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8時だョ!全員集合の歴史

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8時だョ!全員集合の歴史(はちじだョ!ぜんいんしゅうごうのれきし)では、TBS系列で放送されたバラエティ番組8時だョ!全員集合』の歴史について触れる。

制作背景

要約
視点

立ち上げまでの経緯

TBS系土曜20時枠はそれまで『逃亡者』などのドラマを放送していたが、やがて裏番組コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)の影響で視聴率が低迷し『全員集合』開始前は3 - 5%にまで落ち込んでいた。そこで、この枠で視聴率の取れる番組を制作すべく、前枠番組『お笑い頭の体操』を成功させていたTBSプロデューサー居作昌果に白羽の矢が立った。居作は新番組制作に専念するため、『お笑い頭の体操』のプロデューサーを降りようとしたが、これに『お笑い頭の体操』のスポンサーだったロート製薬が猛抗議。ロートは「居作を『お笑い頭の体操』の専属にしてほしい」「他番組との掛け持ちは認めない」という姿勢だったが、居作の意志は固く、最終的にはロート側が折れて「番組掛け持ち」を容認させることとなった。

企画

居作は企画作成の際に、まず裏番組に出演するコント55号の事を考えた。55号の持ち味である「スピード感と即興力」に対抗するには、「時間をかけて練りに練り上げた笑い」しかないと考え、レギュラー出演者にザ・ドリフターズの起用を決めた。ドリフを起用したのは、「リーダーのいかりや長介は(アドリブに長けた55号に比べて)不器用で口下手だが、ギャグを考えるのが大好き」だったからだという。ところが、当時のTBS社内でのドリフの評価は低く、編成から反対の声が多数上がった[注釈 1]。その中には「クレージーキャッツを起用すべきだ」という意見があり、ドリフとクレージーの所属事務所・渡辺プロダクションからも「そういう番組であればクレージーの方が向いているのでは?」と言われた。しかし、当時のクレージーはグループとしての活動をほとんど行っておらず、居作は「(クレージーでは)メンバーそれぞれのスケジュールの調整がつかなくなる」としてドリフ起用の姿勢を曲げなかった。

その後、「ドリフがジャズ喫茶時代から客前でネタをやるのに慣れている」「会場にいる観客を笑わせられなくて、視聴者を笑わせられるはずがない」として、収録劇場ホールでの公開形式とすること、「視聴者に『番組が今、実際に行われている』という臨場感を持ってほしい」「出演者にNGが効かない緊張感を味わってほしい」という理由から生放送で行うことをそれぞれ決定、「ドリフをメインとする生放送の公開バラエティ番組」という骨組みを作り上げていった。

そして居作は、赤坂のTBSに程近い寿司屋にドリフの面々を呼び、顔合わせを兼ねて会食を行うことになった。その席上でいかりやが「今の55号は日の出の勢い。その裏でいくら頑張っても勝ち目はないんじゃないの?」と、新番組に対して消極的な発言をすると、居作は「確かに55号とドリフじゃ、今はスッポンかもしれない。だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」と返した。これを受けたいかりやは驚き、「居作さんをギャフンと言わせてやろう」と新番組のオファーを受諾。こうして番組開始が決定した。

番組タイトルの『8時だョ!全員集合』は、系列局やスポンサーを交えての企画説明会議で、スポンサーのライオン油脂(現:ライオン)の広告部長が、「8時になったら、テレビの前にみんな集まるような番組を作って欲しい」と発言し、それを聞いた居作がその場で思い付いたものである[注釈 2]

放送開始から人気上昇まで

1969年10月4日、番組はスタートを切った。この年の10月はドリフが新宿コマ劇場で公演を行っていたことから、初回から10月25日放送分までの4回分は、9月に事前収録となった。

開始当初はドリフによるコントだけでなく、作曲家山本直純を起用しての音楽コーナーやゲストを招いてのトークコーナー、巨大すべり台セットを使用してのクイズコーナー「ドリフでドボン」があった。

こうして10月に放送された4回分の平均視聴率は約14%(初回視聴率は12.9%)で、これまでの番組と比べればまずまずの結果を収めた。しかし、VTRをチェックしていく中でドリフが苦手としているコーナーが多かったことがわかり、コント以外のコーナーを年内一杯で廃止。特に「ドリフでドボン」のセットに使われた巨大滑り台は制作費が高く、3ヶ月で終わらせることにTBS社内から顰蹙を買ったという。これらに代わって1970年より「ベスト100」(後の後半コント)を開始した。

視聴率は悪くなく、観客からの受けも良かったものの、裏番組の『コント55号の世界は笑う』は依然として視聴率が高く、居作はその打開策を考えていた。その中で「視聴率に繋がらないのは、チャンネル選びの習慣性によるものだ」という意見を聞いた居作は、視聴率が習慣によるものなのかどうかを実験すべく、当時のTBSの人気番組の出演者をゲストに呼び、コントに参加させることを思いつく。その手始めとして、1970年1月24日に『サインはV』のメンバー(岡田可愛中山麻理范文雀岸ユキなど)がゲスト出演、するとこの回の視聴率は一気に27%に上昇。さらに、翌1月31日に『柔道一直線』の主演・桜木健一を、その翌々週2月14日は『キイハンター』から丹波哲郎野際陽子らをゲストに招いた。しかし、この中の空いた1週(2月7日)、つまり人気番組のゲストのいない回こそが居作の狙い目であり、この回の視聴率が良ければ視聴者が視聴習慣を変えたことになり、逆に悪ければ失敗と踏んでいた。この結果、2月7日放送分の視聴率は25%を記録し実験は成功。こうして当番組は「お化け番組」と呼ばれるまでの人気を獲得していくことになった[1]

加藤茶は、2024年9月29日放送NHK演芸図鑑』のスペシャル対談で桂三枝に「2クールで始まった。当初は作家が書いてきたもの(コント)をやっていたがウケなかった。それじゃ納得行かないから「どうせ駄目なら(打ち切りになるなら)残りの1クール、全て、(コントのネタを)ドリフに任せて下さい」とお願いした。ネタは溜めてあったから。視聴率が20%になった時に「全てドリフに任せよう」と言って貰えて全てドリフが考えるようになった」と語った。

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コント

1969年の放送開始から1985年まで16年にわたり、20分前後の「前半コント」が一貫して放送されており、内容は多岐にわたる。

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年表

要約
視点

放送回数と出演者および、収録会場山田満郎著書に基づく。なお、後年に発売された当番組のDVDに収録されているものは太字で記載している。

1969年

1969年に放送された全13回の平均視聴率は13.2%。

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1970年

年間平均視聴率は31.2%で、当時裏番組だった「コント55号の世界は笑う」の視聴率を一気に抜き去り、結果的に「世界は笑う」は3月末で終了した。その後、「コント55号のやるぞみてくれ!」としてリニューアルするも、「全員集合」の勢いには勝てず、たった2ヶ月で打ち切られた[注釈 6]。敵がいなくなった「全員集合」は常時30%近い視聴率を記録するようになり、回によっては40%に肉薄するようになった。

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1971年

  • 1月1日金曜日)、初の正月SP版『お正月だョ!全員集合』を14:45 - 15:56のノンプライム枠で放送。なお翌2日(土曜日)にも通常版を放送、2日連続して『全員集合』が見られた。、なおこのSPは放送回数にカウントされない。
  • 1月23日30日に、視聴率が50.4%を記録する[3]
  • 3月27日この日の放送を最後に番組が一旦終了。最終回には、クレージーキャッツ・由紀さおり森進一・佐良直美・いしだあゆみが出演。前半コントでは、クレージーキャッツ以外のゲストが参加。番組中盤には、最終回となる山本直純音楽コーナーでドリフの歌をクレージーキャッツ以外のドリフとゲストで交互に歌う企画。エンディングでは、次の番組を引き継ぐハナ肇といかりやのやりとりがあり、エンディングを迎えた。4月3日から9月25日の間は、ハナ肇とクレージーキャッツ出演の『8時だョ!出発進行』を放送。初回の観覧募集のテロップは、番組最終回で初めて流れた。
  • 10月2日、番組再開。オープニングもこれまではドリフターズの新曲を使用していたが、「ちょっとだけョ!全員集合」へと変わった。これ以降ゴールデンハーフレギュラーに。
  • 11月13日、再開後初の収録(年内唯一)、五十嵐じゅんがゲストで登場した時の映像は、1989年6月25日テレビ探偵団でカラーで流された翌週から、前半コントはドリフターズをするように(翌年5月27日からはゴールデンハーフの名前も冠された)。
  • 12月25日、最多登場ゲスト小柳ルミ子が初登場。

1月から3月までの平均視聴率は47.1%を記録し、半年後の10月2日に番組が再開された後も、30%以上の視聴率をキープし、1975年にフジテレビで「欽ちゃんのドンとやってみよう」(欽ドン) が放送されるまで、「全員集合」は高い視聴率を保ち続けた。

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1972年

この年に日本プロレスを退団したジャイアント馬場全日本プロレスを旗揚げし、10月から日本テレビで『全日本プロレス中継』がスタートしたが、旗揚げ当時の全日本プロレスは日本陣営が脆弱であったこと、アントニオ猪木が旗揚げした新日本プロレスやNET(現:テレビ朝日)の『ワールドプロレスリング』よりも人気が低迷していた事などから、『全員集合』の人気や視聴率には影響しなかった。

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1973年

  • 3月24日荒井の意地悪爺さんスタート、脱退まで続く。
  • 4月7日、最高視聴率50.5%(関東地区)を記録する[3]。この回は前半コントがボクシングジムをネタにしたものであり、当時世界チャンピオンの輪島功一がゲスト出演した。ゴールデンハーフに代わり、キャンディーズがレギュラーとなる。
  • 4月14日、体操コーナーが始まる。
  • 4月28日、「国語算数理科社会」シリーズが始まる(この後も教室コント以外ではしばらく分教場コントが並行して続く)。
  • 5月12日、診察室コーナーが1ヶ月だけ復活、このコーナーは後にドリフと女優の爆笑劇場へ移植。
  • 11月17日倉敷市民会館から中国地方初放送。
  • 12月8日志村けんがドリフターズ見習いとして出演し始め、初の6人ドリフになる。全員集合での志村の初舞台は福引コントでの5等賞であるお釜(女装したおかま)で、当てた荒井注を若手のエキストラと共に追いかけ回す役であった、なお二週間後には放送中に本物の福引が行われた。

1973年は番組の「絶頂期」であり、年間平均視聴率は43.7%を記録した。加藤茶の「ちょっとだけヨ、アンタも好きねエ」というギャグが子供たちの間で大流行したのもこの頃である。高視聴率の反面、番組内容やギャグなどから「低俗番組」というレッテルを貼られるようになり、「子供に見せたくない番組」の上位の常連となっていった。

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1974年

  • 1月12日、視聴率が44.7%を記録[3]
  • 3月9日、エンディングにて志村の加入が宣言され6人ドリフ、スタート。文京公会堂からの生放送であったがTBSも本番直前に休養を知った[5]
  • 3月30日、荒井がドリフターズメンバーとして全員集合最後の出演(ドリフターズのメンバーとしては同年4月2日のおめでとう新入学だよ!ドリフターズ(NET系列)が最後[6]、これによりドリフは5人に。なお、荒井は翌月から日本一周、翌々月から世界一周旅行へ赴いている[7]
  • 10月5日、当時NETテレビ(現在のテレビ朝日)系列とのクロスネット局だった青森テレビが『全員集合』の放送を開始。青森テレビは、NETテレビ系列とのクロスネット時代は、土曜ゴールデンタイムがNET番組枠(現代劇または、時代劇。特撮+アニメ2本立ての時期もあり)だったためネットできなかった。23局同時ネット。
  • 12月14日ウルトラマン仮面ライダーとコラボ。
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1975年

  • 3月22日、志村のHOWTOコーナーが終わる。
  • 4月5日の放送から、関西地区の放映ネット局が朝日放送から毎日放送に変更された(ただしこの日はドリフが渋谷NHKホールで開催していた、当時同じ事務所に所属していたザ・ピーナッツ さよなら公演に出向いたため、生放送ではなく録画放送であった)。腸捻転解消によるネットチェンジで、毎日放送はネットチェンジのPRキャラクターとしてドリフターズを起用。「4月から、4チャンネル(毎日放送のアナログチャンネル番号)だョ!全員集合」と、TBS系列になる毎日放送をアピールした[8]。また、ネットチェンジ以降、当時、毎日放送の看板番組だった『アップダウンクイズ』のパロディコントも作られ、また4月12日放送分では毎日放送制作の特撮番組『仮面ライダーストロンガー』から、仮面ライダーストロンガーがゲスト出演した[注釈 9]
  • また、当時フジテレビ系列(FNSのみ加盟)・NETテレビ(現:テレビ朝日系列)とのトリプルネット局だったテレビ山口は1975年3月まではフジテレビ系列の番組(『フジテレビ土曜8時枠の連続ドラマ』【同時ネット】→『座頭市物語』【遅れネット】)を放送していたが、当時のフジテレビ系土曜20:00枠が不振だったことから、毎日放送と同日にネットを開始した。JNN24局同時ネット。
  • 4月26日、すわ親治に"ドリフ見習い"とテロップされる。
  • 7月5日、「修行」という理由で9月13日まで2か月にわたり番組の収録を休止。この間は「夏休み傑作特集」と銘打ち、過去のコントを再放送した。
  • 12月27日、年内最終放送で放送300回を達成。

1969年の放送開始以降、高視聴率をキープしていた「全員集合」だったが、1974年以降、視聴率は下落の一途をたどることとなった。荒井が脱退し、志村加入後もしばらくは30%の大台をキープしていたが、4月に裏番組の「欽ドン!」がスタートし、「全員集合」の視聴率は下落していった。それでも毎週20%近い視聴率を叩き出してはいたものの、全盛期の1973年に比べると半減しており、視聴率の低下は明らかだった。この年の年間平均視聴率も30%を割り込み、27.9%に終わった。

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1976年

  • 3月6日新潟県民会館からの公開生放送での「少年少女合唱隊」のコーナーにて、志村が、独自リメーク版の「東村山音頭」を初披露。以後、毎週、同コーナーの最後にてこの曲を披露し続けた処、大ウケし、彼が一躍人気者となる。
  • 3月末で日産自動車が一旦降板し、タイガー魔法瓶森永製菓が新たに提供に加わる。
  • 4月3日、ドリフと親交の深い山田康雄が出演。役柄は、ホテルの従業員役だが終始セリフはなかった。エンディングで一言発した程度だった。
  • 11月6日、ピンク・レディーが初出演。のちに『飛べ!孫悟空』で共演する。

この年に志村が「東村山音頭」でブレイクし、加藤と並ぶ人気者となったが、視聴率には直結しなかった。この年の年間平均視聴率も23.0%と下落した。

荒井脱退後、穴を埋める形でドリフに加入した志村だったが、「東村山音頭」で脚光を浴びるまでの2年間は、これといった代表的なギャグもなく、ギャグをやってもあまりウケないという不遇の時代を過ごす事となった。

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1977年

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1978年

  • 1月1日、前日休止の振り替えとして、初の90分特番『お正月だョ!全員集合』を放送(この関係で同じドリフターズがメインのフジテレビ元日恒例『第15回新春スターかくし芸大会』は翌1月2日に放送)。
  • 2月11日、喜納昌吉が出演。この共演を機に志村は8年後に変なおじさんを編み出す。
  • 3月25日、この日にデビューした石野真子が出演。
  • 6月3日、朝風まりがレギュラーに。
  • 8月12日、『JNN報道特別番組・日中平和友好条約締結』放送のため番組休止(報道特番による休止は1972年9月に続き2例目)。この日予定されていた放送(8月2日に埼玉県の行田産業文化会館で録画)は、翌々週8月26日(#435)に放送された。
  • 森永製菓がスポンサーを降板、同業社であるロッテが新たにスポンサーに加わる。
  • 12月9日、前半コントのゲストとして菅原文太が登場。この日は学校コントで、転校生役として出演。
  • 12月16日、サザンオールスターズ初登場。
  • 12月30日には日本劇場で放送を行う、公演ではなく全員集合としては初。

この年の年間平均視聴率は、1977年から「欽ドン」がプロ野球シーズンオフのみの放送となったにも関わらず29.8%と2年ぶりに30%を割り込んだ。

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1979年

  • 加藤&志村のヒゲダンスが誕生。翌年9月20日(#542)まで行われた。
  • ドリフターズ全員参加及びゲストが行う体操コーナーが終了へ。
  • 年末、放送500回を達成。

『全日本プロレス中継』は『全員集合』に視聴率で勝つことが出来ず、4月から土曜17:30 - 18:24に放送時間を変更した[注釈 12]

「欽ドン」がプロ野球シーズンオフのみの放送となった後、息を吹き返すように視聴率は30%の大台に回復していったが、この年の年間平均視聴率は29.6%と、2年連続で30%を割り込んだ。

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1980年

  • 番組初期からのメイン提供スポンサーであるライオン油脂・ライオン歯磨が合併し「ライオン株式会社」が誕生。提供のクレジット表示・読みも「おはようからおやすみまで暮らしを見つめるライオン」に改められた[注釈 13]
  • 2月23日(#512)、視聴率が41.0%を記録する[3]
  • 5月3日(#522)、第522回目の放送で番組初のステレオ放送が行われた。この回の前半コントは、お化け屋敷が歌を歌い出す内容のもので、志村がベストテン形式で当時のヒット曲を次々と紹介し、建物のあちこちから顔や口が出てきて歌い、最後の大オチはコントのセット、観客およびドリフターズ全員と一緒に「カラスの勝手でしょ」を大合唱するという内容のものであった。後に同じコントを再演した回がステレオ音声で放送され、1982年1月2日(#609)の放送からは毎回ステレオ放送となった[注釈 14]
  • 7月26日(#534)は全日本女子プロレスとコラボ、ミミ萩原、赤城まり子が出演、前半コントのタイトルもそのまま「ドリフ全日本女子プロレス」。
  • 9月、いかりやが声帯ポリープの手術を受けた都合で、13日20日の放送に声を出さずに出演した。コントの中ではいかりやが声を出せないことをいいことに、4人がいかりやをいじめ倒すシーンがあった。
  • 12月27日、ゲストに三船敏郎が登場。前半コントと少年少女合唱団のコーナーに出演し、早口言葉に挑戦。
ステレオ放送が実施された回と前半コントの内容
  • 第522回(1980年5月3日、歌うお化け屋敷)
  • 第575回(1981年5月9日、歌うお化け屋敷)
  • 第609回(1982年1月2日)以降、総集編放送時を除く最終回まで

この年の3月に「欽ドン」が終了し、「欽ドン」の視聴者がドリフに流れてきたため、「全員集合」の視聴率は一気に盛り返すこととなった。「東村山音頭」以降、加藤と双璧をなす人気者となった志村を前面に押し出した内容が多くなり、前半コントでは志村単独のパートが増えていった。さらに、1979年に「ヒゲダンス」が大ヒット、1980年には「カラスの勝手でしょ」のフレーズが子供たちの間で大流行し、志村の人気は不動のものとなった。

この年の年間平均視聴率も34.3%と3年ぶりに30%台に乗せた。

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1981年

  • 2月18日の志村・仲本「ノミ行為事件」発覚、小田原市民会館で3月7日放送予定だった回を急遽お蔵入り前提でファンのために公演。終了後9時から同会見で二人といかりやの記者会見、7日に始まったジャンケン決闘は当然休止。
    • 3月13日、TBSで全員で記者会見を行い、21日から志村・仲本が復帰、この模様は『TVガイド』4/10号で特集された。
    • なお、2月24日のフジテレビ系『ドリフ大爆笑'81』は1月27日収録の旨、テロップを入れて予定通り放送された[11]
  • 2月21日(#564)、生中継でいかりやの謝罪からスタート。昭和50年代以降での最高視聴率47.6%を記録する[3]
  • 3月14日(#567)、細川たかしが収録中の坂道コントでアキレス腱断裂の重傷を負う(詳細は後述)。
  • 5月16日(#576)、フジテレビ系で『オレたちひょうきん族』スタート(当初はナイター中継がない時のみの雨傘番組としての不定期放送。10月10日よりレギュラー化)。
  • 6月27日(#582)、「脱獄コント」において、大根と志村そっくりの人形をギロチンで切る場面を放送し(いわゆる「ギロチン事件」)、視聴者から「残酷すぎる」との抗議がTBSなどに殺到した[12]
  • 11月21日、放送600回を達成。

この年の年間平均視聴率は33.9%を記録した。前述のノミ行為やギロチン事件は週刊誌といった各媒体でクローズアップされるなど、世間の注目を集めたが、視聴率には影響しなかった。

またこの年の5月から「オレたちひょうきん族」がスタートし、ある程度の視聴率を獲得したため、10月から「全員集合」の裏番組としてレギュラー放送されることになった。この時点で「全員集合」の視聴率は「ひょうきん族」に対してダブルスコアで圧倒していたが、翌年以降は「ひょうきん族」の追い上げもあり、熾烈な視聴率争いを繰り広げることとなった。

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1982年

  • 1月30日(#613)、視聴率37.1%を記録する[3]。この日以降、視聴率30%後半を超える事はなかった。さらに7月以降は視聴率が30%を超える事もなくなる。
  • 3月13日、加藤志村が宇宙人に扮した奇術コーナースタート。
  • 4月にいかりやがギャグ作りを辞めたいと言い出し、ギャグ作りからそのまま離脱しその後は加藤と志村が中心となってギャグ作りを行う事となる。
  • 8月末で番組の生みの親の居作が異動で番組を離れる(後任プロデューサーは高橋利明、プロデューサー就任後も演出を兼任)。
  • 8月7日(#640)、演奏がいつもの岡本章生とゲイスターズではなく、第1回目を演奏を担当した高橋達也と東京ユニオンが担当(しかし、再放送でのTBSチャンネルではオープニングのテロップ表示、コント終了後の演奏テロップは変更されず、通常の岡本とゲイスターズのままだった。放送当時は正しい表記)。
  • 10月2日(#648)の放送からTBSの夜のスポットタイムが6分に拡大し[注釈 15]、『フラッシュニュース』開始が20:54に変更されたため、終了時刻を20:54に再変更(さらに1分縮小)。
  • 1980年から続いた、女子プロレスコントがこの年をもって終了。その後『ひょうきん族』にて全日本女子プロレスの協力の元「ひょうきんプロレスアワー」を開始する事になる[注釈 16]

この年の平均視聴率は23.6%で、前年より10%ほど下落した。プロ野球シーズン中(4 -9月)における視聴率も前年より低下し、20%を割る回も出始めた。10月9日放送分(#649)で初めて『ひょうきん族』に視聴率で敗退した。この年に限れば視聴率で負けたのは2回だけであったが、前述の通り視聴率の低下傾向が見られるようになる。

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1983年

  • 1月1日、1977年以来6年振りに元日が土曜日となり、『ドリフの初笑い!!お正月だョ!全員集合』を19:30 - 20:54の拡大版で放送[注釈 17](元日版で拡大版や別タイトルでの放送は唯一)。1972年6月から開始した少年少女合唱隊が休止。この回から合唱隊は隔週コーナーに切り替わる。なおこの編成に伴い、フジテレビの『新春スターかくし芸大会』第1部(この年から1987年まで2部体制)は同日の21:00 - 22:54に編成(2日放送の第2部も同枠)。『かくし芸』の前枠、ならびにこの日の『全員集合』の裏番組として『ひょうきん族』も生放送のスペシャルを放送した。
  • 2月12日(#667)、この回をもって少年少女合唱隊が終了。
  • 2月19日(#668)、この回よりオープニングの3番がカットされる。
  • 4月2日、それまで岡山県のみを放送エリアにしていた山陽放送(現・RSK山陽放送)が、岡山・香川の電波相互乗り入れに伴い、香川県でも『全員集合』の放送開始。さらに福島テレビがフジテレビ系列にネットチェンジ(JNN脱退・FNN加盟)。長崎放送を除くJNN23局+FNN・FNS1局の24局ネットとなる。
  • 8月13日(#693)の放送で初めて番組の視聴率が10%を下回る(9.2%)。この日はお盆の真っ最中で、関東地区の視聴率が全体的に落ち込んだ日でもあった(裏番組に巨人-広島戦のナイター中継があり、また「ひょうきん族」も10%そこそこと伸び悩んだ)。尚、この年以前にもお盆前後のシーズンは視聴率が普段に比べ低下する傾向にあったが、ここまで下がったのは初めてである。
  • 夏頃、いかりやが元当番組プロデューサーで当時TBS制作局長となっていた居作の元を訪ね「全員集合をやめようと思う」という意志を伝える[13]
  • 9月24日、加藤の出身地である福島県のネット局で、唯一の系列外ネット局だった福島テレビが10月1日からのフジテレビ系フルネット化に伴い、1972年4月1日から続けてきた放送を打ち切り。同局は1983年4月にフジテレビ系列に再ネットチェンジJNN脱退・FNN加盟)されていたが、1983年4月2日から9月24日までは本来の系列番組である『ひょうきん族』にすぐさま切り替えずに、視聴者保護のため番販扱いで放送していた(福島テレビは本番組打ち切り後『ひょうきん族』を遅れネットから同時ネットへ変更)。
  • 9月24日から2週連続で700回記念特集。当日は前年6月以来の視聴率30%超えを記録。しかし、以降最終回まで視聴率が30%台に乗ることはなかった。なお、この回を以って福島テレビにおける放送が終了(10月1日以降は『ひょうきん族』の同時ネット化)。それに伴い、10月と11月はJNN23局同時ネットとなった。
  • 12月4日、TBS系新局として開局したテレビユー福島にて、福島県のネットが2ヶ月ぶりに復活した[注釈 18]。同時にJNN24局同時ネットに復帰。
  • 12月24日、この日は23:15 - 翌1:09に生放送によるドリフメイン・ライオン一社提供の深夜特別番組『ライオンスペシャル '83クリスマスキャロル 聖夜(イヴ)だヨ!120分』を放送のため、当番組は日本青年館からの収録番組に。
  • 12月31日、『第25回輝く!日本レコード大賞』放送のため番組休止。しかし1977→1978年の時のような、元日の振り替え放送はされなかった[注釈 19]。その代替として翌々日の1984年1月2日の18:30 - 19:54に、ドリフがゲスト出演する『ザ・チャンス!』の正月特番『ドリフが挑戦・お正月だョ!ウルトラチャンス』を放送した。
  • 1976年に開始した迷探偵金田一けんシリーズが、この年をもって終了。
  • この年をもって、神奈川県・茨城県での中継が終了。
  • この頃に、長年スポンサーを務めたタイガー魔法瓶が降板、日産自動車が提供に復帰。

この年の年間平均視聴率は20.8%[14]と、前年の23%台よりさらに下落し、1976年の23.0%よりも低い数字となった。一方、『ひょうきん族』が年間平均視聴率19.0%と猛追を見せ、夏休み期間中の視聴率も『ひょうきん族』の後塵を拝した[注釈 20]。『ひょうきん族』が放送休止となった週でも20%を割る週も出始めた。この時期から、『ひょうきん族』の他にも日本テレビの『土曜トップスペシャル』で放送された『全日本プロレス中継』の特番の猛追を受けることになる[注釈 21]

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1984年

  • 1月21日、日本青年館からの生中継だったが、この日は東京で大雪となり、冒頭では雪景色となった日本青年館前から加藤と志村がレポートした後、ステージのいかりやが「8時だョ!」と叫んでお馴染みのオープニングとなった。二人は外の雪を舞台に持ち込み、オープニングで踊っている仲本ら他のメンバーに雪を投げつけるなどした。
  • 1984年に突入してからも視聴率20%前半はキープできていたが、3月下旬以降は視聴率が20%を切ることが多くなった。
  • 4月7日より、長崎放送での放送が開始された。それまでは14年半の間、プロ野球中継や『全日本プロレス中継』を行うため日本テレビ系同時ネットを組んでいたが、『土曜トップスペシャル』を打ち切って放送開始。同時にJNN全局ネット化を達成し。25局同時ネットとなった。
  • 6月16日(#736)、いかりやの掛け声と同時に入間市民会館の照明がすべて消灯する停電が発生。
  • 9月14日、高木がアキレス腱を断裂。療養のために9月15日から12月29日まで番組を休む。
  • 9月29日に30分放送時間を延長したスペシャル版「15周年だョ!全員集合」が放送される。1回限定で「少年少女合唱隊」が復活。視聴率は1984年度の最高視聴率26.4%を記録。この回をもって、オープニングの入場行進が最後になる。
  • 10月6日の放送から、最終回までのメイン収録がTBSのGスタジオに切り替わった。その影響でオープニングの入場行進が正式に廃止され、タイトルロゴも動きのあるものから、ロゴが画面いっぱいにズームされるものに簡略された(ただし、この放送より前も、時間が押している場合はオープニングテーマが短縮されていた)。またこの日は、前に放送されている『クイズダービー』にもドリフが出演した(いかりやは解答者。加藤・仲本・志村は賭ける側としての出場者。高木は脚のケガの治療のため不参加)。しかし、同番組は収録のため、ドリフは定刻通りにスタジオでスタンバイしていた。スタジオ収録に切り替え後は、大仕掛けの屋台崩しは大幅に減少。また前半コントが終わり、舞台を撤収する際に流れるゲイスターズの演奏が、Gスタジオ収録の場合は事前に録音されたBGMを流す様になった。最初のゲストにも変化があり、15周年スペシャルを区切りに常連の郷ひろみ(最終回では出演)、沢田研二、細川たかしなどの大物ゲストの出演が大幅に減り、若手アイドルのゲスト出演が増加する。Gスタジオでは、回り舞台は一度も使用される事はなかった。但し、Gスタジオは以前にも年度最初の放送や1984年7月28日放送分と同年8月25日放送分にて使用した実績があった。スタジオ収録に切り替わってからは、観覧募集の場合は、公会堂での収録では表記はされない「ご家族をご招待」・「グループをご招待」という記載が追記されるようになった。
  • 12月1日、入間市民会館から生中継。2ヶ月ぶりのスタジオ以外の会場からの生中継となった。この日を最後に東京以外での生中継が完全に終了。これ以後月に1回のみ日本青年館ホールでの放送(4月のみ渋谷公会堂)、それ以外はTBSのGスタジオからの放送になる。
  • 長年続いた、オフィスを舞台にした会社コントがこの年をもって終了。

この年の年間平均視聴率は18.2%と遂に20%台を割り込み、同じく19.5%を記録し、かつ「タケちゃんマン」と前年に開始した「ひょうきん懺悔室」が人気を博していた『ひょうきん族』に遂に抜かれた。夏休み期間中の放送も、『ひょうきん族』が夏休み期間中に放送休止が相次いでいた事もあり、最低視聴率9.2%を記録した前年よりも若干持ち直したが、プロ野球シーズン中の視聴率はほとんどの週で20%割れを記録した。高木が療養した9月以降における視聴率は『ひょうきん族』よりも下回る回がほとんどを占めるようになり、年内最後の放送となった12月29日放送分では『ひょうきん族』に視聴率で7.9%の差をつけられた。

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1985年

  • 番組終期から終了後にかけて、ライオン・ロッテ・日産自動車はこの土曜20時枠のスポンサーを継続するとともに、味の素コナミ三菱鉛筆明星食品などが加わり6〜8社提供となる[注釈 22]
  • 1月5日の放送からケガのため休んでいた高木が正式に復帰。またこの回は、全803回の放送の中で唯一のゲスト出演者がいない回となった。
  • 2月2日、前半コントで回り舞台を生かした忍者コントを披露。バンドセットまで撤収するほどの大きさだったために、長山洋子角川博の曲のみ生演奏ができずカラオケでの披露になる。後半コント終了後の小林幸子の歌唱シーンの時に「岡本章生とゲイスターズ」のテロップが出る。
  • 6月1日の放送で、全員集合最後の回り舞台を使用。
  • 7月19日、ついにTBSが「1985年9月限りで番組を終了する」と正式に発表。TBSは番組終了発表の中で「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げていた[16]
  • 7月27日8月31日、6週間に渡り、メンバーが選んだ夏休み傑作特集を放送。1週目には、生放送の舞台裏を特集。
  • 9月7日、全員集合最後のスタジオ以外の公会堂での生中継になる、放送800回を達成。
  • 9月14日、この回をもって後半コントが最後を迎える。
  • 9月21日、16年間のゲスト歌手の歌い納めは、岩崎良美の「愛がひとりぼっち」であった。視聴率は『ひょうきん族』に7.1%の差をつけられた。
  • 9月28日、最終回を迎える(この日はTBS・Gスタジオからの生放送)。荒井もゲストで出演。前半は母ちゃんコント、後半は番組の名場面集を放送した後、ゲスト出演者からドリフターズに花束が贈られた。花束贈呈の後、いかりやは「この番組に対する長い間のご声援、またはご指導本当にありがとうございました。僕らごときが16年間頑張って来られましたのも、ひとえに皆様方の熱いご声援あってのおかげと一同本当に心から感謝致しております。どうも本当に長い間ありがとうございました」と挨拶し、視聴者に感謝した。その後、フィナーレでは通常通りエンディング曲を出演者全員で大合唱する中、天井から大量の紙吹雪がステージ一杯に降った。最後は加藤が「長い間ありがとう」「元気で!」などと視聴者に呼びかけ、いかりやが「ありがとうございました」と話し改めて視聴者に感謝。そして観客がスタンディングオベーション状態になり、画面下部に「長い間ありがとうございました 8時だョ!全員集合」の字幕スーパーが出て番組は終了。通算16年間・803回の歴史に幕を閉じた。34.0%の高視聴率を記録した[3]

この頃になると、視聴率は15%前後で推移し、ほとんどの週で『ひょうきん族』の後塵を拝すようになった。特に3月以降は『ひょうきん族』に視聴率で6%以上の大差をつけられる回が目立ち始め、3月9日の放送では9.1%の差をつけられた他、3月30日の放送では7.9%、4月13日の放送では最大となる10.3%の差をつけられてしまう。ちなみに裏番組として、4月6日に『土曜トップスペシャル』(日テレ) で「風の谷のナウシカ」の初回放送が行われ、16.5%の高視聴率を記録したため、「全員集合」は『ひょうきん族』と「ナウシカ」の両番組の視聴率を下回る結果となった。

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番組終了後

  • 1985年10月5日には、一般視聴者が見たい名場面を電話リクエストで受け付けるという2時間の特別番組『電リクだョ!全員集合』(司会:生島ヒロシ)が生放送され、翌週の10月12日から12月28日にかけて、総集編『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』が毎週・計12回放送された(一部系列局は翌年以降に再放送されている)。番組枠はその後、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に引き継がれ、ドリフメンバーによる番組シリーズは『KATO&KENテレビバスターズ』の最終回が放映された1992年9月26日まで続くことになる。ただし、この全期間に出演していたのは加藤のみである。
  • 1988年8月、先述している裏番組にして最大のライバル・戦友であったフジテレビのオレたちひょうきん族が「ひょうきん族だヨ!全員集合」と題して、杉並区・杉並公会堂から本家同様の生放送ではないものの公開収録の形をとって本格的にパロディ版を全編にわたって放送。TBSおよびドリフからの承諾を得て、ロゴの「だヨ!全員集合」の部分からオープニングエンディングまでの完全再現となったが、コントはすべて制作のひょうきん側のネタを採用し、パロディコントではなかった。これはひょうきん側が放送300回を記念してパロディオマージュしたものであるが、翌年の番組終了に伴い、現時点で最初で最後となっている。
  • 1989年4月1日・10月・1990年4月4日・10月5日1991年4月3日の計5回、『全員集合スペシャル』として過去の名場面集が放送された。なお、第1回はザ・ドリフターズ結成25周年記念番組と銘打たれている。1989年10月の放送(このときは『全員集合スペシャル2』というタイトルだった)ではいかりやと生島ヒロシ(『全員集合スペシャル』のナレーションも担当)のトークを交えて放送された。なお、1989年10月の放送の第2弾は当初、プロ野球中継中止の際のレインコート番組として組まれていたが、最初の週(10月4日)は予定通りプロ野球中継が行われたため放送延期。その翌週(10月11日)も当初はプロ野球中継(このときはパ・リーグの優勝争いに絡む試合があったため)が放送される予定だったが、雨天中止となったため放送された。
  • 1998年には、『テレビのちから』で「全員集合特集」を行い、加藤と志村が出演。
  • 2001年
    • 8月11日にはNHK『思い出のメロディー』で、すわを含めたドリフメンバーによる全員集合が再現された。オープニングの後、前半はいかりやによる点呼ネタを軸とした進行で「ドリフのズンドコ節」、「誰かさんと誰かさん」の2曲を披露。「学校コント」を挟み、『飛べ!孫悟空』の挿入歌「ゴー・ウエスト」をすわを含めた6人で歌った。後半は加藤・志村による「ヒゲダンス」が披露され、ラストの「ドリフのビバノン音頭」では加藤による視聴者への呼びかけも復活した。
    • 12月31日には『第52回NHK紅白歌合戦』で、この回の出場歌手(ドリフのヒットメドレーを歌った)でもあるドリフ主演のアトラクションコーナーで少年少女合唱隊(番組では少年少女聖歌隊)が復活し、北島三郎松田聖子西城秀樹和田アキ子などの当番組にゲスト出演した経験がある歌手・モーニング娘。氷川きよしなど現代のアイドルが参加した早口言葉が放送された。紅白対抗ということで、衣装は通常の白から紅組(女性歌手)は赤のベレー帽に赤いスモックといういでたちだった。また、初盤のショーコーナー「Kids Dream」開始前にいかりやが登場し、当番組のオープニングコールを行った[注釈 23]。この時の視聴率は51.5%で歌手別、コーナー別視聴率では2番目の高さだった。コーナーの冒頭とエンディングでは、「8時だヨ!…」に似せて番組オープニングとエンディングの「ドリフのビバノン音頭」との替え歌が歌唱され、後者は「これでおしまい、さようなら」という歌詞が含まれていた。後述の通り、2004年にいかりやが死去した為、この紅白出場時のメドレー・少年少女聖歌隊・コーナーオープニングコールが、ドリフ5人での「全員集合」の再現としては最後となった。
  • 2004年
    • 3月20日にリーダーのいかりやが死去した際、1週間後の3月27日にスタジオ追悼番組として『追悼緊急企画 長さんだョ!全員集合』を19時から約2時間放送[17]。司会はTBSの斎藤哲也アナウンサーが務め、ドリフターズのメンバー(仲本はスケジュールの都合により番組前半はVTR、終盤は電話での出演となった)を迎えて放送され、20.1%の高視聴率をマークした。番組内でも20時(午後8時)ちょうどに『全員集合』のオープニングVTRを流した。この他、前半コントから「五軒家コント」の舞台裏の映像も公開された。この映像は、1985年7月27日に夏休み傑作特集の1つのコーナーで放送されたものをそのまま使用した。
    • 4月10日には全員集合と『ごきげんテレビ』の名場面を振り返る特別番組として『加トちゃんケンちゃんドリフの全て見せますスペシャル』を19時から約2時間放送。当初3月27日放送予定が上述のいかりや追悼特番の為、2週遅れでの放送となった(詳細は同番組の項を参照)。
  • 2005年
  • 2008年
    • 6月25日には『水トク!』で「番組発生40周年記念!!8時だョ!全員集合SP」と題した特別番組を放送。この日は同番組のDVD第3弾が発売される3週間前であった(一部系列局では翌年に再放送が行なわれたところがある)。
    • 12月26日には『バラエティー番組誕生50年記念!8時だョ!全員集合年末スペシャル』と題した特別番組を4時間にわたり放送。『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の名場面もあわせて放送された。
  • 2009年
    • 4月1日には『JNN50周年記念 ハイパーバラエティウィーク』第3日のプログラムとして『ザ・ドリフターズ結成45周年記念!!8時だョ!全員集合SP』と題し、3時間半にわたり放送。この年は番組誕生から40周年を迎える節目の年となる。前回の年末の放送に続き、『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の名場面(探偵物語・おもしろビデオコーナー)もあわせて放送。本番30秒前時点での放送当時のリハーサルも放送された(本番開始数分前から本番終了後数分までノーカットでVTRテープを回していたため)。
    • 9月23日には『JNN50周年記念 8時だョ!全員集合SP』と題し、19:50〜22:54で放送。首都圏以外の地方会場での回を中心に放送された。なお、この日の同番組オープニングの一部として、9月8日横浜スタジアムで行われたプロ野球横浜(現・横浜DeNA)VS巨人」戦の試合前に、同試合で始球式を務めた加藤の「8時だョ!」に続けて観衆が一斉に「全員集合!」と唱和するパートを収録した。
  • 2010年
    • 3月18日には『懐かしのいかりや長介大爆笑スペシャル!!』として、フジテレビ(映像提供:TBS)で、オープニング・公開コント(忍者)・最終回のフィナーレを放送した。
    • 3月31日には『ドリフ伝説最終章 8時だョ!全員集合 大笑いの4時間SP!』と題し、19:00〜23:00で放送。
    • 12月31日にはTBS開局60周年記念の一環として『大晦日だョ!全員集合』と題した特別番組を17:30〜20:54に放送。『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に加え、人形劇『飛べ!孫悟空』の名場面も合わせて放送された。因みに加藤は裏番組の『年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京系列。17:00〜21:30)にも出演。
  • 2011年8月25日には読売テレビ日本テレビ系で放送された『ダウンタウンDX』で加藤がゲストに出演した関係で1977年5月14日放送(セットが火災・取手市民会館)と1984年6月16日放送(会場が停電・入間市市民会館)の各一部が放送された。
  • 2017年10月28日から12月10日まで、東京・杉並区立郷土博物館分館(天沼弁天池公園内)にて企画展『8時だョ!全員集合展』が開催された。同展では1970年8月8日に旧杉並公会堂で行われた公開生放送の様子や、コントのセットの図面、台本などを展示した[18]
  • 2020年
    • 2月10日放送の『歌のゴールデンヒット』で、当番組開始1週間前の1969年9月27日に放送された、同年秋改編の新番組を紹介する番組『秋のスタジオ見学』より、第2回放送分の中から「ドリフでドボン」と「医者コント」(いしだあゆみが患者役で出演)を放送した。
    • 3月29日にドリフターズメンバーの志村けんが死去したため、その2日後の4月1日に放送された、TBSの朝8時からのワイドショー番組である『 グッとラック!』では8時の放送開始と同時にいかりやの当番組での「8時だよ!」の掛け声から番組が始まり当番組のオープニングテーマが流れるという演出が行われた。
    • 8月22日放送の『24時間テレビ 愛は地球を救う43』(日本テレビ系)内のドラマ『誰も知らない志村けん -残してくれた最後のメッセージ-』の冒頭でオープニングと母ちゃんコント(1984年3月31日放送分)の一部が放送された。
    • その翌日の8月23日放送の24時間テレビでは番組内のコーナーの一部として、同日午前9時頃から「加藤茶の呼びかけでドリフ復活!」と題してドリフが復活。そのコーナーの中でオープニング、母ちゃんコント(前日の放送分とは別)、剣道コント、ヒゲダンスなどの一部のコントが、映像提供:TBS「8時だョ!全員集合」として放送された。
    • 12月31日にTBSチャンネル2にて『年またぎ!「8時だョ!全員集合」集中放送』と題して20時から14時間にわたり15話連続で再放送された[19]
  • 2021年
    • 2月7日よりTBSチャンネル2にて、日曜9:00 - 10:00の枠で週1回放送(放送順は上述の年越し集中放送と同様)。
    • 3月28日にフジテレビ系列にて、『春だ!ドリフだ!みんなあつまれ全員集合!』(映像提供:TBS、企画制作:イザワオフィス)として、19:00 - 21:54に放送された。テレビ局の垣根を超えた一挙蔵出しとなり、志村けんの初登場場面等も放送された[20]
  • 2022年2月16日放送の『しゃべくり007』(日本テレビ系)にて、ザ・ドリフターズ(加藤茶・仲本工事・高木ブー)がゲスト出演した際にオープニングの一部、たらいの落ちるシーン、加藤茶のちょっとだけよ、少年少女合唱隊(早口言葉)、陽のあたる急な坂道の映像が、映像提供:TBS「8時だョ!全員集合」として放送された。
  • 2024年9月16日には当番組開始55周年とザ・ドリフターズ結成60周年を記念した3時間半の特番『今夜復活! 8時だョ!全員集合 不適切だけど笑っちゃう!ドリフ伝説コントBEST20!』が放送された[21]
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視聴率

  • 初回視聴率:12.9%(1969年10月4日放送)
  • 最高視聴率:50.5%(1973年4月7日放送)
  • 最低視聴率:9.2%(1983年8月13日放送)
  • 最終回視聴率:34.0%(1985年9月28日放送)
  • 平均視聴率:27.3%
    • 1969年:13.2%
    • 1970年:31.2%
    • 1971年:41.1%
    • 1972年:37.1%
    • 1973年:43.7%
    • 1974年:36.0%
    • 1975年:27.9%
    • 1976年:23.0%
    • 1977年:30.2%
    • 1978年:29.8%
    • 1979年:29.6%
    • 1980年:34.3%
    • 1981年:33.9%
    • 1982年:23.6%
    • 1983年:20.8%
    • 1984年:18.2%
    • 1985年:17.4%

トラブル史

要約
視点

この番組については、本質的には舞台コントとして入念に練り込まれた笑いこそが最大の売りであり、アドリブや出演者に起きるアクシデントの演出で笑いを取る事は一貫して是としなかった。

ただし、16年間という長期間に渡り生放送公開放送で続けられた番組であったため、コントやコント以外でも、放送中のトラブル・アクシデントや出演者を巡る出来事は数多く発生している。本項ではこれらについて記述する。

  • 1970年7月2日、加藤が交通事故を起こし、約1か月の謹慎。この間、仲本が加藤のいじられ役を代行[22]
  • 1972年4月1日小田原市民会館でオープニングが終わってCMに入った時に回り舞台を動かし反転させて裏に控えていたセットを表へ出そうとしたが、スイッチを入れても全く動かず、何とか場をつなげようとしてちょうどトイレへ行こうとしていたピーターをいかりやが呼び止めて予定されていた歌を歌うよう要請。オープニング後のCM明けに急遽歌のコーナーという異例の放送となったが、ピーターの歌の間に回り舞台を総点検、改めてスイッチを入れたら舞台が動いてコントのコーナーに入ることが出来た[22]
  • 1977年5月14日、探検隊コント(サブタイトルは「ドリフの地上最悪の山」)の途中、ピストルの火花が小道具の蛇に着火し炎上。すぐに消し止められ負傷者も無かったが、場内(取手市民会館)の非常ベルが鳴り、その時点でコントは中止となった。蛇のスプレー塗装を本番直前にしたため、ピストルの火花がまだ乾燥しきっていない塗料に引火したのが原因であった。
  • 1980年9月、いかりやが声帯ポリープの手術を受けた都合で、13日20日の放送に声を出さずに出演した。13日放送のオープニングで、仲本が鉄琴を鳴らした後、「長らく世間に迷惑をかけたいかりやが声を出せない」旨を知らせた。「8時だョ!」のかけ声は加藤、「おいっすー!」「行ってみよう!」のかけ声と前半コントのツッコミ役は志村、少年少女合唱隊の司会は仲本、後半の進行役は高木と他メンバーが持ち回りでいかりや役を代行した。
  • 1981年
    • 2月18日、仲本と志村が番組プロデューサーの居作と共に競馬のノミ行為で任意の事情聴取を受け書類送検されたことが発覚、約1か月に渡り謹慎。仲本と居作は略式起訴され罰金刑となる(志村は賭け金が小額だったこともあり起訴猶予処分)。この期間中、いかりや、加藤、高木の3人で番組やコントを進行した。仲本と志村の代わりに椅子などを使う形でコントを進行し、場がしらけると加藤が松村和子の『帰ってこいよ』を歌っていた。また、この間に新しいギャグ、加藤の「5秒前、4、3、2、1、デーン」と高木の「ピップエレキバン」が生まれた。この間、視聴率が平常に比べ10%アップしていた(不祥事発覚後初放送の同年2月21日の放送時は47.6%であった)。また仲本・志村復帰後、学校コントで「英語で“馬”は?」と聞かれた仲本が「もうやってません」と答え、志村が突っ込む自虐ネタもあった。
    • 3月14日、ゲストが坂道の上にある一軒家に駆け上がるコント「陽の当たる急な坂道」で、細川たかしがアキレス腱を切断し、長期入院を余儀なくされた。後に復帰したものの、仕事量が激減した細川は後日『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演した際、萩本欽一に「仕事ないの?じゃあ毎回来る?」といわれ、同番組にレギュラー出演することとなった。このことがきっかけで、当時のシングル曲「北酒場」を『欽どこ』で毎回歌うこととなり、それにより大ヒットとなった。
    • 6月27日、前半コントの「脱獄コント」の際、大根と志村そっくりの人形をギロチンで切るギャグを放送したが「残酷すぎる」との理由で、TBSや系列各局に抗議電話が殺到[12]。翌日の新聞の社会面で報道された。
  • 1983年6月4日、前半コントの「民宿コント」で、爺さん役の加藤が建てつけの悪い押し入れの襖を勢いよく閉めるとその衝撃で隣のトイレのセットまでもが傾き、中に入っている婆さん役の志村がその弾みで壁を突き破って外へ飛び出すという流れが予定されていたが、本来なら傾いた状態で止まるはずのトイレのセットが完全に倒れ、うつぶせに倒れた志村を直撃する形になった。志村はほぼ無傷で済んでおり、やがて加藤と高木が持ち上げたセットの下から自力で抜け出し、その後もコントは続行された。
  • 1984年
    • 6月16日、生放送の開始時刻直前(2、3秒前)に、その日の会場ホール(入間市市民会館)が突然停電になり会場内の照明が消えるという事態が起きた。停電中は真っ暗な中で懐中電灯を点灯させゲストを紹介した(実際に停電になったのは会場内の照明のみで、テレビカメラやマイクロフォンなどの放送機材には、会場外の中継用電源車から電力が供給されていたため、完全に放送不能となる事態だけは回避された)。番組冒頭で真っ暗になった会場を映し「8時だョ!おっ!」の掛け声の後、通常通りタイトルロゴを出した。いったん電気は復旧して、いかりやの「8時だョ!ちょっと遅れたかな?」と掛け声を行った後にまた停電となった。その時にバックバンドの一部のファンファーレが鳴り、他メンバーはようやくステージに上ることができた。その後、ID画像や番組開始の遅れによるテロップを出し、その間やむを得ずスポットライトでステージを照らし、いかりやが「8時9分半だョ!」の掛け声を掛けた後、少し早いペースで1番のみ演奏された。なお番組冒頭の9分間は懐中電灯を持ちながら、いかりやとゲストのトークでつなぎ、エンディング時では会場の電源の不備によるお詫びとテロップを出した。視聴率は通常より10%アップした(26.2%)。この日の『オレたちひょうきん族』はプロ野球中継のために休止しており、普段はひょうきん族に流れていた視聴者層がたまたまチャンネルを合わせていた視聴者も多かった。この停電が安全・セキュリティに危惧を及ぼし、後に同番組の放送がTBSのGスタジオのメインになったことについて影響したといわれる。2017年、『ダウンタウンなう』(フジテレビ)に出演した加藤・仲本・高木は、この停電は入館できなかった客の1人が頭に来て八つ当たりに電源車のシールドを抜いたことによるものだったとの旨を明かしている[23]
    • 9月14日、高木がリハーサル中にアキレス腱を断裂し、その後約4か月間活動休止(負傷翌日の放送には番組冒頭でラジカセから再生された録音メッセージが放送された)。
  • スタッフの細かいミスもよくあり、公開放送ゆえにそれもそのまま放送されていた。
    • 1972年6月24日広島県の東洋工業(現:マツダ)体育館からの公開生放送のエンディングが、タイムキーパーが進行表を読み違えたために混乱した。
    • 1984年10月27日の放送で、前半コント終了の音楽が鳴っているにもかかわらず、なかなかセットが撤収されず、やっとセットが撤収しはじめた時にバンドのゲイスターズのメンバーが走っている姿が放映された(スタッフのミスで、終了数分前には座っていなくてはいけないが、連絡ミスでメンバーの9割が遅刻。しかし、演奏開始には間に合う)。
    • また、セット転換時のミスや仕掛けの不具合については、高木、仲本、加藤、志村がアドリブでギャグにして処理することも見られたが、生放送のため時間を切迫させる要因になった。
      • 時間の切迫については、植木等がゲスト出演した回でも、後半コントに出演した植木が予定になかったアドリブを挟んだために、いかりやが「だからそういうことするなって言ってるでしょ!」と植木をたしなめたことがあったなど、非常にシビアであった。

このほか、過激な内容のコントPTAが問題視して番組に抗議する事態が度々発生した。上記の火事騒動、停電騒動、仲本と志村の謹慎は三大事件と呼ばれている[誰によって?]。またDVD『TBSテレビ放送50周年記念盤 8時だョ!全員集合 2005』の特典映像として火事騒動・停電騒動・1983年6月の「民宿コント」でのハプニング時のハイライト映像が収録されている。

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脚注

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