文禄・慶長の役

桃山時代、豊臣秀吉の命によって行われた二度に渡る朝鮮半島への侵攻 / ウィキペディア フリーな 百科事典

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文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年[注 11]1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 11]1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった[21]

Quick facts: 文禄の役, 交戦勢力, 指導者・指揮官, 戦力, 損害...
文禄の役
Siege-of-Busanjin-1592.jpg
文禄の役『釜山鎮殉節図』[注 1]。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。
戦争:文禄の役
年月日天正20年4月13日1592年5月24日) - 文禄2年7月9日1593年8月5日
場所朝鮮半島全域、満州豆満江一帯
結果小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立[注 2][1]。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。
交戦勢力
Goshichi_no_kiri.svg 豊臣政権 Ming_Flag.jpg
Flag_of_the_king_of_Joseon.svg 朝鮮国
指導者・指揮官
将軍 豊臣秀吉

総大将 宇喜多秀家

一番隊

宗義智小西行長松浦鎮信有馬晴信大村喜前五島純玄

二番隊

加藤清正鍋島直茂相良長毎

三番隊

黒田長政大友吉統

四番隊

毛利勝信(森吉成)島津義弘高橋元種秋月種長伊東祐兵山田宗昌島津忠豊

五番隊

福島正則戸田勝隆長宗我部元親蜂須賀家政生駒親正来島通之(得居通幸)来島通総

六番隊

小早川隆景毛利秀包立花鎮虎(宗茂)高橋統増筑紫広門毛利輝元[注 3]

七番隊[注 4]

宇喜多秀家ほか

八番隊[注 5]

浅野幸長中川秀政宮部長煕ほか

九番隊

豊臣秀勝細川忠興長谷川秀一木村重茲ほか

水軍

九鬼嘉隆藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明亀井茲矩菅達長桑山一晴桑山貞晴堀内氏善杉若氏宗

明軍

兵部尚書石星
兵部左侍郎邢玠
兵部右侍郎宋応昌顧養謙
防海禦倭総兵官(提督李如松
副総兵(遼東軍)祖承訓 参将劉綎

朝鮮軍

都体察使
柳成龍李元翼
都元帥
金命元
都巡察使
申砬韓応寅
巡察使
李鎰金睟権慄
防禦使
成応吉趙儆
助防将
洪允寛劉克良邊璣朴宗男
兵馬節度使
李玨高彦伯金誠一曹大坤
水軍節度使
朴泓元均李舜臣李億祺
僉節制使
鄭撥尹興信
府尹
尹仁涵邊応星
大都護府使
鄭煕績
牧使
金時敏金汝岉
都護府使
徐礼元宋象賢朴晋
郡守
趙英珪李彦誠
義兵
郭再祐高敬命趙憲

戦力
日本軍
158,700人[1](毛利家文書による通説。総勢は日本軍陣立を参照)
明軍
48,000人[2][3]
朝鮮軍
84,500人[4]–192,000人[5][5]
義兵軍:22,400人
損害
少なくとも約21,900人以上[6](病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む) 〜36,000人[7][8]
  • 鄭撥(朝鮮)、尹興信(朝鮮)、宋象賢(朝鮮)などが戦死
文禄の役(壬辰倭乱)
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Quick facts: 慶長の役, 交戦勢力, 指導者・指揮官, 戦力, 損害...
慶長の役
Ulsan_waesung_attack.jpg
蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵)
戦争:慶長の役
年月日慶長2年1月14日1597年3月1日) - 慶長3年11月25日1598年12月22日
場所:朝鮮半島三南地方
結果豊臣秀吉死去で日本側の全軍が帰国して終結[9]講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。(「柳川一件」も参照)
交戦勢力
Goshichi_no_kiri.svg 豊臣政権 Ming_Flag.jpg
Flag_of_the_king_of_Joseon.svg 朝鮮国
指導者・指揮官
総大将小早川秀秋
一番および二番隊

加藤清正
小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島玄雅

三番隊

黒田長政、毛利勝信・毛利勝永、島津忠豊、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、相良長毎

四番隊

鍋島直茂・鍋島勝茂

五番隊

島津義弘

六番隊

長宗我部元親、藤堂高虎、池田秀氏、加藤嘉明、来島通総、中川秀成、菅達長

七番隊

蜂須賀家政、生駒一正、脇坂安治

八番および九番隊

毛利秀元、宇喜多秀家

在番衆

ほか

明軍

兵部尚書邢玠総督
都察院右僉都御史楊鎬万世徳
提督麻貴
禦倭総兵官劉綎
禦倭総兵官董一元
水帥陳璘
副総兵陳蠶
副総兵鄧子龍
左協軍大将李如梅
朝鮮軍
都元帥権慄
三道水軍統制使李舜臣元均李舜臣
全羅右水使李億祺
義兵大将郭再祐

戦力
141,500人(奴婢を中心とした朝鮮の民も含む)[10] (諸説あり)

明軍:92,100(三路の戦い時)[11]
朝鮮軍
84,500人[4]–192,000人[5][5]
義兵軍:22,400人

損害
50,000人(文禄・慶長両役の総計)[注 6](戦死者はわずかでほとんどが病死・餓死・凍死。)
  • 中川秀政が戦闘中以外で討死
数十万人(朝鮮軍+明軍。文禄・慶長両役の総計)[注 7]

100万人以上[注 8][注 9][12][13][注 10][14]
朝鮮の人口の20%[15][14][16]
日本に連行された捕虜・奴隷 2万人~10万人以上 [17] [18] [19] [20]

慶長の役(丁酉倭乱)
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なお、文禄元年への改元は12月8日グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦[注 12])で表記。( )の年は西暦である。

日本天下統一を果たした豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長加藤清正らの侵攻で混乱した首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であったともされる[22][注 13]

双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本側の諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩偽使を用いて独断で国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と朝鮮には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして代償を得た大名もあった。

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