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富山敬

日本の男性声優 (1938-1995) ウィキペディアから

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富山 敬(とみやま けい、1938年昭和13年〉10月31日[2][4][6][10] - 1995年平成7年〉9月25日[2][6][11])は、日本声優俳優歌手ぷろだくしょんバオバブ最終所属[5][8]

概要 とみやま けい富山 敬, プロフィール ...

幅広い役をこなす実力者で、特に昭和においては「声優ブームの中心的存在」と評されるなど人気を博した声優の一人であった[2][4][12]。代表作は、『宇宙戦艦ヤマト』の古代進役や『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー役など[5][13]

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生涯

要約
視点

生い立ち

満洲国奉天省鞍山出身[2][4][5]。弟が2人いたが、それぞれ事故、栄養失調で亡くしたという[4]。終戦に伴い宮崎県引揚後、本籍地東京都世田谷区で育つ[2][14]

初期のキャリア

中学生の頃から演劇部に所属するなど“演劇少年”だったといい[4]正則高等学校在学時も演劇部に所属し熱中[2][14]。より高みを目指したことで、高校2年だった1955年に東宝児童劇団に飛び込む[2][4][10][14]。水沢草田夫作『金の鶯』の海賊クロ次役で初舞台[2]。約3年間の活動を経て、児童劇に限界を感じ退団した後は、日本大学芸術学部演劇科へ進学する[2][4][14]

その後、「学校の勉強と実際に芝居することは違う」と感じたため、劇団葦の研修生となったことを機に、大学は2年で中退[10][14]。だが、劇団葦は入団から約2年後に解散[10][14]となったため、しばらくは他の劇団の入団試験を受けながら、それまで以上に、日銭が得られる仕事(バーテンダーキャバレーボーイに呼び込み、サンドイッチマンなど)を何でも行う生活を送ったという[2]

声優として

1957年東北放送ラジオドラマ『源九郎物語』の竹丸役で声優デビュー[9]。当時、声優業は俳優たちの副業であり、富山自身も最初は芝居や生活の資金稼ぎのため行っていた[4][10]

1965年、東京都新宿区四谷の喫茶店でウェイターをしていたが、偶然、店に入った劇団葦時代の先輩である千葉順二の誘いを受け、河の会へ所属[2]。当時の河の会が吹き替え出演などマスコミ関係の仕事が主体だったことで、声優業を本格的に始めることとなった。所属後しばらくは端役を多くこなし、ひと月に30本出演したこともあったという。同年には『鉄人28号』にて、毎回役の違う脇役ではあるがセミレギュラーを獲得[2][14]

1968年オーディションで『佐武と市捕物控』の主人公・佐武の声に抜擢ばってきされ初主演を飾る[2][注釈 2]。吹き替えでの初めての主役は、映画『草原の輝き』のウォーレン・ベイティ[10]。以降は、1969年に『タイガーマスク』で主人公・伊達直人を、『男一匹ガキ大将』の戸川万吉を演じる[2][10]などアニメーションでの主演が増え、富山自身の人気も高くなる。

1974年、『宇宙戦艦ヤマト』にて、主人公の古代進を演じる[2][10]。同作のヒットも伴い、多数の人気声優ランキングで上位を飾るなど人気を不動のものとした[14]。この頃から、しばらくはレギュラー出演の週平均が4~5本であり、単発の出演や関連する仕事を含めると、休日がほぼとれない状態だったという[4]

1976年、河の会解散に伴い、青二プロダクションへ移籍[4][10][15]

1979年富田耕生らと青二プロダクションを退所し、ぷろだくしょんバオバブを立ち上げる。同時期には2枚のアルバムをリリースし、1980年にはバオバブ所属声優で結成した劇団がらくた工房(現:劇団すごろく)にて約10年ぶりに舞台活動も再開した[14]

1980年代に入ると世代交代を意識するようになったといい、主演の機会は減ったものの、引き続き多くの作品に出演[16]。『ゲゲゲの鬼太郎(第3作)』のねずみ男役や『それいけ!アンパンマン』のSLマンなど、さまざまな役を担当した。

1990年代には『ちびまる子ちゃん』で、主人公のまる子の祖父・さくら友蔵の声を担当したほか、SFアニメ『銀河英雄伝説』シリーズで主人公のひとりであるヤン・ウェンリーを長期にわたり担当し、結果的に富山の晩年を代表するキャラクターとなった。

死去

1995年8月18日、『ちびまる子ちゃん 第2期』第37話「呪いの貸本」の巻(同年9月17日放送[17])を収録。これが生前最後の仕事となった[18]

同年8月21日、「最近どうも目の調子が悪い」と訴え病院へと足を運んだ結果、末期の膵臓癌と診断され入院[18]。以前から体調の異変はあったが、人気声優としての多忙に加え、「休んだらみんなに迷惑がかかるから」と検査に行くことを躊躇っていたことが災いして発見が遅れてしまい、診断時点で既に手遅れの状態だったという。

同年9月25日午前9時7分、膵臓癌のため東京都新宿区東京医科大学病院で死去[1][18]56歳没。9月30日に告別式が行われ、声優仲間やファンら約1300人が出席した。

2007年、第1回声優アワードにて特別功労賞を受賞した[19]

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特色・人物

要約
視点

声種ハイバリトン[20]。没後に「どんな役をやってもはまる、すぐに役をつかむ天才的な役者だった」と評されている[18]

第1次から第2次にかけての声優ブームの立役者の1人と評され、井上真樹夫神谷明と共に「声優御三家」と呼ばれていた[14][21]。その中でも、富山の人気は群を抜いて高かったという[14]。また、人気絶頂の頃にはファンレターが年に約5000 - 6000通届いていたという[22]

声優界屈指の酒豪で知られていた。普段は洋酒が多く、ロックのダブルで8杯ほど飲んでいたという[4]日本酒では新潟の銘酒久保田を愛飲していた。

愛煙家でもあり、1日に3箱吸っていたこともあったという[23]

趣味は川釣りレコード鑑賞。

好きな言葉は「やさしさ」[4]。「大切なことは思いやりの心」「相手のことを考えて言動する」をモットーとしていた。

「敬」という芸名に関しては特別な意味はなく、本名の「邦親」が難しい字だったため変えたという[9]

私生活では、1973年に劇団の事務員と結婚[2]。仲間内では愛妻家として知られていたが、1993年末に死別[18]。そのため、自身が亡くなった際は父親が喪主を務めた。

1978年時点で、娘と双子の息子がいた[2][4][24]。2006年時点では連絡が取れない状態であり、これを理由に、同年の東京国際アニメフェアでは「声優特別功労賞」の授賞を断念している。

人物評

声優界きっての人格者で、非常に腰が低いことで知られていた。

小原乃梨子勝田久は追悼インタビューで、「万事控えめな性格で、それはどんなに人気者になろうと変わらなかった」と評し[18]、後輩の古谷徹は、「誰にでも優しくて、業界の先輩後輩から好かれ尊敬されている人だった」と語っている。『宇宙戦艦ヤマト』で共演した麻上洋子は、新人の頃から富山に面倒を見てもらい、NGを出した時も「大丈夫だよ」と慰められ、声優としてやっていく事ができたと語っている。

富山の人柄の良さを表すエピソードとして、次のようなものがある。池田秀一堀内賢雄のマネージャーと酒を飲んでいる最中に「賢雄に電話しろ」という話になったが、堀内のマネージャーは誤って富山へ電話をかけてしまう。池田は酔っていたせいで間違い電話と気づかず、先輩の富山に対して「俺だよ、池田だよ」「なに気取った声出してるんだ」「○○で飲んでるから、今から出て来いよ」などと軽い口調で喋ってしまうが、富山は「割と近くね、でも明日早いから行けないの」と終始冷静だった。しばらくして、おかしいと気づいた池田が「どちら様ですか?」と質問すると「富山敬です」と返ってきたので、慌てて「失礼いたしました」と謝罪。それに対して富山は「行きたいんだけどね、ごめんね、今度ゆっくり飲もうよ」と優しい言葉をかけたという[25]

青野武によると、青野が酔っ払って酒場で他の客と殴り合いのケンカを起こした際、一緒に飲んでいた富山はケガをした青野を家まで連れて帰り、朝まで介抱してくれたという[18]

羽佐間道夫は、普段吹き替えやナレーションを中心に活動していたため、『銀河英雄伝説』でアニメのアフレコに慣れていなかった時、富山に「今、ここで出るんですよ!」「今の台詞は、あそこで切った方がいいんじゃないですか?」と色々教えてもらったという。羽佐間は芸歴や年齢は富山より上だが、「『銀河英雄伝説』では彼が自分の師匠だった」と述懐している[26]

一方、親友の富田耕生は「かなり我慢強い性格」だと語り[23]、プライベートにおける悩みは尋常なものでは無かったようである。なお、このことに関して、富山自身はあるインタビューで「そりゃ僕だって欲求不満がたまりますよ」と笑いながら語り、仕事(役作りへの没頭など)や飲酒でそれらの不満は発散しすぐに忘れてしまう、と答えたことがあった[24]

後世への影響

富山に憧れこの道を志した、あるいは影響を受けたと語る声優は多い。

神谷明は「多大な影響を受けた人物」、古川登志夫は「この方のような軽妙な演技ができるようになりたい一心で、演技は元より、シャツからセーターからブルゾンから眼鏡までなんでも真似した」[27] と語っている。

井上和彦は、2021年に「技術No.1声優」を尋ねられた際に「すごく憧れた先輩」として富山を挙げ、声を変えずに役を演じ分けることや、『レインマン』の吹き替えで主演した際に、一度のリハーサルだけで本番の収録を終えてしまったことの凄さを語っている[28]

飛田展男小野健一は、目標とする役者に富山を挙げている[要出典]水谷優子[18]杉山紀彰も尊敬する人物は富山だと答えている。森功至郷田ほづみは、富山の影響で声優の道を志したとも語っている。同じ事務所所属だった小原は、「(バオバブ)社内での人気投票ではいつも(富山が)1位だった」と追悼インタビューで語っている[18]

没後も、声優界では当時の共演者やファンをはじめ、定期的に名前が挙がる存在であり、2006年には「死して、なお愛され続けるプロの声」と評された[29]

先述の通り、2007年には第1回声優アワードで特別功労賞を受賞。授賞式では、生前に所属したぷろだくしょんバオバブの清水百合恵社長(当時)が代理で賞を受け取った。2008年の第2回以降は、同アワードの一部門として富山の名を冠した「富山敬賞(第18回以降は富山敬・高橋和枝賞)」が設立され、「その年に声優という職業を最も世の中に浸透させた功労者」に対して贈られることとなった[注釈 3]

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エピソード

要約
視点

出演作に関して

初の主演作となった『佐武と市捕物控』の佐武役は、1978年に一番思い出深い出演作として挙げている。また、当時は大人向けを意識したものの、視聴率の問題などで実現できなかった部分があり、スタッフに再会するとその都度、「ちゃんと大人の鑑賞に堪えうる作品」にしての続編やリメイクを切望していたという[4]

自身の代表作である『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』の古代進役は、「思い出に残るキャラクターの中では別格(笑)」と答えているほか、後に、「一緒に成長してきたような気がします。彼がかわいいなんていう感情を通り越してますね」と語っていた。また、古代について、「特別な人物ではなく普通の青年」であり、人間味のある部分が好きだと度々語っていた。

タイムボカンシリーズ」では、「説明しよう!」で始まるナレーターをはじめ、おだてブタ、ささやきリポーター等多くのキャラクターを担当。このうち『逆転イッパツマン』では、主役のイッパツマン(豪速九)の声を担当した。また作中では、富山自身をモデルにデザインされた「トミー・ヤマ」というキャラクターも登場した。『ゼンダマン』には、一度だけ富山の娘がゲスト出演したことがある。

洋画吹き替えでは、持ち役のリック・モラニスをはじめ、ロディ・マクドウォールマーティン・シーンスティーヴ・マーティンウディ・アレンウィリアム・カットエディ・マーフィデニス・ホッパーチャールズ・マーティン・スミスジョン・ハードジェームズ・ベルーシアントニオ・ファーガスなどを担当していた。

富山がエディ・マーフィを吹き替えた『ビバリーヒルズ・コップ』(テレビ朝日版)は、「豊かな表現力がフルに発揮された」と評され[30]、『超音速攻撃ヘリ エアーウルフ』の追加収録部分で富山の代役を務めた花輪英司は、「俺のバイブル」と称しソフト収録を熱望していることを自身のSNSで明かしている[31][32][33][34]

『ちびまる子ちゃん』のさくら友蔵役は、オーディションではなくオファーで決められた。担当スタッフによると、当時50歳を過ぎたばかりの富山にとって相当な老け役だったため、断られるのではないかと懸念していたが、いざオファーを出すとすんなり了承してくれたという[35]

『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー役に関しては、反対に富山が当時青年役をほとんど演じていなかったことから、音響監督の明田川進が難色を示し、富山のイメージに近い若手でオーディションを行なったものの、該当者が見つからなかったことで、最終的に富山を起用することになった[36]。富山自身も、当時ファンから二枚目の主役を演じて欲しいという要望を受け取ってはいたが、多くの後進が台頭する中で世代交代を意識していたため、最初はかなり抵抗があったという。だがその後、ファンからの励ましの手紙をもらい嬉しかったといい、次第とその気になり抵抗がなくなったと語っている[16]

仕事に対する姿勢

役者として、精神面や感覚的な面での“若さ”を持つことを意識していた。また、様々な役を演じたい趣の発言をよくしており、1995年には、「どんな役も演ってみたいですよ。私達の仕事にはこれで良しという事はないのですから。死ぬまで挑戦です」と話していた。

原作漫画がある作品に関して、「絵の付いた物よりも活字になった台本の方が読みやすい」との理由から原作はあまり読まない姿勢だった[24]

吹き替えは、常に「映画を日本語で視聴者により深く理解してもらうための手助けの役割だ」と心にとめていた[10]。自身が吹き替えを担当する俳優は、「皆演技がうまいため、安心してアテられていた」とする一方、表情が乏しい俳優の場合は苦労したという[10]

演じる上では、「自分に与えられた役を、いかに魅力的にするか」を大切にしており、「富山敬の演じる役は何かがあるといわれるように演じること」を目標にしていた[4]

人気声優として

『宇宙戦艦ヤマト』の古代進を演じたことを機にファンが急増し、1970年代後半から1980年代前半にかけては、人気声優ランキングの常連だったほか、ファンクラブも存在していた[37]。当時のファンは女性が圧倒的に多く[37]、女子中高生が中心だったという。

当初は、「役を演じる自身」が人気になることに抵抗があり素顔をさらしたくなかったというが、ファンが自身のことや妻子持ちであることを理解した上で応援していると知ってからは、だんだん気が楽になったという。また、自身の人気に関してはインタビューで、「キャラクターから派生したんじゃないですか?その声をアテてるので僕たちが、付き合ってみたら気軽な人たちばかりなんで、今度は人間としての声優を応援してくれるようになった…っていうのかなァ」と語るなど、冷静な面を持ち合わせていた[12]

ファンに対しては感謝を表しつつ、「あまり熱中しないでほしい」とも語っていた[37]。また、「うんと勉強してほしい。そしてその合い間、僕についての意見や批判の手紙をかいてくれればいい。これが僕の理想のファン像です」と話したことがあった[37]。そのほか、「俳優・声優のファンは、特に演技に対しては厳しくあってほしい。素晴らしい演技をしたときだけ、惜しみなく拍手をしてあげてほしいですね」と話したことがある。

事務所との関係

河の会が解散した際、納谷六朗を通して、江崎プロダクション(現:マウスプロモーション)社長の江崎加子男(現:アイムエンタープライズ社長)を訪ねたが、「うちは納谷六朗を売ってるから難しいよ」と断られ、青二プロダクションを紹介される[38]。富山の没後、江崎は「出来る事なら自ら富山も売りたかった。だから、青二に任せた後もヤマトで飛躍した時は我が子のように嬉しかった。富山をもっと自分の手で売りたかった。あいつともっと仕事がしたかった……」と語っている。

1979年に青二プロダクションを退社し、ぷろだくしょんバオバブへ移籍した際には、事務所の設立そのものにも関わった。だが、この動きは円満な形ではなかったことから、両社の間に確執を生むこととなり、バオバブ所属声優は、2000年代初頭まで、青二プロダクションとの関係が深い東映アニメーション制作作品に出演できない[注釈 4]事態となってしまう。そんな状況にもかかわらず、富山だけは『あさりちゃん』(浜野イワシ役)や『夢戦士ウイングマン』(北倉俊一 / キータクラー役)、『ゲゲゲの鬼太郎(第3作)』(ねずみ男役)などの東映作品にレギュラー出演していた。

その他

『タイガーマスク』で伊達直人役を演じていた当時、あるクイズ番組で、「伊達直人役は誰か」という問題が出題され正解として出演したことがある。だが、回答者の誰も正解できなかったという。

「教えるのはあまり得意ではない」という理由から、声優養成所の講師など、後進の育成や指導にはあたっていなかった。

最晩年の1995年のインタビューでは、「どんな事でも本質が分かってしまうと、とてもつまらなくなるものです。この世界は夢です。その夢を楽しんで下さい。私達は頑張ります。これからも応援して下さい。」と話していた。

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代役・後任

要約
視点

富山の死後、代役を務めたり、持ち役・ナレーションを引き継いだりした人物は以下の通り。

さらに見る 後任, 役名 ...
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出演

要約
視点

太字はメインキャラクター。

テレビアニメ

1965年
1966年
1967年
1968年
1969年
1970年
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1978年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年

劇場アニメ

1969年
1976年
1977年
1978年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
  • きまぐれオレンジ☆ロード もぎたてスペシャル(春日隆
1990年
1991年
1992年
1993年
1995年
1996年

OVA

1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1993年
1994年
1995年

ゲーム

1900年代
2000年代

吹き替え

担当俳優

アントニオ・ファーガス
ウィリアム・カット
ウディ・アレン
エディ・マーフィ
ジョン・ハード
スティーヴ・マーティン
チャールズ・マーティン・スミス
デニス・ホッパー
マーティン・シーン
リック・モラニス
ロディ・マクドウォール

映画

ドラマ

アニメ

1969年
1973年
1974年
1978年
1984年
1986年
1988年
1989年
1991年
1992年
1993年
1995年
1996年

人形劇

テレビドラマ

ラジオ番組

ラジオドラマ

ドラマレコード・CD等

1979年
  • 声優入門(生徒)※本人役で、自身の役づくりの方法も解説。
1982年
  • メモリーズ・オブ・タイムボカン(ナレーション)
1986年
  • いつか猫になる日まで
1988年
  • 未来放浪ガルディーン 大歌劇(ヤマト)
1991年
  • タイムボカン名曲大全 オリジナルドラマ(ナレーション、おだてブタ)※収録楽曲にも参加
1992年
  • タイムボカンカラオケ博覧会 30周年記念ドラマ 絶唱カラオケマン(ナレーション・おだてブタ・なげきブタ)
1993年
  • ぶちかまし眠り姫
  • タイムボカンOVA大復活記念 悪玉馬券塾(ナレーター、トミーヤマ、ササヤキレポーター、豪速九)
  • タイムボカン王道復古 特訓満漢全席(ナレーター
1994年
1995年

テレビ番組

顔出し出演

CM

※特筆が無い限りはナレーション。

テレビ

ラジオ

その他コンテンツ

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ディスコグラフィ

アルバム

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参加作品

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キャラクターソング・参加作品

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ライブ・イベント

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書籍

  • とみとみトーク いつも青春(1982年、朝日ソノラマ)※富田耕生との共著

脚注

外部リンク

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