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日本の女優(1906−1997) ウィキペディアから
杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年〈明治39年〉1月6日 - 1997年〈平成9年〉4月4日[1])は、広島県広島市出身の新劇の女優[出典 1]。本名:石山 春子。旧姓:中野[4]。
すぎむら はるこ 杉村 春子 | |||||||||||||||
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本名 | 石山 春子 | ||||||||||||||
生年月日 | 1906年1月6日 | ||||||||||||||
没年月日 | 1997年4月4日(91歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本・広島県広島市 | ||||||||||||||
死没地 | 日本・東京都文京区 | ||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||
血液型 | O型 | ||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||
ジャンル | 舞台、映画、テレビ | ||||||||||||||
活動期間 | 1927年 - 1997年 | ||||||||||||||
配偶者 |
1. 長広岸郎(1933年 - 1942年、死別)[1] 2. 石山季彦[1](1950年 - 1966年、死別) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『東京物語』(1953年) 『秋刀魚の味』(1962年) 舞台 『女の一生』 『欲望という名の電車』 『鹿鳴館』 『華岡青洲の妻』 | |||||||||||||||
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築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け[出典 2]、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表する女優[出典 3]。称号は東京都名誉都民。
1906年、当時の軍都[10]、広島県広島市西地方町(現在の広島市中区土橋町、河原町付近[11])生まれ[出典 4]。芸者の母、軍人だったとされる父が春子の幼時に死んだため、花柳界の中にある建築資材商と置屋経営者の養女となる[出典 5]。養父は近所の寿座という西日本一の芝居小屋の株主だった関係で[出典 6]、幼少期から歌舞伎や新派、歌劇、文楽などに親しむ[出典 7]。両親が赤の他人と知ったのは小学6年生のとき[出典 8]。ショックを受けたが、同時に養母の人生も知り、「世の中で信じられるのは自分だけ。自分が見たもの、感じたもの、自分が発した言葉だけを頼りに生きていく」と決めた[3]。広島市立神崎尋常小学校を経て[4]、1922年、山中高等女学校(現・広島大学付属福山高)卒業後[出典 9]、声楽家を目指し上京して東京音楽学校(現・東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗[出典 10]。1924年広島に戻り、1925年から1927年3月まで広島女学院で音楽の代用教員をしていた[出典 11]。広島女学院の教員室で築地小劇場(俳優座の前身)の広島公演の話を聞き[3]、同劇団の旅芝居を見て感動[出典 12]。但し観客はポカーン状態だったという[2]。当時は芸能は子飼いからやらないとものにならないと思われていた時代で、女学校も出て20歳になろうかとする人が、芸能を始めるなんて夢にも考えられなかったという[2]。1927年4月、母に音楽の勉強をしたいからと偽り再び上京[出典 13]。劇団の合否を待たずに代用教員は退職し、同劇場のテストを受ける。広島訛りが強く、土方与志から「三年くらいセリフなしで辛抱するなら」という条件付きで採用され[出典 14]、1927年、築地小劇場の研究生となった[出典 15]。芸名は姓だけ、青山杉作の一字を貰い、"杉村春子"とした[19]。同月『何が彼女をさうさせたか』にたまたま欠員が出たため、音楽教師の前歴を買われてオルガン弾きの役(台詞無し)で初舞台[出典 16]。しばらくはなかなか役がつかなかったが、その卓抜した演技力で徐々に頭角を現していく[13]。1929年、築地小劇場が分裂・解散した後は友田恭助らの築地座に誘われて参加[出典 17]、1935年の舞台『瀬戸内海の子供ら』(小山祐士作)に出演した[22]。
築地座の解散後の1937年、岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加[出典 18]。直後に友田恭助が戦死したことで妻の田村秋子が文学座に参加せず[19]、同劇団の中心女優として力を付けていく[出典 19]。1938年に花柳章太郎の新生新派に客演し、大きな影響を受ける[出典 20]。時のファッショ的政府の弾壓により、新協、新築地の両有力劇団が解散[23]、優秀な新劇役者の多くが舞台から退いたり、映画界に身を投じたり四散し[23]、文学座以外に充実した新劇運動が見られなくなったことも杉村にとっては幸運だった[23]。文学座は戦争協力劇団だった関係で、戦中に唯一弾壓を逃れた[24]。1940年に『ファニー』で主役を演じて以降[3]、文学座の中心女優となった[出典 21]。文学座に観に行くということは杉村春子を観に行くことと、殆ど同義語に化した[23]。また、文学座以外の舞台にも出演し、日本演劇界の中心的存在として活躍した[出典 22]。
特に1945年4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり[出典 23]、1990年までに上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた[出典 24]。作中の台詞 "だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの。間違いと知ったら、自分で間違いでないようにしなくちゃ" は、生涯"女優の一生"を貫いた杉村の代名詞として有名[出典 25][注釈 1]。初演はわずか5日間だったが、6000人を動員[出典 26]。
戦後第一回の文学座の公演は大失敗し[32]、みんな意気消沈したが、1947年夏に初めて日本橋三越劇場でやった森本薫追悼公演「女の一生」が大成功し、みんなにもういっぺん芝居をやろうという気を奮い立たせるきっかけになった[32]。
そのほか、日本のそれまでの芝居になかった"女"のすべてをリアルにさらけ出した『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)[出典 27]、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)[出典 28]、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のお園役(上演回数365回)[出典 29]、『華々しき一族』の諏訪役(上演回数309回)などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作とした[出典 30]。いくつもの当たり役を持つ舞台女優は稀である[10]。
1948年には「女の一生」により演劇部門で戦後初の日本芸術院賞を受賞した[出典 31]。「女の一生」は1961年夏の公演で500回を越え[32]、日本の新劇では最初のケースだった[32]。
1958年、日本新劇俳優協会設立に常任理事として参画(1995~1997年、三代目会長)[42]。同年、第10回NHK放送文化賞[10]。
60年安保前後から左翼に接近、安保反対のデモ行進に積極的に参加した[20]。1960年6月15日(水曜日)に参議院国会参議院面会所前であった新劇人会議のデモに暴力団が殴り込み、80人の負傷者を出したが、杉村は劇団の若い女優たちのスクラムに守られて難を逃れた[20]。衆議院南通用門で樺美智子が惨死したのはその数時間後だった[20]。文学座分裂の動きは安保闘争のさなかに芽生えた[20]。脱退した劇団員はこのとき無関心を装った人たちだった[20]。1961年、平和7人委員会の創立に参加[10]。
劇団の中心的存在になっても、いつ役を降ろされるかと怯え、常に自らを律し精進を続ける[13]。半面、好き嫌いで配役を決め、ライバルへの敵意をむき出しにし、思い通りにならないとヒステリックに仲間を怒鳴りつける一面もあったといわれる[13]。
1963年1月、杉村の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、加藤治子、小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し[出典 32]、現代演劇協会・劇団雲を結成[出典 33]。さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を書いていた三島由紀夫の新作戯曲『喜びの琴』の右傾化に激怒して上演を中止させた[出典 34](喜びの琴事件)。この上演拒否問題により、翌1964年1月、三島を筆頭に丹阿弥谷津子、中村伸郎、賀原夏子、南美江ら、文学座の古参劇団員が次々に脱退していった[出典 35]。これら脱退者により岩田豊雄(獅子文六)と三島を顧問とするグループNLTが設立された。杉村は、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、「NLTに行った人たちとは充分に話し合ったので何とも思っていません。でも雲に行った人たちのことは一生忘れませんね。あんな卑怯な…まるで騙し討ちですもの」とはっきり話し[43]、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかった[47]。
文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は"崩壊に瀕する文学座"などと書きたてたが[48]、太地喜和子、江守徹、樹木希林、小川真由美、高橋悦史ら若手を育てることにより乗り切った[出典 36]。とくにテレビ時代を迎えていた時流に乗って、次々にテレビに新人を送り込んだ功績は大きい[出典 37]。自身もニューメディアのテレビに積極的に出演した[出典 38]。
但し杉村の専横に批判的だった人物が抜けてしまったことにより、杉村の劇団に対する独裁に近い影響力にさらに拍車がかかったとの見方もある[14]。「喜びの琴事件」で三島由紀夫は、杉村に対し「俳優は、良い人間である必要はありません。芸さへよければよいのです。と同時に、俳優は、俳優に徹することによつて思想をつかみ、人間をつかむべきではないでせうか。組織のなかで、中途はんぱなつかみ方をするのはいけないと思ひます」と皮肉をまじえて批判している[52]。この頃から"文学座の女王""文学座の女帝"と異名を持った[出典 39]。"文学座の女帝"杉村の強烈な個性なくしては、文学座の存続は難しかったともいわれる[24]。
杉村や戌井市郎らは、幅の広い観客層を対象にした大衆劇をやっていこうとしたため、演目選択争いが起こり、先のような軋轢が生まれた[55]。1967年の『女の一生』の再演は文学座が立ち直るきっかけとなった。『女の一生』1968年の全国縦断公演は行く先々で超満員[56]。『女の一生』は新劇の枠を超えたような演目で知名度が高く[56]、一日に一本しかバス便のない山奥から老婆が息子に背負われてやってきたなど[56]、新劇ファンでないお客も大勢詰めかけた[56]。杉村はもう60歳を越えており、お客が揃って口にしたのが「杉村の『女の一生』をぜひ一度観てみたかった」だった[56]。当時の文学座ではマスメディア的には、小川真由美、太地喜和子、藤田弓子がよく取り上げられていたが[56]、観客吸引力を持っているのは、やっぱり杉村だけだった、と話題を呼んだ[56]。当時はハダカになりさえすればスターになれると勘違いしている若手女優も多かっただけに[56]、芸を魅せる杉村を見習えとの論調も上がった[56]。経営の苦労を身に染みて知る杉村はお客を大切にした[10]。このことは新劇の商業演劇進出の走りといわれる[57]。「女の一生」は、16歳の役から始まるという事情から、いずれやめるつもりでいて1969年4月公演のとき「『女の一生』はこれが最後です」と宣言したが[48]、「女の一生」をやるとお客さんが入るので、1970年代初めに文学座の経済危機もあり、「経済的事情で、もう1回やります」と記者会見を開いて1973年に再演している[48]。
1950年代に中国、ヨーロッパを見て回るツアー・アジア文化交流団に参加し、中国の演劇人と交流[出典 40]。1956年に中国で有名な劇作家・夏衍に「日本と中国は一番関係が悪いので、何か出来ませんか」「私たちが演劇人としてできることがあれば参ります」と直訴し[16]、国交がなく渡航が困難な時代に新劇の中国公演に意欲を燃やした[出典 41]。これが1960年10月に中国の革命的劇作家・関漢卿を記念する初めての新劇訪中団(文学座、劇団民藝、東京芸術座、ぶどうの会、俳優座71人による合同公演)として実現し[出典 42]、『女の一生』を日本語で公演した[出典 43]。『女の一生』は一部改訂問題で揉めた[出典 44]。1965年にも第二次訪中新劇団の一員として北京・上海・南京・広州にて公演を行い[出典 45]、『女の一生』は話を随分変えて中国でも上演され[16]、中国のマスメディアにも、杉村はよく知られていたといわれる[63]。1972年9月、日中国交正常化が実現した秋に北京の人民大会堂で開かれた宴会の席上、周恩来中華人民共和国初代首相が和服姿の杉村に歩み寄り、周から白い菊の花を贈られた[59]。杉村はこの花を押し花にして、ずっと大切にしていた[59]。1977年には周恩来首相の未亡人・鄧穎超を見舞い、鄧から自宅に咲いた一束の白い菊の花を贈られている[59]。後文革の後の1981年4月の16年ぶり3回目の訪中は[出典 46]、杉村が個人的に交わした口約束を強引に実現[54]。中国側からの招待の形を取ってはいたが、宿泊費のみを中国側が負担し、渡航費用は自己負担した[54]。文学座の単独公演を目指していたが、この難条件を克服するため、杉村が千田是也を担ぎ出し[54]、青年座と劇団仲間を加えた四劇団で日本新劇団訪中公演実行委員会(杉村団長)を急造した[54]。『華岡青洲の妻』一本のみの上演を予定していたが[54]、業界のヤリ手と知られる青年座が演目に『ブンナよ、木からおりてこい』を無理やり割り込ませたため[54]、珍妙な組み合わせの二本立て公演となった[出典 47]。1983年には民音に協力を仰ぎ、北京人民芸術劇院を初来日させた[64]。杉村の中国寄りは、戦争中に岸田國士が大政翼賛会でリーダーシップを握るなど、文学座が戦争協力劇団だったことに対する罪滅ぼしという説もある[24]。中国が好きでプライベートでもよく中国を旅行し[出典 48]、僻地などにも足を運んだ[16]。1960年代から杉村と中国を何度か旅行した森光子は「先生は2000段も石段を登らないと行けないような山の上にホテルを取ったり、中国式のホテルが好きでお手洗いが壺でも平気。風呂は栓をしてもお湯がたまらずに漏れてタオルか何かを巻いてやっとお湯をためた。何年かしていったらそのままで、先生はまた布を巻いて栓をした。私はちょっと苦手で、ブータンに一緒に行ったときは、現地でのお芝居を見に行ったら宿泊しているところから徒歩で砂漠のようなところを一時間歩いた。先生にはとてもかなわないと思いました」などと話していた[16]。88歳で最後の映画出演となった『午後の遺言状』も、中国各地を歴訪し帰国したその足でロケ地の蓼科入りした[5]。
1969年5月には早くも杉村の自伝テレビドラマ『女優 わが道』がNHK「銀河ドラマ」枠で放送され、杉村(三杉安芸子)を林美智子が演じた[出典 49]。1話30分で全15話[66]。杉村本人は出演しない[出典 50]。当時の文献に「現役の女優の半生をテレビ化するのは珍しい」と書かれている[66]。この年1月に出版された杉村の著書『私の選んだ道』を小野田勇が脚色[66]。杉村の半生となれば当然日本新劇史となるため[66]、新劇史を飾った人物が次々登場することになり、名前は変えるものの関係者や新劇ファンには一目瞭然のため、合川明プロデューサーが現存の人は本人に、故人の場合は夫人や遺族を訪ねて一人一人了解を取り付けた[66]。うち、杉村が最も影響を受けたといわれる田村秋子は[2]、当初、劇中に自身のモデルが出ることを拒否した[66]。またモデルとなる人物は何れ劣らぬ大物揃いで出演を尻込みする役者が続出した[66]。土方与志(宗方)を演じる児玉清は「プロ野球でいえば、ルーキーが川上監督や鶴岡監督になるようなもの。恐れ多すぎで、やりにくいです」と話した[66]。岸輝子(木部)を演じた俳優座の檜よしえは、大先輩に恐る恐る「どうやればいいでしょうか」と尋ねたところ岸から「私はね、若いとき、きれいだったのよ」と言われた[66]。杉村の愛人・森本薫(折戸充)を演じる北村和夫は、杉村から「森本は二枚目だったのよ。あなたがやると三枚目になるから、気をつけてちょうだい」と釘を刺された[66]。丸山定夫(鳴山良介)を演じた西村晃は本人と面識があり、本人に似せてメーキャップが施された[66]。合川プロデューサーは「オールド・ファンには、懐かしさを、若い人には新劇史の勉強になればと思います。ただ杉村さんを含め実在の人物たちも多いので、差支えのあるものは控えました。このようなドラマはこれまでにも無かったし、これからも出来ないでしょう」と話した[66]。現役女優の半生の映像化として初のケースと見られ、この後もあったのか分からないレアケースと考えられる。
新劇のリアリズムに立脚しつつ、新派や歌舞伎の技法を研究[3][68]。広島訛りは終生抜けなかったが[出典 51]、歳月をかけ練りこんだリズムあるセリフ術と卓越したリアリズム演技は比類がなく[13]、細やかな情感を巧みに表現する独特のアクのある芸風を作り上げ見る人の心を捉えた[出典 52]。
舞台以外にも映画・テレビでも幅広く活躍[出典 53]。映画初出演は築地小劇場時代の1927年に小山内薫が監督をした『黎明』か[5]、1932年、初代水谷八重子と共演した『浪子』[6]か、1937年、松竹の『浅草の灯』か[出典 54]、文献によって記述が異なる[注釈 2]。1940年、国策映画『奥村五百子』(豊田四郎監督、東宝)で初主演[10][注釈 3]。
戦後、黒澤明、木下惠介、小津安二郎、成瀬巳喜男、豊田四郎、溝口健二、今井正などの巨匠たちから、既存の映画俳優には無い自然でリアルな演技力を高く評価されて[6]、日本映画史を彩る140本以上の作品に出演[出典 55]、映画史にもその名を刻んだ[出典 56]。森雅之と共に最も映画に貢献した新劇俳優でもある[出典 57]。北見治一は1947年の『演劇研究』で「ツキヂ的演出とは全く相反したタイプの映画演出家の演技中心とも謂うべき適切な指導に拠り、杉村は優れた素質とよきインディビジュアリティを、思ふさまに伸ばしきることが出来た」と論じている[23]。津村秀夫は「杉村春子は日本の新劇役者がはたして映画演技の勘と神経を體得できるかどうか、といふ懸案を最初に解決した女優である。新劇役者のセリフの力をよくトオキイ的に調和し、處理し、間の呼吸をのみこみ、そして表情の微妙な味をクロオズ・アップによく消化し得るかどうかといふ課題に先づ成功した人物といへよう。その點で、早く映画界に入つた丸山定夫、汐見洋、細川ちか子、東山千榮子、薄田硏二等の踏み越えがたかつた線を漸く、この一、二年で突き抜けたといへよう」などと論じている[71]。杉村ほど他のジャンルの俳優と共演した新劇俳優はいない[22]。
特に、『東京物語』『麦秋』をはじめとする小津安二郎作品の常連(9本)でもあり、小津組でたった一人、読み合わせへの不参と"縫い"(かけ持ち)を許された俳優であった[出典 58]。小津は文学座の座員脱退問題が起きたとき、杉村に激励の電報を送ったといわれる[5]。
1995年、当時89歳で新藤兼人の『午後の遺言状』で主演し、毎日映画コンクール、日刊スポーツ映画大賞、キネマ旬報で主演女優賞を受賞している。
杉村は多くの演劇人の目標であった[73]。
森光子は『小島の春』を観た際に、この映画の杉村の演技に大きな衝撃を受け、これ以上の衝撃を以降感じたことはないと話している。森は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」と話している[74]。
高峰秀子もやはりこの映画のハンセン病に罹った娘役を演じた杉村の演技に感動、「仕方なしにやっていた(本人談)」役者稼業に以後本気で取り組むようになったという逸話も残す[75]。
成瀬巳喜男監督『流れる』で共演した山田五十鈴は、「あの映画の杉村さんの芝居は、ぜんぶ杉村さんがお考えになったもの。そういうことが許されるようになった時代です。それこそ役者の力量が問われる時代になってきたんです」と述べている[76]。
父親の岡田時彦が小津安二郎の盟友だったことから、岡田茉莉子は小津映画にも出演し、小津から「お嬢さん」と呼ばれ、撮影が終わる度に小津によく遊びに連れて行ってもらった。ある日、好奇心が抑えられず、「監督の作品で、誰が四番バッターですか」と聞いたら、小津は迷わず「杉村春子」と答えた。岡田が「私は?」と聞くと、小津は笑いながら「お嬢さんは一番バッターだよ」と言った[77]。
気が強いことで有名だった岡田茉莉子[78]の名前を冠した「岡田茉莉子シリーズ」が1965年2月~4月までTBS・金曜劇場枠で全13回放送され[78][79]、この第3回『猫のいる家』(1965年2月19日放送)で、岡田自らが成瀬巳喜男監督『流れる』で共演した杉村との共演を希望した[78]。しかしさすがの岡田も杉村の前であがり、最初の稽古のときメロメロになり、セリフ合わせでトチり、キッカケは間違うしで、「この大スターにして杉村春子にガタガタするのか」と、岡田にビビッていた演出の大山勝美も気が楽になったと話している[78]。
岸恵子は「私はあまりうまい女優じゃないから(笑)。俳優学校出て、うまい方もいっぱいいらっしゃるし…私が中でも本当に感動するのは、杉村春子さんね。例えば『化石』(1975年)の杉村春子さんって本当に(強く)一番いいわよ。ほのぼのと心の中まで暖まっていくように、本当に女として、いろんなことを生きてきて、人生のことはもうあらかた分かった、そう感じとれる時に出てくるやさしさがあるのね」などと述べている[80]。
坂東玉三郎は「何ともいえないような女の人は、杉村先生を見て勉強するのよ(笑)」などと述べている[2]。
若尾文子は「杉村春子さんは特別な存在」と話し、杉村の代表作『華々しき一族』を熱望し2008年に演じた[39]。
勝新太郎は杉村を大崇拝し、「杉村と共演した勝は『はい、はい』と杉村の言うことは何でも聞いていた」と石井ふく子は話している[81]。石井は「杉村先生の凄さは、喜怒哀楽を後ろ姿で表現でき、しかもそこに若々しさと品があるところでしたね。こればっかりは、他の女優さんがどんなにまねをしたくてもできないことだと思います」と述べている[82]。
北村和夫によると、文学座の分裂で袂を分かった後も小池朝雄は毎年、死去するまで杉村の誕生日に薔薇の花束を贈っていたという[83]。
北村は「杉村春子は91歳になって病院に入院しても、台本を最後まで枕元に置いて放さなかった。台本は聖書みたいなもんだったんでしょうね。公演を長く重ねてきた十八番の舞台でも、もっといい芝居をするにはどうしたらいいか千秋楽近くになってもまだ悩んでいました。地方公演に行っても新しい劇場でやるたびに、"この舞台ではどんな表現をしたら一番生きるだろう"と幕が開くまで考えているんです。そういう熱意と努力を常に忘れない人でした。僕ら怠け者は、食事を共にすると"あなたね、今日はあそこのところダメよ"と言われるんで、なるべく杉村さんと一緒にならないようにズルしたものですよ(笑)」などと述べている[84]。
吉永小百合は美しい所作の先生は杉村と話している[85]。吉永は二十代の頃、『下町の女』シリーズ(1970年-1974年、TBS)で5年間、杉村と共演し、杉村から所作や芝居から多くを学んだという[86]。また舞台を一度もやっていなかった理由について、20代半ばで市川團十郎との舞台の共演を病気で断ったことと、杉村や坂東玉三郎らの舞台を見過ぎてしまい、これから勉強して舞台に立つのは無理かなという思いがしたことを挙げていた[87]。杉村のうつくしい着物姿は女優たちの手本とされた[10]。杉村は『美しくなるためには自分の欠点をすべて知ることよ」などと女優たちに細かくアドバイスした[10]。
テレビで共演作品の多い劇団民藝の奈良岡朋子は、「文学座の方には申し訳ないけれど、私が一番芝居を教えていただいた」と述べている[62]。
鴨下信一は「テレビに出演している女優の中で、誰がいちばんセリフがうまいかいうと、これは誰に聞いても異論のないところ、杉村春子さんをおいてない。本当に素晴らしい芸がそこにあります」と評している[88]。
7代目竹本住大夫は「杉村春子さんの演技には感嘆しました。杉村さんの演技は『芝居せんと、芝居やってはる』という感じでした」と述べている[89][90]。この「芝居しないで芝居する」という話を聞いた加藤武は、これを永遠のテーマにしていると話していた[91]。
杉村の付き人として小津安二郎監督の『秋刀魚の味』の撮影を観たという樹木希林は、2011年、第34回日本アカデミー賞で最優秀助演女優賞を受賞して「50年ほど前に役者を始めた時に杉村春子さんに『役者は定年がない』と言われました。今、しみじみそう思います」と語った[92]。
山田洋次は、「葬式は人間にとって一大ショーでね、よく演出された葬式は後からみんなが喜びますよ。"よかった"ってね」と話し、その例として小津安二郎の葬儀を挙げ、「長いこと小津さんと一緒に仕事をやっていた助手が、一人大袈裟に悲しんで、納棺という一番大事な時にも、その人一人で泣き騒いで、他の出席者がみんなシラけてしまったんです。するとクギを打ってふたを閉めるという時に杉村さんが「ちょっと待って」とツツツーと出てきてみんながじっと見ている中、「もう一回だけ」と言って顔を見て、ハンカチをツツッと顔にあててハーッと泣いた。その時初めてみんな悲しみが迫ったというんです。やっぱり役者だなあとみんなで感心したんですね。自分の出番をよく知ってたんじゃないか、このままでは葬式が完成しないと。一人だけあんなブザマに泣いていてどうするんだろうと。最後にしめて自分の役割をきちんと演じたのではないか。それでみんなも初めて納得できて、涙が快く流れて"よかった"ということになるわけです」と解説している[93]。
1985年の舞台『浮巣』で共演して杉村に徹底的にしごかれたという泉ピン子は「今日私が女優やれてんのは、杉村先生のおかげ。先生と出会ってなかったら、泉ピン子なんてへたくそで終わってますね」と述べている[94]。
大竹しのぶは20歳の頃、杉村と尾上松緑が共演した舞台を観に行った。すると杉村に「ぷい」と無視された。松緑から「ジェラシーだよ、かわいいね」と言われ、その芝居の後、大竹が松緑との共演が決まっていて、そのせいと教わった。杉村は当時70代。「まだ20歳そこそこな私にまでジェラシーなんて、女優って面白いな。ずっと現役を続けられたのはそういう感覚だったのか、凄い」と思ったという。「だから私も、後輩の若い女優に対して『ぷい』とかできるように本気でなりたいと思う」と話してる[95]。杉村の畢生の当たり役として知られる布引けいを継承した大竹は「勝つか負けるかでいうと、私が負けるに決まっていますし、杉村さんのけいはこの先もずっと輝き続けるんだろうなあと思います。私は私なりに一生懸命やっていくしかありません」と話した[35]。
篠田三郎は、杉村の昔の恋人に似てるという理由で、1986年芸術座の舞台『木瓜の花』に杉村から相手役に指名された。ある時、杉村から「あなたね、舞台はずっと後ろのほうにもお客様がいるわけだから、もっと声を出しなさいよ」と言われたが、観に来たくれた友達から「目の前の相手としゃべるのに、あんな大声は不自然だよ」と言われ、それを杉村の話したら、「いいのよ、私の言うことさえ聞いてれば」と言われた[96]。
中村雅俊は、橋田壽賀子の別荘で酔っぱらって絨毯を焦がし、杉村に頭を殴られたことがあるという。杉村のエネルギッシュな姿に大きな影響を受け、「女の一生」の台詞 "だれが選んでくれたんでもない–"は、自身の座右の銘にしているなどと話している[97]。
渡辺徹は「昔、杉村さんから『演技をする時、目の前の相手役を(芝居で)説得できないような人はお客様にも届きませんよ』と教わり、その教えをテレビでも実践し、その後の司会術等の指針とした」と話している[98][99]。
寺島しのぶから「外でやってみたいんですが」と、文学座退団の相談を受けたが、「あなたはその方が向いていると思っていた」と、あっさり送り出したという[100]。
1935年6月に5歳年下で慶應義塾大学出身の医学生である長広岸郎と結婚したが[4]、1942年5月に結核で亡くなっている[4]。『女の一生』などを書いた劇作家の森本薫の愛人でもあったが[10]、森本も1946年に結核で亡くなった[10]。1950年に10歳年下の医者である石山季彦と結婚するも[10]、1966年にこれまた結核で亡くなっている[10]。
1974年、杉村は女優としては東山千栄子、初代水谷八重子に次いで3人目の文化功労者に選ばれた。
1995年には文化勲章授章決定の内示を受けたが、「勲章は最後にもらう賞、自分には大きすぎる。勲章を背負って舞台に上がりたくない、私はまだまだ現役で芝居がしていたいだけ」[101]「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」とこれを辞退[出典 59]。周りの者がいくら説得しても聞く耳持たずだった。
1996年日本新劇俳優協会会長に就任。
杉村は70年の芸能生活で仕事を一度も降りたことがなかったが、1997年1月19日にNHKドラマ『棘・おんなの遺言状』の収録中に貧血と腰痛を訴えて入院し降板、代役は南美江が勤めた。2月に入り文学座の会見では十二指腸潰瘍と発表されたが、そのときすでに医師から膵臓癌でもあることが文学座の社長の梅田濠二郎、戌井市郎や北村和夫・江守徹など親しい者にだけ知らされていたという。3月に新橋演舞場で予定されていた『華岡青洲の妻』も、チケットが発売されている中での緊急降板となり、代役は藤間紫が勤めた。しかし病室では簡単なストレッチをしたり、男性の見舞い客が来ると聞くと長い時間をかけてお化粧をしたりと、常に弱っている姿を見せまいと気丈に振る舞っていたという。
3月16日から意識が混濁し、4月4日午前0時30分、頭部膵臓癌のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去、満91歳。最期を看取ったのは養女のヒロと、当時70歳の長年親しくしていたファンの女性だけだった。本人には癌であることを知らせなかったため、死去の直前まで台本を読んでおり、最期まで女優であり続けた。死後、政府から銀杯一組が贈られた。墓所は富士霊園。
杉村の死後1998年、若手演劇人の育成に力を注いだ杉村の遺志を尊重し、新人賞的意味合いを持つ杉村春子賞が新たに創設された[1]。
年月日は、杉村が最初に演じたときのものである[21]。
最初は端役やスタアが演じないような老け役、そして、だんだんと重要な役を演じるようになっていく。
後に再演が繰り返され代表作となる作品に、次々出会う。
後に起こった文学座と三島とのトラブルにより、杉村はこの時期以外にはこれらの作品を演じていない。
文学座公演として、レパートリーとなった代表作や新作に主演しながら、商業演劇にも数多く出演。商業演劇のスタアたちと同格の主演として舞台に立つ。
「女の一生」を文学座内で平淑恵に継承(杉村生前の1996年に平主演の公演があった)。商業演劇での活躍も続き、スタアとの共演ではない大劇場での単独主演も行なう。89歳まで新作公演に出演、90歳まで主演舞台に立った。
1997年には、3月に新橋演舞場で「華岡青洲の妻」(松竹公演。杉村主演としてチケットはすでに発売されていた。藤間紫が代役で於継を演じた)、5月に紀伊國屋サザンシアターで文学座60周年記念舞台「柘榴のある家」(新作、文学座公演)、9-10月には芸術座で「もず」(東宝公演、山岡久乃と舞台での初共演)などが予定されていた。 また、主演連続ドラマ「棘 おんなの遺言状」(NHK 竹山洋脚本 大竹しのぶ、島田正吾共演)は第1回収録途中に病気降板。没後10年のBS特集番組でその一部が放送された。
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