雪辱を果たすべく前年まで広島のヘッドコーチだったブレイザーを監督に招聘。フロントも親会社から小津正次郎を球団社長に迎え、田中隆造本社社長が新オーナーとなるなど一新。また、ブレイザー監督の片腕として打者育成に定評のあった中西太をヘッド兼打撃コーチとして招聘し、打線の立て直しを図った。投手陣では前述の小林繁が加入し、江本孟紀、山本和行、工藤一彦らとローテを形成。打撃陣ではクラウンから主砲・田淵幸一を放出して獲得した真弓明信・若菜嘉晴・竹之内雅史に加え、この年から4番の掛布雅之、マイク・ラインバック、新外国人のリロイ・スタントンが打線の中心となるなど投打ともに戦力が充実し、開幕前はAクラス候補と言われた。打線は掛布が48本で本塁打王となり、両外国人や移籍組も数字を残しリーグ1位の打率や本塁打数を記録した。投手陣も移籍1年目の小林が古巣の巨人から8勝をあげるなど22勝を挙げ、江本・山本・工藤もローテを守ったものの、防御率・失点数共にリーグ5位と低迷。開幕後の4月には藤田平が太ももの肉離れでシーズンを棒に振るアクシデントもあった。チームは前半戦にヤクルトを除く5球団で首位を争い、後半戦も大きく崩れることなく死のロードも乗り切ったが、8月下旬に1ゲーム差で本拠地に首位広島を迎えて3連敗を喫する。最後は中日にも抜かれBクラスの4位となった。優勝した広島に貯金4、5位巨人に小林繁の活躍もあり貯金8を稼いだが、その貯金を2位大洋に10個吐き出すなどちぐはぐさが目立った。なお、この年からユニフォームはホーム用、ビジター用共に輝流ラインが消え、ボタン式からプルオーバー式に変更された。
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チーム成績
レギュラーシーズン
1 | 遊 | 真弓明信 |
---|---|---|
2 | 一 | 藤田平 |
3 | 三 | 掛布雅之 |
4 | 右 | 竹之内雅史 |
5 | 左 | ラインバック |
6 | 二 | 中村勝広 |
7 | 捕 | 若菜嘉晴 |
8 | 中 | 島野育夫 |
9 | 投 | 江本孟紀 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 広島東洋カープ | 67 | 50 | 13 | .573 | 優勝 |
2位 | 横浜大洋ホエールズ | 59 | 54 | 17 | .522 | 6.0 |
3位 | 中日ドラゴンズ | 59 | 57 | 14 | .509 | 7.5 |
4位 | 阪神タイガース | 61 | 60 | 9 | .504 | 8.0 |
5位 | 読売ジャイアンツ | 58 | 62 | 10 | .483 | 10.5 |
6位 | ヤクルトスワローズ | 48 | 69 | 13 | .410 | 19.0 |
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オールスターゲーム1979
→詳細は「1979年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
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選手・スタッフ
試合結果
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個人成績
投手成績
- 色付きは規定投球回数(130イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高。
打撃成績
- 色付きは規定打席(403打席)以上の選手
- 太字 はリーグ最高
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表彰
達成記録・出来事
- 1月31日 - 阪神と巨人は、阪神が前年のドラフトで指名した江川卓と契約を交わしたうえで巨人の小林繁とトレードすると発表[3]。
- 2月8日 - プロ野球実行委員会が開かれ、江川問題に関し(1)1月31日に提示された「江川 - 小林トレード」を撤回したうえで(2)小林を阪神へ無償トレード(3)江川は阪神と契約して支配下選手とし、4月7日の開幕までトレードを認めない、と決定[4]
- 4月7日 - セ・リーグ事務局にて阪神から巨人へ江川の譲渡の手続きを行い、巨人が譲渡証明書を提出し、支配下選手申請書を提出した[5]。その後巨人は江川の入団を発表[6]
- 4月21日 - 掛布雅之が大洋1回戦(甲子園)で7回に遠藤一彦から本塁打を放ち通算100本塁打、史上99人目
- 5月9日 - 大洋4回戦(横浜)で0-21の大敗、20失点以上は1950年10月6日の中日20回戦(大阪)22失点(9-22)を喫して以来球団史上2度目で20失点以上での完封負けは史上2度目
- 6月3日 - 巨人11回戦(後楽園)でプロ初登板の江川卓に3本塁打を浴びせ5失点で負け投手に
- 6月21日 - 佐野仙好が中日12回戦(ナゴヤ)で8回に藤沢公也から本塁打を放ち2リーグ制以降で球団通算3000本塁打、史上8球団目
- 7月3日 - 小林繁がヤクルト13回戦(甲子園)で先発し9回二死目のアウトを取り通算1000投球回
- 7月28日 - 巨人11回戦(甲子園)に勝利し、2リーグ制以降球団通算2000勝目を挙げる、史上6球団目(2000勝1738敗138分)
- 8月10日 - 中日14回戦(西京極)で1回に三沢淳から3番掛布雅之、4番レロイ・スタントン、5番マイク・ラインバックによる3者連続本塁打、球団史上5度目
- 8月23日 - 中井悦雄2軍投手コーチが心不全のために死去。享年36
- 9月2日 - 竹之内雅史が中日22回戦(ナゴヤ)で7回に高橋三千丈から本塁打を放ち通算200本塁打、史上31人目
- 9月23日 - レロイ・スタントンがヤクルト23回戦(神宮)が先発出場し4打席立ったが三振でのアウトが無かったため、8月1日のヤクルト17回戦(甲子園)から続いていた連続試合三振が34で止まる
- 10月6日 - 竹之内雅史が広島24回戦(広島市民)で4回に池谷公二郎から二塁打を放ち通算1000安打、史上115人目
ドラフト指名選手
→詳細は「1979年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
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