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1968年の阪神タイガース
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1968年の阪神タイガース(1968ねんのはんしんタイガース)では、1968年の阪神タイガースの動向をまとめる。
概要
藤本監督は打線の強化を図るため広島へ移籍した山内一弘の穴埋めとしてウィリー・カークランドを獲得し、また前年まで近鉄の選手兼任監督だった小玉明利が移籍するなど、積極的な補強を行った。投手陣では2年目の江夏豊をはじめジーン・バッキーや村山実、若生智男、前年最優秀防御率の権藤正利が控えるなど盤石でチームは優勝が期待された。しかし前年と違って開幕ダッシュに失敗すると、その後も勝ち星を増やせずチームは苦戦を強いられた。後半戦になって8月に19勝2敗のハイペースで借金を返済し9月には2位に浮上。9月17日からの対巨人4連戦(うち18日はダブルヘッダー)の初戦を江夏の奪三振ショーでモノにすると翌日のダブルヘッダー第1試合は正捕手辻佳紀のサヨナラ本塁打で勝利。第2試合はバッキーが巨人の王貞治に危険球を投げつけ、それに激怒した荒川博コーチを殴打するなど大乱闘に発展。2番手権藤が王の頭部に死球をぶつけて再び両軍乱闘かと思われたが、巨人の川上哲治監督は「権藤はわざとぶつけるピッチャーじゃない」と言ってベンチから出た選手を呼び戻した。最後は長嶋茂雄が権藤から怒りの一発を放ち、これが響いて第2試合は阪神が敗戦。19日の試合を勝って巨人とゲーム差なしになるも、バッキーの負傷で先発コマ不足に陥ったチームは次の直接対決を1勝2敗で落とし、4年ぶりの優勝はならなかった。チーム防御率2.67とリーグ1位だったが、本塁打・打率共にリーグ5位だった。シーズン終了後藤本監督は高齢のため勇退し、後藤次男ヘッドコーチが後任となった。
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チーム成績
レギュラーシーズン
1 | 遊 | 藤田平 |
---|---|---|
2 | 右 | 藤井栄治 |
3 | 三 | 小玉明利 |
4 | 中 | カークランド |
5 | 一 | 遠井吾郎 |
6 | 左 | 和田徹 |
7 | 二 | 吉田義男 |
8 | 捕 | 辻恭彦 |
9 | 投 | 村山実 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 読売ジャイアンツ | 77 | 53 | 4 | .592 | 優勝 |
2位 | 阪神タイガース | 72 | 58 | 3 | .554 | 5.0 |
3位 | 広島東洋カープ | 68 | 62 | 4 | .523 | 9.0 |
4位 | サンケイアトムズ | 64 | 66 | 4 | .492 | 13.0 |
5位 | 大洋ホエールズ | 59 | 71 | 3 | .454 | 18.0 |
6位 | 中日ドラゴンズ | 50 | 80 | 4 | .385 | 27.0 |
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入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
オールスターゲーム1968
→詳細は「1968年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
選手・スタッフ
試合結果
※日付の後の(a)はダブルヘッダー第1試合(b)はダブルヘッダー第2試合
※セーブ制度は1974年から
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個人成績
要約
視点
投手成績
※色付きは規定投球回数(133イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録
- 完封合計は継投も含む
打撃成績
- 色付きは規定打席(412打席)以上の選手
- 太字 はリーグ最高
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表彰
達成記録・出来事
- 4月25日 - 広島5回戦(広島市民)で勝利し、球団通算2000勝(2000勝1533敗86分)史上2球団目
- 6月19日 - 若生智男がサンケイ11回戦(神宮)で5回に巽一から三振を奪い通算1000奪三振、史上33人目
- 8月8日 - 江夏豊が中日17回戦(中日)で先発登板し、セ・リーグタイ記録の一試合16奪三振[2]
- 8月27日 - ジーン・バッキーが広島20回戦(広島市民)で先発して勝利投手となり通算100勝、史上46人目[3]
- 9月17日 - 江夏豊が巨人20回戦(甲子園)で王貞治から4回に1961年の稲尾和久(西鉄)が記録した年間奪三振記録に並ぶ353、7回に新記録の354個目となる三振を奪う[4]
- 9月18日 - 巨人22回戦(甲子園)で、4回に王貞治に対するジーン・バッキーの投球をめぐり、巨人の打撃コーチの荒川博が乱闘[5]
- 10月6日 - 村山実が大洋27回戦(甲子園)で先発登板し1回3死目のアウトを取って2500投球回、史上20人目
- 10月7日 - ジーン・バッキーが先日の乱闘の件で尼崎簡易裁判所で巨人の荒川博コーチと共に25,000円の罰金刑の略式命令が出されて決着した[6]
- 10月23日 - 藤本定義監督の辞任を発表
- 11月19日 - 大阪・梅田の球団事務所にて新監督にヘッドコーチの後藤次男が就任したと発表[7]
ドラフト指名選手
→詳細は「1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
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