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1965年の阪神タイガース
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1965年の阪神タイガース(1965ねんのはんしんタイガース)では、1965年の阪神タイガースの動向をまとめる。
概要
1962年・1964年と2度優勝しながらも日本シリーズで東映・南海にそれぞれ敗退したのを受け、藤本監督の発案でユニフォームを一新。当初はオープン戦からの使用予定だったが「ユニフォームを変えると負ける」というジンクスがあり前半戦までは従来の袖ラインなしユニフォームを使用し、オールスターゲームから新ユニフォームが登場した。こうして登場した新ユニフォームは1953年から採用のデザインに首・袖・ズボンのラインを入れ、左袖に「OSAKA」ロゴを入れたもので(ビジター用はグレーの縦縞なしで、「OSAKA」の代わりに虎マークが入る)、1973年まで使用された。新ユニフォーム効果もあり、チームは8月まで巨人に食らいついたものの最後は差が広がり、最終的に中日に抜かれて3位に終わった。投手陣では前年優勝の立役者であるジーン・バッキーと村山実がこの年も健在で、前年16歳でプロ入り初登板の古沢憲司が中継ぎで1軍に定着するなど明るい話題もあった。打撃陣は4番の山内一弘や切り込み隊長・吉田義男がそれなりの成績を残すが、後の選手が不調だったこともありV2はならなかった。
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チーム成績
レギュラーシーズン
1 | 遊 | 吉田義男 |
---|---|---|
2 | 二 | 鎌田実 |
3 | 左 | 山内一弘 |
4 | 一 | 遠井吾郎 |
5 | 右 | 藤井栄治 |
6 | 中 | 並木輝男 |
7 | 三 | フェルナンデス |
8 | 捕 | 辻佳紀 |
9 | 投 | バッキー |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 読売ジャイアンツ | 91 | 47 | 2 | .659 | 優勝 |
2位 | 中日ドラゴンズ | 77 | 59 | 4 | .566 | 13.0 |
3位 | 阪神タイガース | 71 | 66 | 3 | .518 | 19.5 |
4位 | 大洋ホエールズ | 68 | 70 | 2 | .493 | 23.0 |
5位 | 広島カープ | 59 | 77 | 4 | .434 | 31.0 |
6位 | サンケイスワローズ | 44 | 91 | 5 | .326 | 45.5 |
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入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
オールスターゲーム1965
→詳細は「1965年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
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選手・スタッフ
試合結果
※日付の後の(a)はダブルヘッダー第1試合(b)はダブルヘッダー第2試合
※セーブ制度は1974年から
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個人成績
要約
視点
投手成績
※色付きは規定投球回数(140イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高
- 完封合計は継投も含む
打撃成績
- 色付きは規定打席(419打席)以上の選手
- 太字 はリーグ最高
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達成記録・出来事
- 5月2日 - 吉田義男が巨人4回戦(後楽園)での3回に高橋明から安打を打ち、通算1500安打を達成
- 5月2日 - ジーン・バッキーが巨人4回戦(後楽園)で5回に高橋明から、7回に増田昭雄から本塁打を放つ、投手の1試合複数本塁打は史上10人目
- 5月9日 - 国鉄3回戦(甲子園)が開催されたが、この試合が相手チームの国鉄の最後の試合となる(対国鉄戦は378試合229勝146敗3分)
- 5月16日 - 山内一弘が巨人6回戦(甲子園)で4回に金田正一から本塁打を放ち通算3000塁打、史上3人目
- 6月28日 - ジーン・バッキーが巨人11回戦(甲子園)でノーヒットノーランを達成、史上32人目(40度目)
- 6月29日 - 山内一弘が大洋12回戦(甲子園)で6回に新治伸治から二塁打を放ち通算350二塁打、史上2人目
- 6月30日 - 古沢憲司が大洋13回戦(甲子園)で完封勝利を挙げ17歳での勝利は、プロ野球史上尾崎行雄に次ぐ2人目の勝利投手となる[2]
- 7月3日 - 山内一弘が巨人12回戦(後楽園)で4回に益田昭雄から本塁打を放ち通算1000打点、史上4人目
- 7月4日 - 山内一弘が巨人13回戦(後楽園)で1回に城之内邦雄から本塁打を放ち通算300本塁打、史上初
- 8月13日 - 石川緑が大洋18回戦(川崎)で1回に初回先頭打者の近藤和彦、2番桑田武、3番黒木基泰に三者連続被本塁打、史上2人目
- 10月2日 - 広島20回戦(甲子園)で外木場義郎にノーヒットノーランを喫する、相手投手にノーヒットノーランを喫するのは1960年8月11日の大洋20回戦(川崎)で島田源太郎に完全試合を喫して以来5年ぶり
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表彰
ドラフト指名選手
→詳細は「1965年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注
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