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土屋嘉男

日本の俳優 ウィキペディアから

土屋嘉男
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土屋 嘉男つちや よしお[出典 1]1927年昭和2年〉5月18日[出典 2] - 2017年平成29年〉2月8日[10]は、日本俳優。本名同じ[8]山梨県出身[出典 3]。旧制山梨県立医学専門学校卒業[8][4]。プロ方舟に所属していた[8]

概要 つちや よしお 土屋 嘉男, 本名 ...
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来歴・人物

山梨県甲府盆地の北東で、大菩薩峠の登山口の七里村[注釈 1]出身[11]。戦国時代、甲斐武田家に仕えた譜代家老・土屋昌続(昌次)の子孫といわれる[12][注釈 2]。父親の土屋操は郷土史家で、坪内逍遥の教え子であったため、毎晩シェイクスピアの作品を聞き育った[11][12]。上野にあった音楽学校[注釈 3]バイオリン科を志望していたが、1945年当時、学校は生徒を募集しなかったため断念[11]。親が希望した医学校に進学[11]。医学生時代に、半田市中島飛行機工場で昭和東南海地震に被災した。

1950年俳優座養成所に2期生[8][4]として入り、翌1951年6月に研究生の中から小沢昭一と共に本公演『椎茸と雄弁』の村人役に選ばれて初舞台を踏み、その演技でこの年の伊東貞助賞を受賞。1952年には『殺人容疑者』でこちらも映画初出演の丹波哲郎を最後まで追い詰める刑事役で銀幕デビューも果たしている。[出典 4]

1953年に養成所を卒業と同時に俳優座の劇団員に昇格するものの、卒業式の日に映画『七人の侍』の利吉役を捜していた東宝の黒澤明監督に呼び出されてオーディションを受け、これに合格する。この『七人の侍』が契機となって1954年に退座し、東宝と専属契約を結んで映画界に転身した[7][14]

土屋はそれ以降も黒澤と公私共に交流を深め、『赤ひげ』までの黒澤作品のほとんどに出演している[15]。しかし、黒澤が土屋に映画『乱』の出演オファーを出した際には、土屋は舞台の仕事を優先して断った。

東宝特撮映画にも欠かせない存在で[16]、東宝の俳優陣では唯一、黒澤組と本多組(円谷組)を多く行き来していた俳優でもある[6]。初めての特撮への出演は1954年の『透明人間』で、ゴジラシリーズ1955年の『ゴジラの逆襲』であるが、どちらも土屋にとっては印象が薄い作品であるという[17]。土屋は一癖も二癖もある人物を演じるのが好みで[5]、東宝時代はスマートな役柄が来ると会社に直訴して断っていたほどである[17]

1957年の『地球防衛軍』では、日本人俳優として初めて宇宙人を演じた[18][17][注釈 4]

他に特撮作品では『怪獣大戦争』のX星人統制官、『ガス人間第一号』のガス人間・水野役で知られる[2][7]。『ゴジラvsキングギドラ』では、シリーズ初のゴジラと心を通わせる役を演じている[17]

東宝退社後は主にテレビドラマで活躍した。また、かつては黒柳徹子のトーク番組『徹子の部屋』の常連ゲストでもあった。上岡龍太郎とも親交が深く、彼がよく珍エピソードを紹介していた。

2017年2月8日肺癌で死去。その死が報じられたのは、約7か月後の9月6日だった[10][15]

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逸話

要約
視点
  • 映画デビューについて『殺人容疑者』は1952年8月の公開であり、公開順では、1951年の『死の断崖』、『私はシベリヤの捕虜だった』が先行している。土屋自身は『ひめゆりの塔』(1953年)を本格的な映画デビュー作に挙げているが、研究生であった当時は遊びという意識であったという[18]。資料によっては、『七人の侍』を本格デビュー作としている[出典 5]
  • 初舞台をふんだ『椎茸と雄弁』では、演出家の青山杉作から起用の理由について「メーキャップが乗る顔をしているから」と説明された[18]。同舞台で伊藤貞助賞を受賞したものの、俳優座研究所の月謝を滞納していたため、賞金はすべてその支払に使われ、それでも滞納額には足りていなかったという[18]
  • 黒澤明によると、本人は明るい性格なのだが笑うとどこか影のある笑顔になるとのこと。
  • 俳優座時代には、東大生の友人2人と四畳半一間の下宿を格安で借りていたがそこを出ることになり、黒澤の家に居候になるまではニワトリ小屋に住んでいた[19]。周囲からは人間らしいところに住むよう言われていたが、土屋自身は「最高の埴生の宿だった」と述懐している[19]
  • 土屋が誕生する1ヶ月前に4歳の兄が祭りの綿菓子おでんを食べて疫痢にかかり死亡していたため、幼少期には買い食いを固く禁じられていた[19]。どうしても綿菓子が食べたかった土屋は、父親に泣いてせがんだ結果、「大人になって自分で綿菓子の機械を買って作るならよい」という許しを得て、その後『七人の侍』に出演して初めてもらったギャラで実際に綿菓子機を購入した[19]。しかし、当時の価格で2万円という高額で購入した機械は扱いが難しく、3ヶ月ほどかかって良品が作れるようになったころには試食ばかりしていたため綿菓子を見るのも嫌になっていたという[19]。高額のもとを取ろうと子供たちに綿菓子を売ろうとしたこともあったが、作り始めようとしたところに東宝宣伝部の人間が偶然通りかかったため逃げてしまいそれきりであった[19]
  • 俳優の志村喬は、妹が土屋の親戚筋に嫁いでおり、土屋は『七人の侍』で共演した際には志村から親戚であることを聞かされたという[20]。以後、土屋は志村を「おじちゃん」と呼んで親しんでいた[20]

趣味趣向

趣味は登山フラメンコギター釣りモトクロスなど多岐に渡り、最も登山や釣りには造詣が深くサンテレビ制作の釣り番組『ビッグフィッシング』では司会を務めた。

UFOにも興味が強く、「日本宇宙旅行協会」という団体に入会していた[出典 6]。同会には、田中友幸森岩雄、本多、円谷といった面々を、土屋が会費を払って無断で入会させていた[6][17]。昭和30年代中頃に銀座の百貨店ビル屋上で行われた、この協会主催のUFO召喚の集いに参加したこともある。この集いには、三島由紀夫石原慎太郎らの姿もあったという[出典 7]。映画『地球防衛軍』では、同協会による地球外の不動産売買を批判するセリフをアドリブで入れている[21]

UFOの目撃回数が多いことでも知られる[5]。最初に目撃したのは小学3年生のころで、飛行機とも飛行船とも異なる金属製の銀色のはしごのようなものが空に浮いていたという[12]。後年、雑誌『S-Fマガジン』編集長でUFO研究家でもあった南山宏にこの話をしたところ、土屋と同年代のSF作家も同じころに同じようなものを目撃していた[12]。中学時代には大菩薩峠で高速移動する飛行物体を目撃した[12]。当時はUFOなどの概念はなかったため、周囲の人々は人魂だと認識していたという[12]。その後、海外でUFOの目撃談が話題となり、自身が目撃したものと同じだと認識するようになり、ジョージ・アダムスキーの著書を読んで強く興味を抱くようになった[12]。1980年ごろには、UFOに対して航空自衛隊とみられるファントムスクランブルをかけるところも目撃したと語っている[22]。土屋は、UFOが出そうな時は直感でわかったといい、同好の士である横尾忠則からは「(土屋は)一瞬で無我の境地に入り込める」と評されていた[22]。土屋自身は、目撃回数が多い理由について、好奇心が強く空を見る回数が他人よりも多いからではないかと語っている[22]

一方で、宇宙人との遭遇談には懐疑的な見解を示しており、土屋に体験談を語りに来る者も多いが、そういった人物は宗教的な思い込みを持っていることも多く、極力会わないようにしたと述べている[22]

SF映画を愛好しており[6]、その原点は小学生の時に観た『キング・コング』であった[12]。そのほかに、好きな映画として『地球の静止する日』や『未知との遭遇』などを挙げている[22]。一方で、『スター・ウォーズ』はメルヘンだとして好んでおらず、『2001年宇宙の旅』や『禁断の惑星』などの難解な作品も苦手としている[22]

フラメンコギターにまつわるエピソードでは、スペインに単独で旅行した際、とある小村にてギターの調べに吸い寄せられて訪れた宴たけなわの民家で、演奏に参加して歓迎されるまま数日間投宿したが、あとで人に聞いたところ、その家は盗賊の一族だったという。海外旅行の経験を豊富に持つうえに語学にも堪能で、日仏合作テレビドラマ『スパイ』(1966年)に出演した際には、フランス側の監督から「本当のフランス人のよう」と絶賛された。

黒澤作品関連

  • 映画『七人の侍』のオーディションのため黒澤明監督が俳優座に訪れた時はオーディションに参加する事なくパチンコで時間を潰していたが、その日 俳優座のトイレで顔を合わせた黒澤に顔を覚えられ[11][18]養成所卒業式の当日に東宝に呼び出されてテストを受ける運びとなり、『七人の侍』の利吉役に起用される[18]。『七人の侍』撮影中は黒澤の家に下宿しながら撮影所に通ったが、クランクアップとなる野武士の山塞を焼き討ちにする撮影では想定を越えた猛火の熱風を顔面に浴び火膨れの火傷を負った。
  • 予定を超過、いつまで経っても終わらない『七人の侍』の撮影に山が恋しくなり、山に行かなければ自分が可怪しくなってしまうと思い詰めた土屋は「暫く撮影に来ません」と自らスケジュールを作って提出。慌てたスタッフが黒澤に相談すると黒澤は怒る事なく土屋の山に対する気持ちを理解した上で優しく映画製作のルールを説明、更に何処へも逃げ出さない様に土屋を自分の家に寝泊りさせたとの事である[19]。当時の土屋は、登山を第一としており、俳優は趣味であったと述べている[18]
  • 『赤ひげ』では、役作りのために減食して4、5キログラムほど体重を落としていたが、撮影の長期化に伴い空腹に耐えられなくなり、三船に相談したところ「隠れて食べればいい」と助言された[12]。その後、黒澤の誕生日会でご馳走を目にした土屋は三船に「監督の目の前でも食う」と宣言して食べ始め、黒澤も自身の誕生日であるため食べるなとは言えなかったという[12]

特撮関連

  • 『七人の侍』と同時期に撮影所では『ゴジラ』の撮影が行われていたが、土屋はそれに興味を持ち、黒澤の目を盗んでは本多猪四郎円谷英二のいる特撮セットの見学に行くため、円谷組のスタッフの協力を得てトイレに行くと口実を作っては頻繁に通い[注釈 5]、この熱意に円谷は土屋の見学に合わせて本番を待ってくれるほどの仲だったという[出典 8]
  • 日本人俳優として初めて宇宙人を演じた土屋は『地球防衛軍』のミステリアン役や『怪獣大戦争』のX星人役において独自に「宇宙語」を考案し、これに自動翻訳された片言の日本語の台詞を被せるというアイディアを出すことで、劇中のリアリティを高めた[出典 9]。監督の本多猪四郎は自由にやらせてくれたといい、文句をつけてきた相手には「お前は宇宙人を見たことがあるのか」と返していたという[25][14]
    • なお、その後日談として、某テレビ局から「ワ・レ・ワ・レ・ハ……という宇宙人の喋り方を最初に発明したのは土屋さんですか?」という問い合わせの電話に土屋が「そうです」と答えた[17]ことから、「ワレワレハウチュウジンダ」という定番のフレーズも土屋が由来だという説がある[26][注釈 6]。また、X星人の言葉は芥川龍之介の『河童』に出てくる河童語をもじったものを混ぜ、ミステリアンはこれにドイツ語とフランス語をさらに混ぜたものであるとも語っている。
  • 『地球防衛軍』では、当初顔出しの主役級で配役されていたが、敵側の宇宙人の方が面白いと考え、「顔が見えなくてもいいから宇宙人をやりたい」と演技課に要望するも「顔が見えないからダメ」と止められ、「俳優は顔が見えればいいってもんじゃないんだ!」と抗議した後に本多へ直訴し[注釈 7]、地球を侵略する宇宙人・ミステリアン統領役に回った[出典 10][注釈 8]。この際、前もって黒澤に「今度宇宙人を演りたいんだけど」とうかがいを立てたところ、「おかしな映画に出るんじゃないぞ。たとえばゴジラとかな」と釘を刺していた黒澤も「イノさん(本多監督)とこの仕事ならいいよ」と答えたそうである[出典 11]。ただし、土屋は実際の衣裳には抵抗があったという[17]
  • ゴジラの逆襲』で初登場した怪獣アンギラスの名前が一般公募されていた時期、土屋は「ギョットス」という名前を考えて応募したが採用はされなかった[23][14]
  • 三大怪獣 地球最大の決戦』に暗殺団首領役で出演が予定され、自ら衣裳のサングラスを捜し歩くなどしていたが、出演中であった『赤ひげ』の撮影が延びたため降板した[12]
  • マタンゴ』では、出演者達が食べる劇中のキノコは蒸し菓子で米粉を練った和菓子素材で作られており、食紅などで色がつけられていた。菓子は風月堂が映画用に作っており、毎朝撮影所に蒸したてが届けられた。そのままでは、味気なかったため、彼の提案で砂糖を加えて食べやすくしたところ大変好評で、スタッフたちも撮影の合間につまみ食いをしており、水野久美は特に気に入って食べていたという。
  • 怪獣大戦争』で共演したニック・アダムスとは特に息が合い、彼をからかい、女性に対しての挨拶は「もうかりまっか?」や朝のあいさつ「ああ、腹減ったなあ」などの日本語をあいさつとして教えていたが、そのうちに「誰が(アダムス)にでたらめを教えたんだ」と騒動になり、張本人の土屋は他人のふりをしてとぼけたという[21][17]。アダムスの離日時、彼にサインをプレゼントし、「大事に家に飾っておくよ」と約束された。土屋は「すぐ捨てるんだろう」と本気にしていなかったが、数年後、田中友幸が訪米した際にアダムスの自宅を訪ねたところ、本当に自宅に飾ってあったという[出典 12]
  • ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』といったウルトラシリーズにゲスト出演したのが縁で当初は『帰ってきたウルトラマン』の伊吹竜隊長の候補に挙がっていた[28]。土屋は、長年苦労を共にした円谷がテレビ業界に行くことが寂しく、円谷プロダクションの設立当初は反対していたといい、出来の悪い作品では円谷の名を落としてしまうと感じ自身の出演作品も見ずにいたが、晩年になって初めて見たところ映画に見劣りしない作品であったことに感心したという[17]
  • 円谷とは映画などについて語り合う仲であったといい、円谷から従来のパターンを崩した怪獣映画の脚本を執筆することを勧められ、2人で面白い作品を作り上げることを考えていたが、円谷が死去したことにより意欲を失ってしまったという[29]
  • 特撮映画においては、ナチュラルでかつシリアスな芝居を抑制して演じることを心がけており、当たり役となったガス人間では、自然体な言動を淡々とメリハリの利いた芝居に混ぜて演じることに終始し[17]、『ゴジラvsキングギドラ』でのゴジラとの対面場面では敢えて微動だにしない芝居を行った。また、特撮にありがちな顔の見えないキャラクターが大げさな身振りや手ぶりをしがちになることには懐疑的で、指先などの細かい部分での芝居が重要だとの持論を持っている[17]
  • 1959年の『宇宙大戦争』撮影当時、まだアポロ宇宙船が月に行っておらず、月面での正確な動きは分かっていなかったが、土屋は「月面は重力が地球の3分の1だから、フワフワした歩き方になる。役者はそう芝居しなきゃウソだ」と強硬に主張した。スタッフはカッコ悪さや見栄えを懸念したが、最終的に監督の本多が賛同したこともあって押し通した[21]。10年後、実際に月面探査が実現した際、撮影中だった土屋はロケ先の六甲山ホテルのロビーで中継映像を鑑賞し、自説が正しかったことを見届けて「ブラボー(ざまぁみろ)!」と叫んだという[出典 13]
  • 怪獣島の決戦 ゴジラの息子』でグアムロケを行った際、現地人からジャングルに日本兵の生き残りがいると聞き、冗談半分で「戦争は終わった」と声をかけていったが、数年後には横井庄一が実際にその付近に潜伏していたことが明らかになった[25][14]
  • ゴジラは昭和シリーズで卒業したと考えていたが、『ゴジラvsキングギドラ』でゴジラと対峙して死亡する役を演じ、これを集大成だと述べている[出典 14]。オファーの際、監督の大森一樹から集大成として出演することを要望され、ゴジラ史上唯一である「ゴジラと心を通わせる男」という役どころであると口説かれたという[6][17]。大森は、土屋が特撮映画を愛しているため現場が非常に楽しく、本人も周囲もやりやすかったと語っている[30]。記者発表のあとに出演者らが特撮の現場を訪れた際には、土屋だけが一時間ほど残っており、操演助手の白石雅彦は厳しい目つきで現場を見ていたと述懐している[31]
  • SF特撮映画への出演から、日本国外にもファンが多い[32]。アメリカでの講演ではファンたちがX星人統制官の手真似や、ガス人間での右手を懐に入れる仕草で出迎えたり、ホテルのボーイが「ガス人間水野!」と声をかけてきたという。ヨーロッパでは、タクシーの運転手が運転中に『マタンゴ』の話題を出してきたと語っている[出典 15]。アメリカのプロデューサーから『ガス人間第一号』の続編の脚本が送られてきたこともあったという[32][14]。カナダを旅行した際にはロッキー山脈付近で『ガス人間第一号』を上映していた村に行き当たり、ホテルに無料で泊めてもらえたうえに、アメリカ人の団体客からサイン攻めにもあったという[21]
  • アメリカのSFファンの集いで、ハリウッド版『GODZILLA』の上映後にスピーチを頼まれ「この映画はゴジラではない」と述べたところ会場が沸き、世界中でも日本のゴジラが愛されていることを実感したと述懐している[17]
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出演

映画

テレビドラマ

舞台

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著作

脚注

参考文献

外部リンク

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